崖先の住人

九時木

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5章: 発覚

38. 教授

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 「それで、何か用かな」

 教授が教壇で資料を片付けながら、僕に言う。
 講義が終わり、講義室からは次々と受講生が退出していく。

 「少し、相談がありまして。ここでお話をしてもよろしいでしょうか」

 講義終了後、僕は教壇に向かって歩き、教授に話しかけていた。
 僕の言葉に、教授が頷く。僕は深く息を吸い、事情を話し始めた。


 「なるほど、夢が現実に反映されているというわけか」

 教授が白い髭をいじりながら話す。
 何やら考え込んでいる様子だ。僕は唾を飲み、じっと相手の答えを待った。

 「ところで、君は『願望充足』を知っているかな?」

 ふと教授が口を開き、僕に尋ねる。
 僕が首を横に振ると、教授は説明を始めた。

 「願望充足とは、自分の望みを叶えようとすることを言う。
 例えば、空腹の時にご馳走を食べる夢を見る、とかね。現実で叶えられないことを、夢の中で叶えようとするのが、夢の本質なのだが……」

 「それなら、僕がひどい目に遭ったのは、僕の本望だったというわけですか?」

 僕は抗議するように返す。教授は僕をじっと見てから、話を続けた。

 「いいや。君の場合は、『夢の歪曲』が起こっている。
 夢の歪曲とは、願望充足に反する夢を見ることだ。本来の望みが、ねじ曲げられた形で表現されてしまっているということだね」

 「夢の歪曲……」僕はその言葉を確かめるようにして、繰り返す。

 「何らかの抑圧を抱えた人間は」教授はゆっくりと話を続ける。

 「よく不安な夢を見る。本来の願望充足のように、真っ直ぐに願望を満たすのではなく、願望が隠れた状態で現れることが多いのだ」

 「隠れた願望ですか」僕は少し躊躇いながら、教授に返した。


 「それで、夢が現実に影響するということについてだが」教授は足を揃え、僕に向かって話す。

 「不安な感情は、いずれ外に向かって爆発する。夢の中で抑えきれない感情は、夢の殻を破り、現実へと飛び出していく。

 君の場合、自分の感情を抑える力がかなり強力なのだろう。その反動で、現実にも影響を与えてしまった可能性が高い」
 
 「抑圧された感情……」僕は口をつぐむ。

 「では、抑圧された感情とは、一体どういったものなのでしょうか?」

 「これは一例に過ぎないが」教授がチョークを手に持ち、そっと板書を始める。
 
 「抑圧された人間は、抑圧した人間に対して復讐心を抱えていることがある。
 君は『イルマの注射の夢』を知っているかね?」

 「いいえ」と僕。僕の返事を受けた教授が、話を続けた。

 「イルマの注射の夢とは、フロイトが見た夢のことだ。
 フロイトは、実際にイルマというヒステリー患者を診ていたのだが、なかなか治療が進まなかった。
 だがある日、フロイトは、イルマが別の医者であるオットーに注射を打たれていたことを知る。

 そこで、フロイトはその医者を責める夢を見る。イルマの注射が進まないのは、自分のせいではなく、オットーが注射を打ったせいだと、そう思いたかった。その復讐心が、彼の夢に反映されたのだ」

 教授が「フロイト」、「イルマ」、「オットー」とそれぞれの名前を書き、三角の構図を加える。
 僕は前のめりになりながら、その構図をじっと見た。

 「復讐心ですか」僕は首を傾げる。

 「私の口から、君がそういった感情を抱えているとは断言できないが」教授はチョークを置き、僕に向かって言った。

 「誰かにひどい仕打ちを受けた、という君の夢は、かつて君を抑圧した者に今度は自分がひどい仕打ちを与えたい、という願望が歪曲されたものなのもしれないな」

 教授の言葉を聞いて、僕は閉口する。
 教授はにっこりと微笑みながら、黒板消しを持つ。

 「思い悩ませてすまないね」教授はそう言いながら、丁寧に図を消していく。
 
 「フロイトを信ずる者は、しばしば突拍子もないことを言ってしまうものだから」
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