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第1章 東京にて

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「はいそれで、一体全体、どこの山に行こうって言うんです?」

 まったく、結局、最後には、いつもこの人のペースに飲み込まれてしまう。苦虫を噛み潰したような僕の顔を気にもせず、ニンマリと笑いかけると、ゴクリとカップのドリンクを三輪さんは飲み干した。

 ふと漂った香りから、それがこの夏の新商品ピーチ&ハーブティーだったことに気づく。まったく似合わないものを飲んでるじゃないか、この人は。

「アオイ、お前はひとつ勘違いしてる」
 ピーチティーのカップをテーブルに置いて、三輪さんは僕を指差し言った。カップの中の氷が、かちゃりと音を立てる。

「なんなんすか? 勘違いって」
「俺が行こうと言うのは、山やない。島や」
「しま? 島って、あの海にある島ですか」
 なんとも間抜けな質問である。先輩もそう思ったのだろう。苦笑を堪え、こう言った。
「アオイくん。島って言うたら、海から突き出た大地のことに決まっとるやろ」
 それはそうだ。島といえば、島である。しかし山キチガイの三輪さんから、島やら海やらの話が出るとは思わなかった。

「いや、そりゃそうですよね。でも先輩から海のイメージって湧いてこないって言うか」
「何を言うか。俺は海も山も大好きな、オールラウンドな夏の男やで」
「夏の男って、またチープな表現ですね」
「余計なお世話や。それで話は戻るがな」

「ハイハイ、わかりましたよ。で、その夏の男が後輩を誘って、わざわざ二人で海へ行くこともないでしょう」
 しかも、他人の仕事を勝手にキャンセルしての計画である。一体何を企んでいるのか。
「俺も、お前とビーチリゾートに行こうとは思わん。行くのは、さっきも言ったが島や」
「島、島って、それでどこの島なんです?」

「よくぞ聞いてくれたで、アオイ。俺が行こう言うんはな、大風島や。長崎県皆島列島から南西に向かった先にある、小さな小さな島。来週、俺とお前でこの島へ行くで」

 やっと本題に入ったと思ったのだろうか。三輪さんは、少し厳粛な顔になって、そう宣言したのだった。

「こんな遠いところに、行くんですか?」

 大学の無料wifiにつなげたノートパソコンで長崎県にあると言う皆島列島の地図を呼び出す。最近の便利な地図サイトでは、表示した地点への路線経路も瞬時に検索可能だ。その検索結果によれば、皆島列島の中心である親頭島まで、羽田から空路、バス、フェリーを乗り継いで六時間程度かかることがわかる。

「ちゃうちゃう。ここはまだ皆島列島の中央やろ。俺の言うている大風島は、さらに連絡船で2時間かかるんや」

 恐ろしいことを、さらっと言ってくれるよ、この人は。と言うことは、乗り物間の移動や待ち合わせの時間を無視しても、ここ東京から八時間以上かかるってことだ。

 まあ時間に余裕があるのが大学生の特権であるが、それと引き換えに金がないのが、大学生の現実でもある。一体全体、そんなとこまで行ったら、交通費はどれほどになるのやら。

「せっかくですが無理ですよ。空路にフェリーって、そんなお金、僕にはないですもん」

 それに小さな島となると、キャンプできるかも不明だ。鈍行列車とテント泊が基本の夏合宿費すら厳しい僕である。そんな金があるはずもない。しかし三輪さんは、僕のそんな状況は当然に承知していると言うように頷く。

「安心せえ。島への交通費と現地の宿泊に関して、金は全額、俺が出したる」

 僕は息を飲んだ。ゴクリと喉が鳴る。

「おいおい、何をそんなに驚いてんねん。別にハワイやガラパゴスに行こうってんやない。先日、一攫千金で小金ができてな。可愛い後輩と、楽しく島旅でもどうかと思てん」

 これはダメだ。怪しすぎる。僕の頭の中で警報アラームがガンガンに鳴り響いている。

 三輪さんは非常に怪しい関西弁キャラではあるが、元来ケチな人ではない。いつもバイト代が入れば、気軽に部の後輩に飯や酒を奢ってくれる。しかしそれとこれとは話が別。どうやらこれは異常事態のようだ。

「ダメですよ、先輩。何を企んでるんです」
「おいおい、何も企んでへん。俺を信じろ」
「いいえダメです。正直に状況を話してくれなければ、誘いには乗りません」

 僕はぐっと腕組みし、ソファの背もたれにドカッともたれかかった。三輪さんが恨めしそうな目で僕を見つめる。長身で肩幅も広い大男だが、たまに見せる子どもっぽい仕草に、つい騙される後輩は少なくないのだ。

 僕は素知らぬふりをし、窓の外の夏空を眺めていた。

「わかったよ。すまん。金は本当に一攫千金やったんや。これでな」

 そう言って三輪さんは、馬の手綱を片手に、尻を鞭打つような動作をした。この人が競馬好きだとは知らなかったが、どうやら旅行資金は勝馬券で手に入れたらしい。

「この夏に元々、大風島には行くつもりやってん。そんための資金を増やそうと宝塚記念に突っ込んだらな、これが大勝ちしてしもてん。それでお前も誘ったろ思てな」

 心なしか、瞳に哀願の色が浮かんでいるように思える。気をつけよう。しかし競馬って、そんなに儲かるのか?

