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暗黒の鎖
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ただ黙々と、六人は前に進む。誰もが悲嘆に暮れていた。信じられない話であったのだ。伊吹は、お蘭の命を奪おうとして失敗し、外へ逃げたところを捕らえられた。お蘭を狙う理由は明らかである。お蘭が死ねば雪花も消える。これで、最も厄介な敵を葬ることができるのだ。自分にとっては都合がよい。
「源兵衛殿、少し休憩をとらないか? お蘭を休ませる必要がありそうだ」
背後からの蒼龍の声に気づき、源兵衛は立ち止まって後ろを振り返った。蒼龍とお蘭は、他の者からだいぶ離れたところを歩いている。お蘭はかなり疲れた様子だった。お菊が慌てて二人の下へ駆けつけた。
「これはすまないことをした、お蘭殿。気を配ることができなんだ」
ようやく追いついたお蘭に、源兵衛は頭を下げた。お蘭は首を横に振って
「いいえ、私こそ、皆さんの足を引っ張ってばかりでごめんなさい」
と謝る。その息は荒く、かなり辛かったことが誰の目にも明らかだった。
「蒼龍殿、もっと早く声を掛けてもよかったのに」
「いや、すまない。お蘭が大丈夫だと言うから、無理をさせすぎてしまった」
お松に指摘され、蒼龍が頭を掻きながら申し訳なさそうに答える。
「とにかく、少し休憩しましょう。もう、いくつ山を越え続けたか覚えてないわ」
お菊が笑顔を振りまいた。今までの憂いに沈んだ雰囲気が、少し晴れやかになったようだ。
峠まではもう少しで到着できるだろうか。緑に囲まれた山の間から、不規則に配置された漁村の家々が見える。村の向こうには空色の海、その上に小さな山が浮かんでいた。
「いい眺めだ。気持ちが落ち着く」
空には大きな白い雲が、風に乗って流れている。その様子を眺めていた蒼龍が、岩の上に腰掛けていたお蘭のほうへ顔を向けた。
「顔色がよくなってきた。だいぶ落ち着いたようだね」
「もう少ししたら、また歩けるようになると思うわ」
お蘭は笑みを浮かべながら答えた。その額からは汗が流れている。
「無理をしてはいけないよ。皆も疲れているだろうから、もうしばらくは休んでいても大丈夫だ」
蒼龍は腰をかがめ、お蘭の顔に手拭いを軽く当てながら
「いろいろあって聞くことができなかったけど、昨夜の夢はどうだった?」
と尋ねた。お蘭は、少し目を見開いてから、目を伏せた。
「お鈴さんに会うことができました」
夢の中でお鈴が語った悲しい現実を、お蘭は蒼龍に全て話した。いつの間にか、他の四人も集まり、耳を傾けていた。
「雪花様、かわいそう・・・」
お菊が涙を流している横で、三之丞は憤慨していた。
「酷い父親だな。己の私欲のために、実の兄を殺していたとは。そのせいで、家族も犠牲になってしまった」
「それでも、やはり倒すことでしか救えないんですね」
お松も涙を堪えていた。雪花に同情する気持ちがあるのだろう。
「このまま、呪いの力に屈して全てを失うよりも、解放されるほうが幸せなのは間違いない。残念ながら、呪いを解く手段はまだ見つかっていないが」
蒼龍は額に手を当て、ため息をついた。
「時三郎殿に再び会う以外の方法はないのだろうか?」
源兵衛が問いかけた。全員が彼の顔に視線を移す。
「それしかないと思うが」
「直接会わずとも、何かに記しておけば伝えることは可能だと思うが」
ニヤリと笑う源兵衛に、蒼龍が眉を上げた。
「では、それを探す必要があるということか?」
「お蘭殿が自分の子孫であると分かっているのなら、確実に引き継ぐことのできる方法がある」
「この短刀ですか?」
お蘭が、懐から刀を取り出した。白銀の宝であり、かつて時三郎も所有していたものである。
「どこかに仕掛けでもあるのか?」
食い入るように見つめる蒼龍を横目に、お蘭は刀を鞘から抜いてつぶさに観察した。刃は青白く輝き、顔を近づけると、周りの空気が冷やされているのか、涼しい風が流れてくる。傷も欠けもなく、見たところ、変わった様子はない。
鞘の方へ目を移す。まるで銀の糸で刺繍したような花模様が美しい。しかし、どの方向から眺めても、仕掛けらしいものは見当たらなかった。
「もう一度、鞘に収めてごらん。鞘と柄の太さは均一かい?」
蒼龍に指示された通りにする。鞘と柄の境に目を凝らすと、柄のほうが僅かに厚かった。
「柄のほうが少し太いわ」
「この刀は間違いなく、全て名工による一級品だ。当然、境目が分からなくなるくらい、太さも均一に仕上げるはずだろう。妙だと思わないか」
「じゃあ、柄に仕掛けが?」
「今までに、目釘を抜いたことはある?」
お蘭は首を横に振った。
「お母さんから言われたの。この刀の目釘は決して抜いてはいけない。いずれその時が来るまで。代々伝わる家訓だって」
「では、今がその時なのだな」
