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悪夢の呪縛
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鬼神は、コンクリートで舗装された道の上を歩いていた。
そこは、巨大なプラントであった。高くそびえた銀色の設備には、様々な色で塗られたパイプが縦横無尽に張り巡らされ、複雑な迷路のように見えた。工場は現在も稼働中で、低い唸り声のような音が耳に響く。
頭上にはたくさんの橋が交差している。車で荷物を運ぶためのものだ。さらに上の方は暗く、霞んでいて何があるかわからない。ゆっくりと点滅する光が、何らかの設備があることを示すのみだ。
鬼神は、その巨大な施設の中の最下層にいた。どれくらいの規模かわからないが、同じような設備が下側のフロアにもあるのだろう。足元に巨大な施設のある空洞が眠っているのを想像して、鬼神は少し足の裏がムズムズする感覚を覚えた。
道を歩いていると、建物の影から一人の女性が現れた。
「すみません、警察の者ですが」
鬼神はそう言って警察バッジを女性に見せた。
「あら、何の御用?」
女性は赤い髪を後ろに束ね、タンクトップにジーンズ姿というラフな格好だった。きれいな青い目を、片手に持ったタブレットから鬼神へ向けた。
「このあたりで、この男を見かけませんでしたか?」
そう言って、鬼神は写真を女性に差し出したが
「今日は誰にも会っていないわよ。ほとんどの作業員は室内にいるしね」
と写真も見ずに即答した。
「車でここに来ているはずなのですが」
「そう言えば、一台向こうの方へ走っていったわね」
女性が指で示した方向を見遣り、鬼神は
「どうもありがとうございました」
と礼を言って向かおうとした。
「気をつけてね。立入禁止区域に近いところだから」
鬼神の背後から女性が注意する。
「ご親切にありがとう」
鬼神は振り返り、笑みを浮かべてもう一度礼を言った。
「マリー、5月6日から5月17日の間、D-2エリアの森林地帯に車が一台も停車していないというのは間違いないのか?」
竜崎が、部屋に入るなりマリーに尋ねた。
「はい、その場所に車が停車した記録はありません」
「しかし、その期間に車で森林地帯に訪れた奴と話をしたんだ。そんなことはありえない」
「その人が嘘をついている可能性は?」
「そんな嘘をついて得すると思うか?」
マリーはしばらくの間、言葉を発するのを止めた。その無表情な顔を、竜崎はじっと見つめている。
「そうすると、記録が誤りであると?」
「誰かが書き換えた可能性はないか?」
「データベースにアクセスできる権限のあるものは10名ほどいますが、アクセス記録は・・・」
沈黙の時間が流れた。マリーが話を再開するまで、竜崎と浜本は黙って待つしかなかった。
「ありません」
竜崎は天井を見上げた。
「アクセスログも消されている可能性は?」
浜本がマリーに尋ねた。
「確かに、その可能性はあります」
「ドライブレコーダーの映像と停車記録で不一致を検出することはできないか?」
竜崎が早口でマリーに問いかけた。
「かなり時間がかかりますよ」
「わかってる。大変だろうが頼むよ」
竜崎はそう言ってから、浜本に顔を向けた。
「紫龍はコンピューターに詳しい人間だったんですかね?」
「しかも、証拠を残さずにデータベースに侵入して停車記録を書き換えたんだ。かなりの手練だな」
「もしくは、共犯者がいるという可能性はないですか?」
「・・・それも否定できんな」
竜崎は、頭を掻きながら答えた。
鬼神は、『立入禁止』と描かれた札の付いた鉄柵の前に立っていた。
「現在、A-2エリアの2フロアだ。立入禁止区域の前にいるが、この先には何がある?」
「位置を確認しました。汚染区域へ続くエレベーターのある場所です」
「エレベーターは当然、動いていないんだろ?」
「はい、現在は停止中です」
「紫龍は、汚染区域に潜伏した可能性がある。奴が犯人であることは間違いなさそうだ。身柄を拘束するか?」
「少しお待ち下さい。捜査本部へ問い合わせます」
鬼神は、通話を切ると上を向いてため息をついた。点滅するたくさんの光が自分の方へ降ってくるように感じた。
「現在、ハンターが紫龍を追跡しています。汚染区域へ潜伏した模様です」
マリーが竜崎に話しかけた。
「自ら犯人だと名乗り出たようなもんだな。よし、捕まえるか」
