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第3話 月神山(2)
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もうすこしで、月神山の稜線に姿を消す。
ぼんやりと夕日をながめながら、おれは自転車をこいでいた。
ひょうたん池公園は山のふもとにあるから、この街のどこよりも早く陽がかげる。
なんとなく世間知らずの雰囲気をもつサトミを、そんなところで待たせるわけにもいかず、おれは約束の時間より早く着くよう家を出た。
もちろん、夕方からの塾も、きょうは休み。
「父さんが知ったら激怒するだろうな。塾をさぼって、女の子のうちに……」
それ以上は言葉にするのも恐ろしいので、言うのをやめた。
公園のわきに自転車をとめ、ひょうたん池にそって公園のなかを歩いていると、正面入り口に、サトミのうしろ姿を見つけた。
街へとつづく一本道を、じっと見つめている
まだ三十分もまえなのに、ずっとあそこに立ちつくして、おれがくるのを待ちつづけるつもりだろうか。
「約束すっぽかしたら、本当に一生、恨まれそうだな……」
そっと近づいて、サトミの背中に声をかけた。
「来たよ」
聞こえなかったのか、サトミはぴくりともしない。
すぐとなりに立って、のぞきこむ。
サトミはとても寂しそうな表情で、ぎゅっと遠くを見つめていた。
「竹内さん、大丈夫?」
サトミがおどろいて、ふりむいた。
「ケンヂくん、どこから来たの?」
「わき道から……。ほら、ちょっとまえまで、ここ砂利道で自転車なんか通れなかっただろ? ぼおっとしてるとさ、昔のくせで、むこうの道からきちゃうんだよね」
「そっか。でもよかった! 来たくれないかと不安だったの」
「くるよ。約束したし……。泣きそうな顔するほど不安だったの?」
「え?」
サトミが目を丸くする。
「やだ、ちがうよ。ケンヂくんがくるの、ここで待ってたら、景色が……」
そう言いながら、サトミは一本道に目をやった。
「ほんの数年で、ずいぶん変わっちゃったね……」
サトミがぽつりと言った。
「ああ……」
サトミと同じ、景色を見る。
わずかばかり残された田畑にのびる黒い一本道は、だいだい色に照らされた家々がちらばる、住宅街のなかへと消えていく。
はるかむこうにある線路を、きらりきらりと夕日を反射しながら、電車が走っていた。
「あの線路まで、ずっと畑道だったもんな。この公園で遊んだ帰りは、いつもみんなで、この道を歩いて帰ったんだよなあ。夕焼け空にカラスが鳴いててさ……」
見るとサトミは黙ったまま、寂しそうに、変わり果てた景色を見つめていた。
夕方の、ほのかに涼しい風が、サトミの長い髪をゆらしている。
思わず見とれてしまったおれは、はっと我に返ってつづけた。
「でもいいんじゃない? この公園もきれいに整備されるみたいだし。となりの畑も、でっかい駐車場になるんだってさ。休日なんか親子連れでにぎやかになると思うよ」
元気づけるように明るく言ったが、サトミは何もこたえなかった。
おれだって、おさない頃の景色が失われていくのは残念だ。
でも、サトミほど寂しい気持ちになることはなかった。この田舎街がすこしでも住みやすくなって、にぎやかになるのは、いいことだと思っている。
「ケンヂくん。きょうは本当に来てくれてありがとう。わたしの家、ここからすぐだから、ついてきて」
サトミは気を取り直すようにそう言うと、ひょうたん池公園の奥へ歩いていった。
しかしそっちに公園の出口はない。月神山神社があるだけだ。
「神社にお参りでもしてから行くの?」
「うん」
サトミは公園の一番奥にある、赤い鳥居のまえで一礼すると、石段をあがっていった。
そのあとに、おれもつづく。
この参道を歩くのは何年ぶりだろう。おさない頃の思い出より、ひとつひとつの石段はずいぶんと低く、小さく見えた。