蒼龍は、お蘭に手を差し出した。お蘭から刀を受け取り、刀を鞘から抜いて、目釘を外し始めた。お蘭は心配そうな顔で、蒼龍の作業を見守っている。
「大丈夫だよ。壊すようなことはしないから」
蒼龍は苦笑しながら手を動かす。刃を柄から器用に外し、はめ込まれた銀の装飾金具をゆっくり引き抜いた。
「層が二重になっている」
どうやら、柄全体が非常に薄い層で覆われているらしい。蒼龍は、柄を手のひらに何度か打ちつけてみた。予想通り、中にあった本当の柄が姿を表した。内側の柄はやはり黒塗りだが、外側とは異なり、鞘と同じ銀細工が施されており、見事な鶴の絵が描かれていた。外側の層はない状態で刀を組み立て、刃が抜けたりしないか入念に確認した後、蒼龍はお蘭に刀を返した。
「これこそ、刀の本当の姿だよ。見事な一品だ」
お蘭は、戻ってきた刀をじっと見つめていた。時三郎に見せてもらった刀を思い浮かべているのだろうか。その間に蒼龍は、取り外した柄の中を覗き込んでいる。
「何か入っている」
中に指を突っ込み、そっと引き出してみると、白い紙のようなものが出てきた。それをゆっくり引っ張り出す。信じられないほど薄く、しかし、丈夫で破れることもなかった。
僅かな隙間に入っていたとは思えないほどの大きな紙に、文字がびっしりと書き込まれ、それが折り畳まれていた。蒼龍は、ゆっくりと紙を開き、お蘭に手渡した。
「読む権利は、子孫であるお前にこそある」
蒼龍から受け取った、絹のような肌触りの不思議な紙に書かれた文字を、お蘭は声に出して読み始めた。
『呪いを受けし者よ。やがて生まれてくるであろう、白銀の名を受け継ぐ者よ。
私は時宗と申す。父、時継の偉大な師であった時三郎の遺言に従い、我々は反魂の式を無効にする方法を長い間調べてきた。時継もすでにこの世にはおらず、今は娘とともに、研鑽を積んでいる。
今夜、ついに目的は達成された。この発見を伝えるために、以下に詳細を記す。道は決して平坦なものではないが、必ずや成功させてほしい。
反魂の式によって呪われし者は、他人から魂を半分だけ与えられ偽りの不死になる。現世にある姿は夢幻であり、どんな武器を使っても霞に向かうようなものだ。
長い年月を経て、生贄は今までの記憶も、人としての理性や感情も全て失い、呪いに支配される。お初が呪いの虜と化した後、何が起こるのかは分からない。ただ、はっきりしていることが一つだけある。呪いは意思を持つ。人間に憎悪を抱いている。お初の七宝としての力をその手にした時、呪いは我々に対する大きな災いとなるに違いない』
急に辺りが暗くなった。厚い雲が、陽の光を遮ったのだ。冷たい風が峠の方から流れてきた。お蘭の手が少し震えた。
「大丈夫か、お蘭?」
蒼龍に問われ、お蘭は頭を縦に振ったが、明らかに怯えた目をしている。他の者も少なからず動揺していた。なにか薄気味悪い空気を感じたのだ。まるで、今いる場所が呪われてしまったかのように。
「なんだか怖い」
お菊がか細い声を上げた。お松は不安そうに空を見上げている。源兵衛が、皆を勇気づけようと口を開いた。
「お天道様が雲に隠れただけだ。そんなに恐れる必要は・・・」
突然、源兵衛の声がかき消された。轟音があたりに鳴り響く。
「これはいかん、雷だ。お蘭、読むのは後にしよう。一刻も早く山を下りねば」
呪いを解こうとする蒼龍たちを阻止しようとしているのだろうか。天気の急変に、一行は慌てて行進を再開した。
どんよりとした灰色の空を背景に、隣の大きな山が青白い霧に覆われ、かすれて見える。すでに沈みかけた日の光は、ツヅラト峠にはほとんど届いていなかった。焚き火を囲って、雪花と猪三郎がむき出しの岩に座っている。銀虫は少し離れたところで寝転がり、その隣には伊吹の入った袋が置いてあった。二人とも長い間押し黙っていたが、突然、猪三郎が口を開いた。
「ところで、どんな舞台を演出してくれるんだ?」
焚き火を眺めていた雪花の瞳が、猪三郎へ向けられた。
「ひとつ伺ってもいいですか?」
「なんだ?」
「猪三郎様は、蒼龍様に勝つ自信はおありですか?」
炎で赤く照らされた猪三郎の顔は、鬼のような形相になった。
「俺の力では蒼龍に勝てぬと言うか!」
「鬼坊様でも勝てなかったのですよ」
険しい顔はそのままに、猪三郎は言い返すことができない。
「あなた様の力を高める術があります」
雪花が悩ましい笑みを見せた。猪三郎の心臓が激しく脈打つ。
「力が強くなるのか?」
「あなた様は元々、剛腕をお持ちでいらっしゃる。今でも間違いなく蒼龍様を上回っているはず。その力がさらに高められるのです」
猪三郎は満足げにうなずいた。
「力だけではありません。稲妻の如き、今以上の速さを手に入れることもできます」
「稲妻の如き・・・」
圧倒的な力と速さを得て、蒼龍を圧倒する自分の姿を想像し、猪三郎は破顔一笑、今すぐ剣を交えたいという気持ちに溢れ、すっと立ち上がった。
