瑠璃色の海と空

フッシー

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暗黒街のグール

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「電話の電源も切っているようです」
 マリーの言葉を聞いて、竜崎は
「自宅には見張りはいるのか?」
 と尋ねた。
「はい。しかし、戻ってはいません」
「そうだろうな。完全に行方をくらましたか」
 椅子の背もたれに寄りかかり、竜崎は上を見上げた。
「姿を現すまで待つしかありませんね」
 浜本が大きく伸びをした後、気だるそうな声で言った。
 その言葉が耳に届いていないのか、竜崎は、上を向いたまま何か考えている。マリーがその様子をじっと見ていた。
「鬼神の妻を殺した犯人は見つかっていない」
 竜崎は椅子から立ち上がり、独り言のようにつぶやいた。
「そうでしたね。あれも嫌な事件だった」
 浜本が竜崎の話に相槌を打った。
「鬼神さんは、その犯人を追っていると言いたいのですか?」
 マリーが、竜崎に尋ねた。
「あるいは、な」
 竜崎は、まばらに伸びた顎ひげを触りながらポツリと言った。
「鬼神は復讐を考えていると?」
 浜本の問いに
「自分の手で殺してやりたいと思うのは自然だろ?」
 と竜崎は同意を求めるかのように答えた。
「ならば、止めなければなりません」
 マリーが厳しい口調で主張するが、竜崎はマリーの顔を見て
「そうは言っても、行方がわからない以上、手の打ちようがないだろ。成り行きに任せるしかないよ」
 となだめるように言った。
「しかし、鬼神さんがやろうとしていることは殺人です」
「罰を受けるのは覚悟の上なんだろうな。それだけ相手が憎いということだよ」
「私には理解できない」
 マリーが表情ひとつ変えずに発した言葉に、竜崎はしばらく口をつぐんでいたが
「人間には、怒りや憎しみの感情がある。君たちアンドロイドには理解できないだろうな」
 と語りかけるように言った。

 木漏れ日が、地面に複雑なフラクタル模様を描き出す。松の木に寄りかかって眠っていた鬼神は、朝の光で目を覚ました。
 ゆっくりと立ち上がり、周囲を見渡す。深い森は光を浴びて鮮やかな緑の葉がキラキラと輝き、澄んだ空気が静かに流れていく。
「キャンプというのもいいかも知れないな」
 鬼神は一人つぶやいた。
 これからどうするか、鬼神は悩んでいた。下手に動けば監視カメラの網にかかるだろう。しかし、前日の夜から何も食べていない状態で、さすがに夜まで森の中にいるのは避けたかった。
(スラム街・・・監視カメラもないだろう)
 『アベル』という店の場所も調べなければならない。鬼神は、今からスラム街へと行ってみることにした。

 麻子は、せめてもの気晴らしにと久しぶりに外へ出た。
 ショッピングモールにでも行こうと車を探していた時である。後ろから近づいて来る者がいた。
「紫龍麻子さんですね」
 そう呼びかけられて後ろを振り向くと、マイクを持った男性が立っていた。その後ろにはカメラを持った者もいる。
「亡くなった紫龍匠が、2人の人間を殺害した犯人だったそうですが、それについて何かコメントはありますか?」
 突然の質問に、麻子はどう対処したらいいのか分からず
「話すことは何もありません」
 と言ってそのまま早足で歩き出した。しかし、男はなおも追い掛けてくる。
「被害者に対して何か言うことはないんですか?」
 マイクを顔の前に差し出し、半ば行く手をはばむような形で男は執拗に食いついて離れない。
 車の前で立ち止まり、ドアが開いたと同時に麻子は中へ乗り込んだ。しかし、男は上半身を車の中に突っ込んで、なおも質問を浴びせる。
「父親はスリーパーだったんですよね。それが何か事件と関係あるんですか?」
「そういう話は警察に聞いて下さい」
「あなたもスリーパーなんですよね。この事件がきっかけで、スリーパーに対する規制強化を訴える声が増えていますが、それについてあなたは・・・」
「いい加減にして!」
 麻子が男の肩を強く押すと、男は尻もちをついて、さらに後ろ向きに一回転した。その様を麻子は呆然と見ていたが、車のドアが閉まるとすぐに
「A-6エリアの『ヒスイ』まで」
 と早口で行き先を告げた。
 車が走り出すと同時に、麻子は肩を震わせて泣き崩れた。

