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九時木

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8. 分身

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 時刻は午後4時過ぎ。私はぽつぽつと歩道を歩いていた。
 ウィルの家を出てきたが、まだ時間は十分にある。そのまま家に帰るには勿体ない。


 私は周囲を眺めながら、E・ストリートを歩いた。
 しばらく歩いていると、ふと木製の看板が目に入った。
 道路沿いのカフェが見つかった。コーヒー豆の香ばしい香りが、鼻腔をくすぐる。

 『コーヒー・ガレージ』。店の看板には、白いチョークでそう書かれている。

 「夕方以降のカフェインは、睡眠に影響する」。昨晩のカーライルの言葉を思い出し、私は独り笑う。
 私は香りに導かれるようにして、店内に入る。ちょっとした背徳感を抱きながら、カフェオレを注文する。

 夕方以降の時間は、私にとって息抜きの時間だった。特に、仕事終わりの温かい飲み物は体に染み渡る。

 店内は木の内装で、落ち着いた雰囲気に包まれていた。
 ほんの少しざわついていたが、人々は穏やかな笑みを浮かべながら、会話を弾ませていた。

 私はその場の心地よい空気にのまれながら、鞄から1冊の小説を取り出した。


 ウィルの『分身』は、私にとって特別な1冊だ。
 それはリアリティに富み、私をもう1つの世界へ浸らせてくれる。

 16歳の主人公は、高校でアランという友人と出会う。アランは小麦肌で痩せ体質の青年だ。
 アランは貧困家庭育ちで、学校をよく欠席する。のちに、彼は妹や弟の面倒を見るヤングケアラーだということが判明する。

 アランの家に母親はいない。父が一家を支えている。
 だが、父は飲んだくれで、アランにしょっちゅう当たっている。言い合いになったり、煙草を腕に押し付けたり、危険な行為に走ることもある。

 主人公は、そんなアランを気にかける。しかし、アランは笑顔を絶やさない。
 アランには夢がある。それは、いつか自分で飲食店を開くことだ。

 皆に腹いっぱい美味しいものを食べさせたい。腹を空かせている人を元気づけたい。それがアランの夢だ。

 だが、アランは交通事故で命を落としてしまう。父親との口論をきっかけに、車道に飛び出す。

 主人公は憔悴し、学校をしばらく欠席する。そして一人家出し、長旅に出る。
 そうして旅先で心を癒そうとするのだが、なかなか傷は癒えない。

 主人公は街角の料理店に心を痛めたり、料理を食べて涙を流したりする。
 もしもアランが生きていたら。旅を通して、主人公のそんな心の動きが細やかに描かれる。

 友情物語と感傷小説の間を揺らぐ、繊細な小説。私はこの小説に、特別な感情を抱いている。

 私はページをゆっくりめくる。一つ一つの言葉を味わうようにして。
 ウィルの表現を説明するのは難しい。彼は何か捉えがたいものを表現しようと、いつも頭を抱えているように見える。

 しかし、だからこそ私は彼に関心を抱いている。


 「失礼」

 私が『分身』を読んでいる間、隣に若い男が座った。
 気がつくと、店内は満席になっていた。私の隣が、唯一の空席だったようだ。

 男はパソコンを開け、忙しなくタイピングする。私は小説に目を移し、続きを読む。

 しばらく小説を読み進めていると、隣の男がパソコンの画面を眺めながら、そっとささやいた。


 「『彼からは、いつも煙草のにおいがした』」

 私は反射的に男の方を振り向く。
 それは『分身』の冒頭だ。私は男をじっと見つめ、その言葉を口にする。

 「読んだことがあるのですか?」

 男が私を見返し、緩やかに口角を上げる。
 黒の短髪。黒のジャケットにジーンズ。男はエンターキーをパチンと押した後、私に言った。

 「あるさ。知る人ぞ知る小説だ」
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