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第一の殺人
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夜の公園は静まり返っていた。
石畳で舗装された道を、街燈の灯りがやさしく照らしている。たくさんの木々が道を囲い、枝葉が空を覆っていた。涼やかな風が葉を揺らし、軽やかな音を奏でる。
公園の中央には、淡く光り輝く筒状の建造物が天高く伸びていた。その滑らかな表面は無機質で、周囲の木々とは全く調和していない。地上に自動ドアがあるのを見るに、人が出入りできるものだろうか。
その自動ドアが開き、中の灯りが地面の石畳を照らした。子犬が一匹、石畳の道に飛び出し、その後を一人の若い女性が付いていく。
「パムちゃん、そんなに走ったらすぐに疲れちゃうわよ」
誰もいない公園の中、子犬に引かれながら、女性は足早に歩いていた。彼女にとっては、これが毎日の日課だった。深夜、人気のない公園を愛犬といっしょに散歩する。帰ったらシャワーを浴びて、パックをしながら歯磨き、ナイトクリームで肌を保護してそのまま就寝。そんなルーチン・ワークで一日が終わるはずだった。
パムが突然立ち止まった。地面のにおいを嗅ぎながら、道を外れて木々の生い茂る中を進もうとする。
「どこに行くつもり?」
こんな時、いつも彼女は無理に元の道へと戻そうとせず、子犬の好きなように歩かせていた。この日も、気まぐれな子犬が進むがままに、林の中へと入っていった。暗がりの中でも大丈夫なようにライトはいつも持参している。そのライトを点けて子犬の行く先を照らした。
暗い林の中は、木の幹が不気味に青白く光り、あまり長居はしたくない場所だ。
「パムちゃん、そろそろ戻ろう」
そう話しかけながらも、子犬の進む先へと歩いていくと、ライトの光の中で何かが見えた。はじめは黒いボールかと思ったが、近づいてよく見ると黒いものは髪の毛だ。かつらでも落ちているのだろうかと、かがんで目を近づけてみる。
彼女は、それが何であるかを理解した瞬間、金切り声を上げて逃げ出した。子犬が引きずられ、悲鳴のような声で鳴いた。彼女は我に返り、慌てて子犬を抱きかかえて道の方へと走っていく。彼女が見たもの、それは人間の頭部だったのである。
「これはひどいな」
ライトに照らされて、あたりは昼のように明るくなった。男の足元には、哀れな犠牲者の頭の部分が落ちている。それは、上顎から上の部分しかなく、目は無残にも潰されていた。その近くには胴体が倒れている。下顎からは舌が露出して垂れ下がっていた。
「目を潰した上に、口の中に手を突っ込んで裂いたみたいだな」
よれよれのトレンチコートを羽織ったその男は、鋭い目で遺体を見ながら吐き捨てるように言った。
「第一発見者は?」
「子犬ですよ、竜崎さん」
もう一人の背広を着た男が答えた。
「子犬?」
「ええ、子犬が死体を探し当てたんだそうです」
「飼い主は?」
「話せる状態じゃありません。よほどショックだったんでしょうね」
「これを見れば正気でいろという方が無理か。よく通報できたな」
「いや、最初は何を言っているのかさっぱり分からなかったそうですよ」
2人が話しているとき、また別の者が近づいてきた。
「ああ、やっと来たか」
2人の下へとやって来たのは一人の女性だった。端正な顔立ちだが、どこか人間味がない。無表情な顔で
「お待たせしました、竜崎さんに、浜本さん。これが死体ですね」
と話しかけてきた。
「ああ、まずは検死を頼む」
その女性は、死体のそばにしゃがんで調べ始めた。
「死体の硬直具合から見て、死後6から12時間の間でしょう」
「口から裂かれたようだが」
「そうですね。恐ろしい力です」
そう言いながら、女性は死体の手を調べた。
「爪に皮膚などは付着していませんね」
「被害者は誰だ?」
女性は、死体の上着にあるポケットを探った。
「IDカードがありました。佐島太一、19744292ですね。照合します」
そう言ったきり、女性は動かなくなった。
「手で口を裂いてしまうとなると、インフェクター(感染者)が犯人のような気がするが、それにしては死体の損傷が少ないな」
竜崎という名の男が口を開いた。
「そうですね。もしかしてスリーパー(潜伏者)じゃないですか?」
