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最初の対決
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「探しておりましたぞ、行者殿」
「お久しぶりですな、法心殿」
薄暗い森の中で、灰色の法衣を身にまとった僧侶が、黒ずくめの男、法心と対面している。僧は笠を頭にかぶったまま、法心のほうも目だけを覗かせ、頭巾で顔を隠していた。
「面白い話を伺いましたぞ。氷を操る者がいると」
「拙者も実際に拝見しております。遠方ではありましたが、鷹の目を使いました故、間違いはございません」
「ふむ、どこぞの侍たちも話をしていたのう。これだけ陽の光に晒されていても、氷が溶けないそうじゃ」
「それは初耳です。とても人間業とは思えませんが」
僧は白い歯を見せて
「物の怪の類とでもおっしゃるか」
とせせら笑う。笠が上下に激しく揺れた。
「匂い立つような美女でございましたな。人間を氷漬けにするのですから、雪女かも知れませぬぞ」
法心の目尻が下がった。微かに笑ったようだ。
「そんな化け物を相手に、これからどうするおつもりですかな?」
「昨夜、直に会って交渉いたしまして」
「ほう、お会いなされたか」
法心が大きくうなずいた。
「とある連中を捕らえるという条件で、長と直接面会することになっています」
「その目的は?」
「あの強力な術、迎え入れることができれば強大な戦力になりましょう。ぜひとも仲間にしたいと思っております」
「果たして、それだけかな?」
僧は笠を脱ぎ、法心の顔をその両目で見据えた。無音の時が流れる。
「あなたに隠し事は不可能ですな。我らが不老不死の術を探し求めていることはご存知だと思いますが」
「まさか・・・」
僧の眉がすっと上がった。
「あの女、どうやら不死のようでして」
「それは興味深い・・・ で、不死の秘密を聞き出そうという魂胆か」
「織田弾正忠様ご所望のものが見つかったのですから、ここで逃すわけには参りませぬ。そこで、行者殿のお力をお借りしたいのです」
織田弾正忠とは信長のことである。根来寺は織田信長に対して友好的であった。紀州征伐に抵抗したのは秀吉の時代からで、それが原因で根来衆は滅ぶことになるのだが、この頃は利害関係さえ一致すれば問題はなかったのであろう。しかも、信長の密かな望みを叶えるために、裏で暗躍していたようである。
僧はふっと溜息をついてから、おもむろに口を開いた。
「まともに闘って勝てる相手ではないな。盗賊どもと同じ末路を歩むのが落ちだ」
「あなたは数多の不思議な術をお持ちではないですか」
「戯れのまやかしなど数には入らぬ。相手の力量が分からない今、敢えて危険を冒すつもりはない」
今度は法心が大きく息を吐いた。
「報酬なら、お望みのものは何でもご用意いたします」
僧の口元が緩んだ。
「ならば、その女、わしがもらう」
僧の言葉に、法心はかなり驚いた様子で
「何ですと?」
と叫んだ。
「不死の女と交わるも、また一興。なあに、戦のときにはお貸しいたしますぞ。貸賃はもらいますがな」
とても坊主が発したとは思えない言葉である。しかし、法心もはじめから雪花を捕らえるつもりだったようだ。強力な術に対抗するために、僧の不思議な力を利用しようと考えているらしい。
「拙者の一存では決めかねますな。長に伺う必要があります」
陰湿な笑い声を上げる僧に、法心は答えた。
「ならば自由斎殿にお尋ねくだされ。わし以外に、その女を止める術があるかのう」
自由斎流の開祖、杉之坊二代目院主の照算が法心のいう長であるようだ。父親の算長こそ、銃の量産化に成功し、根来鉄砲隊を創設した人物であるが、照算も負けず劣らずの砲術家だったそうである。
「承知いたした。長には拙者自ら説得に向かうと致しましょう。しかし、必ずや女を捕らえて下され」
僧は大きくうなずいた。
「されば、参りましょうか」
「いや、わしはここに残る」
「何故でございますか? あなたがお越しくだされば、長もさぞお喜びになりましょう」
「その女の要求、叶えられなかったらどうするおつもりかな?」
法心は、僧の問いかけを一笑に付した。
「我らが失敗するとおっしゃりますか。万が一にもそんなことはござりませぬ」
「慢心は身を滅ぼしますぞ。それにな、その女、早く顔を拝んでおきたいからのう」