「その力、すぐにでも試してみたい」
「残念ながら、術の効果は一時的なもの。そのときが来るまで、しばしお待ち下され」
はやる気持ちを抑えられない猪三郎は息を荒くして立ち尽くしていたが、雪花の冷ややかな目にやる気を奪われたのか、大きなため息をついて再びあぐらをかいた。
「まあいい。力が手に入れば、もはや他の奴らも敵ではない。俺が全員、葬ってやる」
猪三郎が不気味に微笑むのを、雪花は黙って見ていた。その表情から彼女が何を考えているのか読み取ることはできない。猪三郎を排除しようと考えていたはずが、今度は逆に手助けしようとする。本来の任務を思い出したのだろうか。それとも、何か他の企みがあるのだろうか。
「さて、ここはどちらへ進めばいいのか」
蒼龍たちは、大きな湖の端にたどり着いた。道は二手に分かれ、どちらの方向も、すぐ近くに低い山が迫っている。山を下りたことで雷雲から逃れられたものの、空は真っ黒な雲で覆われ、今にも降り出しそうな雰囲気だった。
「今日は、このあたりで夜を明かしたほうがいいな。宿を探そう」
と、源兵衛は口にしたが、周囲には人の住む家など一つも見当たらない。
「見て、あそこ、洞穴がある」
お松が指で示した先に巨大な岩があり、その真ん中にポッカリと穴が開いている。中の様子は遠すぎてよく分からない。行くべきかどうか、全員が迷っているうち、大粒の雨が落ちてきた。もう、悩んでいる暇はなく、一行は洞穴に向けて駆け出した。
洞穴の中は意外に広かった。端のほうには木桶などがたくさん積まれている。漁師が素潜りでもするときに使うものだろうか。奥はそれほど深くはない。石の地蔵が何体か並べられ、その全てに羽織が着せられていた。その近くに薪がたくさん積まれていたので、それを使って火を焚く。中がぼんやりと明るくなり、ようやく一行は一息つくことができた。
暗くなった空が時々光る。どこかで雷が鳴っているのだろう。雨は激しく地面をたたき、その音が洞窟の中で反響した。
「不安定な天気だな。あんなに晴れていたのに」
源兵衛は、入口付近で空を見上げながら不満を口にする。他の者たちは、焚き火のそばに身を寄せた。
「こればかりは、どうしようもない。明日は晴れていることを祈ろう」
そう言いながら、蒼龍はお蘭に目を向けた。疲れの癒やされないうちに再び歩くことになったので、彼女はかなり疲れているようだ。続きを早く知りたいという気持ちもあるものの、蒼龍はこれ以上の負荷をお蘭に掛けたくはなかった。
「皆、少し眠るといい。俺が火の番をすることにしよう」
源兵衛が戻ってきて、そう言いながら腰を下ろした。
「お蘭、疲れたろう。少し休んだほうがいいよ」
お蘭は、蒼龍の言葉にうなずいたものの、他の人より先に眠る気にはなれない。
「お菊さん、私たちも少し休みましょう」
お蘭の気持ちに気づいたのだろう。お松が立ち上がり、お菊に声を掛けた。お菊は素直に従い、二人並んで奥にある地蔵の近くに寝転がった。
「では、俺も少し眠るとするよ」
三之丞も気を使い、離れた場所でごろりと横になる。残った三人は、黙したまま焚き火を見つめていた。雨は相変わらず激しく降り続いている。
「お鈴さんから、術をひとつ、教えてもらったんです」
不意に、お蘭が口を開いた。二人は一瞬、何の話か分からずお蘭に視線を向けたまま固まっていたが、意味を理解できたのか、蒼龍が話しかける。
「どんな術を教えてもらったんだい?」
「湧水の術といって、体が見えなくなるらしいの」
「それはすごい!」
源兵衛は思わず叫んだ。
「その術があれば、相手の気づかぬうちに倒すこともできるぞ」
「もう使えるようになったのかな?」
興奮しながら話す源兵衛を横目に、蒼龍はお蘭に尋ねた。
「手の形は教えてもらったけど・・・」
お蘭は試しに手で印を結んでみた。
「どうかしら?」
「見た目は変わらないな」
がっかりするお蘭に、蒼龍は励ましの声を掛ける。
「そんなに簡単に会得できるものでもないのだろう。あとは練習あるのみだよ」
コクリと頭を下げるお蘭の肩をポンと叩いてから、蒼龍は源兵衛に
「俺たちも少し休むことにするよ」
と告げた。
地面に横たわってから、眠りにつくまでに時間はほとんど必要なかった。それほど、お蘭は疲れ切っていたのであろう。そして、気がつけば真っ暗な闇の中、一人で立ち尽くしていた。
女の子の泣き声が聞こえる。耳にしたことのある声であった。
「お初ちゃん?」
お蘭は、あたりを見渡した。しかし、お初の姿はどこにもない。声を頼りに探してみることにする。地面は柔らかく、生暖かくて、足に吸い付くような感触があった。薄気味悪く思いながらも、お蘭はお初の姿を見つけることに意識を集中した。
どれだけ歩いただろうか。どのくらい時間が経過したのだろうか。すすり泣く声は徐々に大きくなるのに、お初の姿は全く目に入らない。そもそも、光の届かないこの場所では、一寸先の状態すら分からないのだから、目の前に障害物があっても気が付かないだろう。
