崖先の住人

九時木

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5章: 発覚

37. B子

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 「珍しく、時間通り来たのね」

 騒がしい大講義室で、隣の席の女が僕に声をかける。
 時刻は午前8時50分。僕は講義開始の10分前に、大学に到着していた。

 「僕にメッセージを送ったのは、君だな」

 僕は机に鞄を置き、女に話しかける。

 「いつも寝坊ばかりしているもの。見ていて気が気でないわ」

 女がため息をつきながら、ノートを開く。
 女のノートは文字が整然と並び、美しい見栄えをしていた。


 「B子、昨日はごめん。今朝、君の名前を思い出したよ」

 「何を今更」B子は頬杖をつき、ペンを回している。
 「許してくれないか」僕は椅子に座り、B子を見る。

 「最近、ちょっと記憶が曖昧なんだ」

 「何それ、記憶喪失?」

 「そんなものかもしれないな」僕は椅子にもたれかかり、大きく息をついた。

 「変なの」B子は興味なさげに、黒板を見る。

 数分後、大講義室に教授が入室した。
 チャイムが鳴り、騒がしかった講義室が途端に静まり返る。

 講義が始まった。僕はノートを開き、あくびをしながら黒板を眺めた。


 教授が、チョークで用語を書いていく。こつこつと規則的な音が響き渡り、秒針音を思わせる。

 昨晩あれほど眠ったのに、まだ眠気がなくならない。僕はうとうとし、目を覚ます度にノートの文字が乱れていることに気がつく。

 ふと、肩に衝撃が走る。振り返ると、B子がこちらを睨みつけていた。

 「また寝過ごすつもり?」

 「ごめん」と、僕はB子に謝る。
 僕は自分のノートを確かめる。ノートには、昨日書いた1匹のカラスウオが残っていた。

 「B子」僕はひそひそ声で、相手に話しかける。

 「何よ」

 「昨日、君はこんなことを言っていただろう。超自我の働きが弱くなると、衝動を抑えきれなくなって、暴力に陥りやすくなるって」

 「言ったわ。それで?」

 「僕は最近、ひどい夢を見るんだ。僕はエスという男に会って、ことごとく痛い目に遭わされる。
 夢だけじゃない。エスは現実世界でも暴れ回っていて、例えば僕の部屋をめちゃくちゃにしてしまう。これについて、君はどう思う?」

 「あんたって、いかれてるわ」B子は呆れたように僕を見てから、ノートに目を移した。

 「真面目な話なんだ」

 「手に負えないわよ」B子が僕に向かって言う。

 「それって、夢が現実になっているってことでしょう。かなり危険な兆候よ」

 「一度、教授に話してみた方がいいわ」女が僕を諭す。

 夢の内容を、教授に話す?
 何だか気の引けるような話だ。僕が口をつぐんでいると、B子が先に口を開いた。


 「何かに追われているような夢ね。最近、何かあったの?」

 その言葉を聞いて、僕はぎくりとする。

 「いや、特に何も」

 僕は慌ててノートに向き直し、ペンを持つ。B子はその様子を訝しげに見る。

 「とにかく、教授に話してみることね」

 B子が僕から目を逸らす。僕はほっと息をついた。

 手が震えている。今の有様なんて、とても人に言えることじゃない。
 だが、B子は「危険な兆候」と言った。僕は今、誰かの手を借りざるを得ない状況なのかもしれない。

 僕はノートを見た。ノートには、昨日書いたカラスウオが残っていた。
 カラスウオの尾ひれが、緩やかに動き出す。僕は思わずノートを勢いよく閉じる。

 どうやら、教授に話をする他ないようだ。
 
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