山に帰ってきたカラスが、頭の上で鳴いている。
石段をあがりきると、ほの暗い杉林のなかに、こじんまりと佇む、お社があらわれた。
わずかにさしこんだ一筋の夕日をうけて、お社にさげられた古びた鈴が、きらりと光っている。
サトミは慣れた手つきで、手水舎で手と口を清めると、お社のまえに立ち一礼した。
鈴を鳴らし、二回、頭を下げてから、二回、手をたたいておがむ。
流れるようなサトミの所作に、おれはただ、立ちつくして見とれるばかりだった。
サトミはふたたび頭を下げると、一歩下がってからふりむいた。
「またせちゃって、ごめんね」
「いいよ。なにをお願いしていたの?」
サトミはふたたび、お社に目をやってこたえた。
「きょうもお守りくださいましてありがとうございます。できることならば、明日の朝もまた、こちらでお参りできますように……。毎日、朝と夕方、ここを通るときに御礼しているの。さあ、行きましょう」
そしておもむろに、お社の奥へ歩いていく。
「行きましょうって……どこへ? そっちには何もないよ」
とまどうおれに向かって、サトミが笑いながらこたえた。
「あるよ。このさきだもの、わたしの家」
見ればたしかに、お社の裏手に石段がつづいている。
おさない頃から何度もここで肝試しやかくれんぼをしたけれど、こんな道はいままで見たことがなかった。
「こんな石段、いつできたんだろう?」
「ずっとまえからあるよ。気がつかなかっただけでしょう」
サトミはあたりまえのようにそう言うと、石段を上がっていった。
こんな山のなかに、サトミの家?
とても信じられなかったけど、すたすたとさきを歩くサトミを見失わないように、急いであとを追った。
*
足もとがすいぶん暗い。
見上げると、黒い杉林の隙間から見える空は、もう深い藍色に染められていた。
じんめりとしめった空気が、ほおをなでる。
どこからか、くぐもったカラスの鳴き声が聞こえてくる。
もうずいぶん不気味な雰囲気なのに、怖がりと言っていたはずのサトミは、まったく平気な様子で石段を上がりつづけていた。
しばらくすると、ようやく視界がひらける場所に出た。
石段もここで終わっている。もう、山の頂上なのだろう。
まわりをぐるりと背の高い杉の木でおおわれた、まるで、人目をさけているような、不思議な場所。
目のまえに、つる草の絡みついた、さびた鉄柵の門がある。
門の両側には、赤茶色の煉瓦づくりの門柱が立ち、おなじく煉瓦でつくられた壁が、杉林のなかへとつづいていた。
サトミが門に近づく。
すると鉄製の扉が、かん高いうなり声をあげながら、左右に開いた。
「うそっ! いま、勝手に扉が開いたよ!」
「家族が近づくと、自動で開くようになっているの」
ふり返りもせずに、サトミが言った。
「えっ。てことは……、ここが竹内さんの家?」
「おじいさまが許さなかったから、お友だちを招待するのは、きょうがはじめて。さあ、どうぞ」
サトミが門をくぐる。
古めかしい外観のわりに、なんてハイテクな技術が使われているのだろう……。
おれは感心しながらも、急いでサトミの背中を追った。
門柱に、ぽうっと、だいだい色の灯りがともる。
サトミの歩みにあわせて、そこかしこに散らばる灯籠にも、ぽうぽうと灯りがともっていく。
足もとにのびる石畳。
低木にかこまれた花壇と、芝生の庭。
枯れた噴水と、苔のはえた彫像――。
大きなお屋敷に住んでいるといううわさは、本当だったのだ。
きょろきょろとあたりをながめながら歩いていると、いきなりサトミの背中が目のまえにあって、おれはつんのめりそうになりながら立ちどまった。
見上げると、まるでとつぜん、そこにあらわれたかのような大きな館が、ぼんやりと暗闇に浮かび上がっていた。
ざわざわとざわめく黒い杉林にかこまれて佇む、明治時代の洋館のようなサトミの家。
ふいに背中に視線を感じて、ふり返る。
杉林のあいだから、紅く輝く大きな月が、おれたちをのぞいていた。
