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暗号空間: 図書館〜カフェ
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「実存主義の哲学書。この本が、例の講義で紹介されたんだ」
彼は私に『死に至る病』を見せながら、静かに尋ねた。
「君は読んだことがあるかい」
「一度読んだが、内容をよく覚えていない」
「『死に至る病』とは、結局何だったのだろうか」と、私が考え込んだ様子を見せると、彼は本を見つめながら、こう言った。
「僕も以前に一度読んだけれど、難解な印象を受けてさ。今から読み直そうと思っているんだ」
「まだ読み直し始めたばかりなんだけど」と加え、彼は話を続けた。
「キルケゴールによると、『死に至る病』とは絶望のことで、今の自分自身から抜け出したいにも関わらず、抜け出せないことによって苦しんでいる状態を表すみたいだ。
理想と現実の対立から生じた苦痛と言ってもいいのかな。こうであればいいと願う自分がいるけれど、現実では上手く叶えられなくて、そんな現実から逃れてしまいたいという状態を指すのかもしれないね」
「理想と現実の対立から成る苦痛」と、私は腕を組み、彼の言葉を繰り返した。
「ところで、絶望した人間はいつまでも絶望したままなのだろうか」
私がそのような疑問を表すと、彼は少し考えるような仕草をした。
しばらく沈黙が訪れた後、彼はそっとページをめくりながら、答えた。
「救済の余地はあるようだよ。彼曰く、絶望者はただ神の力を信じることによって救われる」
私たちは「神か」と呟き、その答えを確かめるように互いに目を合わせた。
「不条理の立場からすれば、これは『飛躍』になるみたいだね」
目を合わせながら、彼はふと私に言った。
彼の手元を見ると、『死に至る病』にもう一冊の本が重ねられていた。
私は二冊目の本を見ながら、「その本は何か」と彼に尋ねた。
彼は表紙を見せ、その題名を静かに読み上げた。
「アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』 。キルケゴールの実存哲学に異議を唱えた本だよ」
彼に「読んだことはあるかい」と尋ねられたので、私は「ある」と答え、話を続けた。
「確か、不条理を説いた哲学のエッセイだった。カミュによれば、不条理は非論理性に対して論理性で立ち向かうことを意味した。
彼はこれを、坂の上から何度も転がり落ちる巨大な石を、何度も坂の上へと押し上げるシーシュポスに例えていた。
一見無意味な行為に見えるが、苦痛に耐えて生きることに意味があると、カミュはそう説いたのではなかったか」
私がそう言うと、彼は「その通りだよ」とそっと微笑んだ。
そうして、「二項対立を示している点では、キルケゴールと変わらないのだけれど」と言いながら、彼は本のページをめくった。
「彼はこの本で、キルケゴールの実存哲学を、不条理からの逃避だと指摘したんだ。
不条理を不条理のまま受け入れず、神を信じることで絶望を克服しようとした。キルケゴールは真正面から不条理に挑むのを放棄してしまったのだと、カミュはそう批判したんだよ」
彼は開かれたページをじっと見つめ、私に言った。
「カミュの言葉を借りれば、『キルケゴールは病から癒えることをのぞむ』。けれど、本当に肝心なのは『病みつつ生きること』みたいだ。正に不条理の世界だね」
彼は何となく切なそうな顔をしながら、本を閉じた。
それは何処か聞き覚えのある言葉だった。私は目をつむり、初めてその言葉を聞いた時のことを思い出そうとしていた。
その記憶を思い出した時、私は彼を見上げた。
彼はこちらの視線に気がつき、じっと見返した。
静寂の中、視線が一本の糸のように張られ、まるで時間の停止したような錯覚が私を呑み込んだ。
「本を借りてくるよ」
沈黙を破ったのは彼の方だった。彼はそう言うと、本を片手で持ち、ゆっくりと階段の方へ向かった。
