死者の見る夢

フッシー

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始神峠

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「これは絶景」
 猪三郎は目を見開いて唸った。眼下に広がる森の向こうに、小高い山々に囲まれた湾が見える。さらに遠くには大小様々な島がぼんやりと浮かんでいた。今は厚い雲が垂れ込め、遥か先まで見通すことはできないのが残念だ。晴れた日なら、さらに美しい景色が広がるのだろうと猪三郎は残念に思った。
 彼が今いる場所は始神峠。江戸時代後期の文人、鈴木牧之は、この地を訪れ『大洋に潮の花や朝日の出』という句を残している。寛政八年、徳川家斉の治世の頃である。当時は茶屋があり、牧之もそこで峠越えの疲れを癒やしたのであろう。猪三郎の見るその場所にはわずかな平地が広がり、他には細く小高い木々が生えているだけであった。
「よし、ここで奴らを待ち伏せする。木の陰に隠れ、近づいてきたところを奇襲するんだ。俺が蒼龍を倒す。雪花殿は、その間にあの女を確保すればいい。赤毛の野郎には伊吹を捕らえさせよう。おっと、お嬢様も忘れちゃいけねえな。さて、どうするか・・・」
「隠れても気配で見つかりますわ」
「あなたの幻術があるでしょう? あの時も気づかれることはなかった。三人くらい、気配を消すことは造作ないはずだ」
 初めて雪花が蒼龍たちを襲撃した時、相手は雪花のみならず、猪三郎にも気づくことがなかった。これは、雪花の妖術が原因であったようだ。
「そんなに殺気立っていては、完全に気配を消すことなどできませぬ。私の妖術を頼りにされるのなら、まずはその殺気を消し去って頂かなければ」
 今の猪三郎は、積み重なった鬱憤によって、簡単に心を落ち着かせることなどできない状態であった。雪花の要求に従うことなど、無理な相談である。
「この間のように、私が全員を眠らせましょう。それなら一人も傷つけることなく確保できますでしょ?」
「いや、駄目だ。それでは蒼龍をこの手で倒したことにはならない」
 そう断言する割には、闇討ちを使おうとするのも矛盾しているが、雪花は特に指摘はしなかった。その代わりに
「ならば正々堂々、逃げも隠れもせず、蒼龍殿に勝負を挑むべきですわ。私は一切干渉いたしませんし、他の者にも邪魔はさせません」
 と提案する。猪三郎は、雪花を見据えたまま黙っていた。あの鬼坊が挑んで勝てなかった相手である。果たして自分が勝てるのか、自信がないのだ。しかし、自分の心の内を見透かしたような雪花の目を見ているうちに、猪三郎は彼女の言葉を否定できなくなった。それは、自分の矜持が許さなかったのである。
「分かった。お頭の敵、俺が見事に討ってみせる。奴らは今、どこに?」
「昨夜はお寺に宿泊されたようです。この空模様であれば、今日にはここに到着するでしょう」
 猪三郎の表情が明らかに硬くなった。一度大きく息を吸い、唸り声とともに口から吐き出す。突然、刀を抜き、三歩前へ進んでから、その場で仁王立ちになり、そのまま動かなくなった。

「こんな所があるとはな」
 蒼龍とお蘭が目にしているのは、一面に白、紫、赤、黃など、様々な色の花が咲き乱れた広い草原である。
 雨をもたらしていた黒い雲は、東の方角へ去っていた。今は綿のようになった雲の切れ間から太陽が顔を見せ、草花は金剛石のごとく光り輝いている。二人はその光景にしばし目を奪われた。
「お蘭、もし、自分が雪花と闘わなければならなくなったらどうする?」
 突然、蒼龍がこんなことを質問した。お蘭はちょっと驚いた顔を蒼龍に向けたが、やがて寂しそうに答えた。
「覚悟は、できているつもりなのです」