「まだ、アリバイが崩せていませんよ。解析結果を待ってからのほうが・・・」
「いや、汚染区域へ侵入したんだ。不法侵入で十分だろ?」
竜崎はマリーに向かって
「紫龍の身柄を拘束するよう伝えてくれ。汚染区域侵入罪の現行犯だ」
と伝えた。
「分かりました」
マリーは、相手に通信を始めた。
「刑法131条、汚染区域侵入罪で逮捕せよとのことです」
鬼神はその言葉を聞いて
「わかった、それではこれから立ち入り禁止区域へと入る」
と言い電話を切った。
鉄柵にはかんぬきが掛けられているが、鍵で固定などはされていないため誰でも開けることができる。鬼神はかんぬきを外すと鉄柵を開けて中へと進んでいった。
エレベーターの入口が見える。案の定、通電はされていない。
「下へ降りる方法は他にはないのか?」
鬼神が電話で問いかけた。
「すみません、そこまでの情報はこちらにもありません」
「わかった、少し探ってみよう」
そう言って、鬼神は周囲を見回した。
そこはちょっとした小部屋のような空間になっていた。しかし、天井はない。床には縦横1mくらいの大きさの白いタイルが敷き詰められている。壁も真っ白で、目の前にはエレベーター用の青い扉が3つ並んでいる。
右側に、鉄の扉が見える。鬼神はその扉に近づき開けようとしたが、鍵がかかっていて開かない。指紋認証で開く扉のようだが、そもそも通電されていないので今は誰も開けられないはずだ。
エレベーターの扉を調べてみる。左右に開くタイプの、一般的な扉だ。
鬼神は、試しに扉をこじ開けてみた。扉はすんなりと開いた。
中は真っ暗な空間があり、ライトで下を照らしてみたが、底には何も見えない。構造を見る限り、普通の磁力エレベーターだ。足を掛けることのできそうな箇所はない。ここから下へ降りたとは考えにくかった。
他には扉は見当たらない。鬼神は上を見上げたまま考え込んでしまった。
暗闇の中、紫龍は息を潜めて座っている。
ライトは消した状態だ。万が一、ハンターに見つかるのを恐れていたのだ。もし、ハンターに見つかれば全ては終わる。スリーパーとなり、常人を超える力を手に入れたとはいえ、百戦錬磨のハンターにかなうとは思っていなかった。
ハンターが現れたら、気づかれないように逃げるつもりでいた。あと数日の間、逃げ切れば自分の勝ちだ。
周囲には、たくさんの死体が転がっている。感染していたのか、それとも感染した人間に殺されたのか。すぐに楽になるなら、その方がいいだろう。病の恐怖に怯えながら、ここで緩慢な死を迎えた人間もいるのかも知れない。
人々は病を恐れた。それは紫龍も同じだ。できるだけ感染源には接触することのないように気をつけていた。だから、自分は病とは無縁だと考えていた。結婚し、一人娘が産まれ、幸せだった紫龍に突然、思いがけないことが起こった。妻が病を発症したのだ。
急にひどい頭痛に苛まれ、じっとしていられなくなる。病院に着いた時には、すでに狂人のように暴れだし手が付けられなかった。検査の結果、『超人症』であることがわかった。
妻は隔離室に入れられ、一晩中、狂ったように暴れまわった。隔離室は特殊な白いクッションで覆われているにもかかわらず、妻の手足は折れ曲がり、骨まで見えていた。
「残念ですが、奥さんは助かる見込みはありません。このまま自傷行為を続け、死を待つだけです。ハンターの手で安楽死を遂げることもできますが、どうされますか?」
翌日の朝、医者にそう告げられる。美しかった妻の変わり果てた姿を正視することができず、紫龍はすぐに安楽死を受け入れた。安楽死の方法は、ガスや薬物などではなく、もっと物理的な方法、簡単に言えば首の骨を折るというものだった。
当然、紫龍は娘とともに検査にかけられた。結果は陽性だった。自分だけでなく、娘までもだ。
超人症は、体液により感染する。自分と妻のどちらが感染源だったのかはわからなかった。娘がはじめから感染した状態で産まれたのか、それとも産まれてから感染したのか、それも不明だった。
それが分かったのは妻が亡くなった一週間後。病院の中で警察から告げられた内容を聞いて、紫龍は愕然とした。
『進化の選択』は、当時広く信者を集めていた教団であった。その教団が主催した大きな集会の中で振る舞われたワインに、感染者の血液が混ぜられていたのだ。友人に誘われ、紫龍はその集会に参加していた。胡散臭い集団だとは思っていたが、まさかその時に飲んだワインが感染源であるとは想像もしていなかった。つまり、自分が最初の感染者だったわけである。
