1 / 29
【序章】
ふたりの天才
しおりを挟む
吸い込まれそうな夜の闇に体を溶かしながら、まるで走馬灯のように鮮明によみがえる入学当時の記憶のなかに、高城はようやく『答え』を見つけた。
神楽坂先生の温もりを背中に感じながら、懺悔する。
先生、ごめんなさい。
もしも、あのときに戻れるのなら、今度こそ本気で笑いの勉強をします。
大好きな先生を、笑顔にするために――。
【序章】 ふたりの天才
「……でありますから、それはほんとうに世界を平和に導くのです。あなたがたの笑顔が友人の笑顔を引き出し、さらにその笑顔がどこかの誰かの笑顔を引き出してというふうに、どこまでも無限に広がっていくのですから。
まずはみなさんが笑顔でいることが一番です。そしてあなたの隣人が笑顔であるよう心がけてください。そうすれば、いじめなどという悲しい問題とは縁のない、輝かしく充実した学校生活を誰もが送ることができるでしょう。それではみなさんの、今日からの活躍に期待します」
2013年 4月1日――。
県内の中学校のなかでも一番早くとり行われる山の瀬中学校の入学式は、天気に恵まれ、七分咲きの桜をすかしてみる空は、どこまでも青く澄み渡っていた。
鳴り響く拍手の音が、春の日差しが降り注ぐ校庭にまで届く。
桜の梢でさえずっていた小鳥たちが一斉に飛び立つと同時に、会場の体育館からも、体に合わない大きな制服に身を包んだ新入生たちが、次々と姿をあらわした。
まぶしい陽の光に目を細めながら、担任の教師に引率されて、校舎へと続く渡り廊下を元気よく歩く生徒たち。
新しい学校での生活に少なからず不安もあるのか、みな一様にはしゃいでいるように見えるその笑顔にも、どこか硬さが感じられる。
それは列の先頭を歩く、一年二組の担任教師、神楽坂春菜も同じだった。
背筋をぴんと伸ばし、胸を張って歩くその姿は、一見、自信に満ちた、落ち着きのある女性教師のたたずまいではあったが、その張り付いたような不自然な笑顔を見れば、誰の目にも緊張しているのは明らかだ。
渡り廊下から第一校舎へ入り、連絡通路を通ってとなりの第二校舎へ移動する。
階段を上がって最上階の三階まで行けば、神楽坂先生が担当する一年二組の教室がある。
なぜか左右の手足を同時に動かし、何度も蹴つまずきそうになりながら階段を上る先生の姿は、あとに続く生徒たちの笑いを誘った。
笑いで少しでも生徒たちの緊張をほぐせれば……。
などと、神楽坂先生が考えていたわけではない。
神楽坂先生は、何日も前から頭のなかでシミュレートしてきた通りの、理想の女性教師を演じるので、精一杯だったのだから。
「ここが、これから一年間、先生とみなさんが一緒に過ごす教室です」
一年二組の教室の前で、ぴたりと足をそろえて立ち止まり、バレリーナのようにくるりときれいな弧を描いて振り返った神楽坂先生は、目の前に広がる光景に愕然とした。
整然と並んでいたはずの列は見る影もなく乱れ、みな思い思いに歩き回っている。廊下にぺたりと座り込んでおしゃべりをする生徒や、追いかけっこを始める生徒までいた。
まさか自分の行動が、生徒たちの緊張を必要以上にほぐしていたとは知らない先生は、今日まで何度も頭のなかで思い描いていた光景と、まるで違う現実にとまどった。
「ええと……、みんな教室に入って、出席番号順に席に着いてください。さっき列に並んでいた通りの順番です。ねえ、みんな、早く……」
なんとか生徒たちを教室のなかに誘導したものの、すっかり動転している神楽坂先生のか細い声の呼びかけは、興奮ぎみの生徒たちの耳にはまったく届かない。
収拾のつかない事態に、早くも神楽坂先生の頭が混乱する。
先生は早鐘を打つ心臓を手のひらで押さえつけ、とにかく精一杯に声を張り上げた。
「あの、みなさん! おねがいですから、席に着いてくださいっ!」
動転しているせいか、張り上げた声が裏返ってしまった。
するといきなり、男子生徒の一人が、指をさして突拍子もない叫び声を上げた。
「ひやぁあああっ! あんなところに!」
クラスじゅうの誰もが、いっせいに男子生徒に注目する。
「あんなところに、町田敦子がおる!」
そう叫んだ男子生徒の指先は、あろうことか神楽坂先生に向けられていた。
とつぜんみんなから注目された先生は、目をぱちぱちと瞬かせながら、いまだ治まらない胸の鼓動を手で押さえつけていた。
「なあんだ、よく見たらモモタローだった」
わけがわからず息を呑む神楽坂先生。クラスじゅうが先生に注目している。
