崖先の住人

5章: 発覚

40. 序論

　僕はドアの鍵を開け、帰宅した。
　血塗れの廊下を歩き、リビングの机にたどり着く。
　机には、書きかけの論文が何枚も散らばっている。

　僕は椅子に座り、しばらく天井を眺めていた。
　鉄の臭いがあちこちに漂う。僕はため息をつきながら、疲れた目で机に視線を移した。


　『研究内容: フロイトの自由連想法は、××の患者に有効か』

　それは、何度も目にしたことのあるテーマだった。
　僕は血のこびりついたペンを持ち、論文と向き合う。同時に、机の上でパソコンを開き、調べものを始める。

　カタカタとタイピングする音が、静まり返った部屋に鳴り響く。部屋は薄暗く、夕日が窓から差し込んでいた。


　『世界と自分が××しているという感覚。特定の期間の忘却。自分が何者であるかということへの曖昧さ』

　僕は開いたウェブサイトのリストをメモしながら、論文を書き進めていく。

　『世界人口の約1.5パーセントを占めると予想されている××は、比較的稀な症状である。
　××の要因には、主に過度なストレス、虐待、事故、戦争などがあり……』

　『×××には主に3つのタイプがある。1つは、××、2つは××、そして最後が××である』

　『××の患者は、しばしばストレスに直面した時、感情やアイデンティティを自身から分離させることによって、ストレスに対応する。そのため、感情が無意識に抑圧されやすい』

　『××の治療法として、自由連想法が挙げられる。自由連想法は、フロイトが考案したものであり、思いのままに浮かんだ言葉を口にすることで、更なる自己理解へつなげることができ……』

　『自由連想法は、抑圧された感情を意識化することで、患者にストレスと向き合わせる。しかし、抑圧されていた感情に晒されることによって、××が起こり、かえって逆効果になることもあり得る』

　
　自由連想法は、××の患者に効果的である一方で、患者のトラウマやストレスを思い出させるリスクもある。
　そこまではわかっているが、自由連想法がどの程度××に有効なのかについては、まだ明らかにされていない。
　僕はさらにタイピングを進める。

　『××の治療は、一般的には薬物療法や認知行動療法などであり、自由連想法は一部の治療法とされる』

　そう。××の治療は、薬物療法や認知行動療法が一般化しており、自由連想法の効果を示した研究はまだ少ない。
　自由連想法の効果の程度と、現状の研究数に注目すれば、この論文の重要性を明らかにできる。
　僕は序論をひたすらタイピングした。そしてその後、いかにして内容を実証するかについて考えた。

　実際の患者を集めて実験することができない場合の応急処置として、最も簡単な検証方法がある。
　それは、自分を被検体にすることだ。僕は自分自身を研究対象にすることで、この研究を進めることができる。
　
　僕はペンを置き、書き終えた序論を眺めた。
　自由連想法が何処まで有効であるかを知るために、僕はこれから自分自身を試すことになるのかもしれない。

　しかし、その試みは僕が××患者であるという前提がなければ実行できない。
　ここで、僕はあることを思い出し、急いで机の棚を開ける。
　棚の中には、一枚の透明なファイルが収納されており、そのファイルの中には一枚の紙が入っていた。


　『診断書 Y月YY日 病名:××』

　名前欄には、自分の名前が記されてる。どうやら僕は本当に××患者のようだ。