「そうか・・・」
 蒼龍は、一言そう返しただけだった。蒼龍もお蘭も、そのまま口を開くことはなかった。
「二人とも、ここにいたのか」
 振り返れば、源兵衛とお松、そして三之丞が近くに立っていた。
「なんだか、眠れなかったんだ」
「お主たちもか? 実は、わしもほとんど寝ていないんじゃよ」
 源兵衛はそう言って笑顔を見せた。
「私も、どういう訳か寝付けなくて」
「俺もですよ。皆、昨夜は眠れなかったわけだ」
 お松や三之丞も同じ具合だったらしい。
「ごめんなさい。私のせいで、皆さんを悩ませてしまったみたい」
 お蘭が詫びる姿を見ながら、源兵衛は軽快な笑い声を立てた後
「いや、わしが勝手に思い悩んでいただけだよ。お主の手で雪花を倒す方法はあるのかとな」
 と答える。お蘭が目を丸くしていると、蒼龍も同じようなことを言い出した。
「俺も同じだよ。お蘭が雪花と闘える方法をいろいろと考えていた」
「どうして・・・」
 昨夜、あれだけお蘭の主張を否定してきたのに、なぜ突然、手のひらを返したように手助けしてくれるのか、お蘭は不思議で仕方がなかった。
「理由は簡単さ。お前が言うことを聞いてくれるとはとても思えなかったんだ。あんなに一途なお蘭は初めてだよ。雪花との間には、俺たちが分け入ることのできない因縁があるのだろう? そう考えた時、二人の対決は避けられないのではと感じてな」
「私も同感です。お蘭殿をお助けすることしかできないのが残念ですが」
「あの女を相手にして無事でいられるとは思っていません。お蘭殿のことは、命に替えても守りますぞ」
 三之丞の力強い宣言に、お蘭は首を横に振りながら
「そんな、無茶な真似はしないで下さい」
 と叫んだが、三之丞は腹の底から豪快に笑ってみせた。
「お蘭ばかりに頼ってしまうことになって申し訳ないが、俺も全力でお前を守ってみせる。だから必ず、雪花を、お初を、救っておくれ」
 お蘭は、四人の顔を順番に見ながら、やがて涙ぐみ、頭を下げた。

 伊吹が、部屋の中央で一人、静かに座っている。目を閉じて、何か思案しているらしい。部屋の東側にある木戸は開け放たれ、陽の光が彼の体を照らしていた。やがて、伊吹はゆっくり目を開けて、一言つぶやいた。
「それが一番ということか」
 にやけた顔で外に目を向けた時、庭を歩くお菊の姿が目に映った。彼女は一人、何をするという訳でもなく、うつむき加減で歩いている。伊吹は、声を掛けようか迷ったが、他の者が見当たらないため、どこへ行ったのか尋ねようと思い
「お菊さん、他の連中はどうしているか、知らないかい?」
 と叫んだ。お菊はそのとき初めて伊吹の存在に気づいたようで、ちょっと驚いたような表情を見せてから、首を横に振った。
「お見かけしておりませぬが、散歩にでも行かれたのでしょうか?」
「護衛の役を忘れて呑気に散策か・・・ しかし、気晴らしにはなるかな。俺たちも外へ出てみないか?」
 珍しく、伊吹のほうから誘いの言葉を投げたが、お菊は応じなかった。
「二人で外に出るのは、それこそ危険ではありませんか?」
 そう言われると、伊吹も無理して外出する気にはなれない。
「では、ここで少し話でもしよう。一人で庭を歩いていても退屈だろう」
 お菊は少し迷っているようだった。しかし、軽くうなずくと、伊吹のいる部屋の中へ入っていった。
「お伊勢までは、あとどのくらいかな?」
「このまま進めば、あと数日中には到着するのではないかしら」
「伊勢に着いたら、俺は店で奉公することになる。いつ戻れるのか分からないが、こんな俺のことをお菊さんは待つつもりかい?」
 お菊は、答えることをためらっているようで、すぐには口を開かなかった。そして、お菊の言葉を待っている伊吹に対して、彼女は問い返してきた。