そんな言葉を発して、僧は笑い出した。
蒼龍とお蘭の二人が無事に潮見坂を越え、四方を山に囲まれた小さな集落に到着したのは、太陽が西に少し傾いた頃の暑い最中であった。
少し散策してみたが、宿はおろか店も全くないらしい。代わりにあった宿坊の門に、目印の草履が掛けられているのを見つけ、二人は中へ入っていった。
豊かな森に囲まれ、いくつかの古い建物が散在している。昔は多くの参詣人で賑わっていたのだろう。その面影は跡形もないものの、手入れは隅々まで行き届いており、寂れた雰囲気はなかった。
「一晩、宿をお借りしたいのだが」
掃除をしていた小坊主に話しかける。剃髪した頭は青々として、可愛らしい顔からは性別の判断ができない。大きくて丸い目を二人に向け、しばらくしてから
「今日は珍しく、たくさんのお客様がお越しになる。ですが、ちょうど一部屋空いております」
と返答し、部屋まで案内してくれた。
「そんなに多くの人が泊まっているのかい?」
蒼龍に尋ねられ、小坊主は屈託のない笑顔を見せる。
「大半はお侍さんたちですよ。どこのお武家さんかは存じませぬが」
蒼龍たちが今いる辺りは領土がはっきりと定まっておらず、小さな争いは日常茶飯事であった。往来する兵士も数多いので、宿坊は頻繁に利用されるのだろう。寺社と言えども争いに巻き込まれる可能性はあるのだから、兵を泊めるのは避けたいところだが、下手に断れば何をされるか分からないから、そんなわけにもいかない。
「少し前に、旅の方が二組来られまして。いつもなら、修行僧とお侍以外、お泊りになる方は全くいらっしゃいませんから、不思議なこともあるものです」
「二組か・・・ 六人いたんじゃないかな?」
「はい、そうです。お知り合いですか?」
「まあ、そんなところだ」
「なるほど、それで納得しました」
小坊主は笑みを浮かべたまま何度もうなずいた。これまでの話で、伊吹たちは何かの理由で二手に分かれたのだろう、と蒼龍もお蘭も思ったに違いない。しかし、実際はそうではなかった。
「その方々が最初に来られてから、しばらく後にお武家様が現れたので、何人かで部屋の案内をしていたのです。そしたら突然、驚くほど美しい御方に声を掛けられまして」
蒼龍とお蘭は、互いに顔を見合わせた。
「どこかのお姫様でしょうか。上品なお顔立ちで、仕草もすごくおしとやか。見惚れてしまって、しばらく声を出すことができませんでした」
「お付きの人はいなかったのかい?」
「それが、誰もいなかったのです。このご時世、お一人で旅をなさるなんて危険だと思うのですけどね」
危険というより無謀と言ったほうがいいだろう。女性が単身で旅をするなど、この時代では考えられない話だ。蒼龍は、その女が雪花であると確信したものの、一人で旅をしているという点が気になった。
「赤毛の男とか、やたら図体のでかい奴はいなかったか?」
蒼龍に尋ねられた小坊主は首をひねり
「そのような方にはお会いしていないです。でも、今日はたくさん人がいましたからね」
と答える。うなずく蒼龍に、小坊主は目を輝かせながら話を続けた。
「もしかして、あのお姫様ともお知り合いだったんですか? 一体、どんな御方なのでしょうか?」
「少なくとも、お姫様でないことは確かだ」
蒼龍は、小坊主の無垢な笑顔を目にして答えた。
「たった六人を捕まえるのに、鉄砲まで用意する必要があるのかね?」
暗闇の中で、篝火の周囲だけが赤く浮かび上がっている。その近くで見張りをしていた二人の男性、一人は背が高くて痩せているのに対し、もう一人は洋梨のような体つきをしていた。
「相手に闘う気を起こさせないためだよ。怪我を負わせても駄目らしいからね」
「ここで寝込みを襲えば、すぐ方がつくのにな」
「頭も不在だし、勝手には動けないんだろう。まあ、簡単な仕事だから気楽にやればいいさ」
そんな話をしているところに、誰かが近づいてきた。二人とも、その気配を感じて身を固くする。
「ようやく追いついたわい」
声とともに現れたのは、あの灰色の衣を着た僧であった。笠を頭に付けたままで、顔は影に覆われ全く見えない。
「行者殿でしたか」
「法心殿がお戻りになるまで、ここに御滞在なさると伺ってな。旅の御方というのも、こちらにいらっしゃるのかな?」
僧に尋ねられ、背が高いほうの男が畏まって頭を下げる。僧のことを少し恐れているようだ。
「はい、皆様、この宿坊にお泊まりでございますが」