感染してからの潜伏期間はバラバラだ。感染後すぐに発症する者もいれば、数年の間まったく気づかない場合もある。娘が発症したのは、病院に隔離されてから約1年後、そしてさらに1年が経過して、紫龍が発症した。
幸運にも、2人とも発症したものの、脳が冒されることはなく超人的な力だけが授けられた。スリーパーとして生きていくことになったのだ。
しかし、スリーパーがまともに暮らしていくことなどできない。必要最小限の生活が保障されるだけだ。娘は学校へ行くこともできない。友達など得られるはずもない。紫龍は、娘にこの呪われた血を授けてしまった自分を責めた。妻と同じ緑青色の瞳を見る度に、罪の意識に苛まれた。娘のためなら何でもする。そう誓った結果、もはや戻ることのできない道を進んでしまった。
目を開けていても、周りは暗闇の中、目の前にかざした自分の手さえ見ることはできない。紫龍はぼんやりと前を向いて座っていた。
暗闇の中、白いもやが目の前に漂っているのを見つけた。
それは徐々にはっきりとした輪郭を持つようになり、やがて人だと分かるようになった。這いつくばり、手だけでこちらに近づいてくる。
それは妻の顔だった。穏やかに微笑んだまま、前へ進み続ける。
紫龍は恐ろしくなった。しかし、その姿から目を離すことができない。
突然、顔が豹変した。瞳が怪しく光り、口を大きく開けて自分へと迫ってくる。
ついに足をとらえ、なおも自分へと向かってくる妻から、紫龍は逃げることができなかった。
妻の顔が自分の目の前にある。狂気に歪んだ顔だ。緑青色の瞳は焦点が合わず、大きく開いた口からは泡が吹き出ていた。
紫龍は身動きが取れなかった。顔を背けることもできなかった。
(やめてくれ・・・)
自分の発した声が聞こえない。これは夢だ。紫龍はそう思ったが、身体に覆いかぶさった妻の体の重みははっきりと感じ取っていた。
(助けてくれ・・・)
妻がすっと下を向いた。岸に上がった海藻のように固まって束になった黒髪が自分の胸の上を覆った。妻が顔を上げた。それは妻ではない。それは娘の狂気に歪んだ顔であった。
「うああ!」
自分の叫び声が聞こえ、目の前が暗闇で覆い隠された。
紫龍は、その場で顔を覆い、声を押し殺して泣き始めた。
そこは、巨大なプラントであった。高くそびえた銀色の設備には、様々な色で塗られたパイプが縦横無尽に張り巡らされ、複雑な迷路のように見えた。工場は現在も稼働中で、低い唸り声のような音が耳に響く。
頭上にはたくさんの橋が交差している。車で荷物を運ぶためのものだ。さらに上の方は暗く、霞んでいて何があるかわからない。ゆっくりと点滅する光が、何らかの設備があることを示すのみだ。
鬼神は、その巨大な施設の中の最下層にいた。どれくらいの規模かわからないが、同じような設備が下側のフロアにもあるのだろう。足元に巨大な施設のある空洞が眠っているのを想像して、鬼神は少し足の裏がムズムズする感覚を覚えた。
道を歩いていると、建物の影から一人の女性が現れた。
「すみません、警察の者ですが」
鬼神はそう言って警察バッジを女性に見せた。
「あら、何の御用?」
女性は赤い髪を後ろに束ね、タンクトップにジーンズ姿というラフな格好だった。きれいな青い目を、片手に持ったタブレットから鬼神へ向けた。
「このあたりで、この男を見かけませんでしたか?」
そう言って、鬼神は写真を女性に差し出したが
「今日は誰にも会っていないわよ。ほとんどの作業員は室内にいるしね」
と写真も見ずに即答した。
「車でここに来ているはずなのですが」
「そう言えば、一台向こうの方へ走っていったわね」
女性が指で示した方向を見遣り、鬼神は
「どうもありがとうございました」
と礼を言って向かおうとした。
「気をつけてね。立入禁止区域に近いところだから」
鬼神の背後から女性が注意する。
「ご親切にありがとう」
鬼神は振り返り、笑みを浮かべてもう一度礼を言った。
「マリー、5月6日から5月17日の間、D-2エリアの森林地帯に車が一台も停車していないというのは間違いないのか?」
竜崎が、部屋に入るなりマリーに尋ねた。
「はい、その場所に車が停車した記録はありません」
「しかし、その期間に車で森林地帯に訪れた奴と話をしたんだ。そんなことはありえない」