その見えないはずの闇の中で、なお暗く大きな何かの存在をお蘭は感じ取った。そして、お初はそれに取り込まれ、蝕まれ、消されようとしていることを知った。どうして、そんな情報を知り得たのか、お蘭は最初、不思議に思った。やがて、目の前の何かが、自分の頭の中に直接語りかけていることが分かり、お蘭は戦慄した。
(この子は渡さない。この子は私の糧となる。お前は邪魔をするな。お前は死ね)
憎悪が、狂気が、嵐のように脳内を駆け巡る感触に、お蘭は恐ろしくなって頭を押さえた。そんな事をしても、流れてくる言葉を止めることなどできない。
(お前が憎い。人間が憎い。私は呪う。人間を呪う。お前を呪う。お前は死ね)
もはや、お蘭は一歩も動けなかった。逃げることも、ましてや立ち向かうことなど不可能であった。
(この世界は消える。現世も、来世も、時間さえも消してしまおう。生まれるものはない。死ぬこともない。なんと素晴らしい世界だろうか)
そのまま気を失いかけたお蘭は、全てを浄化するような心地よい鈴の音を耳にして意識を取り戻した。お初の持っているお守りの鈴が鳴ったのだ。
目の前にいた影が消失した。掻き回されるような頭の感覚もなくなり、苦痛から解放されたお蘭は、その場に座り込んだ。
お初の泣き声は聞こえなくなった。一緒にいなくなってしまったらしい。暗闇に取り残され、お蘭はしばらく立ち上がることができなかった。
恐怖感を拭い去るまでに、かなりの時間を要した。お蘭がようやく腰を上げたとき、遠くに淡い光が見えたので、お蘭はそれが闇からの出口ではないかと思い、行ってみることにした。
初めはただの点に見えていた光は、近づくにつれて人の姿であることが分かり、やがて、その相手が誰なのかはっきりした。
「雪花さん?」
雪花は目を閉じ、うつむいたまま立ち尽くしていた。その姿は、柱に括りつけられ眠っているようにも見える。彼女の顔がお蘭のほうへ向けられた。ゆっくりと目を開く。その瞳は、血のように赤かった。
「お前が憎い」
その声には何の感情も感じられなかった。挨拶でもするかのように口から自然と発せられ、何を言っているのかお蘭にはすぐに理解できなかった。
雪花は右腕を上げ、お蘭に掌を向けた。その瞬間、見えない力がお蘭の体を強く突き押し、後方に吹き飛ばしてしまう。
仰向けに倒れたお蘭の目に、幽霊のように白く浮かぶ雪花の姿が映った。自分の首筋に伸ばした両手を、お蘭は慌てて掴み取る。しかし、雪花の力は恐ろしく強かった。あっという間にお蘭の首まで手が届き、その首を締め始める。雪花の血走った目は狂気そのもの、不気味に口角を上げ、自分のしていることが楽しいと言わんばかりの表情でお蘭の顔を見ていた。
「どうして・・・」
辛うじてかすれた声を上げるお蘭に為す術はなかった。あまりの悲しさに、目からは涙が溢れ出る。すると、雪花の手が少し緩んだ。瞳の色は琥珀色に変わり、見当違いの方向に視線を向けている。明らかに困惑した表情となった雪花の動きは止まってしまった。
お蘭の体から離れた雪花は、力なく崩れるように座り込み、自分の体を両腕で抱きしめながら震えていた。お蘭はゆっくり起き上がり、その様子を見ながら、恐る恐る近づいてみる。
「お初ちゃん」
「・・・」
自分の名前を忘れているのだろう。お蘭に呼びかけられても反応がない。雪花の肩にそっと触れてみる。雪花が顔を向けた。涙が頬を流れていた。
「たすけて・・・」
小さな声で、雪花はお蘭に訴えかけた。お蘭は、雪花の頭に腕を回し、自分の胸の中に包み込んだ。
「おねがい・・・」
なおも雪花はお蘭に懇願する。お蘭は涙を流しながら
「必ず助けるから・・・ だから、もう少し辛抱して頂戴」
と話しかけた。安心したのだろうか、雪花の体の震えは治まっていた。
「私はお蘭。覚えてる?」
雪花は、お蘭の問いかけに答えてくれなかった。
「あなたは、お初。本当の名前はお初よ。お姉さんが・・・ お鈴さんが名前を決めたのよ」
「お初・・・」
思い出したのか、それとも反射的に言葉を繰り返しただけなのか、お蘭には判断できなかった。
「お鈴・・・ お姉さん・・・」
「そう、あなたのお姉さんよ」
「お蘭・・・ お姉ちゃん・・・」
雪花は、お蘭の名前を思い出したようだ。まるで親が子供に接するように、お蘭は雪花の頭を優しく撫でてあげた。自分の肉親を奪われた上、その張本人の子供として育てられた。失った姉を生き返らせるため、自らを犠牲にした。そして、今は呪いによって苦しめられ、次第に自我を失いつつある。彼女がどうして、これほどの酷い仕打ちを受けなければならないのか、お蘭はやり場のない怒りすら覚えた。
雪花の体がだんだん薄れていく。周囲が少しずつ明るさを増してゆく。目覚めの時が来たことを、お蘭は悟った。雪花は、お蘭に目を向けて首を横に振った。お蘭が去ってしまい、再び一人になる事への恐怖のためだろう。その懇願するような顔に、お蘭は話しかけた。
