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第1章 ドラゴンバスター
翼竜の最後の別れ(for three days)
しおりを挟む 洗面所で髭を剃る慧一を、峰子がじっと見ている。
とても珍しそうに。
「髭って本当に、植物みたいに伸びるんですね」
素朴な感想を漏らし、うふっと笑う。
慧一は顔を洗うと、さっぱりした顎を撫でた。そして、いつか峰子が彼に言った「髭が伸びない気がする」との言葉を思い出す。
「毎日毎日伸びるんだ。オ・ト・コだからな」
窓を開け放つと、高原の風が流れてくる。
樹木が生合成する、生き物を目覚めさせる空気が二人を包んだ。
朝の気温は低めで肌がひんやりとするが、天気は上々。今日は一日、よく晴れそうである。
「海もいいけど、山の中ってのも気持ちが安らぐよなあ」
「この辺りは、気候がイギリスに似てるんですよね」
「ああ、客室係の兄ちゃんが言ってたっけ。向こうもこんな感じなのかな」
慧一は手すりにもたれ、イギリスの風景を想像した。 現地について、彼も詳しくは知らない。
「工場の周りは森に囲まれた田舎だってのは、聞いたことがある。野うさぎが跳ねてるとか」
「野うさぎ?」
峰子が慧一に寄り添い、嬉しそうに微笑む。
「まあ、田舎は田舎だけど、住めば都でさ、面白いぜきっと」
住めば都――
峰子は慧一の言葉を胸で繰り返す。
どうということもない口調に、未知の土地に対する不安など、すっかり消されてしまう。本当に『面白い』予感がしてくるのだ。
「それより腹が減ったな。朝飯に行こうぜ」
「ええ」
慧一の広い背中を見上げ、峰子はドキドキした。
やはりこの人は男性なのだと、強烈に感じる。女性のように優しい顔立ちの下には、こんなにも逞しい男性が存在したのだ。
峰子は今さらながら、激しくときめくのだった。
チェックアウトを済ませたあと、二人はロビーの喫茶コーナーに寄った。コーヒーを飲みながら、今日の予定を打ち合わせる。
「さて、どこに行こうかな」
「そうですね……」
観光案内のパンフレットを広げたところで、峰子のスマートフォンが鳴った。 発信者を確かめた峰子は、ぱっと明るい表情になり、すぐに応答する。
「もしもし、智樹君?」
慧一はパンフレットを膝に置き、峰子をそれとなく窺う。
智樹――聞いたことのない名前だ。
「……そうそう、旅行中なの。何だ、それで電話したの? うふふ……」
ずいぶんと優しい口調だ。
それに、どこか浮き立っているようにも見える。
「うん、分かった。今夜帰るから、一緒に食べようね、じゃあね」
峰子は通話を切り、スマートフォンをバッグに仕舞った。
「智樹君って?」
慧一は真面目くさった顔で、電話の相手を確かめた。峰子はにこりと笑い、
「ああ、今のは弟です」
「弟?」
「あの子ってば、パンを焼いたから味見してくれって、わざわざ電話してきたんですよ」
弟と聞いたとたん、慧一は表情をなごませる。
「弟さんは、智樹君っていうのか。そういえば一度も会ったことがないな」
「そうですね。いつもすれ違ってしまって」
「パンっていうのは手作りの?」
「はい。受験勉強の息抜きに小麦粉をこねたりすると、スッキリするそうです。男の子なのに、お菓子作りが好きなんですよ。私がいつも味見役なんです」
姉弟仲が良いようで、嬉しそうに話す。峰子は優しいお姉さんなんだろう。
慧一はクスッと笑った。
「何ですか?」
「いや、峰子みたいなお姉さんなら、俺もほしかったなあと思って」
峰子はきょとんとする。
自分よりずっと年上の男に言われても、ピンとこないのだろう。
(峰子は俺にとって、可愛い女の子だ。ゆうべはめちゃくちゃ甘えてきたし、わがままも言われた。だけど、家では弟に頼られる存在なんだ)
三原峰子という女性は、いろんな顔を持っている。例えば、他の男にはどんな風に接してきたのか、慧一はあらためて気になった。
さっき峰子が電話に出て、自分以外の男の名前を口にした時、慧一は妬いた。脊髄反射で嫉妬するとは、自分でも驚いてしまう。
