死者の見る夢

フッシー

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失われた記憶

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「果ての世界?」
「以前、話したことがあったでしょ。お初ちゃんが行きたがっていた場所よ」
 蒼龍は思い出したらしく、何度もうなずいた。
「ああ、確かお姉さんに会うためだったね。じゃあ、ついに見つかったんだ」
 お蘭の表情が曇り、下を向いてしまったので、蒼龍はしばらくの間、口を閉ざして様子を観察した。
「いなかったの。お姉さんというのは嘘だった。お初ちゃんを呼んでいたのは、未来のお初ちゃん。自分自身が果ての世界にへ来るように声を掛けていたの」
 蒼龍は言葉が出なかった。お蘭の言っていることが、すぐには理解できなかったのだ。
「そんな事ができるのか?」
 お蘭は、首を横に振るだけだ。お蘭自身、狐に化かされたような気分であった。
「話はそれだけじゃないの。そのお初ちゃんの未来が分かったの」
「未来?」
 お蘭は、蒼龍の顔に視線を戻した。何となく怯えているような雰囲気である。
「大丈夫か、お蘭?」
 お蘭はゆっくりとうなずいた後、静かに話を始めた。
「いつ頃のことかは分からないけど・・・ お初ちゃんは自らに呪いを掛けて転生を繰り返すようになったの」
 いよいよ訳が分からないといった表情の蒼龍を、お蘭はただ見つめるだけだった。
「つまり、その子は死んでも生まれ変わるようになって、やがては過去の自分に声を掛けるようになったと」
 今度は、蒼龍が首を横に振った。
「お蘭、お前、やはり夢を見ていたんじゃないのか」
 そう言われても、お蘭は反論できない。悲しみを湛えた目を再び逸らし、黙ったままのお蘭を見た蒼龍は
「あまり気にしないほうがいい。とにかく、元に戻ることができたのだから、安心したよ」
 と笑顔を見せた。
「待って、まだ大事な話が残っているの」
 なおも食い下がるお蘭に、蒼龍は話を聞くべきか悩んだ。でも、彼女の真剣な表情に、黙ってうなずくしかなかった。
「彼女はまだ生きているかも知れない。永遠に生き続けるという呪いによって」
「永遠に?」
「もしかしたら、対の呪いの主は、お初ちゃんじゃないかしら」
 蒼龍は目を見開いた。
「もし、それが事実なら、お初というその女の子を探さねばならぬということか」
「それから、お初ちゃんはこう言っていたわ。私に雪花さんを倒してほしいって。雪花さんを倒せるのは私しかいないって」
 しばらくの間の後、蒼龍が尋ねる。
「あの妖術使いのことを、その子がどうして知っているんだ?」
 お蘭はうつむいて
「分からない」
 と答えるだけだ。蒼龍は手を額に当て、ため息をついた。
「まともに闘って勝てる相手じゃないよ。お前の命を奪うことができないとしても、あの時みたいに戦えなくするのは奴にとって容易い・・・」
 蒼龍が急に黙り込んだ。床に目を落とし、何かに驚いたような表情をしている。
「どうしたの?」
「あの女、お前が傷つくことを恐れている。もし、それが自分の身を危うくするからだとしたら・・・」
 お蘭はまじまじと蒼龍の顔を見つめたまま、話の続きを待った。
「つまり、お前が死ねば雪花も命を落とすのではないか? 同じ呪いでつながった者同士として」
「それって、雪花さんが呪いの主という・・・」
 蒼龍の言いたいことを理解したのか、お蘭も息を呑んだ。蒼龍がゆっくりとうなずく。
「お前が夢の中で会ったお初という女性、子供の頃の雪花なのではないか?」
 沈黙の時間が長く続いた。お蘭は悲しげな顔を蒼龍に向けている。その表情をまともに見ることのできない蒼龍は、床に目を伏せたまま動かない。
「じゃあ、私が死ぬことで、雪花さんを倒すことができるのね」
「いや、待て!」
「だから、私に頼んだのね。自分を倒してほしいって。永遠の苦しみから解放してほしいって」
「早合点してはいけない。これはあくまでも推測でしかないんだ」
 蒼龍は慌ててお蘭を抱き寄せた。彼女の体が小刻みに震えているのを感じ取り、蒼龍はなんとか落ち着かせようと話を続けた。