背広姿の男が応える。この男が浜本だろう。
「もしそうなら厄介だな」
2人が話をしていると、女性が立ち上がって近づいてきた。
「被害者は、この公園の管理者です。おそらく、仕事中に何者かに殺されたのでしょう」
「公園の中にある監視カメラに何か映っていないのか?」
「少し前から解析を始めています」
「さすがだな」
しばらく待っていると、女性が竜崎に顔を向けた。
「監視カメラの映像から、被害者の殺された時刻がある程度わかりました。夕方の4時頃に殺害されたようです」
「10時間前か。検死の結果とも合うな」
「殺害時の映像は残っていません。同時刻に近くにいた者は・・・」
女性が話を続けるのを、2人はじっと待っていた。
「見つかりませんでした」
「夕方頃なら人もいるだろう?」
「4時前後に公園内にいた者は17名。そのいずれも、殺害された時刻に現場の近くにいる確率はほぼゼロパーセントです」
「すると、犯人はカメラに映らないように行動していたということになるな」
「おそらく、そうでしょう」
竜崎は、女性の返事を聞いた後、上を向いてしばらく考え込んでいた。
「ところで、ゲートはもう封鎖されているのか?」
浜本が女性に尋ねた。
「はい、念のため」
「インフェクターでなければ、もうこのエリアにはいないだろう」
竜崎は上を向いたまま口を開いた。
「そうですね」
女性は無表情なまま答えた。
「エレベーターにも監視カメラはあるんだよな」
「はい、あります」
「その監視カメラに映っていたのも17名だけということだな」
「その通りです」
「ということは、犯人はエレベーターは使っていない」
竜崎は、浜本へ視線を向けて言った。
「つまり、外周道路から侵入したと?」
浜本の言う外周道路は、公園の周りにある車用の道のことだ。
「ああ、それなら監視カメラに映らずに侵入できるだろう」
「しかし、公園内の監視カメラに全く映らず移動できますかね?」
「ひとつだけ手があるよ」
竜崎はそう言って上を指差した。
「なるほど、木を伝って移動するということですか」
浜本が上を向いて答えた。
「公園の周りの道に停車した車はどれくらいある?」
竜崎は女性に尋ねた。
「お待ち下さい」
女性が動かなくなると、2人は女性が再び話し始めるのを待った。
「午後4時以前にさかのぼって停車した車がないか探しましたが、朝の8時頃に一台だけありました」
「誰が乗っていたんだ?」
「監視カメラの映像から判断すると・・・被害者の佐島太一です」
竜崎は、女性から視線を外して肩をすくめた。
「前日に停車した車も一台だけ、これも被害者のようですね。佐島は毎日、車で出勤していたようです」
「つまり、犯人は車を使っていないということだな?」
「そういうことになりますね」
竜崎は、腕を組んで考え込んでしまった。
「ところで、人間が公園の管理をしていたというのも珍しいですね」
浜本が、ふと気づいたようにつぶやいた。
「そうでもないさ。こういう自然の中で働きたいという人間は結構多い」
「自ら希望して働いているということですか」
「そうだな。公園で働いているのは、半分が人間、もう半分がアンドロイドといったところだ」
浜本は、納得したような顔で首を縦に振った。
「周囲に、手掛かりになるようなものは落ちてないか?」
竜崎は女性に向かって尋ねた。
「今から調べます」
女性が死体の近くへと移動するのを見ながら、竜崎は
「犯人は監視カメラを避けて行動している。インフェクターがそんな芸当をするはずがない」
と浜本に話しかけた。
「人間の仕業ということはないですか?」
「怪力の持ち主ならできないことはないだろうな。しかし、わざわざこんな殺し方をする理由が分からん」
「それはスリーパーだとしても同じですよね」
竜崎はボサボサの頭を掻きながら
「まあな」
とだけ答えた。
やがて女性といっしょに2人も周囲を調べ始めた。
しかし、被害者が持参していた清掃用具やゴミ袋以外にめぼしいものは何もない。
「足跡すらない。手掛かりは何もなしか・・・」
「あとは、被害者の身体に犯人の血痕などが残っていないか調べるしかなさそうです」
女性は2人にそう伝えた。
「わかった。もう、記録は録ったんだよな?」
「はい、完了しています」
「ごくろうさん。じゃあ、死体を運んでもらうか」
しばらくして、死体を運搬する係が2名、遺体収納袋と担架を持って現れた。