私は彼の背をじっと見つめながら、声を掛け、彼を振り返らせた。
「貸出を終えたら、少し外で話さないか」
彼は私に『死に至る病』を見せながら、静かに尋ねた。
「君は読んだことがあるかい」
「一度読んだが、内容をよく覚えていない」
「『死に至る病』とは、結局何だったのだろうか」と、私が考え込んだ様子を見せると、彼は本を見つめながら、こう言った。
「僕も以前に一度読んだけれど、難解な印象を受けてさ。今から読み直そうと思っているんだ」
「まだ読み直し始めたばかりなんだけど」と加え、彼は話を続けた。
「キルケゴールによると、『死に至る病』とは絶望のことで、今の自分自身から抜け出したいにも関わらず、抜け出せないことによって苦しんでいる状態を表すみたいだ。
理想と現実の対立から生じた苦痛と言ってもいいのかな。こうであればいいと願う自分がいるけれど、現実では上手く叶えられなくて、そんな現実から逃れてしまいたいという状態を指すのかもしれないね」
「理想と現実の対立から成る苦痛」と、私は腕を組み、彼の言葉を繰り返した。
「ところで、絶望した人間はいつまでも絶望したままなのだろうか」
私がそのような疑問を表すと、彼は少し考えるような仕草をした。
しばらく沈黙が訪れた後、彼はそっとページをめくりながら、答えた。
「救済の余地はあるようだよ。彼曰く、絶望者はただ神の力を信じることによって救われる」
私たちは「神か」と呟き、その答えを確かめるように互いに目を合わせた。
「不条理の立場からすれば、これは『飛躍』になるみたいだね」
目を合わせながら、彼はふと私に言った。
彼の手元を見ると、『死に至る病』にもう一冊の本が重ねられていた。
私は二冊目の本を見ながら、「その本は何か」と彼に尋ねた。
彼は表紙を見せ、その題名を静かに読み上げた。
「アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』 。キルケゴールの実存哲学に異議を唱えた本だよ」
彼に「読んだことはあるかい」と尋ねられたので、私は「ある」と答え、話を続けた。
「確か、不条理を説いた哲学のエッセイだった。カミュによれば、不条理は非論理性に対して論理性で立ち向かうことを意味した。
彼はこれを、坂の上から何度も転がり落ちる巨大な石を、何度も坂の上へと押し上げるシーシュポスに例えていた。
一見無意味な行為に見えるが、苦痛に耐えて生きることに意味があると、カミュはそう説いたのではなかったか」
私がそう言うと、彼は「その通りだよ」とそっと微笑んだ。
そうして、「二項対立を示している点では、キルケゴールと変わらないのだけれど」と言いながら、彼は本のページをめくった。
「彼はこの本で、キルケゴールの実存哲学を、不条理からの逃避だと指摘したんだ。
不条理を不条理のまま受け入れず、神を信じることで絶望を克服しようとした。キルケゴールは真正面から不条理に挑むのを放棄してしまったのだと、カミュはそう批判したんだよ」
彼は開かれたページをじっと見つめ、私に言った。
「カミュの言葉を借りれば、『キルケゴールは病から癒えることをのぞむ』。けれど、本当に肝心なのは『病みつつ生きること』みたいだ。正に不条理の世界だね」
彼は何となく切なそうな顔をしながら、本を閉じた。
それは何処か聞き覚えのある言葉だった。私は目をつむり、初めてその言葉を聞いた時のことを思い出そうとしていた。
その記憶を思い出した時、私は彼を見上げた。
彼はこちらの視線に気がつき、じっと見返した。
静寂の中、視線が一本の糸のように張られ、まるで時間の停止したような錯覚が私を呑み込んだ。
「本を借りてくるよ」
沈黙を破ったのは彼の方だった。彼はそう言うと、本を片手で持ち、ゆっくりと階段の方へ向かった。
私は彼の背をじっと見つめながら、声を掛け、彼を振り返らせた。
「貸出を終えたら、少し外で話さないか」
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