漂流物

九時木

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残された神話: 美術館〜居酒屋

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 講義に参加してから二週間後、私は再び居酒屋へ足を運んだ。
 以前と同じ時間に向かい、カウンター席に座ると、彼が厨房から手を振り、こちらへ向かってきた。
 彼はよく飲み、酩酊した。しばらく話し込んでいると、彼は以前の通り、ほんのりと赤みを帯びた顔をこちらに向けながら、私に尋ねた。

 「君はさ、美術鑑賞に興味はある?」


 その日、私は彼と新たな約束を交わした。
 次の行き先は、美術館だった。彼は別の講義で美術の課題があるらしく、その準備として一度美術館を訪れる必要があると言った。
 課題は、自身が印象に残った美術作品についてレポートを書くという内容だった。

 「とは言っても、ほとんどプライベートだけどね」

 提出期限は数ヶ月先だから、時間はまだ十分にある、と付け足しながら、彼は私に微笑みかけた。
 当日、私たちは最寄り駅で待ち合わせをした。途中、少しの雑談を交えながら、美術館へ向かうこととなった。


 美術館は三フロアから成り、各階の展示物は、絵画や彫刻像などに分かれていた。
 常設展と企画展の両方が開催されており、館内は多くの来館者でざわめいていた。

 「とんでもない展示数だな」

 美術館の小冊子をめくりながら、彼は驚きをあらわにした。
 解説付きの小冊子は数十ページに及び、何百もの作品が作品名や制作年を記されながら、リスト化されていた。
 私たちは振り向き、互いの顔に、「果たして全てを見回ることができるのか」という暗黙の問いを読み取った。
 「人も多いからね」と、彼は館内を見渡しながら、語尾を伸ばし気味に言った。


 最初に入ったフロアは、特に混雑していた。私たちは長い行列に紛れながら、作品を鑑賞した。
 作品は来館者によって埋もれていたが、僅かに残された隙間から、作品の一部を見ることができた。
 歩き進めた後、彼は空いた空間を見つけ出し、私に向かって小さく手招きをした。
 私はそっと人混みを抜け出し、空いた空間に入り込んだ。

 「大渋滞だね」

 私を見ながら、彼は静かに話した。
 「祭りのようだ」と私が言うと、彼は短く息を吐いて笑った。
 「確かに」と言いながら、彼は視線を目の前の作品に移した。
 しばらくの間、空いたその場所で、私たちは作品を鑑賞していた。


 「フィンセント・ファン・ゴッホ、1889年、『アイリス』」

 額縁の右下に添えられたステンレスプレートをじっと見ながら、彼が読み上げた。
 作品を見ると、アイリスが画面全体に群生しており、青と緑の色が際立っていた。

 「ゴッホと言えば、まず向日葵の印象があるけれど」

 見つめるような目で、作品を鑑賞しながら、彼は言った。

 「アイリスも素晴らしいね。輪郭がはっきりとしていて、とても力強く見える」

 彼の言葉を確かめるように、私は作品に目を凝らした。
 観察してみると、確かに、花弁や茎が黒い線で囲まれ、花がくっきりと浮かび上がっているように見えた。
 振り返ってみても、他の作品も線が明確であることが多く、画家の印象的な描き方だった。

 「浮世絵の影響が強いらしいよ」

 小冊子の内容を確かめながら、彼が言った。
 私は続けて『アイリス』を鑑賞した。色、形、そして筆跡を、隅々まで目で追った。
 しばらく眺め続けていると、隣から彼の視線を感じた。

 「よく見るんだね」

 隣を振り向くと、彼がそう言いながら、にこやかな笑みを浮かべていた。
 私は、たった今絵画の世界から抜け出したような感覚にのまれながら、彼を見つめた。
 目を瞬かせると、彼の目に花の色が移った。何度も目を瞬かせていると、彼が満面の笑みを浮かべた。
 「どうしてそんな風にして笑うのか」と尋ねると、彼はそっと呟いた。

 「何となく」
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