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プロローグ
プロローグ-1
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整備された歩道にはタバコの吸い殻一つない。その代わりに、酔い潰れた若者と共に、細切れになったラーメンが浮かぶ吐瀉物が落ちている。
「わあ、綺麗」
電飾が巻きつけられた街路樹を見上げ、手を掴み合っている男女が表情筋を歪めた。彼らは木々が生み出した酸素をすぐさま無用な気体に変え、自らが吐いた白いそれを見て喜んでいる。
彼らは、数メートル先に落ちている、吐瀉物にまみれた若者には目も向けない。彼らだけではなく、行き交う人全てが、まるでそこには何もないかのように振る舞う。
見えていないわけではない。あることが分かっているからこそ、不自然なほど目を逸らす。
常識に囚われた人々は、公共の場で汚い存在をちらとでも見せられたことに嫌悪感を抱き、拒絶し、人としての道を踏み外した若者の行動を蔑んだ。
一人の男が、吐瀉物で手が汚れるのも厭わず若者の頬を軽く叩く。
「大丈夫ですか」
「うあ……。み、ずぅ……」
「はい、どうぞ」
「うぅ……ぁぅ……」
男は若者に水を飲ませ、前を通りがかる、盗み見ては顔を背ける人々を見上げた。
恍惚の表情を、浮かべながら。
潔癖症の人々が作り上げた理想の街並みから一筋逸れると、打ち捨てられた雑多なビルが立ち並んでいる。
蚊の羽音のような音を鳴らしながら、なんとか光を放つネオン。
泥をかぶった「テナント募集」の看板。
疎らに目的もなくその通りを歩くのは、平成の時代に取り残された、そこでしか生きられない者たちだけだった。
あるビルの中に足を踏み入れた来客を、微かに残るアスベストの臭いが出迎える。案内板は白紙。このビルにテナントが入っているようには見えない。
二〇五号室の表札も白紙のままだった。しかし、ドアから光が漏れている。
来客がノックをすると、しばらくして返事が聞こえた。
「どうぞ」
オフィスには、スーツを着た三十代の男が一人。彼はデスクに座ったまま、来客に会釈をする。
「おやおや。これは珍しいお客さんだ。あなたのような人が、自らうちの事務所に来るなんて」
「ご、ごめんなさい。どうして自分がここに来たのか、よく分からなくて……」
「お気になさらず。おかけください。茶くらい出しますよ」
男は茶と共に名刺を差し出した。社名も連絡先もなく、ただ「鶴井 哲平」と印字されているだけだった。
訝し気に顔を上げた来客に、鶴井は目尻を下げる。
「あなたのお名前を伺っても?」
来客は名前を答えた。
鶴井は彼女の名前を聞いた瞬間に忘れたので、頭の中で〝目ヤニ女〟とあだ名を付けた。
鶴井の向かいに座る女は悪臭を放っていた。黒髪は脂でてかり、肩には頭垢が雪のように積もっている。化粧はしておらず、その代わりに目脂や涎の跡が顔にへばりついていた。
同じ空間にいることすら苦痛だったが、人間として必要なものを失っている今、彼女がそのような出で立ちなのも仕方がないと、鶴井は思った。
鶴井には生霊が視える。
目の前の女には、彼女の肩に落ちる頭垢と同じくらい大量の生霊が憑いていた。彼女はそれにありとあらゆるものを食いつくされたようだ。食われたものは、目には見えない、人間として必要なもの。
彼女は人としてあるべき姿を忘れている。だから、今の自分がおかしいとは思わない。
「肩、重くないですか?」
鶴井が尋ねると、女は目を瞬いた。
「あら。もしかしてあなたも視える人ですか?」
「ええ、まあ。もしかして、もうご存じで?」
「もちろん。私の宝物です」