その背後からもう一人、男が近づいてきた。
その男は、青白い顔に無精髭を生やし、栗色の長い髪が肩のあたりまで伸びている。赤銅色の目から放たれる鋭い眼光で、竜崎と浜本は射抜かれたように動けなくなった。
「インフェクターが現れたと聞いたのだが」
男は竜崎たちに尋ねた。
「あんた、ハンターか?」
「そうだ」
竜崎の質問に、男はうなずいて答えた。
「どうやらインフェクターではなさそうだ」
「まだ、誰が犯人か分かっていないのか?」
「ああ、相手はかなり用意周到なやつだ」
男はしばらく目を伏せた後
「俺は何をすればいい?」
と尋ねた。
「今は何もしなくていいよ。えっと、名前は?」
「鬼神だ」
「あんたが・・・」
竜崎は息を呑んだ。
竜崎と浜本は刑事だ。人間の犯罪は彼らの専門だが、インフェクターやスリーパーが相手の場合、捕らえるのはハンターの仕事となる。刑事とハンターが相対することはまずない。特に理由のない限り接触はしないというのが暗黙のルールとなっていたからだ。竜崎も浜本も、鬼神に直接会ったのは初めてだった。しかし、その名は2人ともよく知っていた。それはある事件がきっかけなのだが。
「鬼神さん」
鬼神の後ろから女性の声がした。先ほど現場を捜査していた女性だ。
「マリーか。久しぶりだな」
「ご無沙汰しております、マリーです。あなたをお呼びしたのは私です」
女性は、申し訳なさそうな表情をした。どことなくぎこちなく感じるのは気のせいだろうか。
「申し訳ありません。インフェクターが出現した可能性があってご連絡したのですが、どうやら違うみたいですわ。ゲートの封鎖も解除しました」
「ということは、御役御免ということかな?」
鬼神はうっすらと笑みを浮かべた。
「そういうことになります。もう、お帰り下さっても大丈夫です」
「どんな事件だったんだい?」
鬼神の言葉に、竜崎が
「この公園の管理者が殺された。死体の損傷からみて、スリーパーが犯人じゃないかと思っている」
と口を挟んだ。
「スリーパー・・・」
鬼神が竜崎の方を向いた。
「全員を調べてみるつもりか?」
「まあ、そうなるかも知れんな」
「犯人が未登録のやつだったら?」
「そうでないことを祈るだけさ」
鬼神は、目を伏せてしばらく考えていたが、もう一度鋭い目を竜崎へ向けた。
「どうしてスリーパーだと?」
「被害者は口から裂かれている。こんな事ができるのはスリーパーかインフェクターしかいないだろう。そして手掛かりは何も残していない。かなり用心深いやつだ」
「スリーパーの仕業に見せかけているという可能性は?」
「ゼロではないだろうな。しかし、口に手を突っ込んで裂くなんて、よほどの怪力だぞ」
「殺してから口を裂くのなら可能だろう?」
「何のために?」
「それは分からんさ」
「口腔から首にかけての切断と眼球の挫傷の他には外傷がありません。それに、頸動脈から大量の血液が流れた跡もあるので、死因は首の切断に間違いないと思われます」
マリーが鬼神に説明した。
「生きたまま口を裂いたということか。ひどいな」
鬼神がつぶやいた。
「まずは、被害者の知り合いにスリーパーがいないか当たってみよう」
竜崎が浜本に声を掛けた。
「そうですね」
浜本が応えた後、マリーが
「私は、被害者の動向が監視カメラに残っていないか調べてみます」
と竜崎に伝え、去っていった。
「では、俺はとりあえず戻るよ」
鬼神はそう言って現場を去ろうとした。
「なあ、ひとつだけ聞きたいことがあるんだが」
竜崎が鬼神を引き止めた。
「なんだ?」
「犯人は、監視カメラには全く映ることなくここまでたどり着いたようなんだ。どうやってここまで来たと思う?」
鬼神は上を向いて
「俺なら木を伝ってここまで来るだろうな」
と答えた。
「やはり、それしか手はないかな?」
「だが、それだけでは無理だろうな」
「どういう意味だ?」
「監視カメラの位置をあらかじめ把握しておく必要があるだろう。カメラの位置も知らずに侵入したとはとても思えない」
「つまり、監視カメラのある場所を知ることのできる者の仕業ということか」
「あらかじめ下見してカメラの位置を探るという手もあるが、無駄に顔をさらすようなものだから、そんなことはしてないだろう。権限を持っている者ならシステムを調べるほうが手っ取り早い」
「なるほど・・・」
竜崎は顎をさすりながら考え込んだ。