 鬼神は、C-3エリアの1フロア、スラム街の外れにたどり着いた。
 このフロアのすぐ上は汚染地帯だ。Aブロックで連続して発生した謎の病が収束する間もなく、C-3エリアでも同じ症状の人間が現れたことから、逃げ場のない住民たちはパニックになり、病気に感染する以外での死傷者も数多く出たとの記録が残っている。C-3エリアの1フロアは、元々は商業施設があったが、最終的には管理区域外に指定され、利用はされなくなった。すると、いつの頃からか、その場所に住みつく者が現れ始めた。すでに捨てられた場所なのにもかかわらず、住民たちは水や食料、さらには電気まで、その中で確保していた。こうして商業施設はひとつの街となった。しかし治安は悪く、普通の者が入ればあっという間に身ぐるみ剥がされてしまうだろう。
 鬼神も、スラム街を訪れたことはなかった。管理区域外なので車で行くことはできない。ところが、C-3エリアの3フロアからスラム街へと下りることのできる非常階段があることは、裏の世界では周知の事実だった。汚染地帯の管理も結構ずさんであるということか。
 今、鬼神がいるのは最も高いところにある道路の上だ。あたりは暗く、ところどころに灯りらしき光が見えるくらいだ。道の端から見下ろすと、底は漆黒に包まれ何も見えない。
 手元にあるライトの光で道を照らしながら、鬼神はゆっくりと歩を進めた。この広い場所から『アベル』という店を探すのはかなり大変そうだ。
 周囲にはビルが巨大な柱のように建ち並び、窓がところどころ明るくなっている。誰かが住んでいるのか、それとも店を開いているのか、そこまではわからない。しかし、そんなことはどちらでもいい。とにかく誰かを訪ねて『アベル』という店を知らないか聞いてみようと思った。
 ビルの広いエントランスから中へ入る。どこかに光源があるのか、中は少しだけ明るい。円盤状の床の周りに店があったことを示す看板などが並んでいる。吹き抜けになっていて、3階くらいまで施設が入っていたようだ。中心に噴水の跡があり、その上空には大きな筒のようなオブジェがぶら下がっている。
 周囲の部屋を見回すと、灯りが点いた場所が2階にあった。2階への階段を見つけ、そこを上がっていく。灯りはろうそくだった。ろうそくを見たのは何年ぶりだろうかと鬼神は思った。人のいる気配はない。テーブルや椅子が乱雑に並んでいる。その近くまで来てそっと椅子の座面に触った。ほのかに温かい。誰かが近くにいるらしかった。
 背後に人の気配を感じた。素早く後ろを振り返り、ライトで照らしてみると、男が何かを頭上に振り上げている姿が見える。鬼神が横に避けるのと、男が腕を振り下ろすのはほぼ同時であった。男の攻撃はテーブルか椅子にでも当たったらしく、木が割れる乾いた音がした。
 鬼神が廊下へ出ると同時に、相手も部屋から出てきた。手に持っていたのは木で作った棍棒らしい。両手で握りしめ、刀を中段に構えるような姿で鬼神に対峙した。
「誰だ、お前」
 男が鬼神に挑みかかるような口調で尋ねる。
「怪しいものではない。店を探しているだけだ」
 鬼神が両手を挙げて、争う気がない意思を相手に伝えようとした。男は、その様子を見て、ゆっくりと棍棒を下ろした。
「いったい、こんなところで何の店を探そうってんだ?」
「何の店かは知らんが、『アベル』という店だ」
「『アベル』?」
 男は首を傾げた。
「『アベル』なら知ってる。ドラッグを売っている店だ。あんなところに行くのは、あまり勧められないな」
「場所は知ってるか?」
「最下層にあるらしいが、詳しい場所はわからないな」
「ありがとう。探してみるよ」
「おい」
 鬼神が立ち去ろうとするのを見て男が呼び止める。何か要求でもしてくるのかと鬼神は振り返った。
「ここは下へ行くほど危険だ。住んでいる人間は少ないが、その中でまともな奴はほとんどいない。特に集団で襲いかかってくる連中には気をつけな。ここでは『ハイエナ』と呼ばれているが、その名の通り、人間を食料としか見ていない。捕まったら切り刻まれて食われるぞ」
 男の言葉に
「気をつけるようにするよ。ありがとう」
 と鬼神はもう一度礼を言ってその場を立ち去った。

