崖先の住人

九時木

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7章: 離隔

62. 混乱

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 誰かに体を揺さぶられている。
 肩にその人の手が触れ、僕はぼんやりとその温度を感じ取る。

 「起きて」

 遠くから、誰かのくぐもった声が聞こえる。
 その言葉は、左から右へと流れていく。僕の意識が再び曖昧になる。

 「起きて!」

 その人の叫ぶような声に、僕ははっとする。
 目が覚めると、そこは映画館だった。目の前に女の顔が見える。

 「ようやく目が覚めたわね」

 女が僕の両肩に手を置きながら、ほっと息をつきをついた。
 僕は女の背後にピントを合わせる。背後のスクリーンは、真っ暗で何も映っていない。

 「僕は戻ってきたのか?」

 僕は辺りを見回し、そこが映画館であることを確かめる。
 ずらりと並んだシート、階段を照らすライト、そしてほのかに香るポップコーンのにおい。僕は再び前意識にやって来たようだ。


 「ずいぶん長い間気を失っていたわ」

 女が僕にコップ一杯の水を差し出す。僕はそれを手に取り、一気に飲み干す。

 「悪夢を見た。かなり古い記憶だ」

 「知ってる」女が真っ暗なスクリーンに目を移し、僕に返す。

 「スクリーンに全部映っていたから」

 「エスの仕業ね」女は唇を噛み締め、悔しそうに言った。

 「僕は母さんに会った」僕は出来事を思い出すようにして、額を押さえる。

 「母さんは死んだんだ。浴室で血塗れになって……」

 「今は何も言わなくていいわ」女が僕の言葉を遮る。

 「とにかく、落ち着きましょう」


 女はスクリーンを巻き戻さなかった。しばらくの間、僕たちは真っ暗なスクリーンを眺めていた。

 「母さんが死んだのは」僕は席にどっともたれ、女に言った。

 「僕が小学生の時だった。父さんが死んだ1ヶ月後のことだ」

 「僕は母さんを励ましたかった」僕は口元を歪め、歯を食いしばる。

 「いつか元通りになってくれるんじゃないかって、期待したんだ。だけど、僕にはできなかった。何も知らなかったんだ」

 僕はその場で俯き、頭を抱える。女は僕の肩にそっと手を置く。

 「僕は父さんを憎んでいた。酒ばかり飲んで、ろくに動きもしなかった人だ。それだけじゃない。僕を凶器で散々に脅した」

 「ろくでなしの父親だったよ」僕は自分の言葉に怒りを込める。

 「だけど、母さんは父さんを愛していた。だから、父さんの後を追うようにして行ってしまった。僕には理解できないことだった」

 「混乱していたのね」女は僕の背をさすり、宥めるように言う。

 「今もそうだよ」僕は女の言葉に付け加える。

 「今もそうなんだ。僕は未だに母さんの心がわからない。父さんを愛しているからと言って、どうして何もかも置き去りにしてしまったのか。
 僕は精一杯やった。母さんを喜ばせられることなら、何でもやった。必死に勉強した」

 「それなのに、母さんは死んだんだ」僕は拳を握りしめ、自分の膝を叩く。

 「僕は一体、何のためにあんなことしたんだ?自分が何のためにいるのか、わからないよ」

 僕は再び頭を抱える。女が僕の頬を撫でようと、そっと手を伸ばす。
 僕は女の手を振り払う。手が弾き合い、女の手が座席の肘掛けに当たる。

 「放っておいてくれ」

 「それはいけないわ」女が僕の顔を覗き込む。

 「今のあなたは、とても不安定だもの」

 「放っておいてくれよ」僕はその言葉を繰り返し、席から立ち上がる。
 僕は非常口に向かって、階段を上る。女が後ろからついてくる。

 「駄目ったら」女は足を速め、僕の手を掴む。
 その瞬間、僕の中で何かがぷつりと切れ、僕は後ろに振り返った。

 僕は掴まれた手を解き、女を勢いよく突き飛ばした。
 女が足をくじき、後ろから階段へ落ちていく。僕は非常口の方へ向き直し、ドアノブに手をかける。

 「そろそろうんざりなんだ。エスにも、君にも」

 僕はドアを開け、非常口の先へと足を踏み出す。
 女の声が僅かに響いていたが、暗闇に包まれた頃には、もう聞こえなくなっていた。
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