「じゃあ、失礼するよ」
鬼神はそう言ってその場を立ち去った。
「さて、犯人はどこから公園に入ったか、だな」
竜崎は、公園の外周にある道路を眺めながら口を開いた。
「外周の歩道には監視カメラが張り巡らされています。必ずどこかに映るはずですけどね」
浜本が、タブレットに映された画像を見ながら応える。
「マリーは公園内のカメラしかチェックしていなかったのか?」
「そんなことはないと思いますよ。彼女も長い間ここにいますからね。そんなヘマはしませんよ」
「じゃあ、どうやって犯人は公園に侵入したんだ?」
侵入経路がわかれば、その付近の監視カメラの映像を解析すれば犯人が映っているかも知れない。竜崎は、そう考えていた。
「このエリアに入るためのエレベーターは、中央以外にはありません。車を使っていないということは、入ることのできるルートはなさそうですがね」
浜本の言葉に、竜崎は頭を掻きながら大きなため息をついた。
「それにしても、この公園、監視カメラが多いですね」
浜本が、タブレットを見ながら竜崎に話しかけた。
「知らないのか? 公園は子供の誘拐や性犯罪が起こりやすいから、監視カメラが多いのは当然だ」
「いや、それは知ってますよ。どうして犯人はわざわざ監視カメラの多い公園を選んだんでしょうかね?」
「確かに、監視カメラに映る危険を冒して公園で殺害するくらいなら、自宅に行って殺した方が安全だな。居住区は、プライバシーの問題があるから監視カメラも少ない」
「我々に挑戦しているようにも思えますね」
「もしそうなら、殺す相手は誰でもよかったのかもしれないな」
「つまり、また起こる可能性があると」
浜本の言葉に、竜崎はまた、大きなため息をついた。
鬼神は、車の中で椅子にもたれかかり、目を閉じていた。
車は自動制御で、目的地まで最適なルートで移動してくれる。
「間もなく、目的地です」
ナビゲーターの合成音声が鳴り響くと、鬼神はゆっくりと目を開けた。
何気なく胸のポケットに手を入れ、小さく折りたたまれたシートを取り出した。それを開くと、シートに一枚の写真が表示される。どうやら、折りたたみ式のディスプレイらしい。その写真には、鬼神の隣に微笑んだ女性、そして2人の間で女の子が笑みを浮かべていた。しばらく、その写真をじっと眺めていた鬼神は、ディスプレイに向かって話しかけた。
「風呂に湯張りしておいてくれ」
「承知しました」
ディスプレイから声がした。どういう仕組みで音を鳴らしているのだろうか。
鬼神はディスプレイに表示された時計を見た。すでに時刻は3時を過ぎていた。
「今日は何も予定はなかったな」
「はい、何もありません」
「目覚ましは鳴らさなくていい」
「タイマー、解除しました」
車が停止した。目的地へ着いたようだ。
ドアが自動的に開き、鬼神が車を降りると、車はそのまま走り去ってしまった。
目の前にエレベーターの扉がある。ボタンを押し、やがて扉が開くと、鬼神は中へと入っていった。
扉が静かに閉まり、あたりは静寂に包まれた。
捜査は、暗礁に乗り上げていた。
被害者にスリーパーとのつながりはなく、トラブルになったという話もない。
殺害時間の前後に公園にいた者に聞き込みを行ったが、有力な情報も得られない。
手掛かりになるようなものも、全く残されていない。
「侵入経路がわかれば、手がかりがつかめるかも知れないんだがな」
竜崎は頭を掻きながら、いらついた声で浜本に話しかけた。
「犯人は、まず目を潰したそうですね。それから口を裂いたと」
浜本が、書類に目を通しながら竜崎に応えた。
「ああ、俺もそれが気になってな」
「顔を見られたくなかったんですかね」
「殺害に失敗したときのことを恐れていたのか?」
2人が話しているところにマリーが現れた。
「竜崎さん、浜本さん、スリーパー全員のトレースが完了しました」
無表情な顔でマリーは2人にそう伝えた。
「どうだった? 怪しそうな奴は見つかったか?」
「現在登録されているスリーパー117人のうち、事件に関与できる可能性のあるものは89人います」
竜崎は、その言葉を聞いて浜本の顔を見た。浜本も、竜崎の顔を見ている。
「犯人は車は使ってないんだぜ。あの公園の近くにいたスリーパーがそんなにいたということか?」
「いいえ、大半は監視カメラに映っていないためです」
竜崎が頭を掻きながら
「現場の近くにいたスリーパーは何人いる?」
