崖先の住人

九時木

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8章: 解放

67. 再来

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 家に帰ると、凄惨たる光景が待っていた。
 廊下には真っ赤な紙くずが散らかっている。風呂場のドアは開けっ放しで、水が流れたままになっている。

 リビングは相変わらず汚れている。毛布は床に落ち、コップは倒されて中身がこぼれている。


 僕は急いで掃除をし、元の状態に戻した。
 エスの仕業だろう。僕の意識が失われているうちに、あちこちを散らかしたようだ。

 机の上には、数々の論文が置かれている。そのうちの一枚を取ってみると、こう書かれていた。

 『自由を楽しめ』

 僕はその紙をぐしゃぐしゃに丸め、ゴミ箱に投げ捨てた。
 そうしてベッドに倒れ込み、天井をぼんやりと眺める。


 ××症になってから、僕はエスに散々振り回されてきた。今もそうだ。
 それは一般に、解離症と呼ばれる。一定期間の空白状態。すなわち健忘。夢と現実の往来。そして現実感の喪失。

 僕はその病によって、何十年もの記憶を喪失した。そして今、僕はかつての記憶を思い出しつつある。

 自由。それは僕を窒息寸前の世界から救い出すための、唯一の手段。僕は今まで、健忘という記憶の自由によって、現実から目を背けてきた。

 だが、僕は闘わなければならないのだろう。エスは正しい。だが、僕もまた正しくあるべきなのだ。
 僕は自分の記憶と蹴りをつけなくてはならない。超自我の女が言ったように、僕は自分自身で人生に意味を見出ださなくてはならない。

 夢の世界の自由に頼らないだけの、強い意思。今の僕に十分備わっているとは思えないが、それでもそうしなければならないだけの理由はある。

 僕はエスを止めなければならない。自己決定のために。


 僕は薬を手にし、その艷めく錠剤をじっと見る。
 封を開けようと、少し真ん中を折ってみる。だが、次にはもう薬を床に投げ捨てている。

 僕はベッドに横たわり、そっと目をつむる。
 頭の中でゆっくりとカウントダウンをし、目を閉じる。

 3、2、1。次に目を覚ました頃には、僕はもうこの現実世界にはいない。
 意識は夢の世界へ移動し、暗闇の中をさ迷っている。カラスウオが隣で泳いでいるのを確かめながら、魚の泳ぐ方向へと向かっていく。

 地面に足がつき、僕は見覚えのあるアーチを目にする。

 『心理学市エス区一番地』

 アーチをくぐれば、景色は一変する。
 そこは真夜中の繁華街。左右にはビルが立ち並び、あちこちで看板が煌めく場所だ。

 だが、以前のような騒々しさはない。路上には無数の人々が倒れ、錠剤を片手に握っている。
 血に濡れた地面。荒みきった繁華街。あちこちから呻き声が聞こえ、顔が腫れ上がった人々が僕の方を向く。

 僕は近くで横たわっていた人を起こし、その人に尋ねる。

 「エスはどこだ?」

 その人には意識がない。目はぼんやりとしており、視線はあらぬ方向へと向いている。
 僕は諦め、他にあてがないか探し回る。しかし、人々は皆ぐったりしており、こちらの声がまるで耳に入っていない。

 立ち往生していると、遠方でピエロが座り込んでいるのが見えた。僕はピエロのもとへ駆けつけ、相手に尋ねた。

 「エスの居場所を知らないか?」

 ピエロの仮面は割れかけており、隙間から沈んだ目が見える。地の果てを見るような目だ。
 ピエロは以前にも言った、あの決まり文句を僕に伝える。

 「エスは君を解放しようとしている」

 「わかってる。だから、居場所を教えてくれ」

 ピエロは口をつむぎ、なかなか答えない。僕はじれったくなり、ピエロの両肩をぐっと掴んだ。

 「教えてくれ。今すぐにやつと会わなくちゃならないんだ」

 ピエロの視線がはるか上へと向く。視線の先には、巨大な建物がそびえ立っている。

 「テレビ塔か」

 僕はピエロをそっと壁にもたれさせ、その建物を見上げる。
 テレビ塔は数百メートル先にあった。ここからそう遠くないようだ。

 足を動かすと、つま先に固いものが当たった。見ると、それは一丁の拳銃だった。
 僕はその拳銃を拾い、テレビ塔に向かって一気に走った。


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