「もし、これが事実だとしても、あの女を倒す必要などないよ」
「でも、本人がそれを望んでいるのよ」
「本当にそれを願っているなら、真っ先にお前の命を奪っているはずだ」
 お蘭の肩を両手で抱き、蒼龍は彼女の顔を見つめる。大粒の涙が、お蘭の目からこぼれていた。
「お初は・・・雪花は、お前のことを慕っていたんだろ? そんな残酷な願いを口にするとは思えないんだ。他に方法があるんだよ。今度はそれを見つけよう」
 もう一度、蒼龍はお蘭の体を強く抱きしめた。お蘭は安心したのか、体の震えが治まっていた。

 お松は、正座したまま自分の膝の上にある両手をじっと見つめているお菊に、どう声を掛けたらよいか分からなかった。彼女は明らかに、自分のせいでお雪や身内が命を落としたと思っている。伊吹とお菊がどういう経緯で恋仲になったのか、お松は知らない。しかし、別れることになった原因は間違いなく伊吹のほうになるのだろう。だから、お松はお菊を不憫に思うと同時に、伊吹に対してはやるせない程の怒りを感じていた。では、伊吹のことを恨んでいるのかといえば、そんなこともない。お松は、お雪の死が自分自身によって引き起こされたと感じている。お雪を旅の仲間に選別したことを後悔している。それ故に余計、お菊の心情を理解できるのだった。
「もう後戻りはできない。私は仲間も裏切ってしまったのです」
「そうね、私たちは、ただ前に進むしかないわ。でも、未来を予測することは誰にもできないのよ、お菊さん。だから、自分をそんなに責めないで。いくら後悔しても、過去を変えることは無理なのだから」
 それは、自分自身に言い聞かせているようでもあった。お松の目から、涙が溢れてきたのだ。今までずっと我慢していたのかも知れない。お菊が気づいたとき、お松は目を固く閉じ、声を押し殺しながら泣いていた。釣られてお菊も再び涙を流し始める。こうして二人は長い間、悲しみに暮れていた。
 お松が部屋の戸を叩く音に気づいたとき、お菊はその横で寝息を立てていた。いつの間にか、お松も眠っていたようで、どれくらい時間が経ったのか見当がつかない。
「お松殿、お菊殿、大丈夫か?」
 源兵衛の声である。呼びに来たということは、もう夜が明けたのだろうか。お松は、まだ起きる気配のないお菊の体を激しく揺り動かした。
「お菊さん、起きて」
 目をこすりながら、お菊がゆっくりと上半身を起こす。
「あら、お松さん・・・ いつの間にか眠っていたようね」
「もう、朝みたいよ」
 その言葉に、お菊もすぐ目が覚めた。彼女の様子を見届けてから、お松は源兵衛に声を掛けた。
「ごめんなさい、すぐに準備するから」
 急いで戸を開けて、源兵衛に顔を見せる。彼の表情が驚きに変わった。
「大丈夫か? 目が腫れているぞ」
 昨夜、涙を流したからだ。お松はうなずき、源兵衛に笑顔を見せた。
「心配ないわ。二人でいたら、なんだか寂しくなったのね。いつもは、お雪がいて賑やかだったから」
 源兵衛には、お松の笑顔が偽りの仮面であることを承知していたが、敢えて気づかないふりをした。
「そうやって笑顔を見せられるのなら心配はないな。しかし、あまり眠れていないのではないか? 今日はもう一泊するか」
「いいえ、先を急いだほうがいいわ。相手に付け入る隙を与えることになる」
 黙ったまま、じっと自分の顔に目を凝らす源兵衛に、お松は心配ないと言いたげに
「それに、旅をしていたほうが気も紛れます。部屋の中に閉じこもっていたら、気が変になりそう」
 と付け足した。

「どこで仕掛けますか?」
 右手に広大な海を望みながら、雪花たちは真っ直ぐ続く道を進んでいた。いつの間にか、彼女たちは蒼龍ら一行をすでに追い抜き、熊野灘にたどり着いていたのだ。南には七里御浜のなだらかな海岸線が続くが、雪花たちの今いる辺りから道は険しくなっていく。
 近くには『鬼の岩屋』と呼ばれる洞窟があり、桓武天皇の時代、鬼と恐れられていた海賊が住んでいたそうだ。その荒々しい景観を見れば、今でも物の怪がいるような気配さえ感じる。
「山奥の・・・ 人気のないところがいいでしょう」