しばし沈黙のあと、叫び声を上げた男子生徒が肩をすくめ、ため息まじりにこう言った。
「せんせぇ、そこはノリツッコミしてくれないと。この空気どうしてくれるんですか?」
「どうするって……。先生、なにが起きているのか……」
「そこは、フライングキャット! でしょうがっ!」
ポーズを付けて決め#台詞を叫ぶ男子生徒。とたんにクラスは爆笑の渦に巻き込まれた。
そうか――。神楽坂先生は、ぽんっと手を叩いた。
(胸を押さえ、声を裏返して叫んだ姿が、流行のアイドル町田敦子のモノマネをしている、お笑い芸人『モモタロー』さんのネタにそっくりだったんだ……)
「って、だれがモモタローよっ!」
思わず怒鳴り声を上げてしまった神楽坂先生は、顔を真っ赤にして、あわてて両手で口をふさいだ。
愛嬌のある顔の芸人に間違われて怒った姿が、頭のなかに思い描く理想の教師像とはかけ離れた、大人げない態度だったと恥じたのだ。
しかしクラスじゅうの誰もが、そんな先生の姿を見て笑っている。
「と、とにかく、みんな席に着いて。ホームルームを始めますよ」
失態を取り繕うように、生徒に声をかける神楽坂先生。
すると生徒たちはさっきとは打って変わって、「はあい」と大きく返事をすると、そそくさと自分の席に着き始めた。
(すごい。さっきまでわたしの言うことなんて、まるで聞く耳を持たなかったのに……)
神楽坂先生は呆気にとられつつも、自分のことを指さした男子生徒を目で追っていた。
見るかぎり、髪型も雰囲気もいたって普通の、どこにでもいそうな男子生徒。
しかし先生の視線に気付いた男子生徒は、とたんにさわやかな笑みを浮かべてウインクを飛ばした。そのときの表情は、自信たっぷりのアイドルのようにも見える。
神楽坂先生は、手もとの出席簿で名前を確認した。
高城亮介。――笑いで一瞬にしてクラスをまとめた生徒。
それが高城を始めて見た、神楽坂先生の感想だった。
*
神楽坂先生が生徒たちに背中を向けて、黒板にきれいな字で名前を書いている。
そのあいだに高城亮介は、机の中に隠し持ったノートの切れ端を何度も盗み見ていた。
やがて先生が踵を返して、張り付いたような笑顔をみんなに向けた。
「みなさん、入学おめでとうございます。今日からここがみなさんの教室で、みなさんのまわりにいるお友だちが、これから一年間を一緒に過ごすクラスメイトです。ですから、いまからみなさんに自己紹介をしてもらおうと思います」
「よっ、待ってました!」
ノートの切れ端をくしゃりと丸めながら、高城が豪快な掛け声をかける。
神楽坂先生は、ビクリと肩をすくめて驚いたが、やがて気を取り直すように咳払いをすると、昨夜から何度も頭のなかで復唱してきたであろう、かた苦しい挨拶を続けた。
「ではまず、わたしから……。先生の名前は神楽坂春菜です。まだ新米教師で、クラスを受け持つのは今回が始めてです。いたらない点もあるかもしれませんが、みなさんと一緒に勉強するつもりでがんばりますので、どうぞよろしくお願いします。
今日は先生にとっても記念の日です。ずっと夢見てきたクラスを受け持つ先生になれたからです。わたしがなぜ先生になろうとしたのか、ちょっとだけお話したいと思います。
じつは、わたしはみなさんと同じ中学生になったばかりの頃……」
先生の挨拶が続くなか、高城は後ろの席に座っている男子生徒から背中をつつかれた。
「おい亮介、台本(ほん)は頭に入ったか?」
「もちろん。徹こそ、準備はいいか?」
「オーライ」
塚田徹は幼稚園からの幼なじみで、小学校ではよく二人でお笑いのネタを披露し、みんなを笑わせていた。高城とは漫才コンビのような関係だ。
太めの巨体に坊主頭、鋭く尖った切れ長の目をした塚田は、近寄りがたい恐ろしい雰囲気を漂わせていたが、笑うととても人懐っこい穏やかな表情になるので、小学生のときのあだ名は『大仏』だった。
今日の朝、昇降口に張り出されたクラス分け発表で同じクラスになったことを知ったふたりは、急遽それぞれが考えていた自己紹介ネタを練り直し、二人でラップ調のリズムに合わせた掛合い漫才のスタイルで自己紹介するというネタを考え、破り裂いたノートの切れ端に台本を書き上げた。
『オリエンタルテレビ』さんと『2800』さんのネタを、足して二で割った感じかな? というのは、主にネタ作りを担当している塚田の言葉。
自己紹介は彼らにとって、抜群に注目されるネタ発表会なのだ。
しかし、いつまでたっても先生の話が終わらない。
(このままじゃ俺たちの自己紹介、つまりネタの時間がどんどん短くなってしまう!)