「その人が嘘をついている可能性は?」
「そんな嘘をついて得すると思うか?」
マリーはしばらくの間、言葉を発するのを止めた。その無表情な顔を、竜崎はじっと見つめている。
「そうすると、記録が誤りであると?」
「誰かが書き換えた可能性はないか?」
「データベースにアクセスできる権限のあるものは10名ほどいますが、アクセス記録は・・・」
沈黙の時間が流れた。マリーが話を再開するまで、竜崎と浜本は黙って待つしかなかった。
「ありません」
竜崎は天井を見上げた。
「アクセスログも消されている可能性は?」
浜本がマリーに尋ねた。
「確かに、その可能性はあります」
「ドライブレコーダーの映像と停車記録で不一致を検出することはできないか?」
竜崎が早口でマリーに問いかけた。
「かなり時間がかかりますよ」
「わかってる。大変だろうが頼むよ」
竜崎はそう言ってから、浜本に顔を向けた。
「紫龍はコンピューターに詳しい人間だったんですかね?」
「しかも、証拠を残さずにデータベースに侵入して停車記録を書き換えたんだ。かなりの手練だな」
「もしくは、共犯者がいるという可能性はないですか?」
「・・・それも否定できんな」
竜崎は、頭を掻きながら答えた。
鬼神は、『立入禁止』と描かれた札の付いた鉄柵の前に立っていた。
「現在、A-2エリアの2フロアだ。立入禁止区域の前にいるが、この先には何がある?」
「位置を確認しました。汚染区域へ続くエレベーターのある場所です」
「エレベーターは当然、動いていないんだろ?」
「はい、現在は停止中です」
「紫龍は、汚染区域に潜伏した可能性がある。奴が犯人であることは間違いなさそうだ。身柄を拘束するか?」
「少しお待ち下さい。捜査本部へ問い合わせます」
鬼神は、通話を切ると上を向いてため息をついた。点滅するたくさんの光が自分の方へ降ってくるように感じた。
「現在、ハンターが紫龍を追跡しています。汚染区域へ潜伏した模様です」
マリーが竜崎に話しかけた。
「自ら犯人だと名乗り出たようなもんだな。よし、捕まえるか」
「まだ、アリバイが崩せていませんよ。解析結果を待ってからのほうが・・・」
「いや、汚染区域へ侵入したんだ。不法侵入で十分だろ?」
竜崎はマリーに向かって
「紫龍の身柄を拘束するよう伝えてくれ。汚染区域侵入罪の現行犯だ」
と伝えた。
「分かりました」
マリーは、相手に通信を始めた。
「刑法131条、汚染区域侵入罪で逮捕せよとのことです」
鬼神はその言葉を聞いて
「わかった、それではこれから立ち入り禁止区域へと入る」
と言い電話を切った。
鉄柵にはかんぬきが掛けられているが、鍵で固定などはされていないため誰でも開けることができる。鬼神はかんぬきを外すと鉄柵を開けて中へと進んでいった。
エレベーターの入口が見える。案の定、通電はされていない。
「下へ降りる方法は他にはないのか?」
鬼神が電話で問いかけた。
「すみません、そこまでの情報はこちらにもありません」
「わかった、少し探ってみよう」
そう言って、鬼神は周囲を見回した。
そこはちょっとした小部屋のような空間になっていた。しかし、天井はない。床には縦横1mくらいの大きさの白いタイルが敷き詰められている。壁も真っ白で、目の前にはエレベーター用の青い扉が3つ並んでいる。
右側に、鉄の扉が見える。鬼神はその扉に近づき開けようとしたが、鍵がかかっていて開かない。指紋認証で開く扉のようだが、そもそも通電されていないので今は誰も開けられないはずだ。
エレベーターの扉を調べてみる。左右に開くタイプの、一般的な扉だ。
鬼神は、試しに扉をこじ開けてみた。扉はすんなりと開いた。
中は真っ暗な空間があり、ライトで下を照らしてみたが、底には何も見えない。構造を見る限り、普通の磁力エレベーターだ。足を掛けることのできそうな箇所はない。ここから下へ降りたとは考えにくかった。
他には扉は見当たらない。鬼神は上を見上げたまま考え込んでしまった。
暗闇の中、紫龍は息を潜めて座っている。
ライトは消した状態だ。万が一、ハンターに見つかるのを恐れていたのだ。もし、ハンターに見つかれば全ては終わる。スリーパーとなり、常人を超える力を手に入れたとはいえ、百戦錬磨のハンターにかなうとは思っていなかった。
ハンターが現れたら、気づかれないように逃げるつもりでいた。あと数日の間、逃げ切れば自分の勝ちだ。