きょうは満月なのだ。
「これはたしかに……」
ひとりで夜をすごすには、不気味すぎる家だった。
ぼんやりと夕日をながめながら、おれは自転車をこいでいた。
ひょうたん池公園は山のふもとにあるから、この街のどこよりも早く陽がかげる。
なんとなく世間知らずの雰囲気をもつサトミを、そんなところで待たせるわけにもいかず、おれは約束の時間より早く着くよう家を出た。
もちろん、夕方からの塾も、きょうは休み。
「父さんが知ったら激怒するだろうな。塾をさぼって、女の子のうちに……」
それ以上は言葉にするのも恐ろしいので、言うのをやめた。
公園のわきに自転車をとめ、ひょうたん池にそって公園のなかを歩いていると、正面入り口に、サトミのうしろ姿を見つけた。
街へとつづく一本道を、じっと見つめている
まだ三十分もまえなのに、ずっとあそこに立ちつくして、おれがくるのを待ちつづけるつもりだろうか。
「約束すっぽかしたら、本当に一生、恨まれそうだな……」
そっと近づいて、サトミの背中に声をかけた。
「来たよ」
聞こえなかったのか、サトミはぴくりともしない。
すぐとなりに立って、のぞきこむ。
サトミはとても寂しそうな表情で、ぎゅっと遠くを見つめていた。
「竹内さん、大丈夫?」
サトミがおどろいて、ふりむいた。
「ケンヂくん、どこから来たの?」
「わき道から……。ほら、ちょっとまえまで、ここ砂利道で自転車なんか通れなかっただろ? ぼおっとしてるとさ、昔のくせで、むこうの道からきちゃうんだよね」
「そっか。でもよかった! 来たくれないかと不安だったの」
「くるよ。約束したし……。泣きそうな顔するほど不安だったの?」
「え?」
サトミが目を丸くする。
「やだ、ちがうよ。ケンヂくんがくるの、ここで待ってたら、景色が……」
そう言いながら、サトミは一本道に目をやった。
「ほんの数年で、ずいぶん変わっちゃったね……」
サトミがぽつりと言った。
「ああ……」
サトミと同じ、景色を見る。
わずかばかり残された田畑にのびる黒い一本道は、だいだい色に照らされた家々がちらばる、住宅街のなかへと消えていく。
はるかむこうにある線路を、きらりきらりと夕日を反射しながら、電車が走っていた。
「あの線路まで、ずっと畑道だったもんな。この公園で遊んだ帰りは、いつもみんなで、この道を歩いて帰ったんだよなあ。夕焼け空にカラスが鳴いててさ……」
見るとサトミは黙ったまま、寂しそうに、変わり果てた景色を見つめていた。
夕方の、ほのかに涼しい風が、サトミの長い髪をゆらしている。
思わず見とれてしまったおれは、はっと我に返ってつづけた。
「でもいいんじゃない? この公園もきれいに整備されるみたいだし。となりの畑も、でっかい駐車場になるんだってさ。休日なんか親子連れでにぎやかになると思うよ」
元気づけるように明るく言ったが、サトミは何もこたえなかった。
おれだって、おさない頃の景色が失われていくのは残念だ。
でも、サトミほど寂しい気持ちになることはなかった。この田舎街がすこしでも住みやすくなって、にぎやかになるのは、いいことだと思っている。
「ケンヂくん。きょうは本当に来てくれてありがとう。わたしの家、ここからすぐだから、ついてきて」
サトミは気を取り直すようにそう言うと、ひょうたん池公園の奥へ歩いていった。
しかしそっちに公園の出口はない。月神山神社があるだけだ。
「神社にお参りでもしてから行くの?」
「うん」
サトミは公園の一番奥にある、赤い鳥居のまえで一礼すると、石段をあがっていった。
そのあとに、おれもつづく。
この参道を歩くのは何年ぶりだろう。おさない頃の思い出より、ひとつひとつの石段はずいぶんと低く、小さく見えた。
山に帰ってきたカラスが、頭の上で鳴いている。
石段をあがりきると、ほの暗い杉林のなかに、こじんまりと佇む、お社があらわれた。
わずかにさしこんだ一筋の夕日をうけて、お社にさげられた古びた鈴が、きらりと光っている。