「それなら、もっと手前で待ち伏せてもよかったのでは?」
 猪三郎の言葉にうなずきながらも
「慌てなくても獲物は逃げませんわ」
 と雪花は笑みを浮かべながら返す。汚れてしまった純白の着物の代わりに、裾に波模様があしらわれた空色の小袖を着て、清楚で神秘的な近寄りがたい雰囲気は薄れ、美しさが一際目立つようになった。銀虫が無表情のまま、二人に付き従っている。もう、蒼龍たちを見張ることはしていないようだ。
「奴らを見張らなくていいんですか?」
「代わりに働いてくださる方を見つけましたの」
 猪三郎には、それが何者なのか分かった気がした。もはや何も言わず、穏やかな海に目を遣る。翠玉のように光る水面の上には巨大な入道雲が、高く積まれた真っ白な雪のように浮かんでいた。東の海上では雨が降っているのだろうか。
 やがて海は見えなくなり、再び山の中に分け入った雪花たちは、峠で一軒の茶屋を見つけた。木々に囲まれた建物はかなり古く、壁の板などは朽ちていて、少し押せば傾くのではないかと思えるほどの状態だ。暗い室内には誰もおらず、営業しているのかどうか、よく分からないものの、一応、軒先には濃い緑色の暖簾が掛けられている。
「誰もいないのかしら?」
 何を思ったのか、雪花は店の中に入ろうとする。猪三郎は、その様子をしばらく見ていたが、ふと我に返ったように声を掛けた。
「まさか、入るおつもりですか?」
「少し休憩したいと思っていたの」
「こんな粗末なところに入らずとも、先に行けばもっといい店があるでしょう。そもそも、開いているんですかね?」
 猪三郎は呆れ顔で雪花を止めようとする。しかし、その声が聞こえないのか、彼女は中へ入ってしまった。
 雪花が店の中に入ってからしばらくして、店の主人らしき一人の年老いた男が奥から現れた。頭は白髪に覆われ、灰色がかった茶色の着物は周囲の景色に馴染んで、まるで首だけが浮かんでいるように見える。老人は少し驚いた顔で
「いらっしゃいませ」
 と小さな声を上げた。
「ここで少し休憩したいのですが、よろしいか?」
「もちろん、大丈夫・・・」
 老人が話の途中で甲高い悲鳴を上げた。雪花の背後に現れた二人の男に驚いたのだ。猪三郎と銀虫である。
「ごめんなさい。心配しないで、私の仲間だから」
 自分たちの姿を見て恐れをなした老人に対し、猪三郎は苦い顔をしながらも
「驚かせてすまない」
 と謝った。
 廃墟のような外見に比べ、店の中は意外にも手入れが行き届いていて清潔だった。しかし、雪花たち以外に客はおらず、日光がほとんど入らないために陰鬱な雰囲気を漂わせている。
「連中は今、どのあたりなんですか?」
 猪三郎の問いに、雪花は頭を振った。
「分かりませんわ」
「見張りがいるのでは? そいつらの見ている様子が分かるような感じでしたが」
「それは確かにできますけど、代わりに自分の周りの様子が分からなくなります。両方同時に見ることはできません」
 猪三郎は、納得したようにうなずいた。
「便利な術だなとは思っていましたが、やはり制約もあるのですな」
「万能なものなど、この世にはありません・・・」
 雪花の話は、室内に響き渡った突然の大声にかき消された。
「おい、しげ爺はおらぬか!」
 あの老人が駆けつけ、作り笑顔で頭を下げながら応対する。その顔は明らかに怯えた表情をしていた。
「ようこそ、お越し下さりました」
 老人を呼びつけた男は、淡い緑色の小袖姿で、腰には二本の刀をぶら下げている。顔には無数の刀傷があり、数多くの戦を切り抜けた感があった。
「酒と肴を用意しろ。遠征前の景気づけじゃ」
 急いで店の奥へ戻る老人を尻目に、侍は近くの席へ腰を下ろし、店の中をゆっくり見回した。他にも十人程の取り巻きがいて、店の中は急に賑やかになった。
「近くに城でもあるのでしょうか?」
「さあ・・・」
 雪花も猪三郎も、すぐそばに古い城があることは知らない。室町時代、有馬和泉守忠親が築いた山城は現在、新宮一帯を治める豪族の堀内氏が所有している。