「絶対に見捨てたりしない。私は闘う。あなたを救って見せる」
それから間もなく、雪花の姿は霞のように消え去ってしまった。
「源兵衛殿、少し休憩をとらないか? お蘭を休ませる必要がありそうだ」
背後からの蒼龍の声に気づき、源兵衛は立ち止まって後ろを振り返った。蒼龍とお蘭は、他の者からだいぶ離れたところを歩いている。お蘭はかなり疲れた様子だった。お菊が慌てて二人の下へ駆けつけた。
「これはすまないことをした、お蘭殿。気を配ることができなんだ」
ようやく追いついたお蘭に、源兵衛は頭を下げた。お蘭は首を横に振って
「いいえ、私こそ、皆さんの足を引っ張ってばかりでごめんなさい」
と謝る。その息は荒く、かなり辛かったことが誰の目にも明らかだった。
「蒼龍殿、もっと早く声を掛けてもよかったのに」
「いや、すまない。お蘭が大丈夫だと言うから、無理をさせすぎてしまった」
お松に指摘され、蒼龍が頭を掻きながら申し訳なさそうに答える。
「とにかく、少し休憩しましょう。もう、いくつ山を越え続けたか覚えてないわ」
お菊が笑顔を振りまいた。今までの憂いに沈んだ雰囲気が、少し晴れやかになったようだ。
峠まではもう少しで到着できるだろうか。緑に囲まれた山の間から、不規則に配置された漁村の家々が見える。村の向こうには空色の海、その上に小さな山が浮かんでいた。
「いい眺めだ。気持ちが落ち着く」
空には大きな白い雲が、風に乗って流れている。その様子を眺めていた蒼龍が、岩の上に腰掛けていたお蘭のほうへ顔を向けた。
「顔色がよくなってきた。だいぶ落ち着いたようだね」
「もう少ししたら、また歩けるようになると思うわ」
お蘭は笑みを浮かべながら答えた。その額からは汗が流れている。
「無理をしてはいけないよ。皆も疲れているだろうから、もうしばらくは休んでいても大丈夫だ」
蒼龍は腰をかがめ、お蘭の顔に手拭いを軽く当てながら
「いろいろあって聞くことができなかったけど、昨夜の夢はどうだった?」
と尋ねた。お蘭は、少し目を見開いてから、目を伏せた。
「お鈴さんに会うことができました」
夢の中でお鈴が語った悲しい現実を、お蘭は蒼龍に全て話した。いつの間にか、他の四人も集まり、耳を傾けていた。
「雪花様、かわいそう・・・」
お菊が涙を流している横で、三之丞は憤慨していた。
「酷い父親だな。己の私欲のために、実の兄を殺していたとは。そのせいで、家族も犠牲になってしまった」
「それでも、やはり倒すことでしか救えないんですね」
お松も涙を堪えていた。雪花に同情する気持ちがあるのだろう。
「このまま、呪いの力に屈して全てを失うよりも、解放されるほうが幸せなのは間違いない。残念ながら、呪いを解く手段はまだ見つかっていないが」
蒼龍は額に手を当て、ため息をついた。
「時三郎殿に再び会う以外の方法はないのだろうか?」
源兵衛が問いかけた。全員が彼の顔に視線を移す。
「それしかないと思うが」
「直接会わずとも、何かに記しておけば伝えることは可能だと思うが」
ニヤリと笑う源兵衛に、蒼龍が眉を上げた。
「では、それを探す必要があるということか?」
「お蘭殿が自分の子孫であると分かっているのなら、確実に引き継ぐことのできる方法がある」
「この短刀ですか?」
お蘭が、懐から刀を取り出した。白銀の宝であり、かつて時三郎も所有していたものである。
「どこかに仕掛けでもあるのか?」
食い入るように見つめる蒼龍を横目に、お蘭は刀を鞘から抜いてつぶさに観察した。刃は青白く輝き、顔を近づけると、周りの空気が冷やされているのか、涼しい風が流れてくる。傷も欠けもなく、見たところ、変わった様子はない。
鞘の方へ目を移す。まるで銀の糸で刺繍したような花模様が美しい。しかし、どの方向から眺めても、仕掛けらしいものは見当たらなかった。
「もう一度、鞘に収めてごらん。鞘と柄の太さは均一かい?」
蒼龍に指示された通りにする。鞘と柄の境に目を凝らすと、柄のほうが僅かに厚かった。
「柄のほうが少し太いわ」
「この刀は間違いなく、全て名工による一級品だ。当然、境目が分からなくなるくらい、太さも均一に仕上げるはずだろう。妙だと思わないか」
「じゃあ、柄に仕掛けが?」
「今までに、目釘を抜いたことはある?」
お蘭は首を横に振った。
「お母さんから言われたの。この刀の目釘は決して抜いてはいけない。いずれその時が来るまで。代々伝わる家訓だって」
「では、今がその時なのだな」
蒼龍は、お蘭に手を差し出した。お蘭から刀を受け取り、刀を鞘から抜いて、目釘を外し始めた。お蘭は心配そうな顔で、蒼龍の作業を見守っている。
「大丈夫だよ。壊すようなことはしないから」
蒼龍は苦笑しながら手を動かす。刃を柄から器用に外し、はめ込まれた銀の装飾金具をゆっくり引き抜いた。
「層が二重になっている」