 鬼神は入り口まで戻り、下りるための階段を探した。円形の吹き抜けの向こう側には通路がまっすぐに伸び、両側には間仕切りされただけの部屋が並んでいる。昔は店があったのだろうが、今ではそんな面影は全くない。中はたくさんのガラクタであふれていた。
 通路を進んでいくと、2つの部屋の間に階段のようなものが見えた。よく見ると、それはエスカレーターだった。当然、今は動いていない。鬼神はそこから下りてみることにした。
 エスカレーターはしばらくの間、下へ下へと続いていた。金属的な足音だけがあたりに響く。周囲は暗闇に包まれ、ライトの光がなければ何も見えない。ひとつ、ふたつと鬼神は下りたフロアを数えていたが、途中でそれを止めてしまった。
 とうとう、一番下まで到達し、通路へと出てみる。上の階と同様に、通路がまっすぐに続き、その先には円形の広場があるようだ。その方向へと鬼神は進んだ。
 広場の先には大きな四角い穴が口を開けている。かつてはこのビルへの出入り口として使われていた場所だろう。その穴から外へ出てみた。
 上を見上げると、いくつもの道が交差しているのが見えた。しかし、まだ最下層ではない。下を見ると、青白く浮かび上がった道がまだ何本もある。
 さらに下りるための階段を探さなければならない。そう思い、ビルの中へ戻ろうとした時である。左側から何者かが鬼神の身体に抱きついてきた。
 鬼神はとっさに相手の腕を振りほどき、顎のあたりに強烈なパンチを浴びせた。骨が砕ける音がして、相手の口から真っ赤な血しぶきが飛ぶ。
 しかし、鬼神に近づいていたのは一人だけではなかった。鬼神が全く気づかないうちに、周囲に何者かが円陣を組んでいたのだ。
(こいつらが『ハイエナ』か?)
 鬼神は猛然と走り出した。目の前の人間に肩からぶつかり遠くへ弾き飛ばす。
 鬼神の後ろを追いかけてくる者がいた。何人いるのかは分からない。しかし、スリーパーに人間が追いつけるわけもなく、あっという間に差は広がった。
 下りる階段を早く探さなければならない。鬼神は通路の奥の方へと走っていった。しかし、奥にあったのは広間だけ。そしてその先はポッカリと空いた穴だ。
 穴から外へ出ると、そこは道ではなく、広いバルコニーだった。これ以上進めるところはない。しばらくして『ハイエナ』たちがやって来た。
 人数は6人。人間に負けるとは考えていない鬼神は
「聞け。俺はスリーパーだ。怪我したくなかったら失せろ」
 と言い放った。
 そのとき、『ハイエナ』たちの中から一人、前へ進み出る者がいた。
「スリーパーが来るとは珍しい。焼いたくらいではバクテリアは死なんからな。人間が食ったら腹を壊すな」
 その男は、右手に金属のパイプのようなものを持っていた。左の手のひらをパイプの先でトントンと叩きながら、不敵な笑みを浮かべている。
 男は、急に間合いを詰めてきた。人間とは思えない速さだった。鬼神は、思わず後ろへ飛び退いた。
 男はなおも鬼神に突っ込んでくる。手に持ったパイプを鬼神の脳天へ振り下ろした。
 鬼神は素早く銃を抜くと、銃身でパイプを弾いた。鬼神が銃を抜いたのを見て、男はすぐに後ろへと下がった。
「銃持ちか」
「貴様、スリーパーか?」
 鬼神がそう言い放ちながら男に向けて銃を構える。男は、それを見てすぐに逃げ出した。
 他の5人も、男に続き慌てて逃げ出す。暗闇に紛れて、あっという間に『ハイエナ』たちの姿は見えなくなった。
 『ハイエナ』の中にスリーパーが潜んでいるとは考えていなかった。襲うのをあきらめたのか、それとも別の機会を狙っているのか、そこまでは分からないが、いずれにしても用心したほうがよさそうだと鬼神は思った。