(俺って、実は嫉妬深いのかな)
「どうしたんですか」
覗き込むようにする峰子から目を逸らすと、慧一は立ち上がった。
「別に。そろそろ行こうぜ」
何となく気まずくて、素っ気ない返事になった。
外は陽射しが強く、気温が高くなっている。
慧一はジャケットを脱いでポロシャツ一枚になった。
「うん、これでじゅうぶんだ」
隣を歩く峰子を、何気なく眺めた。
今日は髪をひっつめにして、綺麗なピンで飾っている。小花柄のワンピースが女の子らしくて可愛い。
昨日とイメージが違うが、口紅だけは淡い薔薇色だった。
「口紅、いつもの色だな」
思わず訊くと、峰子ははにかんだ。
「ええ……実は最近、別の色に変えてみたんですけど、あまり似合わない気がして。気付いてたんですか?」
「そりゃ、気付くよ。全然違うだろ」
意外そうな反応に、慧一はかえって戸惑う。
「そ、そうですよね。あの色は、ちょっと派手だったし……」
「君には薔薇色が似合うよ」
峰子ははっとした表情になる。
「ほんとですか?」
「うん。でも、会社では……」
「え?」
もっと淡い色でいい。
服も化粧も地味な峰子でいろ――と言いたかったが、やめた。
こんなのは、けちな男の独占欲だ。慧一は、自分の余裕のなさが情けなく、恥ずかしいと思った。
慧一は車に乗り込むと、カーナビを操作した。とりあえず山を下ることにする。
「お嬢さん、行き先のご希望は?」
エアコンの風を調節しながら、リクエストを訊く。
「……そうですね。あの、これをやってみたいです」
峰子がパンフレットを指差す。見ると、渓流釣りの案内が載っていた。
「釣り?」
「はい。一度もやったことがなくて、面白いかなあと思って」
「なるほど」
彼女のリクエストに応え、釣り場に向かうことにする。ホテルからさほど離れていない場所にあるようだ。
そういえば、釣りが趣味という女性は少ない。
慧一は男女の遊びの違いを考えた。
滝口家の場合も、父親が釣り好きで、息子二人を連れてよく出かけたものだ。 母親はまったく興味がなく、「魚が食いつくのをぼけーっと待って、何が楽しいの」と、首を傾げていた。
とても珍しそうに。
「髭って本当に、植物みたいに伸びるんですね」
素朴な感想を漏らし、うふっと笑う。
慧一は顔を洗うと、さっぱりした顎を撫でた。そして、いつか峰子が彼に言った「髭が伸びない気がする」との言葉を思い出す。
「毎日毎日伸びるんだ。オ・ト・コだからな」
窓を開け放つと、高原の風が流れてくる。
樹木が生合成する、生き物を目覚めさせる空気が二人を包んだ。
朝の気温は低めで肌がひんやりとするが、天気は上々。今日は一日、よく晴れそうである。
「海もいいけど、山の中ってのも気持ちが安らぐよなあ」
「この辺りは、気候がイギリスに似てるんですよね」
「ああ、客室係の兄ちゃんが言ってたっけ。向こうもこんな感じなのかな」
慧一は手すりにもたれ、イギリスの風景を想像した。 現地について、彼も詳しくは知らない。
「工場の周りは森に囲まれた田舎だってのは、聞いたことがある。野うさぎが跳ねてるとか」
「野うさぎ?」
峰子が慧一に寄り添い、嬉しそうに微笑む。
「まあ、田舎は田舎だけど、住めば都でさ、面白いぜきっと」
住めば都――
峰子は慧一の言葉を胸で繰り返す。
どうということもない口調に、未知の土地に対する不安など、すっかり消されてしまう。本当に『面白い』予感がしてくるのだ。
「それより腹が減ったな。朝飯に行こうぜ」
「ええ」
慧一の広い背中を見上げ、峰子はドキドキした。
やはりこの人は男性なのだと、強烈に感じる。女性のように優しい顔立ちの下には、こんなにも逞しい男性が存在したのだ。
峰子は今さらながら、激しくときめくのだった。
チェックアウトを済ませたあと、二人はロビーの喫茶コーナーに寄った。コーヒーを飲みながら、今日の予定を打ち合わせる。
「さて、どこに行こうかな」
「そうですね……」
観光案内のパンフレットを広げたところで、峰子のスマートフォンが鳴った。 発信者を確かめた峰子は、ぱっと明るい表情になり、すぐに応答する。
「もしもし、智樹君?」
慧一はパンフレットを膝に置き、峰子をそれとなく窺う。
智樹――聞いたことのない名前だ。
「……そうそう、旅行中なの。何だ、それで電話したの? うふふ……」
ずいぶんと優しい口調だ。
それに、どこか浮き立っているようにも見える。
「うん、分かった。今夜帰るから、一緒に食べようね、じゃあね」
峰子は通話を切り、スマートフォンをバッグに仕舞った。
「智樹君って?」
慧一は真面目くさった顔で、電話の相手を確かめた。峰子はにこりと笑い、
「ああ、今のは弟です」
「弟?」
「あの子ってば、パンを焼いたから味見してくれって、わざわざ電話してきたんですよ」
弟と聞いたとたん、慧一は表情をなごませる。
「弟さんは、智樹君っていうのか。そういえば一度も会ったことがないな」
「そうですね。いつもすれ違ってしまって」
「パンっていうのは手作りの?」
「はい。受験勉強の息抜きに小麦粉をこねたりすると、スッキリするそうです。男の子なのに、お菓子作りが好きなんですよ。私がいつも味見役なんです」
姉弟仲が良いようで、嬉しそうに話す。峰子は優しいお姉さんなんだろう。
慧一はクスッと笑った。
「何ですか?」
「いや、峰子みたいなお姉さんなら、俺もほしかったなあと思って」
峰子はきょとんとする。
自分よりずっと年上の男に言われても、ピンとこないのだろう。
(峰子は俺にとって、可愛い女の子だ。ゆうべはめちゃくちゃ甘えてきたし、わがままも言われた。だけど、家では弟に頼られる存在なんだ)
三原峰子という女性は、いろんな顔を持っている。例えば、他の男にはどんな風に接してきたのか、慧一はあらためて気になった。
さっき峰子が電話に出て、自分以外の男の名前を口にした時、慧一は妬いた。脊髄反射で嫉妬するとは、自分でも驚いてしまう。
(俺って、実は嫉妬深いのかな)
「どうしたんですか」
覗き込むようにする峰子から目を逸らすと、慧一は立ち上がった。
「別に。そろそろ行こうぜ」
何となく気まずくて、素っ気ない返事になった。
外は陽射しが強く、気温が高くなっている。
慧一はジャケットを脱いでポロシャツ一枚になった。
「うん、これでじゅうぶんだ」
隣を歩く峰子を、何気なく眺めた。
今日は髪をひっつめにして、綺麗なピンで飾っている。小花柄のワンピースが女の子らしくて可愛い。
昨日とイメージが違うが、口紅だけは淡い薔薇色だった。
「口紅、いつもの色だな」
思わず訊くと、峰子ははにかんだ。
「ええ……実は最近、別の色に変えてみたんですけど、あまり似合わない気がして。気付いてたんですか?」
「そりゃ、気付くよ。全然違うだろ」
意外そうな反応に、慧一はかえって戸惑う。
「そ、そうですよね。あの色は、ちょっと派手だったし……」
「君には薔薇色が似合うよ」
峰子ははっとした表情になる。
「ほんとですか?」
「うん。でも、会社では……」
「え?」
もっと淡い色でいい。
服も化粧も地味な峰子でいろ――と言いたかったが、やめた。
こんなのは、けちな男の独占欲だ。慧一は、自分の余裕のなさが情けなく、恥ずかしいと思った。
慧一は車に乗り込むと、カーナビを操作した。とりあえず山を下ることにする。
「お嬢さん、行き先のご希望は?」
エアコンの風を調節しながら、リクエストを訊く。
「……そうですね。あの、これをやってみたいです」
峰子がパンフレットを指差す。見ると、渓流釣りの案内が載っていた。
「釣り?」
「はい。一度もやったことがなくて、面白いかなあと思って」
「なるほど」
彼女のリクエストに応え、釣り場に向かうことにする。ホテルからさほど離れていない場所にあるようだ。
そういえば、釣りが趣味という女性は少ない。
慧一は男女の遊びの違いを考えた。
滝口家の場合も、父親が釣り好きで、息子二人を連れてよく出かけたものだ。 母親はまったく興味がなく、「魚が食いつくのをぼけーっと待って、何が楽しいの」と、首を傾げていた。
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