どうやら、柄全体が非常に薄い層で覆われているらしい。蒼龍は、柄を手のひらに何度か打ちつけてみた。予想通り、中にあった本当の柄が姿を表した。内側の柄はやはり黒塗りだが、外側とは異なり、鞘と同じ銀細工が施されており、見事な鶴の絵が描かれていた。外側の層はない状態で刀を組み立て、刃が抜けたりしないか入念に確認した後、蒼龍はお蘭に刀を返した。
「これこそ、刀の本当の姿だよ。見事な一品だ」
お蘭は、戻ってきた刀をじっと見つめていた。時三郎に見せてもらった刀を思い浮かべているのだろうか。その間に蒼龍は、取り外した柄の中を覗き込んでいる。
「何か入っている」
中に指を突っ込み、そっと引き出してみると、白い紙のようなものが出てきた。それをゆっくり引っ張り出す。信じられないほど薄く、しかし、丈夫で破れることもなかった。
僅かな隙間に入っていたとは思えないほどの大きな紙に、文字がびっしりと書き込まれ、それが折り畳まれていた。蒼龍は、ゆっくりと紙を開き、お蘭に手渡した。
「読む権利は、子孫であるお前にこそある」
蒼龍から受け取った、絹のような肌触りの不思議な紙に書かれた文字を、お蘭は声に出して読み始めた。
『呪いを受けし者よ。やがて生まれてくるであろう、白銀の名を受け継ぐ者よ。
私は時宗と申す。父、時継の偉大な師であった時三郎の遺言に従い、我々は反魂の式を無効にする方法を長い間調べてきた。時継もすでにこの世にはおらず、今は娘とともに、研鑽を積んでいる。
今夜、ついに目的は達成された。この発見を伝えるために、以下に詳細を記す。道は決して平坦なものではないが、必ずや成功させてほしい。
反魂の式によって呪われし者は、他人から魂を半分だけ与えられ偽りの不死になる。現世にある姿は夢幻であり、どんな武器を使っても霞に向かうようなものだ。
長い年月を経て、生贄は今までの記憶も、人としての理性や感情も全て失い、呪いに支配される。お初が呪いの虜と化した後、何が起こるのかは分からない。ただ、はっきりしていることが一つだけある。呪いは意思を持つ。人間に憎悪を抱いている。お初の七宝としての力をその手にした時、呪いは我々に対する大きな災いとなるに違いない』
急に辺りが暗くなった。厚い雲が、陽の光を遮ったのだ。冷たい風が峠の方から流れてきた。お蘭の手が少し震えた。
「大丈夫か、お蘭?」
蒼龍に問われ、お蘭は頭を縦に振ったが、明らかに怯えた目をしている。他の者も少なからず動揺していた。なにか薄気味悪い空気を感じたのだ。まるで、今いる場所が呪われてしまったかのように。
「なんだか怖い」
お菊がか細い声を上げた。お松は不安そうに空を見上げている。源兵衛が、皆を勇気づけようと口を開いた。
「お天道様が雲に隠れただけだ。そんなに恐れる必要は・・・」
突然、源兵衛の声がかき消された。轟音があたりに鳴り響く。
「これはいかん、雷だ。お蘭、読むのは後にしよう。一刻も早く山を下りねば」
呪いを解こうとする蒼龍たちを阻止しようとしているのだろうか。天気の急変に、一行は慌てて行進を再開した。
どんよりとした灰色の空を背景に、隣の大きな山が青白い霧に覆われ、かすれて見える。すでに沈みかけた日の光は、ツヅラト峠にはほとんど届いていなかった。焚き火を囲って、雪花と猪三郎がむき出しの岩に座っている。銀虫は少し離れたところで寝転がり、その隣には伊吹の入った袋が置いてあった。二人とも長い間押し黙っていたが、突然、猪三郎が口を開いた。
「ところで、どんな舞台を演出してくれるんだ?」
焚き火を眺めていた雪花の瞳が、猪三郎へ向けられた。
「ひとつ伺ってもいいですか?」
「なんだ?」
「猪三郎様は、蒼龍様に勝つ自信はおありですか?」
炎で赤く照らされた猪三郎の顔は、鬼のような形相になった。
「俺の力では蒼龍に勝てぬと言うか!」
「鬼坊様でも勝てなかったのですよ」
険しい顔はそのままに、猪三郎は言い返すことができない。
「あなた様の力を高める術があります」
雪花が悩ましい笑みを見せた。猪三郎の心臓が激しく脈打つ。
「力が強くなるのか?」
「あなた様は元々、剛腕をお持ちでいらっしゃる。今でも間違いなく蒼龍様を上回っているはず。その力がさらに高められるのです」
猪三郎は満足げにうなずいた。
「力だけではありません。稲妻の如き、今以上の速さを手に入れることもできます」
「稲妻の如き・・・」
圧倒的な力と速さを得て、蒼龍を圧倒する自分の姿を想像し、猪三郎は破顔一笑、今すぐ剣を交えたいという気持ちに溢れ、すっと立ち上がった。
「その力、すぐにでも試してみたい」
「残念ながら、術の効果は一時的なもの。そのときが来るまで、しばしお待ち下され」
はやる気持ちを抑えられない猪三郎は息を荒くして立ち尽くしていたが、雪花の冷ややかな目にやる気を奪われたのか、大きなため息をついて再びあぐらをかいた。
「まあいい。力が手に入れば、もはや他の奴らも敵ではない。俺が全員、葬ってやる」
