漂流物

九時木

文字の大きさ
上 下
33 / 49
閉ざされた扉: 居酒屋〜マンション

33

しおりを挟む
 床を見ると、空の瓶があちこちに転がっていた。
 倒れた瓶のうち、何本かは中身が少し残ったままだった。
 酒瓶の飲み口からは酒が流れ、カーペットを湿らせていた。

 「お酒は毎日お飲みですか」

 私は床に目を落としながら、彼の母に尋ねた。
 母は投げかけられた問いに、訝しげな顔をしながら答えた。

 「あんた、警察なのか」

 私は「警察ではなく、彼の友人」であることを伝えた。
 彼の母は相変わらず目を細め、赤く腫れた瞼から鋭い眼光を覗かせていた。
 「私ならば」と、私は母を見つめながら、続けた。

 「一日中飲めば、倒れてしまうので」

 私がそう言うと、彼の母は私を確かめるように睨み、そして笑い飛ばした。

 「あんたは何もわかっちゃいないね」

 彼の母は少し勢いづいたようだった。
 母はテーブルに置かれていた瓶を掴み取り、ショットグラスにとくとくと酒を注ぎ込んだ。

 「こんなものは水も同然さ。さあ、もっと強いものを持ってきな」

 彼女はそう言うと、彼に向かって顎をくいと動かし、酒を足すよう促した。
 彼は不安げな表情を浮かべながら、黙って台所へと歩き、冷蔵庫から酒を取り出した。

 「度数が高くなればなるほど、嬉しくなるんだ。そうだろう?」

 彼の母はソファに横たわりながら、手に持ったショットグラスを下から見上げ、軽く揺らした。
 「嬉しくなれるのですか」と私が繰り返すと、母は彼とよく似た笑みを浮かべながら、言った。

 「そうだ。幸せが何度でも巡るんだ」

 「家族で海に行った思い出もですか」と私が尋ねると、彼の母は重たげな瞼を上げ、こちらを確かめるように見つめた。
 しばらくの沈黙が訪れた後、彼の母は私に「とにかく座りな」と短く言った。
 私は母に従い、向かい側のソファに座った。


 彼が満杯の瓶を持ち出すと、私たちは皆ソファに座った。
 ソファは向かい合わせになっており、彼と私の目の前には母が横たわりながら、酒を飲んでいた。
 私は母に名前を訊かれたので、名を言い、それから大まかに自己紹介をした。
 彼の母はいかにも面倒そうに私の自己紹介を聞いた後、酒をくいと飲み、私をじっと見た。

 「ところで、あんたはあたしたちの昔話を知っているのかい」

 ふと彼の母に尋ねられたので、私は彼から聞いたことを伝えた。
 隣に座っていた彼がそっと頷くと、彼の母はにやりと笑った。

 「海に行ったのは、息子が五歳の時だった」

 彼の母は機嫌を取り戻したように、滑らかに話を続けた。

 「テレビで海を見た息子が、『海に行きたい』って何度もせがんだもんだからね。クーラーボックスや浮き輪なんかを一通り車に詰め込んで、一番近い海に出かけたのさ」

 母はそう言うと、テーブルにあったリモコンを取り、電源を付けた。
 薄暗闇の中からテレビの明かりが浮かび上がり、旅番組が映し出された。
 テレビ画面をよく見ると、細いひびが入っており、画面を横断していた。

 「息子は小さかったから、浮き輪を付けていた。だけど、身の丈に合わない浮き輪だったものだから、息子は両手をいっぱいに伸ばして、それを抱えるようにして走り回っていた」

 「漫画みたいに滑稽だったよ」と、彼の母はテレビを見ながら、短く笑った。
 私は母の話を聞きながら、彼の方を見た。
 彼は少しきまり悪そうに笑い、視線をテレビに映していた。

 「陸ではそんな調子だったけれど、いざ海に入ると、浮き輪の穴に落っこちたような格好になってしまってね。『溺れているんじゃないか』って、父さんがひどく心配したものさ」

 彼の母はソファに横たわりながら、酒を注いでは飲み、とめどなく話していた。
 彼の方はというと、落ち着かない様子で視線をあちこちに映していた。
 そうして足元に転がっていた酒瓶に目を落とすと、屈み込み、それをそっと拾い始めた。