 侍は、雪花たち三人の様子をじっと観察していた。猪三郎はそれに気づいていたが、無視して餅菓子を頬張っている。雪花も興味なさそうにうつむいていた。しかし、あの傷だらけの男をはじめ、侍たちは特に雪花の姿に注目していた。
「失礼、このあたりでは見かけぬ顔のようだが」
 侍が三人に近づき声を掛けた。雪花が軽くうなずき
「旅の者でございます」
 と静かに答える。
「どちらまで?」
「神宮に参る予定です」
 男は少し眉を上げたが、表情を崩すことはなかった。
「いずこより参られた?」
「因幡です」
「ふむ、聞いたことはあるな。お国の話を少し伺いたいのだが、あちらの席へ一緒にお越し願えないか?」
 男の意図を察して、猪三郎は怪訝な顔を雪花に向けた。彼女は微笑みを浮かべながら、ゆっくりと立ち上がる。
「雪花殿?」
「少し、お邪魔させてもらいます」
 猪三郎に一礼し、雪花は侍のいるほうへ歩いていった。顔に傷を持つ男は、にんまりとした表情を猪三郎に見せながら、雪花の後ろに従う。侍たちのいる席から大きな歓声が上がった。
 雪花が何を考えているのか、猪三郎には理解できなかった。彼らの笑い声が、部屋の中でけたたましく響き渡る。店の主人は、あたふたしながら酒や食べ物を運んでいた。
「しげ爺、早くしろ!」
「女、酌をいたせ」
「旅を止めて、ここに住まぬか? そうすれば、ずっと守ってやるぞ」
 酒が入ったことで侍たちは大胆になり、雪花を口説き始める者も現れた。だが、彼女は言葉巧みにそれをかわしながら、うまく彼らの相手をしているようだ。
 突然、あの傷だらけの男が雪花の肩を強く抱き寄せた。雪花は抵抗することもなく、男の胸に顔を埋めながらも微笑みを絶やさない。猪三郎は、その様子を呆気にとられながら眺めていたが、特に助けに行くつもりはないようだ。いざとなれば、雪花が一人で対処できるはずだから、それほど心配はしていないらしい。
 いっときほど経って、侍たちは酒盛りを終え立ち去った。雪花は猪三郎のいる席に戻り、何事もなかったかのように座り込んだ。
「あんな連中、あなたなら簡単に倒せるでしょうに」
「悪事を働いたわけでもありませんから」
 猪三郎は嘆息し
「お優しいことですな」
 と返した。
「あら、妬いておりますの?」
「馬鹿な・・・」
 開いた口の塞がらない猪三郎を見て、雪花は口に手を当ててクスリと笑った。
 それから間もなく三人は席を立ち、雪花が店の主人を呼んで代金を支払った。
「あの・・・」
「どうされました? 足りませんか?」
 老人は慌てて首を横に振る。
「いや、その逆ですよ。こんなに頂くことはできません」
「あのお侍さんから、代金はもらったのかしら?」
 老人は再び勢いよく首を振った。散々、飲み食いしたにもかかわらず、彼らは代金を全く支払っていなかったのだ。しかし、店の主人は何も言わなかった。いつもの出来事なのだろう。
「ちょうど実入りのいい仕事がありましたの。気にしなくても大丈夫よ」
 それは猪三郎にとって初耳のことだった。
「いつ、そんな稼ぎを?」
「つい最近よ」
 雪花はそう言って、店から立ち去ろうとした。
「お待ち下さい!」
 追いかけようとする老人に手を振って、雪花は日の当たる明るい外に出てしまった。猪三郎と銀虫も、その後を追いかける。店の主人は涙ぐみ、深々と頭を下げた。
 雪花たちが去ってからどれくらい経っただろうか。あの、顔に傷のある侍が血相を変えて戻ってきた。
「しげ爺、あの女はどこへ行った?」
 ポカンとしたままの老人に、侍は怒りを顕にして
「さっき店にいた女だ!」
 と叫んだ。
「もう、だいぶ前に出発されましたが、それが何か?」
「あの女、俺の懐から金を盗みやがった」
 老人は、雪花の言っていた実入りのいい仕事が何のことなのか気づいた。どうやら、侍から盗んだ金で支払いをしたらしい。侍は、それ以上は何も聞かぬまま走り去った。あとに残った店の主人は、ため息をついてから、含み笑いをしながら奥の暗闇へ入っていった。

 雪花と猪三郎の二人が並んで、山の斜面に続く石の階段をゆっくり登っている。後ろからは銀虫が、相変わらず無表情のまま後に続いていた。ここから再び、道は山中に伸び、険しい峠をいくつも越えなければならない。