猪三郎が不気味に微笑むのを、雪花は黙って見ていた。その表情から彼女が何を考えているのか読み取ることはできない。猪三郎を排除しようと考えていたはずが、今度は逆に手助けしようとする。本来の任務を思い出したのだろうか。それとも、何か他の企みがあるのだろうか。
「さて、ここはどちらへ進めばいいのか」
蒼龍たちは、大きな湖の端にたどり着いた。道は二手に分かれ、どちらの方向も、すぐ近くに低い山が迫っている。山を下りたことで雷雲から逃れられたものの、空は真っ黒な雲で覆われ、今にも降り出しそうな雰囲気だった。
「今日は、このあたりで夜を明かしたほうがいいな。宿を探そう」
と、源兵衛は口にしたが、周囲には人の住む家など一つも見当たらない。
「見て、あそこ、洞穴がある」
お松が指で示した先に巨大な岩があり、その真ん中にポッカリと穴が開いている。中の様子は遠すぎてよく分からない。行くべきかどうか、全員が迷っているうち、大粒の雨が落ちてきた。もう、悩んでいる暇はなく、一行は洞穴に向けて駆け出した。
洞穴の中は意外に広かった。端のほうには木桶などがたくさん積まれている。漁師が素潜りでもするときに使うものだろうか。奥はそれほど深くはない。石の地蔵が何体か並べられ、その全てに羽織が着せられていた。その近くに薪がたくさん積まれていたので、それを使って火を焚く。中がぼんやりと明るくなり、ようやく一行は一息つくことができた。
暗くなった空が時々光る。どこかで雷が鳴っているのだろう。雨は激しく地面をたたき、その音が洞窟の中で反響した。
「不安定な天気だな。あんなに晴れていたのに」
源兵衛は、入口付近で空を見上げながら不満を口にする。他の者たちは、焚き火のそばに身を寄せた。
「こればかりは、どうしようもない。明日は晴れていることを祈ろう」
そう言いながら、蒼龍はお蘭に目を向けた。疲れの癒やされないうちに再び歩くことになったので、彼女はかなり疲れているようだ。続きを早く知りたいという気持ちもあるものの、蒼龍はこれ以上の負荷をお蘭に掛けたくはなかった。
「皆、少し眠るといい。俺が火の番をすることにしよう」
源兵衛が戻ってきて、そう言いながら腰を下ろした。
「お蘭、疲れたろう。少し休んだほうがいいよ」
お蘭は、蒼龍の言葉にうなずいたものの、他の人より先に眠る気にはなれない。
「お菊さん、私たちも少し休みましょう」
お蘭の気持ちに気づいたのだろう。お松が立ち上がり、お菊に声を掛けた。お菊は素直に従い、二人並んで奥にある地蔵の近くに寝転がった。
「では、俺も少し眠るとするよ」
三之丞も気を使い、離れた場所でごろりと横になる。残った三人は、黙したまま焚き火を見つめていた。雨は相変わらず激しく降り続いている。
「お鈴さんから、術をひとつ、教えてもらったんです」
不意に、お蘭が口を開いた。二人は一瞬、何の話か分からずお蘭に視線を向けたまま固まっていたが、意味を理解できたのか、蒼龍が話しかける。
「どんな術を教えてもらったんだい?」
「湧水の術といって、体が見えなくなるらしいの」
「それはすごい!」
源兵衛は思わず叫んだ。
「その術があれば、相手の気づかぬうちに倒すこともできるぞ」
「もう使えるようになったのかな?」
興奮しながら話す源兵衛を横目に、蒼龍はお蘭に尋ねた。
「手の形は教えてもらったけど・・・」
お蘭は試しに手で印を結んでみた。
「どうかしら?」
「見た目は変わらないな」
がっかりするお蘭に、蒼龍は励ましの声を掛ける。
「そんなに簡単に会得できるものでもないのだろう。あとは練習あるのみだよ」
コクリと頭を下げるお蘭の肩をポンと叩いてから、蒼龍は源兵衛に
「俺たちも少し休むことにするよ」
と告げた。
地面に横たわってから、眠りにつくまでに時間はほとんど必要なかった。それほど、お蘭は疲れ切っていたのであろう。そして、気がつけば真っ暗な闇の中、一人で立ち尽くしていた。
女の子の泣き声が聞こえる。耳にしたことのある声であった。
「お初ちゃん?」
お蘭は、あたりを見渡した。しかし、お初の姿はどこにもない。声を頼りに探してみることにする。地面は柔らかく、生暖かくて、足に吸い付くような感触があった。薄気味悪く思いながらも、お蘭はお初の姿を見つけることに意識を集中した。
どれだけ歩いただろうか。どのくらい時間が経過したのだろうか。すすり泣く声は徐々に大きくなるのに、お初の姿は全く目に入らない。そもそも、光の届かないこの場所では、一寸先の状態すら分からないのだから、目の前に障害物があっても気が付かないだろう。
その見えないはずの闇の中で、なお暗く大きな何かの存在をお蘭は感じ取った。そして、お初はそれに取り込まれ、蝕まれ、消されようとしていることを知った。どうして、そんな情報を知り得たのか、お蘭は最初、不思議に思った。やがて、目の前の何かが、自分の頭の中に直接語りかけていることが分かり、お蘭は戦慄した。
