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番外編
番外編1 長い二人の、細長い思い出
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部屋と外を繋ぐ小型の機械から『開いてるぞ』と声がする。相変わらず不用心だと思いながら宇野は玄関のドアを開けた。目の前には狭い玄関に置きっぱなしのスポーツバッグ、ポストには何日分かの郵便物、1歩踏み込めばリビングへと繋がる少し開いたドア、その隙間からはタイピングの音がする。
季節は11月。
隙間風で風邪を引きかねないのに、こうも中途半端なのはリビングにいる男が仕事に熱中しているからだろう。「仕事とプライベートの顔は反比例しますね」と、中にいる男の職業を揶揄して背中に投げつけたが、呆気なく無視される。
「せんせーい」
11年前は意図も簡単にこれで振り向いた数学教師はまだ振り向かない。
「ふ・く・や・ま・は・る・の・ぶ・せ・ん・せ・い」
と、フルネームを含ませればようやく視線だけが向き、キーボードを打っていた右手が伸びてくる。それに触れようと手を伸ばしたが、福山の手のひらが宇野に向けられる。
「宇野、今はダメだ」
瞬時に11年前の記憶を巡らせる。
この時期といえば……
「期末試験つくってるんですか?」
「そう。だからこっちに来るな」
「試験問題作成って家でしちゃダメでしょ? 悪いことしてるんだ先生」
「警察のお前に言われると辛いな……あと少しだから……もうちょい」
口を尖らせて「はいはい」と呆れた宇野はスーツの内ポケットに忍ばせているあのお菓子に触れる。
──今年こそ、渡さないと。あの日、渡せなかったから
*
11年前の今日、若き数学教師は細い棒状のお菓子でデスクが埋まっていた。女子の黄色い声と共に渡されるそれに、宇野は自信を失いかけていた。
ようやく決心したのは放課後で、職員室を覗くが担任福山の姿はどこにもない。
グラウンドはナイター照明が落ち、部活はとうに終わっている。数学科準備室にもいなかった。
となると……
「またあそこか」
行ってはいけない。聞いてはいけない。
それでも宇野が体育館倉庫に足を向けてしまうのは、今日は無事であるという微かな望みにかけているから。
しかし体育館倉庫の冷たい扉に耳を寄せた瞬間、溜息も出ないほど落胆する。冷気を吸って凍えながら、怒りで放熱する矛盾の耳。その鼓膜を震わすのは己のせいで犯される担任と、昇進の為に己を陥れようとした教師の声。時折、悲痛な声と罵声に混ざる「宇野」という単語に、いつもの如くそこから踵を返してしまった。
廊下に設置されているゴミ箱に向けて、お菓子を持った腕を振り上げる。小刻みに震わせた後、項垂れながら腕を下ろす。そして「いつか、必ず」と誓い、壁にもたれて一袋の中身丸ごと齧りついた。
もう一袋……と光沢の皺が寄り、可愛くない音を鳴らして咀嚼していると、そこに低い声が落ちてくる。
「宇野?」
顔を上げれば、先程まで体育館倉庫で犯されていた福山が眉間に皺を寄せて見下ろしていた。その口からは「お菓子は禁止だろ」ではなく「どうした? 勉強疲れか?」と受験生を労う発言に、いつも通りの福山だと宇野は悲しくなる。
「期末か? それとも……」
「……警察の試験受かっているか不安で」
適当に嘘をつくが嘘ではない。
不安で不安で仕方がない。あの男を捕まえて福山を助ける為には、不合格は許されないのだ。
「……」
福山は無言で手を宇野の肩に乗せた。細くなる目、その輪郭の下で浮かび上がる影は宇野には別物にしか見えない。
──もしこの手を引いて抱きしめたら先生を安心させてあげられるだろか。いや……好きだからこそしてはいけない。これ以上、先生が不利な立場におかれてはいけない。
理性を失えばあの腐った教師と同じになってしまう。宇野はムカつくほど甘い唇を噛みしめた。
「ッ……俺、帰るわ」
「そうか」
「先生……さようなら」
──先生の辛い日々が終わればいいのに
「おう。また明日」
──分かっている。明日もどうせ繰り返す
福山に背中を向け、宇野は残りを放り込む。開け方を間違え、口の中は好きではないクッキーの部分ばかりが張り付く。それを無理矢理飲み込んで、宇野は11月11日の校舎を去った。
そして10年後の11月。とうとう刑事としてあの男に宇野自らが手錠をかけた。あの時もそれに必死で11日は叶わなかった。
*
回想に浸っていた宇野が11年後に追いつくと、あの時から少し老けた福山が考査問題をプリントアウトして、赤ペンを握っていた。
「あれ? 答えが合わないぞ……んー、ああ、ここが違うのか」
懐かしい更半紙の上を流れる赤いラインがようやく繋がった二人のようで、宇野は福山の横に座った。
「こらっ、だから今はダメだ」
「先生疲れてるんじゃないですか? ミスなんてらしくないですよ。はい、これ」
何事もなかったかのように、内ポケットからお菓子を出す。福山は「男から貰うのは初めてだな」と本当は初めてではない再挑戦のそれを受け取った。