「奉公が終わるまで待たずとも、一緒になることはできますわ。お父様さえお許しになって下されば、反対する方は誰もいなくなるでしょ? そしたら、私を迎え入れて頂けますか?」
「お父さんが首を縦に振るはずがないよ」
「私が直接、説得に伺います。どうしてお許しになって頂けないのか、その理由を私はお聞きしたいのです」
 今度は、伊吹がどう返すか迷う側になった。父親の茂吉は二人の仲を反対していたわけではない。そもそも、そのことを知らなかったのである。伊吹が嘘をついていたことがお菊に知れたら、事態はさらに悪い方向へ進むであろう。
「お父さんに会うなら、俺も一緒に付いていく。だから、俺が因幡に戻るまでは、待っていてほしいな」
「そうですか・・・」
 意外にも、お菊はそれ以上、食い下がることはなかった。
「いずれにしても、しばらくは、お伊勢さんに滞在するつもりですわ。街の中を見て回りましょうと、お蘭さんとも約束していますし。それに、雪花様たちがいらっしゃる限り、私一人で戻るわけには参りませぬ」
「そうだな・・・ しかし、前にも尋ねたが、お菊さんが襲撃を止めるよう奴らに命じれば、全ては丸く収まると思うけどな」
「それは無理ではありませぬか? お互い、たくさんの犠牲を払いました。これは、私たち二人の責任です。そうお思いになりませんか?」
 お菊の薄ら笑いは、伊吹の心臓をキュッと締め付けた。
「だから、これ以上、人が死ぬのは嫌だろ? お菊さんの一言で、それを防ぐことができるんだ」
「今は、お蘭さんの願いを叶えるという目的もあります」
「それは、あの二人に任せておけばよかろう。それこそ、他の者が危険を冒す必要はない」
 お菊は、首を激しく横に振った。
「もう遅いのです。お互いに大切な人を亡くしているのです。この争いを止めることは私にはできませぬ。伊吹様にはそれがお分かりになりませぬか?」
 お菊の表情から笑みは消えていた。半ば怒り、半ば悲しみに暮れた顔を向けられ、伊吹は何も言い出せなくなった。しばらくして、お菊は顔をそらし、すっと立ち上がると、部屋を出て行ってしまった。

 夕暮れになり、あたりは茜色に染められた。猪三郎は地面にあぐらをかき、肩に刀を乗せたまま眠っていた。闘いの前に寝てしまうとは、この男も豪胆なところがある。雪花は背後に立ち、彼の姿を眺めるだけだ。その横で銀虫が、まっすぐ前を見たまま直立不動の姿勢で待機していた。
 猪三郎が目を覚まし、後ろを向いて雪花に話しかけた。
「奴ら、本当にここへ来るのか?」
 少し間をおいてから、雪花が答える。
「今日は、もう一泊するようですね。どなたか具合が悪いのでしょうか」
 大きなあくびをした後、猪三郎は立ち上がり、刀を鞘に収めた。
「興が冷めるな」
「しばらく、ここでお待ちになりますか? それとも、先へ進んで機会を窺いますか?」
 猪三郎は、しばらく考えた後
「ここで待つ。奴らから離れてしまっては意味がない」
 と答えた。雪花はうなずいただけで、特に何も言い返さなかったので、猪三郎は彼女の横をすり抜け、木を枕に寝転がり、再び眠ってしまった。雪花は、しばらくしてから、銀虫をその場に残して峠を下りていった。
 雪花が向かった先は、蒼龍たちのいる側とは反対の方向である。麓には入り江が広がり、陽はすでに山に隠れて周囲は藍色に染まっていた。雪花は暗く静かな海に目を向け、物思いに耽っていた。
 猪三郎に従っているような様子ではあるものの、雪花にとっては如何にしてお蘭を守るかが重要であり、もはや任務のことは二の次になっていた。猪三郎に、面と向かって闘うよう助言したのは、彼が蒼龍には勝てないと見込んでいたからだ。猪三郎がいなくなれば、雪花に指示できる者はいなくなる。あとは彼女が自由に処理できるというわけだ。それなら、猪三郎も銀虫と同じように心を支配してしまえば良さそうなものだが、後でそのことを指摘されるのが嫌なのか、それとも単に面倒だからか、今は大人しく猪三郎の言うことを聞いている。