とマリーに尋ねた。
「ゼロです」
マリーは即座に答えた。
石畳で舗装された道を、街燈の灯りがやさしく照らしている。たくさんの木々が道を囲い、枝葉が空を覆っていた。涼やかな風が葉を揺らし、軽やかな音を奏でる。
公園の中央には、淡く光り輝く筒状の建造物が天高く伸びていた。その滑らかな表面は無機質で、周囲の木々とは全く調和していない。地上に自動ドアがあるのを見るに、人が出入りできるものだろうか。
その自動ドアが開き、中の灯りが地面の石畳を照らした。子犬が一匹、石畳の道に飛び出し、その後を一人の若い女性が付いていく。
「パムちゃん、そんなに走ったらすぐに疲れちゃうわよ」
誰もいない公園の中、子犬に引かれながら、女性は足早に歩いていた。彼女にとっては、これが毎日の日課だった。深夜、人気のない公園を愛犬といっしょに散歩する。帰ったらシャワーを浴びて、パックをしながら歯磨き、ナイトクリームで肌を保護してそのまま就寝。そんなルーチン・ワークで一日が終わるはずだった。
パムが突然立ち止まった。地面のにおいを嗅ぎながら、道を外れて木々の生い茂る中を進もうとする。
「どこに行くつもり?」
こんな時、いつも彼女は無理に元の道へと戻そうとせず、子犬の好きなように歩かせていた。この日も、気まぐれな子犬が進むがままに、林の中へと入っていった。暗がりの中でも大丈夫なようにライトはいつも持参している。そのライトを点けて子犬の行く先を照らした。
暗い林の中は、木の幹が不気味に青白く光り、あまり長居はしたくない場所だ。
「パムちゃん、そろそろ戻ろう」
そう話しかけながらも、子犬の進む先へと歩いていくと、ライトの光の中で何かが見えた。はじめは黒いボールかと思ったが、近づいてよく見ると黒いものは髪の毛だ。かつらでも落ちているのだろうかと、かがんで目を近づけてみる。
彼女は、それが何であるかを理解した瞬間、金切り声を上げて逃げ出した。子犬が引きずられ、悲鳴のような声で鳴いた。彼女は我に返り、慌てて子犬を抱きかかえて道の方へと走っていく。彼女が見たもの、それは人間の頭部だったのである。
「これはひどいな」
ライトに照らされて、あたりは昼のように明るくなった。男の足元には、哀れな犠牲者の頭の部分が落ちている。それは、上顎から上の部分しかなく、目は無残にも潰されていた。その近くには胴体が倒れている。下顎からは舌が露出して垂れ下がっていた。
「目を潰した上に、口の中に手を突っ込んで裂いたみたいだな」
よれよれのトレンチコートを羽織ったその男は、鋭い目で遺体を見ながら吐き捨てるように言った。
「第一発見者は?」
「子犬ですよ、竜崎さん」
もう一人の背広を着た男が答えた。
「子犬?」
「ええ、子犬が死体を探し当てたんだそうです」
「飼い主は?」
「話せる状態じゃありません。よほどショックだったんでしょうね」
「これを見れば正気でいろという方が無理か。よく通報できたな」
「いや、最初は何を言っているのかさっぱり分からなかったそうですよ」
2人が話しているとき、また別の者が近づいてきた。
「ああ、やっと来たか」
2人の下へとやって来たのは一人の女性だった。端正な顔立ちだが、どこか人間味がない。無表情な顔で
「お待たせしました、竜崎さんに、浜本さん。これが死体ですね」
と話しかけてきた。
「ああ、まずは検死を頼む」
その女性は、死体のそばにしゃがんで調べ始めた。
「死体の硬直具合から見て、死後6から12時間の間でしょう」
「口から裂かれたようだが」
「そうですね。恐ろしい力です」
そう言いながら、女性は死体の手を調べた。
「爪に皮膚などは付着していませんね」
「被害者は誰だ?」
女性は、死体の上着にあるポケットを探った。
「IDカードがありました。佐島太一、19744292ですね。照合します」
そう言ったきり、女性は動かなくなった。
「手で口を裂いてしまうとなると、インフェクター(感染者)が犯人のような気がするが、それにしては死体の損傷が少ないな」
竜崎という名の男が口を開いた。
「そうですね。もしかしてスリーパー(潜伏者)じゃないですか?」
背広姿の男が応える。この男が浜本だろう。
「もしそうなら厄介だな」
2人が話をしていると、女性が立ち上がって近づいてきた。
「被害者は、この公園の管理者です。おそらく、仕事中に何者かに殺されたのでしょう」