焦った高城は、直前に先生の話が終わったことにも気付かず、たまらず席を立って声を張り上げた。
「せんせぇ、話が長過ぎます! 持ち時間を守ってくれないと、あとに控えてるもんのネタが駄目になってしまいます。今日じゃないとあかんネタなんです! 賞味期限が迫ってるんですよ!」
「ネタの賞味期限?」先生は首を傾げながらつぶやいた。
「えっ、まさかお寿司? 高城くん、だめよ。いくらおめでたい日だからって、学校でお寿司を握ることは許しません」
「そうそう、さばきたての新鮮なネタをちょんと酢飯にのせて……って、誰が寿司なんて握るかい! ほんで町田敦子みたいな顔で怒られても、ぜんぜん恐ないわ!」
「高城くん」
神楽坂先生が真剣な表情で高城を見つめる。
(さすがにいまの態度はやりすぎたか……)反省した高城が肩をすぼめたとたん、
「先生、じつはよく知らないのよ、その町田アッコさんのこと」
高城は思わずこけそうになってしまった。
「なに小田アッコさんみたいに言うとんねん。敦子や、アツコ」
「あれ、高城くんって、もしかして関西出身なの?」
先生との会話は予想外の方向へと進展していく。
まるで先の読めない先生との会話に、高城は翻弄されるばかりだった。
「ちゃいますけど、ツッコミ、ボケいうたら、やっぱり本場の大阪弁っていうか」
「大阪の人がボケてるって、それ、ちょっと失礼じゃない?」
「いや、ボケと言っても、別に悪口ではなくて……」
(このひとにお笑いを説明するのは難しそうだ)
高城は早めに会話を切り上げようと、適当に話を合わせて、ごまかすことにした。
「まあ、リクペストです」
「りくぺすと? ……ああ、リスペクト!」
神楽坂先生の瞳がきらりと光る。
会話が自分の分野におよんだのが嬉しかったのか、先生は、水を得た魚のようにいきいきとネイティブな発音で言い直した。
「リスペェッ! 尊敬する、敬意を表す、という意味ですね。高城くん、先生の発音を真似して、リピート・アフタ・ミー。……リスペェッ!」
神楽坂先生の担当教科は、英語なのだ。
「り、りすぺぇ……くと?」
先生の迫力に気圧され、言われるがままに言い直す高城。
「グゥウッ!」先生は、満面の笑みで親指をつきだした。
「さあ、みんなも一緒に、リピート・アフタ・ミー。……リスペェッ!」
「リスペェッ!」
いつのまにか教室は、自己紹介から英語の授業に変わっていた。
「亮介、俺たちのネタが……」
どんよりと沈んだ表情で、高城の袖を引っぱる塚田。
「ああ。完全に腐っちまったな」
生徒のあいだを楽しそうに歩きがなら、英語の発音を繰り返す神楽坂先生。
しかし、その姿を見つめる高城の瞳に無念の色はなく、むしろ探し求めていたダイヤの原石を、やっと掘り当てたときのように、きらきらと輝いていた。
神楽坂春菜先生。――これは、どえらい天然キャラの出現だぞ。
それが神楽坂先生を始めて見た、高城の感想だった。
神楽坂先生の温もりを背中に感じながら、懺悔する。
先生、ごめんなさい。
もしも、あのときに戻れるのなら、今度こそ本気で笑いの勉強をします。
大好きな先生を、笑顔にするために――。
【序章】 ふたりの天才
「……でありますから、それはほんとうに世界を平和に導くのです。あなたがたの笑顔が友人の笑顔を引き出し、さらにその笑顔がどこかの誰かの笑顔を引き出してというふうに、どこまでも無限に広がっていくのですから。
まずはみなさんが笑顔でいることが一番です。そしてあなたの隣人が笑顔であるよう心がけてください。そうすれば、いじめなどという悲しい問題とは縁のない、輝かしく充実した学校生活を誰もが送ることができるでしょう。それではみなさんの、今日からの活躍に期待します」
2013年 4月1日――。
県内の中学校のなかでも一番早くとり行われる山の瀬中学校の入学式は、天気に恵まれ、七分咲きの桜をすかしてみる空は、どこまでも青く澄み渡っていた。
