崖先の住人

九時木

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7章: 離隔

63. 一歩

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 映画館の非常口に足を踏み出し、暗闇の中を歩き続ける。
 辺りは真っ暗で、静まり返っている。自分の足音すら聞こえない。
 僕は何処を歩いているのだろうか。気の遠くなりそうな時間が始まりそうだった。


 我々は何処から来たのか。
 我々は何者か。
 我々は何処へ行くのか。


 そんな言葉を繰り返しながら、暗闇を彷徨う。
 方向がわからない。歩いても歩いても、暗闇ばかりだ。

 それでも、倦怠感や嫌悪感はなかった。僕はようやく一人になれたのだ。
 夢の世界に来てから、色々な人や動物に出くわした。皆、善い人なのか悪い人なのかも判断がつかなかった。

 ただ一つだけ言えるのは、ここが僕の作り出した世界だということだ。それならば、全てを終わらせるのも僕だって構わない。


 僕は現実にも夢の世界にもうんざりしている。現実は夢で、夢は現実なのだ。
 血塗れになった部屋。両親との思い出。現実と夢を分ける壁は崩壊し、今や僕は互いの世界を行ったり来たりしている。

 夢の中でも車に轢かれた父さん、そして浴室で血塗れになった母さん。
 どれも救いようのない末路だった。僕にはどうしようもないことだった。


 今になって、僕は母さんの心の解剖に成功する。
 自分ではどうすることもできないという無力感。父さんを救えなかった罪悪感。

 「あなたは良い子になるのよ」

 母さんは教育熱心だった。僕を無力感から救うためなら、どんな力でも与えようとしてくれた。

 父さんへの絶望感が増すほど、母さんは教育熱心になった。僕がどん底へ落ちないようにと、懸命に僕を奮い立たせた。

 だけど、母さんは死んだ。父さんを失った無力感に耐えきれず、自ら命を絶った。

 母さんは僕に一所懸命勉強を教えてくれた。しかし、母さんが本当に救いたかったのは父さんだったのかもしれない。

 職を失った父さん。酒に入り浸りだった父さん。僕を脅しつけた父さん。

 僕は母さんの本当の感情に気づけなかった。僕は父さんを憎み、母さんを愛した。

 母さんは父さんを愛していた。だが、僕は最後まで父さんを愛せなかった。
 やはり、エスの言うことは正しかったのだ。


 僕は暗闇の中を歩き続ける。
 父さんと母さんを失った僕は、一体何者なのだろうか?
 は、暗闇の中を歩き続けている。
 あてもなく、ふらふらと、着地点のない場所を彷徨い続ける。


 我々は何処から来たのか。
 我々は何者か。
 我々は何処へ行くのか。


 苦しい問いだ。その人は今、自分が何者でもないことを知ってしまったから。

 ふと、暗闇の中から、ボロの勉強机が現れる。机には、1頭の美しい蝶が止まっている。
 ボロの勉強机。それは母さんの残した財産。罪悪感の塊のような家具。

 その人の人生は、その家具から始まった。勉強に入り浸りの毎日。
 記憶をかき消すことで精一杯だった。机に向かっている最中は、一切の現実を忘れ、何も考えずに済んだ。


 『知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを』


 僕はその言葉を思い出しながら、机を素通りする。
 蝶と勉強机の人生。勉強を続け、現実と夢を行ったり来たりする日々。

 その人の人生を形容するならば、きっとその言葉が相応しいのだろう。


 しばらく歩いていると、目の前に巨大な橋が現れた。
 橋の下には広大な海があり、激しい波音を立てている。
 先は真っ暗で何も見えない。僕は一直線のその道に足を踏み出し、少しずつ歩き始めた。
 
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