11年目の11月11日
今度は「ありがとな」という言葉と共に肩に乗せられた手と咲く笑顔。宇野は綺麗な福山の目元をなぞって、今年こそは甘い時間を噛みしめる。
季節は11月。
隙間風で風邪を引きかねないのに、こうも中途半端なのはリビングにいる男が仕事に熱中しているからだろう。「仕事とプライベートの顔は反比例しますね」と、中にいる男の職業を揶揄して背中に投げつけたが、呆気なく無視される。
「せんせーい」
11年前は意図も簡単にこれで振り向いた数学教師はまだ振り向かない。
「ふ・く・や・ま・は・る・の・ぶ・せ・ん・せ・い」
と、フルネームを含ませればようやく視線だけが向き、キーボードを打っていた右手が伸びてくる。それに触れようと手を伸ばしたが、福山の手のひらが宇野に向けられる。
「宇野、今はダメだ」
瞬時に11年前の記憶を巡らせる。
この時期といえば……
「期末試験つくってるんですか?」
「そう。だからこっちに来るな」
「試験問題作成って家でしちゃダメでしょ? 悪いことしてるんだ先生」
「警察のお前に言われると辛いな……あと少しだから……もうちょい」
口を尖らせて「はいはい」と呆れた宇野はスーツの内ポケットに忍ばせているあのお菓子に触れる。
──今年こそ、渡さないと。あの日、渡せなかったから
*
11年前の今日、若き数学教師は細い棒状のお菓子でデスクが埋まっていた。女子の黄色い声と共に渡されるそれに、宇野は自信を失いかけていた。
ようやく決心したのは放課後で、職員室を覗くが担任福山の姿はどこにもない。
グラウンドはナイター照明が落ち、部活はとうに終わっている。数学科準備室にもいなかった。
となると……
「またあそこか」
行ってはいけない。聞いてはいけない。
それでも宇野が体育館倉庫に足を向けてしまうのは、今日は無事であるという微かな望みにかけているから。
しかし体育館倉庫の冷たい扉に耳を寄せた瞬間、溜息も出ないほど落胆する。冷気を吸って凍えながら、怒りで放熱する矛盾の耳。その鼓膜を震わすのは己のせいで犯される担任と、昇進の為に己を陥れようとした教師の声。時折、悲痛な声と罵声に混ざる「宇野」という単語に、いつもの如くそこから踵を返してしまった。
廊下に設置されているゴミ箱に向けて、お菓子を持った腕を振り上げる。小刻みに震わせた後、項垂れながら腕を下ろす。そして「いつか、必ず」と誓い、壁にもたれて一袋の中身丸ごと齧りついた。
もう一袋……と光沢の皺が寄り、可愛くない音を鳴らして咀嚼していると、そこに低い声が落ちてくる。
「宇野?」
顔を上げれば、先程まで体育館倉庫で犯されていた福山が眉間に皺を寄せて見下ろしていた。その口からは「お菓子は禁止だろ」ではなく「どうした? 勉強疲れか?」と受験生を労う発言に、いつも通りの福山だと宇野は悲しくなる。
「期末か? それとも……」
「……警察の試験受かっているか不安で」
適当に嘘をつくが嘘ではない。
不安で不安で仕方がない。あの男を捕まえて福山を助ける為には、不合格は許されないのだ。
「……」
福山は無言で手を宇野の肩に乗せた。細くなる目、その輪郭の下で浮かび上がる影は宇野には別物にしか見えない。
──もしこの手を引いて抱きしめたら先生を安心させてあげられるだろか。いや……好きだからこそしてはいけない。これ以上、先生が不利な立場におかれてはいけない。
理性を失えばあの腐った教師と同じになってしまう。宇野はムカつくほど甘い唇を噛みしめた。
「ッ……俺、帰るわ」
「そうか」
「先生……さようなら」
──先生の辛い日々が終わればいいのに
「おう。また明日」
──分かっている。明日もどうせ繰り返す
福山に背中を向け、宇野は残りを放り込む。開け方を間違え、口の中は好きではないクッキーの部分ばかりが張り付く。それを無理矢理飲み込んで、宇野は11月11日の校舎を去った。
そして10年後の11月。とうとう刑事としてあの男に宇野自らが手錠をかけた。あの時もそれに必死で11日は叶わなかった。
*
回想に浸っていた宇野が11年後に追いつくと、あの時から少し老けた福山が考査問題をプリントアウトして、赤ペンを握っていた。
「あれ? 答えが合わないぞ……んー、ああ、ここが違うのか」
懐かしい更半紙の上を流れる赤いラインがようやく繋がった二人のようで、宇野は福山の横に座った。
「こらっ、だから今はダメだ」
「先生疲れてるんじゃないですか? ミスなんてらしくないですよ。はい、これ」
何事もなかったかのように、内ポケットからお菓子を出す。福山は「男から貰うのは初めてだな」と本当は初めてではない再挑戦のそれを受け取った。
11年目の11月11日
今度は「ありがとな」という言葉と共に肩に乗せられた手と咲く笑顔。宇野は綺麗な福山の目元をなぞって、今年こそは甘い時間を噛みしめる。
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Kinon様
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