 麻子は、車が到着してドアが開いても、しばらく外へ出ようとはしなかった。
 マスコミの連中に追跡され、また絡まれるのではないかと恐れていたのだ。助けてくれる人もおらず、不安で仕方なかった。
「到着しました。降りますか、それとも他の場所へ移動しますか?」
 車内のアナウンスの声を聞いて、ゆっくりと車から降りると、すぐに人の波の中に潜り込み、歩道を歩き始めた。
 商業スペースは、たくさんの人で賑わっていた。楽しそうな話し声が聞こえる。真ん中で両親と手をつなぎ、楽しそうに歩いている子供がいる。カップルが、腕を組んで歩いている姿が見える。その中で、麻子は孤独に苛まれ、泣きたい気持ちになった。
 外に出なければよかったと、麻子は後悔した。しかし、報道陣が待ち構えているかも知れない家に戻ることも、もはや怖くてできない。
 どうすることもできない状況の中で、ふと鬼神のことを思い出した。相談できるとしたら、同じスリーパーである鬼神しか思いつかない。麻子は、道端にあったベンチに腰掛けると、鬼神に電話を掛けてみた。
「ただいま、電話に出ることができません。発信音が鳴りましたらご用件を・・・」
 麻子は、電話を切り、その場でうずくまってしまった。

 鬼神は、ようやく下りるための階段を見つけた。瓦礫に埋もれていたため、一度通ったときには見過ごしていたらしい。他に下りられそうな場所は見つからず、瓦礫を横にどけて階段を下りてみた。
 また、ひたすら下りるだけの作業が続く。今度も、フロアをいくつ通過したか途中で分からなくなった。
 どれだけ下りただろうか。途中、階段が崩れている場所に出た。何が原因なのかは分からないが、遥か下まで崩壊が進んでいて、ライトをあてると崩れた瓦礫が積み重なっているのが見えた。
 それ以上下りることができず、通路へ出てみる。他に階段がないか探してみたが、それらしいものは見当たらない。
(他のビルから下りるしかないか・・・)
 いくら探しても下りる階段が見つからず、いったん外へ出ようと考えたときである。背後に人の気配を感じた。
 鬼神が素早く後ろを振り向いたのと、頭に強烈な衝撃を受けたのがほぼ同時であった。
(しまった・・・)
 鬼神は油断していた。いつの間にか、先ほどのスリーパーが近くまで忍び寄っていたのである。悪魔のような笑みを浮かべている男の顔を見た後すぐに、鬼神は気を失った。

 どれだけの間、座って地面を眺めていただろうか。気がつけば、もう夕方の時刻であった。
 相変わらず、たくさんの人が行き交っている。悲しそうな顔をしている者など誰もいない。そんな人々を見ると、自分がますます惨めになる気がして、麻子はうつむいている他は何もできなかった。
 しかし、ずっと同じ場所にとどまっていても仕方がない。麻子は立ち上がり、あたりを見回した。いつも行くショッピングモール。4階にあるパンケーキの店は麻子のお気に入りだった。
 スリーパーが飲食店などを利用するのは問題ないのかと思うかもしれない。実際、インフェクターが見つかり始めた頃、潜伏期にある者が飲食店を利用することで感染が広がるのではないかと懸念された。そのため、飲食店に客がいなくなり、つぶれた店も少なくなかった。最終的に、食器類を紫外線照射により殺菌すれば100%防げることがわかり、現在では飲食店で感染が起こることはないと考えられている。
 店に入り、一人でテーブル席に座る。注文を取りに来たアンドロイドらしい女性に対し
「バターミルクパンケーキのMを」
 と注文すると
「お飲み物はどうされますか?」
 とやわらかな口調で尋ねられた。
「アップルティーをちょうだい」
「かしこまりました。以上でよろしかったでしょうか?」
 アンドロイドは終始にこやかに話しかけてくれる。非常にかわいい顔をしていた。
「ええ、それだけでいいわ」
 麻子がそう言うと、一礼して立ち去っていった。実に完璧に作業をこなしているウェートレスを麻子はじっと眺めていた。
 これからどうするか、麻子は悩んでいた。家に帰ればマスコミ連中が待ち構えているかも知れない。とにかく、夜遅くなるまで家に戻る気はなかった。このあたりは深夜も営業をしている。アンドロイドは眠ることはない。24時間休みなく働いても問題はないのである。いくつかの馴染みの店を頭の中で数えてみる。一通り見て回れば、かなりの時間をつぶすことができるだろう。
 やがてウェートレスが運んできたパンケーキは3枚が重なって、その上にはバターが乗っている。メイプルシロップを回し掛けて、上から順番に麻子は食べ始めた。
 その様子を、じっと眺めている一人の女性がいた。口元にコーヒーカップを運び、一口飲んでいる間も、視線は麻子から離れることはなかった。