「それはまた危険なことを・・・」
 猪三郎が素っ頓狂な声を上げた。雪花から、侍の金を奪ったことを明かされたのだ。
「いつも代金を支払っていないのは、店の様子を見ればすぐに分かります。あれでもまだ足りない位ですわ」
「その予想が外れていたら、いかがなさるおつもりでしたか?」
 雪花は顔に笑みを浮かべながら、猪三郎の質問に前を向いたまま答える。
「黙っていれば、盗んだとは思われないでしょ?」
「あなたがあの男に抱き寄せられたときに懐から頂戴したのでしょう? よほどの間抜けじゃない限り、すぐに気づきますよ」
 雪花の微笑む顔に、猪三郎はしばらく目を凝らしていたが、彼女が何も言わないので前方に目を遣り
「まあ、あなたなら何の苦労もなく倒せる相手なんでしょうがね」
 と小さな声で言った。
 この後、二人は黙したまま歩き続け、日が傾いた頃には入り江にある小さな漁村に到着した。湾の周囲は緑に覆われた山が連なり、わずかな平地に家々が密集している。山によって太陽の光が遮られ、集落は黒い霧に包まれたように見えた。
 三人はその村を通り過ぎ、再び山道の前までやって来た。
「このあたりで野宿しますか?」
 歩みを止めようとしない雪花に対し、とうとう猪三郎が貝のようにつぐんでいた口を開いた。このまま、夜を徹して歩くつもりなのではないかと彼は思ったのだ。雪花は立ち止まり、ゆっくり顔を向けてから、にわかに微笑んだ。
「そうですわね」
 少し様子がおかしい事に気づいた猪三郎は
「大丈夫ですか?」
 と尋ねるが、雪花は首を振って
「ちょっと考え事をしていただけです。心配は要りませんわ」
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「直接というわけではありません。我が一族が滅亡する要因となった人物の末裔ですわ」
「なるほど・・・ しかし、倒すことができたのなら喜ぶべきことではありませんか。悩まれる必要はないのでは?」
「敵はまだ、あと一人残っているのです」
「では、その人物について考えていたと」
「いいえ、その後のことです。残る一人を倒したら、私はどうすればいいのか・・・」
 猪三郎は何度もうなずいた。大きな目的を達成した後の生き方について迷うことは誰にでもある悩みだと思ったからだ。
「俺なら、新たな目標を探すか、たとえそれが見つからなくても、幸せに生きることを考えるかな」
「幸せ、ですか」
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 雪花は頭を振った。
「私には、まだ成すべきことが残っているのです。でも、それが思い出せない」
 なぜ『思い出せない』のか、猪三郎は不思議に思った。そして同時に、雪花が見せる悲しげな表情に憐れみを感じた。
「どうして記憶を失っているのか俺には分からないが、きっかけさえあれば、いつかは蘇るだろうよ」
 猪三郎の慰めも、雪花には効果がない。静かにうつむいたまま、なんの反応も示さなかった。
「その記憶を取り戻すことが、あなたの次の目標になるわけだな」
 猪三郎はさらに言葉を重ねた。ようやく雪花が彼の顔に目を移し、こう尋ねる。
「貴方様には今、目標としているものはありますか?」
 問われる立場になった猪三郎は、自分の置かれている現在の状況を思い浮かべた。仲間は一人残らずこの世を去り、今いるのは雪花と、その操り人形と化した銀虫のみ。依頼主の孫であるお菊は自分たちを裏切って相手とともに行動している。その悪条件の中で伊吹を捕らえなければならないのだから、命を捨てる覚悟がなければ務まらない。無論、猪三郎はそのつもりでいた。仲間を失い、もはや自分だけ生きて帰ろうとは思っていない。彼にとって、残る問題は、その死に方だけだった。
「俺にとっては、刺し違えても敵を討つことこそ本懐だろうな。その死に際は、立派だったと言われたいものだ」
 そう言って猪三郎は笑った。それは凄絶な、そして、どこか諦観したような表情であった。
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