女は胎児を愛でるように、生霊が寝床にしている腹を撫でた。そして、鶴井が尋ねてもいないのに語り始める。
「私、歩いているだけで、彷徨っている霊を呼び寄せてしまうんです。霊は私の中に入ってきて、血液の中を気持ちよさそうにふよふよと漂います。私の内臓を枕代わりにして、頭を乗せてうたた寝する子もいるんですよ」
生まれながらか、生きてきた環境によってかは不明だが、確かに生霊に好かれる体質の人間は存在する。縁もゆかりもない生霊に付きまとわれるなんて、本来であれば迷惑極まりないだろう。それなのに、彼女はそれを気に入っていると言う。
「霊はみな、私の中にいたらリラックスしているようなんですよね。それが私の、誰かに必要とされたいという欲求を満たしてくれている気がして」
彼女は嬉しかったようだが、彼女の母親は、人間として欠けていく彼女を心配したようだ。
ある日、女は母親に、ある山奥に連れていかれたらしい。そこには胡散臭い装束を身に着けた霊媒師がいたそうだ。
でも、と女は忍び笑いをする。
「その霊媒師、私を見て何をしたと思いますか?」
「僕にはさっぱり。何をしたんです?」
「私を指さして、絶叫して、法衣を尿で汚したんです」
「おやおや」
なんと情けない霊媒師かと鶴井は呆れたが、少なくともその霊媒師はインチキではなかったようだ。彼女に憑く生霊の群れは、それほどまでに悍ましい。
「霊媒師は床に頭をこすりつけて、自分ではどうにもできない、頼むから帰ってくれと懇願しました。母親は残念そうでしたが、私は安堵しました」
そして彼女は独白する。
「母親の心配は、正直言って有難迷惑なんです。だって私はこんなに満たされているのに、追い払おうとするなんて。どうして人は、物事を自分の物差しで測ることしかできないのでしょう」
言いたいことを全て言い終えたのか、女は鶴井に向けて歯石で黄ばんだ歯を見せた。鶴井は密かに彼女のあだ名を〝目ヤニ女〟から〝歯クソ女〟に変えた。
鶴井は彼女の言葉をほとんど聞いていなかった。それよりも、彼女がしている行動に興味が湧いた。
「わあ、綺麗」
電飾が巻きつけられた街路樹を見上げ、手を掴み合っている男女が表情筋を歪めた。彼らは木々が生み出した酸素をすぐさま無用な気体に変え、自らが吐いた白いそれを見て喜んでいる。
彼らは、数メートル先に落ちている、吐瀉物にまみれた若者には目も向けない。彼らだけではなく、行き交う人全てが、まるでそこには何もないかのように振る舞う。
見えていないわけではない。あることが分かっているからこそ、不自然なほど目を逸らす。
常識に囚われた人々は、公共の場で汚い存在をちらとでも見せられたことに嫌悪感を抱き、拒絶し、人としての道を踏み外した若者の行動を蔑んだ。
一人の男が、吐瀉物で手が汚れるのも厭わず若者の頬を軽く叩く。
「大丈夫ですか」
「うあ……。み、ずぅ……」
「はい、どうぞ」
「うぅ……ぁぅ……」
男は若者に水を飲ませ、前を通りがかる、盗み見ては顔を背ける人々を見上げた。
恍惚の表情を、浮かべながら。
潔癖症の人々が作り上げた理想の街並みから一筋逸れると、打ち捨てられた雑多なビルが立ち並んでいる。
蚊の羽音のような音を鳴らしながら、なんとか光を放つネオン。
泥をかぶった「テナント募集」の看板。
疎らに目的もなくその通りを歩くのは、平成の時代に取り残された、そこでしか生きられない者たちだけだった。
あるビルの中に足を踏み入れた来客を、微かに残るアスベストの臭いが出迎える。案内板は白紙。このビルにテナントが入っているようには見えない。
二〇五号室の表札も白紙のままだった。しかし、ドアから光が漏れている。
来客がノックをすると、しばらくして返事が聞こえた。
「どうぞ」
オフィスには、スーツを着た三十代の男が一人。彼はデスクに座ったまま、来客に会釈をする。