(この子は渡さない。この子は私の糧となる。お前は邪魔をするな。お前は死ね)
憎悪が、狂気が、嵐のように脳内を駆け巡る感触に、お蘭は恐ろしくなって頭を押さえた。そんな事をしても、流れてくる言葉を止めることなどできない。
(お前が憎い。人間が憎い。私は呪う。人間を呪う。お前を呪う。お前は死ね)
もはや、お蘭は一歩も動けなかった。逃げることも、ましてや立ち向かうことなど不可能であった。
(この世界は消える。現世も、来世も、時間さえも消してしまおう。生まれるものはない。死ぬこともない。なんと素晴らしい世界だろうか)
そのまま気を失いかけたお蘭は、全てを浄化するような心地よい鈴の音を耳にして意識を取り戻した。お初の持っているお守りの鈴が鳴ったのだ。
目の前にいた影が消失した。掻き回されるような頭の感覚もなくなり、苦痛から解放されたお蘭は、その場に座り込んだ。
お初の泣き声は聞こえなくなった。一緒にいなくなってしまったらしい。暗闇に取り残され、お蘭はしばらく立ち上がることができなかった。
恐怖感を拭い去るまでに、かなりの時間を要した。お蘭がようやく腰を上げたとき、遠くに淡い光が見えたので、お蘭はそれが闇からの出口ではないかと思い、行ってみることにした。
初めはただの点に見えていた光は、近づくにつれて人の姿であることが分かり、やがて、その相手が誰なのかはっきりした。
「雪花さん?」
雪花は目を閉じ、うつむいたまま立ち尽くしていた。その姿は、柱に括りつけられ眠っているようにも見える。彼女の顔がお蘭のほうへ向けられた。ゆっくりと目を開く。その瞳は、血のように赤かった。
「お前が憎い」
その声には何の感情も感じられなかった。挨拶でもするかのように口から自然と発せられ、何を言っているのかお蘭にはすぐに理解できなかった。
雪花は右腕を上げ、お蘭に掌を向けた。その瞬間、見えない力がお蘭の体を強く突き押し、後方に吹き飛ばしてしまう。
仰向けに倒れたお蘭の目に、幽霊のように白く浮かぶ雪花の姿が映った。自分の首筋に伸ばした両手を、お蘭は慌てて掴み取る。しかし、雪花の力は恐ろしく強かった。あっという間にお蘭の首まで手が届き、その首を締め始める。雪花の血走った目は狂気そのもの、不気味に口角を上げ、自分のしていることが楽しいと言わんばかりの表情でお蘭の顔を見ていた。
「どうして・・・」
辛うじてかすれた声を上げるお蘭に為す術はなかった。あまりの悲しさに、目からは涙が溢れ出る。すると、雪花の手が少し緩んだ。瞳の色は琥珀色に変わり、見当違いの方向に視線を向けている。明らかに困惑した表情となった雪花の動きは止まってしまった。
お蘭の体から離れた雪花は、力なく崩れるように座り込み、自分の体を両腕で抱きしめながら震えていた。お蘭はゆっくり起き上がり、その様子を見ながら、恐る恐る近づいてみる。
「お初ちゃん」
「・・・」
自分の名前を忘れているのだろう。お蘭に呼びかけられても反応がない。雪花の肩にそっと触れてみる。雪花が顔を向けた。涙が頬を流れていた。
「たすけて・・・」
小さな声で、雪花はお蘭に訴えかけた。お蘭は、雪花の頭に腕を回し、自分の胸の中に包み込んだ。
「おねがい・・・」
なおも雪花はお蘭に懇願する。お蘭は涙を流しながら
「必ず助けるから・・・ だから、もう少し辛抱して頂戴」
と話しかけた。安心したのだろうか、雪花の体の震えは治まっていた。
「私はお蘭。覚えてる?」
雪花は、お蘭の問いかけに答えてくれなかった。
「あなたは、お初。本当の名前はお初よ。お姉さんが・・・ お鈴さんが名前を決めたのよ」
「お初・・・」
思い出したのか、それとも反射的に言葉を繰り返しただけなのか、お蘭には判断できなかった。
「お鈴・・・ お姉さん・・・」
「そう、あなたのお姉さんよ」
「お蘭・・・ お姉ちゃん・・・」
雪花は、お蘭の名前を思い出したようだ。まるで親が子供に接するように、お蘭は雪花の頭を優しく撫でてあげた。自分の肉親を奪われた上、その張本人の子供として育てられた。失った姉を生き返らせるため、自らを犠牲にした。そして、今は呪いによって苦しめられ、次第に自我を失いつつある。彼女がどうして、これほどの酷い仕打ちを受けなければならないのか、お蘭はやり場のない怒りすら覚えた。
雪花の体がだんだん薄れていく。周囲が少しずつ明るさを増してゆく。目覚めの時が来たことを、お蘭は悟った。雪花は、お蘭に目を向けて首を横に振った。お蘭が去ってしまい、再び一人になる事への恐怖のためだろう。その懇願するような顔に、お蘭は話しかけた。
「絶対に見捨てたりしない。私は闘う。あなたを救って見せる」
それから間もなく、雪花の姿は霞のように消え去ってしまった。
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