「公園の中にある監視カメラに何か映っていないのか?」
「少し前から解析を始めています」
「さすがだな」
しばらく待っていると、女性が竜崎に顔を向けた。
「監視カメラの映像から、被害者の殺された時刻がある程度わかりました。夕方の4時頃に殺害されたようです」
「10時間前か。検死の結果とも合うな」
「殺害時の映像は残っていません。同時刻に近くにいた者は・・・」
女性が話を続けるのを、2人はじっと待っていた。
「見つかりませんでした」
「夕方頃なら人もいるだろう?」
「4時前後に公園内にいた者は17名。そのいずれも、殺害された時刻に現場の近くにいる確率はほぼゼロパーセントです」
「すると、犯人はカメラに映らないように行動していたということになるな」
「おそらく、そうでしょう」
竜崎は、女性の返事を聞いた後、上を向いてしばらく考え込んでいた。
「ところで、ゲートはもう封鎖されているのか?」
浜本が女性に尋ねた。
「はい、念のため」
「インフェクターでなければ、もうこのエリアにはいないだろう」
竜崎は上を向いたまま口を開いた。
「そうですね」
女性は無表情なまま答えた。
「エレベーターにも監視カメラはあるんだよな」
「はい、あります」
「その監視カメラに映っていたのも17名だけということだな」
「その通りです」
「ということは、犯人はエレベーターは使っていない」
竜崎は、浜本へ視線を向けて言った。
「つまり、外周道路から侵入したと?」
浜本の言う外周道路は、公園の周りにある車用の道のことだ。
「ああ、それなら監視カメラに映らずに侵入できるだろう」
「しかし、公園内の監視カメラに全く映らず移動できますかね?」
「ひとつだけ手があるよ」
竜崎はそう言って上を指差した。
「なるほど、木を伝って移動するということですか」
浜本が上を向いて答えた。
「公園の周りの道に停車した車はどれくらいある?」
竜崎は女性に尋ねた。
「お待ち下さい」
女性が動かなくなると、2人は女性が再び話し始めるのを待った。
「午後4時以前にさかのぼって停車した車がないか探しましたが、朝の8時頃に一台だけありました」
「誰が乗っていたんだ?」
「監視カメラの映像から判断すると・・・被害者の佐島太一です」
竜崎は、女性から視線を外して肩をすくめた。
「前日に停車した車も一台だけ、これも被害者のようですね。佐島は毎日、車で出勤していたようです」
「つまり、犯人は車を使っていないということだな?」
「そういうことになりますね」
竜崎は、腕を組んで考え込んでしまった。
「ところで、人間が公園の管理をしていたというのも珍しいですね」
浜本が、ふと気づいたようにつぶやいた。
「そうでもないさ。こういう自然の中で働きたいという人間は結構多い」
「自ら希望して働いているということですか」
「そうだな。公園で働いているのは、半分が人間、もう半分がアンドロイドといったところだ」
浜本は、納得したような顔で首を縦に振った。
「周囲に、手掛かりになるようなものは落ちてないか?」
竜崎は女性に向かって尋ねた。
「今から調べます」
女性が死体の近くへと移動するのを見ながら、竜崎は
「犯人は監視カメラを避けて行動している。インフェクターがそんな芸当をするはずがない」
と浜本に話しかけた。
「人間の仕業ということはないですか?」
「怪力の持ち主ならできないことはないだろうな。しかし、わざわざこんな殺し方をする理由が分からん」
「それはスリーパーだとしても同じですよね」
竜崎はボサボサの頭を掻きながら
「まあな」
とだけ答えた。
やがて女性といっしょに2人も周囲を調べ始めた。
しかし、被害者が持参していた清掃用具やゴミ袋以外にめぼしいものは何もない。
「足跡すらない。手掛かりは何もなしか・・・」
「あとは、被害者の身体に犯人の血痕などが残っていないか調べるしかなさそうです」
女性は2人にそう伝えた。
「わかった。もう、記録は録ったんだよな?」
「はい、完了しています」
「ごくろうさん。じゃあ、死体を運んでもらうか」
しばらくして、死体を運搬する係が2名、遺体収納袋と担架を持って現れた。
その背後からもう一人、男が近づいてきた。
その男は、青白い顔に無精髭を生やし、栗色の長い髪が肩のあたりまで伸びている。赤銅色の目から放たれる鋭い眼光で、竜崎と浜本は射抜かれたように動けなくなった。