「先輩は、生まれは近畿でしたよね。なんだって九州の離小島に行くことにしたんです。何か有名な山岳ルートでもありましたか?」

 都内の大学のワンゲル部だからと言って、必ず本州の山頂を目指すわけではない。北海道や四国へ遠征することもあれば、山頂へ向かう登山道ではなく、低地の自然の中を伸びるトレッキングコースを楽しむこともある。しかし長崎の小さな離島に、わざわざ訪ねるほどのルートがあるとは思えなかった。

 しばらく僕の目を見つめていた三輪さんは、大きく息を吸った後、ポツリと漏らした。

「弔いや」

 大きな窓から夏の日差しが差し込む大学新館の喫茶ラウンジ。そんな平和な光景に、似つかわしくない言葉が三輪さんの口から滑り出る。僕は、聞いてしまったことを後悔した。しかし、今さら中断することはできない。

「とむらいですか?」
「そう、友人の弔いや。二年前、俺の友達が大風島で行方不明になってしもてん」
「先輩のお友達が、その島で、その……、亡くなったということですか?」

「そう、だと思う。遺体は発見されへんかってんけどな。しかしもう二年や。今でもどこかで生きとるような気もするけどな、現実には死んだと言って間違い無いやろ」

 暗い声で先輩は続ける。両肘を膝につき、立てた掌を合わせて顎を支える、その姿は、まるで祈っているようにも見えた。

「事故の報を聞いたんは、今頃の季節やった。俺もそいつも大学二年生やな。奴は、小橋胡桃というんやが、彼女は俺の中学そして高校の同級生で、山岳部の相棒やった。高校卒業後、俺は東京のこの大学に入り、海洋学を学びたかったクルミは、長崎の大学へ進学した。そして、大風島で死んだ」

 いつも飄々とし、笑顔の絶えない三輪さんに、そんな辛い過去があったのか。

「山岳部やワンゲル部に所属していれば、山の事故で友人を亡くすこともある。でもな、俺は幸い山で仲間を失ったことはなかった」

 先輩は静かに目を閉じる。

「なのに、海で失くすとはな」

 海洋学部ということは、島で演習があり、そこで事故にでもあったのだろうか。あるいは休暇で訪れた先での不幸か。どちらにしても、その友人はもういないのだ。

「こはしくるみさん。その人は、先輩の恋人だったんですか?」
「いや、恋愛感情はなかったと思う。ただ妙に気が合ってな。よく一緒に山へ行ったわ」

 本当だろうか。三輪さんの表情からは、心の中までは読めなかった。事故から今までの、長い時間が関係してるのかもしれない。

「その事故の時に島へ行かれたんですか?」
「いや、二年前は行けんかった。お前の言う通り、さすがに遠すぎる。不義理と言われるかもしれんが、一介の学生が思い立ってすぐに行ける距離ではない。もちろん彼女の実家には、すぐに向かったがな」

「それが、今になって島へですか?」

 三輪さんは少し苦しそうな顔をした。僕は大馬鹿ものだ。自分の言葉の選択が不適切だったことを悔やむ。言い直そうとした僕の声を遮って、三輪さんは話を進めた。

「行方不明を言い訳に、なんだか少しの期待があったんや。それなのに花でも持ってその海へ行ったら、もう終わりそうな気がした」
「でも……」
「そうや、もう二年が過ぎた。葬式仏教では三回忌ってやつや。俺は、クルミとの思い出にけりをつけなあかん」
「先輩……」

「それで旅行資金を馬に突っ込んだら、大化けしてな。これはあいつが俺に来いって言ってるんやと思ったんや。ただな、一人じゃなんだか心細うてな。せっかく資金は倍以上になったんやし、誰か暇そうな奴はおらへんかって考えたわけや」

 そう言って三輪さんは、恥ずかしそうに笑った。

「来てくれるよな」

 ここまで話を聞いて、行かないわけにはいかないだろう。僕はノートパソコンのデスクトップから提出予定のリポートファイルを開くと、猛然とキーボードを叩き始めた。

「このリポートの提出は来週月曜日の午前です。長崎への出発はいつですか?」
 三輪さんの顔も見ずに僕は聞く。

「ちょうどええ。大風島へ向かう連絡船は火曜と土曜の週二便やからな。さっき火曜の朝一番の飛行機を二席、予約しておいた」

 まったくこの人は。僕の回答など聞く気はなかったってことか。僕は頷くと、猛然と近代民話に関する文字列の海に溺れていった。
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