サトミは慣れた手つきで、手水舎で手と口を清めると、お社のまえに立ち一礼した。
鈴を鳴らし、二回、頭を下げてから、二回、手をたたいておがむ。
流れるようなサトミの所作に、おれはただ、立ちつくして見とれるばかりだった。
サトミはふたたび頭を下げると、一歩下がってからふりむいた。
「またせちゃって、ごめんね」
「いいよ。なにをお願いしていたの?」
サトミはふたたび、お社に目をやってこたえた。
「きょうもお守りくださいましてありがとうございます。できることならば、明日の朝もまた、こちらでお参りできますように……。毎日、朝と夕方、ここを通るときに御礼しているの。さあ、行きましょう」
そしておもむろに、お社の奥へ歩いていく。
「行きましょうって……どこへ? そっちには何もないよ」
とまどうおれに向かって、サトミが笑いながらこたえた。
「あるよ。このさきだもの、わたしの家」
見ればたしかに、お社の裏手に石段がつづいている。
おさない頃から何度もここで肝試しやかくれんぼをしたけれど、こんな道はいままで見たことがなかった。
「こんな石段、いつできたんだろう?」
「ずっとまえからあるよ。気がつかなかっただけでしょう」
サトミはあたりまえのようにそう言うと、石段を上がっていった。
こんな山のなかに、サトミの家?
とても信じられなかったけど、すたすたとさきを歩くサトミを見失わないように、急いであとを追った。
*
足もとがすいぶん暗い。
見上げると、黒い杉林の隙間から見える空は、もう深い藍色に染められていた。
じんめりとしめった空気が、ほおをなでる。
どこからか、くぐもったカラスの鳴き声が聞こえてくる。
もうずいぶん不気味な雰囲気なのに、怖がりと言っていたはずのサトミは、まったく平気な様子で石段を上がりつづけていた。
しばらくすると、ようやく視界がひらける場所に出た。
石段もここで終わっている。もう、山の頂上なのだろう。
まわりをぐるりと背の高い杉の木でおおわれた、まるで、人目をさけているような、不思議な場所。
目のまえに、つる草の絡みついた、さびた鉄柵の門がある。
門の両側には、赤茶色の煉瓦づくりの門柱が立ち、おなじく煉瓦でつくられた壁が、杉林のなかへとつづいていた。
サトミが門に近づく。
すると鉄製の扉が、かん高いうなり声をあげながら、左右に開いた。
「うそっ! いま、勝手に扉が開いたよ!」
「家族が近づくと、自動で開くようになっているの」
ふり返りもせずに、サトミが言った。
「えっ。てことは……、ここが竹内さんの家?」
「おじいさまが許さなかったから、お友だちを招待するのは、きょうがはじめて。さあ、どうぞ」
サトミが門をくぐる。
古めかしい外観のわりに、なんてハイテクな技術が使われているのだろう……。
おれは感心しながらも、急いでサトミの背中を追った。
門柱に、ぽうっと、だいだい色の灯りがともる。
サトミの歩みにあわせて、そこかしこに散らばる灯籠にも、ぽうぽうと灯りがともっていく。
足もとにのびる石畳。
低木にかこまれた花壇と、芝生の庭。
枯れた噴水と、苔のはえた彫像――。
大きなお屋敷に住んでいるといううわさは、本当だったのだ。
きょろきょろとあたりをながめながら歩いていると、いきなりサトミの背中が目のまえにあって、おれはつんのめりそうになりながら立ちどまった。
見上げると、まるでとつぜん、そこにあらわれたかのような大きな館が、ぼんやりと暗闇に浮かび上がっていた。
ざわざわとざわめく黒い杉林にかこまれて佇む、明治時代の洋館のようなサトミの家。
ふいに背中に視線を感じて、ふり返る。
杉林のあいだから、紅く輝く大きな月が、おれたちをのぞいていた。
きょうは満月なのだ。
「これはたしかに……」
ひとりで夜をすごすには、不気味すぎる家だった。
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