「インフェクターが現れたと聞いたのだが」
男は竜崎たちに尋ねた。
「あんた、ハンターか?」
「そうだ」
竜崎の質問に、男はうなずいて答えた。
「どうやらインフェクターではなさそうだ」
「まだ、誰が犯人か分かっていないのか?」
「ああ、相手はかなり用意周到なやつだ」
男はしばらく目を伏せた後
「俺は何をすればいい?」
と尋ねた。
「今は何もしなくていいよ。えっと、名前は?」
「鬼神だ」
「あんたが・・・」
竜崎は息を呑んだ。
竜崎と浜本は刑事だ。人間の犯罪は彼らの専門だが、インフェクターやスリーパーが相手の場合、捕らえるのはハンターの仕事となる。刑事とハンターが相対することはまずない。特に理由のない限り接触はしないというのが暗黙のルールとなっていたからだ。竜崎も浜本も、鬼神に直接会ったのは初めてだった。しかし、その名は2人ともよく知っていた。それはある事件がきっかけなのだが。
「鬼神さん」
鬼神の後ろから女性の声がした。先ほど現場を捜査していた女性だ。
「マリーか。久しぶりだな」
「ご無沙汰しております、マリーです。あなたをお呼びしたのは私です」
女性は、申し訳なさそうな表情をした。どことなくぎこちなく感じるのは気のせいだろうか。
「申し訳ありません。インフェクターが出現した可能性があってご連絡したのですが、どうやら違うみたいですわ。ゲートの封鎖も解除しました」
「ということは、御役御免ということかな?」
鬼神はうっすらと笑みを浮かべた。
「そういうことになります。もう、お帰り下さっても大丈夫です」
「どんな事件だったんだい?」
鬼神の言葉に、竜崎が
「この公園の管理者が殺された。死体の損傷からみて、スリーパーが犯人じゃないかと思っている」
と口を挟んだ。
「スリーパー・・・」
鬼神が竜崎の方を向いた。
「全員を調べてみるつもりか?」
「まあ、そうなるかも知れんな」
「犯人が未登録のやつだったら?」
「そうでないことを祈るだけさ」
鬼神は、目を伏せてしばらく考えていたが、もう一度鋭い目を竜崎へ向けた。
「どうしてスリーパーだと?」
「被害者は口から裂かれている。こんな事ができるのはスリーパーかインフェクターしかいないだろう。そして手掛かりは何も残していない。かなり用心深いやつだ」
「スリーパーの仕業に見せかけているという可能性は?」
「ゼロではないだろうな。しかし、口に手を突っ込んで裂くなんて、よほどの怪力だぞ」
「殺してから口を裂くのなら可能だろう?」
「何のために?」
「それは分からんさ」
「口腔から首にかけての切断と眼球の挫傷の他には外傷がありません。それに、頸動脈から大量の血液が流れた跡もあるので、死因は首の切断に間違いないと思われます」
マリーが鬼神に説明した。
「生きたまま口を裂いたということか。ひどいな」
鬼神がつぶやいた。
「まずは、被害者の知り合いにスリーパーがいないか当たってみよう」
竜崎が浜本に声を掛けた。
「そうですね」
浜本が応えた後、マリーが
「私は、被害者の動向が監視カメラに残っていないか調べてみます」
と竜崎に伝え、去っていった。
「では、俺はとりあえず戻るよ」
鬼神はそう言って現場を去ろうとした。
「なあ、ひとつだけ聞きたいことがあるんだが」
竜崎が鬼神を引き止めた。
「なんだ?」
「犯人は、監視カメラには全く映ることなくここまでたどり着いたようなんだ。どうやってここまで来たと思う?」
鬼神は上を向いて
「俺なら木を伝ってここまで来るだろうな」
と答えた。
「やはり、それしか手はないかな?」
「だが、それだけでは無理だろうな」
「どういう意味だ?」
「監視カメラの位置をあらかじめ把握しておく必要があるだろう。カメラの位置も知らずに侵入したとはとても思えない」
「つまり、監視カメラのある場所を知ることのできる者の仕業ということか」
「あらかじめ下見してカメラの位置を探るという手もあるが、無駄に顔をさらすようなものだから、そんなことはしてないだろう。権限を持っている者ならシステムを調べるほうが手っ取り早い」
「なるほど・・・」
竜崎は顎をさすりながら考え込んだ。
「じゃあ、失礼するよ」
鬼神はそう言ってその場を立ち去った。
「さて、犯人はどこから公園に入ったか、だな」
竜崎は、公園の外周にある道路を眺めながら口を開いた。