周囲には、たくさんの死体が転がっている。感染していたのか、それとも感染した人間に殺されたのか。すぐに楽になるなら、その方がいいだろう。病の恐怖に怯えながら、ここで緩慢な死を迎えた人間もいるのかも知れない。
人々は病を恐れた。それは紫龍も同じだ。できるだけ感染源には接触することのないように気をつけていた。だから、自分は病とは無縁だと考えていた。結婚し、一人娘が産まれ、幸せだった紫龍に突然、思いがけないことが起こった。妻が病を発症したのだ。
急にひどい頭痛に苛まれ、じっとしていられなくなる。病院に着いた時には、すでに狂人のように暴れだし手が付けられなかった。検査の結果、『超人症』であることがわかった。
妻は隔離室に入れられ、一晩中、狂ったように暴れまわった。隔離室は特殊な白いクッションで覆われているにもかかわらず、妻の手足は折れ曲がり、骨まで見えていた。
「残念ですが、奥さんは助かる見込みはありません。このまま自傷行為を続け、死を待つだけです。ハンターの手で安楽死を遂げることもできますが、どうされますか?」
翌日の朝、医者にそう告げられる。美しかった妻の変わり果てた姿を正視することができず、紫龍はすぐに安楽死を受け入れた。安楽死の方法は、ガスや薬物などではなく、もっと物理的な方法、簡単に言えば首の骨を折るというものだった。
当然、紫龍は娘とともに検査にかけられた。結果は陽性だった。自分だけでなく、娘までもだ。
超人症は、体液により感染する。自分と妻のどちらが感染源だったのかはわからなかった。娘がはじめから感染した状態で産まれたのか、それとも産まれてから感染したのか、それも不明だった。
それが分かったのは妻が亡くなった一週間後。病院の中で警察から告げられた内容を聞いて、紫龍は愕然とした。
『進化の選択』は、当時広く信者を集めていた教団であった。その教団が主催した大きな集会の中で振る舞われたワインに、感染者の血液が混ぜられていたのだ。友人に誘われ、紫龍はその集会に参加していた。胡散臭い集団だとは思っていたが、まさかその時に飲んだワインが感染源であるとは想像もしていなかった。つまり、自分が最初の感染者だったわけである。
感染してからの潜伏期間はバラバラだ。感染後すぐに発症する者もいれば、数年の間まったく気づかない場合もある。娘が発症したのは、病院に隔離されてから約1年後、そしてさらに1年が経過して、紫龍が発症した。
幸運にも、2人とも発症したものの、脳が冒されることはなく超人的な力だけが授けられた。スリーパーとして生きていくことになったのだ。
しかし、スリーパーがまともに暮らしていくことなどできない。必要最小限の生活が保障されるだけだ。娘は学校へ行くこともできない。友達など得られるはずもない。紫龍は、娘にこの呪われた血を授けてしまった自分を責めた。妻と同じ緑青色の瞳を見る度に、罪の意識に苛まれた。娘のためなら何でもする。そう誓った結果、もはや戻ることのできない道を進んでしまった。
目を開けていても、周りは暗闇の中、目の前にかざした自分の手さえ見ることはできない。紫龍はぼんやりと前を向いて座っていた。
暗闇の中、白いもやが目の前に漂っているのを見つけた。
それは徐々にはっきりとした輪郭を持つようになり、やがて人だと分かるようになった。這いつくばり、手だけでこちらに近づいてくる。
それは妻の顔だった。穏やかに微笑んだまま、前へ進み続ける。
紫龍は恐ろしくなった。しかし、その姿から目を離すことができない。
突然、顔が豹変した。瞳が怪しく光り、口を大きく開けて自分へと迫ってくる。
ついに足をとらえ、なおも自分へと向かってくる妻から、紫龍は逃げることができなかった。
妻の顔が自分の目の前にある。狂気に歪んだ顔だ。緑青色の瞳は焦点が合わず、大きく開いた口からは泡が吹き出ていた。
紫龍は身動きが取れなかった。顔を背けることもできなかった。
(やめてくれ・・・)
自分の発した声が聞こえない。これは夢だ。紫龍はそう思ったが、身体に覆いかぶさった妻の体の重みははっきりと感じ取っていた。
(助けてくれ・・・)
妻がすっと下を向いた。岸に上がった海藻のように固まって束になった黒髪が自分の胸の上を覆った。妻が顔を上げた。それは妻ではない。それは娘の狂気に歪んだ顔であった。
「うああ!」
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