「考えすぎじゃないですか、竜崎さん」
 浜本が竜崎に尋ねた。
「そうかな?」
「紫龍の共犯者が、鬼神の妻を殺した犯人だったなんて、偶然にしては出来すぎてますよ」
「しかし、鬼神が単独行動をとる理由がそれ以外に思いつかないだろ」
 そう言って、竜崎は再び椅子に腰掛けた。
「もし、それが本当なら、あの集団感染事件の黒幕が見つかったことになりますね」
 浜本の言葉を聞いて、竜崎は視線を落とし口をとがらせた。
「集団感染事件・・・ワインに感染者の血液を混ぜて、集会の参加者に飲ませた事件ですね。インフェクターが大量に出現してパニック状態になりました」
 マリーが2人の方へ近づいて話の輪に加わった。
「あのときの主犯格は、警察に追い詰められて腹に巻いた爆弾で自爆したが、あのカルト集団には謎の人物が指導者として存在しているという噂もあった。結局、何も証拠がなくて捜査は打ち切られたが」
「そのリーダーを追い続けていたのが鬼神明日香・・・鬼神さんの奥さんですね」
「ああ、超えてはいけない一線を超えてしまったのだろうな」
 竜崎は、上を向いてつぶやくように言った。

 鬼神は、妻と娘のいる居住区へと車で移動していた。
「何者かが家の周りにいるの。お願い、助けに来て」
 電話から聞こえる妻の声は震え、かすれていた。
 スリーパーの鬼神が妻と娘に会うことはほとんどできなかった。今日は、その数少ない、家族が集まる日になるはずだった。それが鬼神にとって最悪の日になろうとは、思ってもいなかった。
 居住区に到着すると、すぐに車を降りてエレベーターのボタンを押す。エレベーターが到着するまでの時間が鬼神にとっては長く感じられる。
 家に近づくと、扉が開け放たれているのが見えた。急いで中に入る。リビングを見ると、天井にある照明に照らされて、女性が一人倒れていた。
「しっかりしろ、明日香!」
 鬼神が駆け寄り、上半身を抱き起こした。胸のあたりから血がにじんでいる。
「咲紀が・・・」
「咲紀がどうした」
「さら・・・われ・・・た」
「誰に?」
「ノ・・・ア・・・」
 まるで最後の息を吐き出すかのように言葉を残し、鬼神明日香は息を引き取った。
 鬼神はその瞬間、起き上がった。
 夢を見ていたようだ。
 頭が割れるように痛い。頭頂部を触ってみたが、幸い傷はなかった。
 ライトを点けてあたりを見回してみる。小さな部屋の中にいるらしい。目の前に鉄製の扉があった。
 腰のホルダーに手を当てる。銃は取られてしまったようである。
 立ち上がり、扉に近づく。試しにドアノブを回してみた。予想に反して扉が開いた。電子ロック式の扉だが、すでに壊れていたようだ。
 扉がきしむ音が周囲に響き渡る。廊下へと出てみると、自分のいた部屋は一番奥にあり、右方向に進んだ先に十字路があるようだった。
 鬼神はゆっくりと、十字路の方へ進んだ。そのまま直進してもすぐに袋小路になる。右手を見ると、瓦礫で道がふさがっていた。
 左を見ると、少し行った先に扉があった。その扉まで、鬼神は進んでみた。
 金属製の扉はかなり厚く頑丈そうに見えた。レバー式のドアノブに手をかけ、そっと回してみる。扉がゆっくりと開いた。
 扉の隙間から冷気が漂ってくる。驚いたことに、どこから電気を引いているのか分からないが、冷蔵室として今でも稼働しているらしい。
 中は真っ暗だ。壁のあたりをライトで照らすとスイッチが見つかった。鬼神は、そのスイッチを入れてみた。
 その途端、目の前にある光景を見て鬼神は血の気が引く思いがした。