鳴り響く拍手の音が、春の日差しが降り注ぐ校庭にまで届く。
桜の梢でさえずっていた小鳥たちが一斉に飛び立つと同時に、会場の体育館からも、体に合わない大きな制服に身を包んだ新入生たちが、次々と姿をあらわした。
まぶしい陽の光に目を細めながら、担任の教師に引率されて、校舎へと続く渡り廊下を元気よく歩く生徒たち。
新しい学校での生活に少なからず不安もあるのか、みな一様にはしゃいでいるように見えるその笑顔にも、どこか硬さが感じられる。
それは列の先頭を歩く、一年二組の担任教師、神楽坂春菜も同じだった。
背筋をぴんと伸ばし、胸を張って歩くその姿は、一見、自信に満ちた、落ち着きのある女性教師のたたずまいではあったが、その張り付いたような不自然な笑顔を見れば、誰の目にも緊張しているのは明らかだ。
渡り廊下から第一校舎へ入り、連絡通路を通ってとなりの第二校舎へ移動する。
階段を上がって最上階の三階まで行けば、神楽坂先生が担当する一年二組の教室がある。
なぜか左右の手足を同時に動かし、何度も蹴つまずきそうになりながら階段を上る先生の姿は、あとに続く生徒たちの笑いを誘った。
笑いで少しでも生徒たちの緊張をほぐせれば……。
などと、神楽坂先生が考えていたわけではない。
神楽坂先生は、何日も前から頭のなかでシミュレートしてきた通りの、理想の女性教師を演じるので、精一杯だったのだから。
「ここが、これから一年間、先生とみなさんが一緒に過ごす教室です」
一年二組の教室の前で、ぴたりと足をそろえて立ち止まり、バレリーナのようにくるりときれいな弧を描いて振り返った神楽坂先生は、目の前に広がる光景に愕然とした。
整然と並んでいたはずの列は見る影もなく乱れ、みな思い思いに歩き回っている。廊下にぺたりと座り込んでおしゃべりをする生徒や、追いかけっこを始める生徒までいた。
まさか自分の行動が、生徒たちの緊張を必要以上にほぐしていたとは知らない先生は、今日まで何度も頭のなかで思い描いていた光景と、まるで違う現実にとまどった。
「ええと……、みんな教室に入って、出席番号順に席に着いてください。さっき列に並んでいた通りの順番です。ねえ、みんな、早く……」
なんとか生徒たちを教室のなかに誘導したものの、すっかり動転している神楽坂先生のか細い声の呼びかけは、興奮ぎみの生徒たちの耳にはまったく届かない。
収拾のつかない事態に、早くも神楽坂先生の頭が混乱する。
先生は早鐘を打つ心臓を手のひらで押さえつけ、とにかく精一杯に声を張り上げた。
「あの、みなさん! おねがいですから、席に着いてくださいっ!」
動転しているせいか、張り上げた声が裏返ってしまった。
するといきなり、男子生徒の一人が、指をさして突拍子もない叫び声を上げた。
「ひやぁあああっ! あんなところに!」
クラスじゅうの誰もが、いっせいに男子生徒に注目する。
「あんなところに、町田敦子がおる!」
そう叫んだ男子生徒の指先は、あろうことか神楽坂先生に向けられていた。
とつぜんみんなから注目された先生は、目をぱちぱちと瞬かせながら、いまだ治まらない胸の鼓動を手で押さえつけていた。
「なあんだ、よく見たらモモタローだった」
わけがわからず息を呑む神楽坂先生。クラスじゅうが先生に注目している。
しばし沈黙のあと、叫び声を上げた男子生徒が肩をすくめ、ため息まじりにこう言った。
「せんせぇ、そこはノリツッコミしてくれないと。この空気どうしてくれるんですか?」
「どうするって……。先生、なにが起きているのか……」
「そこは、フライングキャット! でしょうがっ!」
ポーズを付けて決め#台詞を叫ぶ男子生徒。とたんにクラスは爆笑の渦に巻き込まれた。
そうか――。神楽坂先生は、ぽんっと手を叩いた。
(胸を押さえ、声を裏返して叫んだ姿が、流行のアイドル町田敦子のモノマネをしている、お笑い芸人『モモタロー』さんのネタにそっくりだったんだ……)