「外周の歩道には監視カメラが張り巡らされています。必ずどこかに映るはずですけどね」
浜本が、タブレットに映された画像を見ながら応える。
「マリーは公園内のカメラしかチェックしていなかったのか?」
「そんなことはないと思いますよ。彼女も長い間ここにいますからね。そんなヘマはしませんよ」
「じゃあ、どうやって犯人は公園に侵入したんだ?」
侵入経路がわかれば、その付近の監視カメラの映像を解析すれば犯人が映っているかも知れない。竜崎は、そう考えていた。
「このエリアに入るためのエレベーターは、中央以外にはありません。車を使っていないということは、入ることのできるルートはなさそうですがね」
浜本の言葉に、竜崎は頭を掻きながら大きなため息をついた。
「それにしても、この公園、監視カメラが多いですね」
浜本が、タブレットを見ながら竜崎に話しかけた。
「知らないのか? 公園は子供の誘拐や性犯罪が起こりやすいから、監視カメラが多いのは当然だ」
「いや、それは知ってますよ。どうして犯人はわざわざ監視カメラの多い公園を選んだんでしょうかね?」
「確かに、監視カメラに映る危険を冒して公園で殺害するくらいなら、自宅に行って殺した方が安全だな。居住区は、プライバシーの問題があるから監視カメラも少ない」
「我々に挑戦しているようにも思えますね」
「もしそうなら、殺す相手は誰でもよかったのかもしれないな」
「つまり、また起こる可能性があると」
浜本の言葉に、竜崎はまた、大きなため息をついた。
鬼神は、車の中で椅子にもたれかかり、目を閉じていた。
車は自動制御で、目的地まで最適なルートで移動してくれる。
「間もなく、目的地です」
ナビゲーターの合成音声が鳴り響くと、鬼神はゆっくりと目を開けた。
何気なく胸のポケットに手を入れ、小さく折りたたまれたシートを取り出した。それを開くと、シートに一枚の写真が表示される。どうやら、折りたたみ式のディスプレイらしい。その写真には、鬼神の隣に微笑んだ女性、そして2人の間で女の子が笑みを浮かべていた。しばらく、その写真をじっと眺めていた鬼神は、ディスプレイに向かって話しかけた。
「風呂に湯張りしておいてくれ」
「承知しました」
ディスプレイから声がした。どういう仕組みで音を鳴らしているのだろうか。
鬼神はディスプレイに表示された時計を見た。すでに時刻は3時を過ぎていた。
「今日は何も予定はなかったな」
「はい、何もありません」
「目覚ましは鳴らさなくていい」
「タイマー、解除しました」
車が停止した。目的地へ着いたようだ。
ドアが自動的に開き、鬼神が車を降りると、車はそのまま走り去ってしまった。
目の前にエレベーターの扉がある。ボタンを押し、やがて扉が開くと、鬼神は中へと入っていった。
扉が静かに閉まり、あたりは静寂に包まれた。
捜査は、暗礁に乗り上げていた。
被害者にスリーパーとのつながりはなく、トラブルになったという話もない。
殺害時間の前後に公園にいた者に聞き込みを行ったが、有力な情報も得られない。
手掛かりになるようなものも、全く残されていない。
「侵入経路がわかれば、手がかりがつかめるかも知れないんだがな」
竜崎は頭を掻きながら、いらついた声で浜本に話しかけた。
「犯人は、まず目を潰したそうですね。それから口を裂いたと」
浜本が、書類に目を通しながら竜崎に応えた。
「ああ、俺もそれが気になってな」
「顔を見られたくなかったんですかね」
「殺害に失敗したときのことを恐れていたのか?」
2人が話しているところにマリーが現れた。
「竜崎さん、浜本さん、スリーパー全員のトレースが完了しました」
無表情な顔でマリーは2人にそう伝えた。
「どうだった? 怪しそうな奴は見つかったか?」
「現在登録されているスリーパー117人のうち、事件に関与できる可能性のあるものは89人います」
竜崎は、その言葉を聞いて浜本の顔を見た。浜本も、竜崎の顔を見ている。
「犯人は車は使ってないんだぜ。あの公園の近くにいたスリーパーがそんなにいたということか?」
「いいえ、大半は監視カメラに映っていないためです」
竜崎が頭を掻きながら
「現場の近くにいたスリーパーは何人いる?」
とマリーに尋ねた。
「ゼロです」
マリーは即座に答えた。
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