 思えば、この旅の始まりから、雪花は積極的に役目を果たすことはなかった。初めて全員で襲撃をした時も単独で行動していたし、お菊を連れ戻すと請け合いながら、代わりにお蘭をさらってきた。鬼坊が蒼龍と対決した時も、雪花は援護などはしていない。もっとも、これは鬼坊が手出し無用と彼女の力を拒んだという事情もあったのだが。
「あんた、こんなところで何をしているのかね?」
 突然、話しかけられた雪花は、少し驚いた様子で後ろを振り向いた。松明を持った村人らしき男が三人、彼女の姿を不思議そうに眺めている。
「怪しい者ではございません。旅の途中でこちらに立ち寄りました」
「一人で荷物も持たずに旅をしているのかい?」
「仲間は宿におりますわ。今はひとりで散策していたのです」
 三人は目配せしてから、その中で最も若そうな総髪の男が話を始めた。
「今ではどこでも同じだが、このあたりも盗賊が多い。だから、こうやって見まわりをしているんだ。こんなところに一人でいたら、襲ってくれと自分から誘っているようなもんだぞ」
 雪花はうつむいたまま「ごめんなさい」と謝った。その様子を男たちは心配そうに見ていたが、ふと白髪の男性が
「なにか悩みでもあるのかね?」
 と尋ねてみた。雪花がうなずくので、男性は続けてこう言った。
「ここで会ったのも何かの縁だろう。その悩み、話してみてはどうかな?」
 生き馬の目を抜く戦国の世で、これほど親切な者も珍しい。うら若き美女に対して下心があることも否定はできないが、雪花は素直に答え始めた。
「私には、守るべき大事な方がいます。この危険な世の中で、どうやってその方を失わないようにすべきか、考えていたのです」
 白髪の男は、何度も首を縦に振って
「なるほど、その気持ちは分かります。それはあなたの肉親ですかな?」
 と尋ねる。
「肉親と呼んでもいいくらいの、私にとってはかけがえのないお方。もし、命を失うことがあれば、私は生きていられませんわ」
 冗談のつもりだろうか。その大切な人とはお蘭に違いないが、彼女が死ねば、自分は転生することになる。そんな事情を知らない男たちは、雪花の話を真剣に聞いていた。
「そうだな、誰もが同じ気持ちに違いない」
「早く平和な世になってほしいと思うよ」
「でもな、それは相手も同じこと。あなたが危険を冒すことをその方は良しとはしないでしょう。さあ、宿まで送りますよ」
 そう言って手を差し出す白髪の男性に対して、雪花は首を横に振った。
「私は、あの山を越えたところから来ました」
 三人はかなり驚いた様子だ。
「これから山道を通って帰るおつもりかい?」
「危険過ぎる。近くに宿があるから、戻るのは明日の朝にしなさい」
 男たちの説得に、なぜか雪花のほうが折れて、三人に従い宿まで案内されることになった。
「五兵衛さん、いるかい?」
 総髪の男性が戸を思い切り叩く。しばらくして、中から初老の男性が出てきた。
「どうしましたか、二介さん?」
 宿の主人である五兵衛は話を聞いた後、雪花の姿を見て目を丸くした。
「どこぞのお姫様ではないのですか?」
 雪花は微笑むだけで何も言わないので、五兵衛は事情を察したかのようにうなずき、それ以上何も聞かなかった。
「皆様、ご親切にありがとうございました」
 雪花に礼を言われた三人の男たちは笑顔で手を振りながら闇の中に消えていった。五兵衛に部屋へ案内され、その中央に静かに座った雪花は、なぜかクスクスと笑い始めた。
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