「って、だれがモモタローよっ!」
思わず怒鳴り声を上げてしまった神楽坂先生は、顔を真っ赤にして、あわてて両手で口をふさいだ。
愛嬌のある顔の芸人に間違われて怒った姿が、頭のなかに思い描く理想の教師像とはかけ離れた、大人げない態度だったと恥じたのだ。
しかしクラスじゅうの誰もが、そんな先生の姿を見て笑っている。
「と、とにかく、みんな席に着いて。ホームルームを始めますよ」
失態を取り繕うように、生徒に声をかける神楽坂先生。
すると生徒たちはさっきとは打って変わって、「はあい」と大きく返事をすると、そそくさと自分の席に着き始めた。
(すごい。さっきまでわたしの言うことなんて、まるで聞く耳を持たなかったのに……)
神楽坂先生は呆気にとられつつも、自分のことを指さした男子生徒を目で追っていた。
見るかぎり、髪型も雰囲気もいたって普通の、どこにでもいそうな男子生徒。
しかし先生の視線に気付いた男子生徒は、とたんにさわやかな笑みを浮かべてウインクを飛ばした。そのときの表情は、自信たっぷりのアイドルのようにも見える。
神楽坂先生は、手もとの出席簿で名前を確認した。
高城亮介。――笑いで一瞬にしてクラスをまとめた生徒。
それが高城を始めて見た、神楽坂先生の感想だった。
*
神楽坂先生が生徒たちに背中を向けて、黒板にきれいな字で名前を書いている。
そのあいだに高城亮介は、机の中に隠し持ったノートの切れ端を何度も盗み見ていた。
やがて先生が踵を返して、張り付いたような笑顔をみんなに向けた。
「みなさん、入学おめでとうございます。今日からここがみなさんの教室で、みなさんのまわりにいるお友だちが、これから一年間を一緒に過ごすクラスメイトです。ですから、いまからみなさんに自己紹介をしてもらおうと思います」
「よっ、待ってました!」
ノートの切れ端をくしゃりと丸めながら、高城が豪快な掛け声をかける。
神楽坂先生は、ビクリと肩をすくめて驚いたが、やがて気を取り直すように咳払いをすると、昨夜から何度も頭のなかで復唱してきたであろう、かた苦しい挨拶を続けた。
「ではまず、わたしから……。先生の名前は神楽坂春菜です。まだ新米教師で、クラスを受け持つのは今回が始めてです。いたらない点もあるかもしれませんが、みなさんと一緒に勉強するつもりでがんばりますので、どうぞよろしくお願いします。
今日は先生にとっても記念の日です。ずっと夢見てきたクラスを受け持つ先生になれたからです。わたしがなぜ先生になろうとしたのか、ちょっとだけお話したいと思います。
じつは、わたしはみなさんと同じ中学生になったばかりの頃……」
先生の挨拶が続くなか、高城は後ろの席に座っている男子生徒から背中をつつかれた。
「おい亮介、台本(ほん)は頭に入ったか?」
「もちろん。徹こそ、準備はいいか?」
「オーライ」
塚田徹は幼稚園からの幼なじみで、小学校ではよく二人でお笑いのネタを披露し、みんなを笑わせていた。高城とは漫才コンビのような関係だ。
太めの巨体に坊主頭、鋭く尖った切れ長の目をした塚田は、近寄りがたい恐ろしい雰囲気を漂わせていたが、笑うととても人懐っこい穏やかな表情になるので、小学生のときのあだ名は『大仏』だった。
今日の朝、昇降口に張り出されたクラス分け発表で同じクラスになったことを知ったふたりは、急遽それぞれが考えていた自己紹介ネタを練り直し、二人でラップ調のリズムに合わせた掛合い漫才のスタイルで自己紹介するというネタを考え、破り裂いたノートの切れ端に台本を書き上げた。
『オリエンタルテレビ』さんと『2800』さんのネタを、足して二で割った感じかな? というのは、主にネタ作りを担当している塚田の言葉。
自己紹介は彼らにとって、抜群に注目されるネタ発表会なのだ。
しかし、いつまでたっても先生の話が終わらない。
(このままじゃ俺たちの自己紹介、つまりネタの時間がどんどん短くなってしまう!)
