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プロローグ 不思議な空間(1)
しおりを挟む「ほら見て、あそこ。ね!」
そう言ってサトミは、懐中電灯を夜空にむけた。
「ほんとだ……」
懐中電灯の光が、何もないはずの夜空に反射して、満月のように丸く浮かんでいる。
屋根裏部屋の古びた木製の窓枠越しに見るその景色は、壁にかけられた一枚の美しい絵画でも見ているようだ。
「あの竹林の上だけ、光が反射するの」
さらにサトミは窓から手をのばし、懐中電灯をゆっくりと右へ移動させた。夜霧が立ちこめる暗い竹林の上空を、丸い光が走っていく。
「霧に反射しているんじゃないの?」
「霧のせいなんかじゃないよ。だってほら、右のほうに背の高い あすなろの木 が一本だけとび出しているでしょ。あそこまでいくと……」
夜空に浮かんでいた丸い光が、こつぜんと姿を消した。
おれはサトミから懐中電灯を取りあげて、竹林からひょっこり頭をとび出している、あすなろの木のあたりを何度も往復するように照らしてみた。何度やっても、光はあすなろの木を過ぎたあたりで急に反射しなくなり、その満月のような丸い姿を消してしまう。
目を疑うような光景に、思わずおれは窓枠に体をのりだした。
「あぶない! ここ三階だよ!」
「わかってる。いちおう、腰のあたりを支えてて」
手に持った懐中電灯を今度はゆっくりと左へ移動させる。やはり光は、あるところまでいくと、とつぜん反射しなくなった。
「なにか浮かんでいるのよ、あそこに」
サトミがおれの体を、家のなかに引っぱり入れながら言った。
「浮かんでいるって……。竹林のむこうに、ちゃんと月が見えるよ」
光を反射する不思議な空間のむこうでは、ときおり本物の満月が雲の隙間から顔をのぞかせ、竹林を青くやさしい光で照らしていた。
「だからガラスみたいに透明でさ、とっても大きな……、なにかよ」
「透明で巨大な、なにか……?」
ふり返ったおれに、サトミが目を輝かせてつづけた。
「ねっ! 不思議だったでしょう?」
「えっ………!」
はい、おしまい。
とつぜん、そう言われた気がして、おれは拍子抜けしてしまった。
自分の家の裏庭で起こる不思議な現象の正体など、いつも見慣れているサトミには、どうでもいいことなのかもしれない。
でもおれとしては、あんなものを見せられて、さきほどまでの眠気など、すっかり吹きとんでしまっている。あれが何なのか、気になってしかたがない。
もう一度目を凝らして、なにかあるはずの夜空を見やると、おれは屋根裏部屋をとび出して、暗闇に沈む階段をかけ下りた。
「ねえ! どこへ行くの?」
「確かめてみる! 竹は無理だけど、あのあすなろの木なら、なんとかのぼれるかも」
「やだ! ひとりにしないで!」
「だいじょうぶ! すぐ姿を見せるから、そこから照らしていて。キッチンの勝手口から、裏庭に出られるんでしょ?」
「そうだけど……」
暗闇に包まれた階段のおどり場をすばやくターンして、誰もいない一階へ下りる。ダイニングキッチンに飛びこんだおれは、そのままのいきおいで調理場にかけこみ、奥にある勝手口の細いドアをあけた。
しまった、靴がない!
玄関まで取りに行ってもいいけど、夜中の屋敷にひとりぼっちにされて、サトミはとても怖がっている。はやく姿を見せてあげないと……。
おれは裸足のまま、外にとび出した。
しめった風が、ほおをなでる。
夜つゆにぬれた芝生が、ちくちくと足の裏をくすぐる。
裏庭は、そのまま竹林へつづいていた。
目のまえに広がる竹林は、三階の屋根裏部屋から見ていたときとはまるでちがう。夜の闇がせまってくるような迫力で、ちっぽけな体で見上げるおれを、黒々とした大きな体でおおいかぶさるように見下ろしていた。
「ケンヂくん!」
屋根裏部屋の窓から、サトミが呼びかけてきた。
ふり返ったおれの目に、光が飛びこむ。
「サトミ、あすなろの木を照らして! ここからじゃ、どこにあるかわからないんだ」
おれを照らしていた懐中電灯の光が、ついっとそれて、芝生の上を走りながら、じょじょに竹林へ近づいていく。
「こっちの方向だよ! 竹林に入って、十メートルくらい奥へ行ったところかな」
「サンキュ! そのままずっと、あすなろの木を照らしていて」
懐中電灯の光をたよりに、竹林へむかう。
軽く返事をしたものの、おれの足取りは重たかった。
やっぱり、この暗い竹林のなかを通らないと、あすなろの木までたどり着けないのか……。
竹林の入り口にさしかかったとき、とつぜん強い風が吹いた。ざわざわと音をたてて、竹林がその大きな黒い体をゆさぶる。
まるで侵入してくるおれを、威嚇しているみたいだ……。
そう思ったとたん、次の一歩をふみだそうとしていた足が、地面にくっついて離れなくなった。
「ケンヂくん、どうしたの!」
頭の上から聞こえたサトミの声に背中を押され、ようやくおれは竹林《たけばやし》に飛びこんだ。
「あぶない、あぶない。びびってるの、サトミにバレちゃうところだった……」
竹の葉のかさなりを縫うようにしてさしこむ、わずかな月明かりだけをたよりに、暗闇につつまれた竹林のなかを、一歩一歩、足もとを確かめるようにして歩く。
しきつめられたワラと、しっとりとぬれる土が、足の指のあいだにくいこんだ。
「ふうん。この竹林、タケノコ畑として、しっかり手入れされてるんだ。こんなにふかふかした地面なら、裸足でも平気……、痛てっ!」
「ケンヂくん、だいじょうぶ? どうかしたの!」
「だいじょうぶ! 平気平気!」
安心させるよう、大きな声で返事をした。
「タケノコでもふんだのかな? いまごろ顔を出すなんて寝ぼけたやつめ。あとで引っこ抜いて食べてやる。ええと、あすなろの木はと……」
見上げると、さらさらとゆれる竹の葉のあいだから、懐中電灯の光に照らされたあすなろの木が見えた。
「あれか……」
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