「おやおや。これは珍しいお客さんだ。あなたのような人が、自らうちの事務所に来るなんて」
「ご、ごめんなさい。どうして自分がここに来たのか、よく分からなくて……」
「お気になさらず。おかけください。茶くらい出しますよ」
男は茶と共に名刺を差し出した。社名も連絡先もなく、ただ「鶴井 哲平」と印字されているだけだった。
訝し気に顔を上げた来客に、鶴井は目尻を下げる。
「あなたのお名前を伺っても?」
来客は名前を答えた。
鶴井は彼女の名前を聞いた瞬間に忘れたので、頭の中で〝目ヤニ女〟とあだ名を付けた。
鶴井の向かいに座る女は悪臭を放っていた。黒髪は脂でてかり、肩には頭垢が雪のように積もっている。化粧はしておらず、その代わりに目脂や涎の跡が顔にへばりついていた。
同じ空間にいることすら苦痛だったが、人間として必要なものを失っている今、彼女がそのような出で立ちなのも仕方がないと、鶴井は思った。
鶴井には生霊が視える。
目の前の女には、彼女の肩に落ちる頭垢と同じくらい大量の生霊が憑いていた。彼女はそれにありとあらゆるものを食いつくされたようだ。食われたものは、目には見えない、人間として必要なもの。
彼女は人としてあるべき姿を忘れている。だから、今の自分がおかしいとは思わない。
「肩、重くないですか?」
鶴井が尋ねると、女は目を瞬いた。
「あら。もしかしてあなたも視える人ですか?」
「ええ、まあ。もしかして、もうご存じで?」
「もちろん。私の宝物です」
女は胎児を愛でるように、生霊が寝床にしている腹を撫でた。そして、鶴井が尋ねてもいないのに語り始める。
「私、歩いているだけで、彷徨っている霊を呼び寄せてしまうんです。霊は私の中に入ってきて、血液の中を気持ちよさそうにふよふよと漂います。私の内臓を枕代わりにして、頭を乗せてうたた寝する子もいるんですよ」
生まれながらか、生きてきた環境によってかは不明だが、確かに生霊に好かれる体質の人間は存在する。縁もゆかりもない生霊に付きまとわれるなんて、本来であれば迷惑極まりないだろう。それなのに、彼女はそれを気に入っていると言う。
「霊はみな、私の中にいたらリラックスしているようなんですよね。それが私の、誰かに必要とされたいという欲求を満たしてくれている気がして」
彼女は嬉しかったようだが、彼女の母親は、人間として欠けていく彼女を心配したようだ。
ある日、女は母親に、ある山奥に連れていかれたらしい。そこには胡散臭い装束を身に着けた霊媒師がいたそうだ。
でも、と女は忍び笑いをする。
「その霊媒師、私を見て何をしたと思いますか?」
「僕にはさっぱり。何をしたんです?」
「私を指さして、絶叫して、法衣を尿で汚したんです」
「おやおや」
なんと情けない霊媒師かと鶴井は呆れたが、少なくともその霊媒師はインチキではなかったようだ。彼女に憑く生霊の群れは、それほどまでに悍ましい。
「霊媒師は床に頭をこすりつけて、自分ではどうにもできない、頼むから帰ってくれと懇願しました。母親は残念そうでしたが、私は安堵しました」
そして彼女は独白する。
「母親の心配は、正直言って有難迷惑なんです。だって私はこんなに満たされているのに、追い払おうとするなんて。どうして人は、物事を自分の物差しで測ることしかできないのでしょう」
言いたいことを全て言い終えたのか、女は鶴井に向けて歯石で黄ばんだ歯を見せた。鶴井は密かに彼女のあだ名を〝目ヤニ女〟から〝歯クソ女〟に変えた。
鶴井は彼女の言葉をほとんど聞いていなかった。それよりも、彼女がしている行動に興味が湧いた。
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