 パンケーキを食べ終えて、麻子はアップルティーのカップを両手で持ちながら考え事をしていた。当然、一人の女性が近づいてくることにも全く気づいていない。
「ちょっといいかな」
 突然、声を掛けられて、麻子はカップを落としそうになった。
「・・・何ですか?」
 家の近くでマスコミに付きまとわれたことを思い出し、麻子は身構えた。
「ごめんね、驚かせちゃった?」
 そう言いながら、女性は麻子とは反対側の席に座った。
「あなたを見て、すごくかわいいなと思って。学校でもモテるんでしょ?」
 女性は、にこやかに笑いながら話しかけてきた。
「いや、そんな・・・」
 麻子が言葉に困っているのも構わず
「実はね、あなたがベンチに座っていたときから目を付けてたの」
 と女性は一方的に喋りだす。
 麻子は、女性の顔を見た。笑みを浮かべたその顔は、特に悪い人には見えなかった。ウェーブのかかったブロンドの髪が胸のあたりまで伸びて、愛嬌のある目が印象的だ。見たところ、まだ十代くらいにしか見えない。
「うん、私の目に狂いはないわ。どう、モデルをやってみない?」
 麻子がこうして勧誘されるのは今回が初めてではなかった。麻子は、確かに美しかった。大きな丸い目に、少し憂いを帯びた口元、そして、スリーパー特有の青白い肌が、儚げな雰囲気をさらに際立たせているようだ。
「私、そういうのに興味ないんで」
 麻子が断ろうとしても、相手はあきらめるつもりはないらしい。
「すぐに決める必要はないわよ。確かに、家の人とも相談しなくちゃならないだろうし」
「私、家族は誰もいないんで・・・」
「あら、ごめんなさい」
「いえ・・・」
「ねえ、モデルになるかどうかは置いといて、少し話し相手になってくれない?」
「えっ?」
「一人で退屈していたところなの。付き合ってくれたら、ここはおごるわ」
「でも・・・」
「いいのいいの。遠慮なんかする必要ないから」
 女性は手をひらひらとさせながら麻子の言葉を遮り、ウェートレスを呼び止めて麻子と同じアップルティーを注文した。
「ここのアップルティーっておいしいわよね。私も好きなんだ」
 そう言って、片手で頬杖をついてじっと麻子の顔を見つめた。
「まだ名前を言ってなかったわね。私は葉月彩。あなたは?」
「・・・麻子です」
 『紫龍』という名字を出すのをためらい、麻子は名前だけ伝えた。
「麻子さんね。学校ではなんて呼ばれているの?」
「私、学校には通ってないんです」
 麻子は、自分がスリーパーであると疑われることを恐れた。
「じゃあ、オープン制なのね」
 オープン制とは、自宅からモニタを通して授業を受けるタイプの学校のことである。麻子はスリーパーなので、オープン制の学校に入っていた。
「そうです」
「ふふ、深窓のご令嬢って感じね」
 ウェートレスが運んできたアップルティーのカップを、頬杖をついたまま片手で持つと、彩は麻子にウィンクしてみせた。

「ところで、紫龍匠は集団感染事件の被害者のようですね」
 マリーの言葉を聞いて竜崎は目を丸くした。
「嘘だろ」
「間違いありません。集会の約一ヶ月後に紫龍匠の妻である紫龍明美が発症しています。病院での検査で紫龍匠本人と娘の麻子にも感染していることが分かり、その後ふたりとも発症してスリーパーとなっています」
「集会に出ていたのは紫龍匠なのか?」
「そうです。妻と娘は、紫龍匠から感染したのですね」
「もし、竜崎さんの予想が正しければ、紫龍は加害者と組んでいたということですか」
 浜本がゆっくりと言葉を紡ぎ出すのを聞いて、竜崎は
「本人は知らなかったんだろうな」
 とだけ言って椅子から立ち上がった。
「犯人の目的は、アークとやらを捕まえなければ分からんな。狂人の考えていることだから、我々には想像できないが。しかし、なぜ紫龍が自ら手を汚すことを承知したのか理解できん」
 部屋の中を歩き回りながら竜崎は話を続ける。
「お金が目的でしょう。仕事が見つからなくて困っていたようですから」
「紫龍は、勤め先を解雇されて訴訟を起こしている。かなり額の賠償金を得たから、金には困っていなかったはずだ。就職先を探していたのは、自己啓発か何かのためだろう」
「では、他に理由があると?」
 マリーが竜崎に尋ねた。
「なにか、もっと、でかい理由がある気がするんだ」
 竜崎は、歩くのを止めなかった。
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