焦った高城は、直前に先生の話が終わったことにも気付かず、たまらず席を立って声を張り上げた。
「せんせぇ、話が長過ぎます! 持ち時間を守ってくれないと、あとに控えてるもんのネタが駄目になってしまいます。今日じゃないとあかんネタなんです! 賞味期限が迫ってるんですよ!」
「ネタの賞味期限?」先生は首を傾げながらつぶやいた。
「えっ、まさかお寿司? 高城くん、だめよ。いくらおめでたい日だからって、学校でお寿司を握ることは許しません」
「そうそう、さばきたての新鮮なネタをちょんと酢飯にのせて……って、誰が寿司なんて握るかい! ほんで町田敦子みたいな顔で怒られても、ぜんぜん恐ないわ!」
「高城くん」
神楽坂先生が真剣な表情で高城を見つめる。
(さすがにいまの態度はやりすぎたか……)反省した高城が肩をすぼめたとたん、
「先生、じつはよく知らないのよ、その町田アッコさんのこと」
高城は思わずこけそうになってしまった。
「なに小田アッコさんみたいに言うとんねん。敦子や、アツコ」
「あれ、高城くんって、もしかして関西出身なの?」
先生との会話は予想外の方向へと進展していく。
まるで先の読めない先生との会話に、高城は翻弄されるばかりだった。
「ちゃいますけど、ツッコミ、ボケいうたら、やっぱり本場の大阪弁っていうか」
「大阪の人がボケてるって、それ、ちょっと失礼じゃない?」
「いや、ボケと言っても、別に悪口ではなくて……」
(このひとにお笑いを説明するのは難しそうだ)
高城は早めに会話を切り上げようと、適当に話を合わせて、ごまかすことにした。
「まあ、リクペストです」
「りくぺすと? ……ああ、リスペクト!」
神楽坂先生の瞳がきらりと光る。
会話が自分の分野におよんだのが嬉しかったのか、先生は、水を得た魚のようにいきいきとネイティブな発音で言い直した。
「リスペェッ! 尊敬する、敬意を表す、という意味ですね。高城くん、先生の発音を真似して、リピート・アフタ・ミー。……リスペェッ!」
神楽坂先生の担当教科は、英語なのだ。
「り、りすぺぇ……くと?」
先生の迫力に気圧され、言われるがままに言い直す高城。
「グゥウッ!」先生は、満面の笑みで親指をつきだした。
「さあ、みんなも一緒に、リピート・アフタ・ミー。……リスペェッ!」
「リスペェッ!」
いつのまにか教室は、自己紹介から英語の授業に変わっていた。
「亮介、俺たちのネタが……」
どんよりと沈んだ表情で、高城の袖を引っぱる塚田。
「ああ。完全に腐っちまったな」
生徒のあいだを楽しそうに歩きがなら、英語の発音を繰り返す神楽坂先生。
しかし、その姿を見つめる高城の瞳に無念の色はなく、むしろ探し求めていたダイヤの原石を、やっと掘り当てたときのように、きらきらと輝いていた。
神楽坂春菜先生。――これは、どえらい天然キャラの出現だぞ。
それが神楽坂先生を始めて見た、高城の感想だった。
応援ありがとうございます!
1
お気に入りに追加
2
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる