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それは甘い毒
Chapter2−3
しおりを挟むきっかけは、京介との交際を始めてからまだまもない頃のことであった。
それは、京介が初めて早苗の部屋に泊まりにきた日のことである。この日は、早苗にとって何もかもが特別な日になるはずであった。
いつもは、デートの帰りに早苗を送ったついでに部屋に立ち寄っても日付の変わる前には帰ってしまっていた京介が、寝巻き姿でソファに腰掛けているのを見て早苗は密かに心を踊らせていた。
夕食と入浴を済ませたが、寝るにはまだ早いということで早苗は京介が手土産に買ってきてくれたロールケーキでも食べながら、映画でも見ようかという話になった時だった。
京介の携帯がテーブルの上で震える。時間も時間だったのでメールかと思ったが、途切れることのないバイブレーションにそれは電話であると確信した。ほんの少しの好奇心で表示された発信者を盗み見ると、そこには『小松伊織』と表示されている。
早苗はその名前に見覚えがあった。高校時代の1学年上に居たオメガの先輩で、京介の幼馴染だったはずだ。直接関わったことは無いけれど、彼の噂は色々と耳にしていた。内容はあまりいいものでは無い。そんな彼がこんな時間に、京介になんの用事があるというのだろう?
早苗がそんなことを考えていると、京介は少し迷って携帯を持ち上げる。
「すまない。ちょっと出てもいいか?」
「大丈夫ですよ。じゃあ、オレはケーキ切ってきますね」
京介が申し訳なさそうにそういうので、早苗は快くそれを許した。どんな内容の電話なのか気になったが、恋人とはいえそんなところまで踏み込むつもりは早苗にはない。
そそくさとキッチンに移動して京介が手土産に持ってきてくれたケーキの箱を開ける。中にはハーフサイズのロールケーキが入っていた。包丁で、お店に売られているものよりも少し厚く切ると、断面から色とりどりのフルーツが顔を出す。早く食べたいという気持ちを押し殺して、早苗は先日購入した紅茶の缶を取り出した。この紅茶は、京介が泊まりに来るのでおもてなしをしたいと張り切った早苗が、奮発して買ったいつもよりも何ランクも上の紅茶だった。
説明書通りに入れた紅茶はいつもの何倍も豊かな香りがした。早く、京介と一緒にこの感動を共有したいと、早苗がリビングに入ると、京介が荷物をまとめていた。さっきまで寝巻き姿だったのに、これから出かけるといった装いになっていることに早苗は驚いた。
「どうしたんですか?」
今にも部屋を飛び出しそうな京介に早苗が問う。
「幼馴染からの電話だったんだが、ちょっと発作を起こしてしまったらしい。今日は家に誰もいないから不安になって電話してきたみたいなんだ」
「そう、ですか……」
「ああ。だから、申し訳ないが今日はこのまま帰らせてもらう。発作を起こした伊織をひとりにして置くのは心配なんだ」
「――わかりました……」
早苗が目に見えて落ち込んだことに気がついた京介が優しく頭を撫でた。
「楽しみにしていたから残念だ。また今度、埋め合わせをさせてくれ」
早苗はそんな京介の言葉を信じて、急ぎ足で帰る彼の背中を見送った。残された早苗を、デートの帰りに送ってもらって帰る彼を見送るよりも強い寂しさが襲った。テーブルには2人分のケーキが残されている。一つはラップをかけて冷蔵庫に仕舞った。紅茶は2杯も飲めないから、もったいないが1杯は流しに捨てた。ソファに座って、ロールケーキを口に運ぶ。本当ならばこのケーキはすごく美味しいのだろう。けれども、今の早苗はなんの味も感じることができず、残りのロールケーキは紅茶で無理矢理流し込んだ。
本当は、早苗は京介に帰ってほしくなかった。
『幼馴染よりも自分を優先してほしい』
そんなわがままを言ったら京介を困らせるだけだからとわかっていたから、その言葉を口にすることはできなった。けれど、もしあの時、素直にその言葉を口に出せていたのなら、今のような不毛な関係に悩むことは無かったのではないかと少し後悔していた。
それからも、度々デートの最中に京介は伊織に呼び出された。すると京介は、早苗を置いて伊織の元へ言ってしまった。最初のうちは、伊織の発作を心配していた。けれど、呼び出しの回数が増えるごとに、早苗はそれが伊織がわざとやっていることなのではないかと考えるようになった。
そんな疑惑を早苗は、京介にそれとなく伝えたことがあった。しかし、早苗の話を聞いた京介は難しい顔をして伊織の発作の原因を明かし、早苗が考えているようなことを伊織がするはずがないと逆に叱られてしまった。
――伊織の体調不良は『運命の番』がそばにいるのに、その相手から求めても答えてもらえないストレスが原因で発作が起きている。
そう言われてしまえば、早苗は黙るしかない。しかも、伊織の『運命の番』の噂を、早苗は高校の時に椎名から聞かされたことがあった。
そんな話を初めて聞かされた時は、そんなドラマみたいなことがあるわけがないと思っていたし、自分には関係のないことだと思っていた。何年も経って、そんな噂も忘れた頃に間接的にかかわるような立場になるだなんて考えてもいなかった。
早苗は一度、京介と別れることを考えたことがあった。しかし、京介の『愛しているのは早苗だけ』だとか、『伊織のことが片付いたら番いになってほしい』などという月並みの言葉に絆されて、今までずるずると関係を続けてきてしまった。
しばらく黙り込んでいた早苗の顔を椎名が覗き込んだ。
「うわっ――びっくりした」
「びっくりしたのはこっちの方だよ。いきなり黙り込んじゃうんだから」
ぷりぷりと怒りながら、椎名がそう言った。
「ごめん。ちょっと考え事してた」
「考え事?」
「なんで、こんな惨めな恋なんてしてるのか……的な?」
「そんなの、早苗の人を見る目がないからでしょ。恋愛経験値が高い人は、須田先輩みたいなタイプはまず選ばないよ」
歯に衣着せぬ椎名の言葉に、早苗は何も返せず押し黙る。
「正直、早苗が須田先輩と付き合ってるって報告してきた時、正気を疑ったよね」
「……そこまで?」
「うん。けどさ、早苗が『ありのままの自分を受け入れてもらえたんだ』なんて可愛い笑顔で言うから何も言えなかったよ。今となっては、あの時反対しておけばよかったって後悔してるけど……」
悲痛そうな面持ちでそうこぼした椎名を見て、早苗は不謹慎ではあったが嬉しくなってしまった。口ではきついことを言っているが、それはすべて早苗のことを思っていっているのだと窺い知れる。
「ありがとう、椎名」
「えっ、何、急に」
「いやー、椎名の愛を感じるなと思って……ははっ」
椎名が動揺し、早苗は自分が何を口走ったか気がついて途端に気恥ずかしくなる。今まで椎名に面と向かって、感謝の言葉など口にしたことはない。すぐに、誤魔化すようにおちゃらけてみる。が、椎名は生暖かい目で早苗を見た。
「ちょっと、やめて。そんな目を向けないでよ」
結局、店を出るまでの間、椎名は早苗と目が合うたびにニヤニヤするのだった。
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