 「片付けるんじゃないよ」

 彼の動作に気がついた母が、テレビ画面から目を離し、不満げにその言葉を吐いた。
 彼と母はしばらくじっと目を合わせていたが、やがて彼の方が諦め、酒瓶から手を離した。

 「うちの息子は、いつも物を片付けようとするのさ。全く、片付けることに何の意味があるって言うんだい?」

 彼の母は抗議するように、音を立てながらショットグラスを置いた。
 彼の顔は薄暗闇の中に沈み、表情が伺えなかった。
 母はその様子を見届けると、今度は私の方に目を移した。
 そうして、母は私をじっと見据えながら、突如こう言った。

 「あんたが何をしに来たのか当ててやろうか。あたしを止めに来た。そうだろう」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【R15】母と俺 介護未満

あおみなみ
現代文学
主人公の「俺」はフリーライターである。 大好きだった父親を中学生のときに失い、公務員として働き、女手一つで育ててくれた母に感謝する気持ちは、もちろんないわけではないが、良好な関係であると言い切るのは難しい、そんな間柄である。 3人兄弟の中間子。昔から母親やほかの兄弟にも軽んじられ、自己肯定感が低くなってしまった「俺」は、多少のことは右から左に受け流し、何とかやるべきことをやっていたが…。

僕はもふもふのジュリアーノ

春秋花壇
現代文学
アルコール依存症

少女との競泳

浅野浩二
現代文学
「少女との競泳」というタイトルの話です。

今年の夏(2019)

浅野浩二
現代文学
これは小説ではなく、体調の悪かった2019年のことを書きました。

Last Recrudescence

睡眠者
現代文学
1998年、核兵器への対処法が発明された以来、その故に起こった第三次世界大戦は既に5年も渡った。庶民から大富豪まで、素人か玄人であっても誰もが皆苦しめている中、各国が戦争進行に。平和を自分の手で掴めて届けようとする理想家である村山誠志郎は、辿り着くためのチャンスを得たり失ったりその後、ある事件の仮面をつけた「奇跡」に訪れられた。同時に災厄も生まれ、その以来化け物達と怪獣達が人類を強襲し始めた。それに対して、誠志郎を含めて、「英雄」達が生れて人々を守っている。犠牲が急増しているその惨劇の戦いは人間に「災慝(さいとく)」と呼ばれている。

変貌忌譚―変態さんは路地裏喫茶にお越し―

i'm who?
ホラー
まことしやかに囁かれる噂……。 寂れた田舎町の路地裏迷路の何処かに、人ならざる異形の存在達が営む喫茶店が在るという。 店の入口は心の隙間。人の弱さを喰らう店。 そこへ招かれてしまう難儀な定めを持った彼ら彼女ら。 様々な事情から世の道理を逸しかけた人々。 それまでとは異なるものに成りたい人々。 人間であることを止めようとする人々。 曰く、その喫茶店では【特別メニュー】として御客様のあらゆる全てを対価に、今とは別の生き方を提供してくれると噂される。それはもしも、あるいは、たとえばと。誰しもが持つ理想願望の禊。人が人であるがゆえに必要とされる祓。 自分自身を省みて現下で踏み止まるのか、何かを願いメニューを頼んでしまうのか、全て御客様本人しだい。それ故に、よくよく吟味し、見定めてくださいませ。結果の救済破滅は御客しだい。旨いも不味いも存じ上げませぬ。 それでも『良い』と嘯くならば……。 さぁ今宵、是非ともお越し下さいませ。 ※注意点として、メニューの返品や交換はお受けしておりませんので悪しからず。 ※この作品は【小説家になろう】さん【カクヨム】さんにも同時投稿しております。 ©️2022 I'm who?

あと一日で何をしよう

有箱
現代文学
〝余命一日〟それが、私にされた宣告だった。 けれど、正直嬉しかった。だって、私は死にたがりだったから。 ――残された時間、何をしようか。いや、何が出来ようか。

蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる

フルーツパフェ
大衆娯楽
 転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。  一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。  そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!  寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。 ――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです  そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。  大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。  相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。      

処理中です...