僧は大きくうなずいたらしく、笠が上下に揺れている。
「ほっ、囚われの者が四人ほど。哀れ、今、開放してやろうかの」
言い終えるや、右手に持っていた錫杖を地面に打ち付けた。あたりに涼やかな音が鳴り響く。僧は左手をかざし、目を閉じて瞑想を始めた。その様子を、二人はただ黙って見ていることしかできなかった。
その頃、雪花は部屋の中で一人、開け放たれた障子越しに広がる何もない暗闇を眺め立ち尽くしていた。行灯の明かりがゆらゆら揺れて、雪花の姿を微かに照らしていた。雪花の体は青白い光で包まれ、知らぬ人が目撃すれば亡霊と勘違いしそうだ。
遠くから、金属同士の触れ合う軽やかな音が聞こえてくる。その瞬間、雪花の顔に苦痛の表情が浮かんだ。その場に座り込み、右手で頭を押さえながら、左の腕を真っ直ぐ、暗闇のほうへ伸ばした。
「まさか・・・」
口を開くが言葉にならず、うめき声を上げながら懸命に意識を集中させようとする。そのまま長い時間、雪花は一切の動きを止めた。
猪三郎と銀虫は、兵士たちと共に大部屋の中で体を休めていた。銀虫はすでに眠っているのに対し、その横にいた猪三郎はいつもと違う環境に慣れないのか、何度も寝返りを打ちながら、眠れぬ夜を過ごしていた。他の死人組は、部屋の隅で座ったまま動かない。兵士たちは気味悪がって、誰も近くに寄ろうとはしなかったので、猪三郎と銀虫は広い場所を専有することができた。
ようやく眠りかけていた猪三郎は、奇妙なうめき声のせいで目を覚ましてしまった。その声の主は銀虫だと気づいて、猪三郎は上半身を起こし、銀虫に話しかけた。
「おい、どうした?」
銀虫は目を閉じたまま、猪三郎の呼びかけにも応じず唸り続けるだけだ。気がつけば、鬼坊や月光、蝙蝠も、体を左右に大きく揺らしながら天井を見上げ、明らかに様子がおかしい。
近くで寝ていた兵士の何人かが異変に気づき、遠巻きに見守っている。その数は増えていき、唯一まともに話ができそうな猪三郎に声を掛ける者も現れた。
「どうした? 発作でも起こしたのか?」
「いや、俺にも分からん」
銀虫は頭を抱え、ありとあらゆる苦痛をその身に受けているかのように顔を歪ませながら激しく転げ回った。これは、痛みをほとんど感じないはずの彼が初めて味わう感覚なのかも知れない。誰もが何もできずにいる中で、銀虫の苦悶の声だけが部屋中に響き渡る。その状態がどれだけ続いただろうか。銀虫の体が痙攣した後、ピタリと動かなくなってしまった。
「もしかして死んだのか?」
兵士の一人が猪三郎に尋ねるが、彼にも状況が分からず、何も答えられない。気がつけば、奥にいた三人も体を横たえ動きを止めている。静まり返った室内に、鈴のような音が鳴り響いた。
雪花は両手を床につき、荒く息をしながら暗闇を睨んでいた。額に玉のような汗をかいて、普段は見せたことのない驚愕の表情をしている。紅玉のような色の瞳が、呼吸を整えることで琥珀色に変わると、ようやく雪花はよろよろと立ち上がり、縁側に出て遠くに光る篝火の炎を凝視した。
赤く燃える炎の他には暗闇ばかりが広がる中で、雪花は自分へ向けられた鋭い視線を感じ取っていた。それは彼女の意思を奪い、思いのままに操ろうとする力を持っている。その眼力に抗いながら、雪花は相手の正体を暴こうとしていた。
強烈な視線がふっと消滅し、雪花は緊張を解いた。しばらくしてから、雪花はその明かりに向かい、吸い寄せられるように歩き出した。その顔は、いつもの微笑みを湛えた表情に戻っている。
彼女が篝火の近くまで来たとき、その背後にいたのは、あの二人の番人だけで、他には誰もいなかった。雪花は歩みを止め、その二人の姿に目を凝らしていたのだが、相手は気がついていない。やがて、雪花は宿のほうへ戻っていった。
「その者たちは、すでに死んでおる。弔ってやりなさい」
部屋に入ってきた灰色の僧は、部屋の奥で倒れている三人を指し示して、近くにいた兵に命じた。そして、銀虫の様子を観察してから、猪三郎に声を掛けた。
「あなたの連れは、強力な力で支配されておる」
「強力な力?」
猪三郎は、困惑気味に聞き返す。
「拙僧はその力から開放させようと力を尽くしたが、死人と違ってこの男は生きておるからのう。これ以上負荷をかければ気が狂ってしまう」
そう言って、行者は三人の死体に近づき、読経を始めた。
川を渡ってから、果てしなく登り坂が続く。まわりにあるのは若草色の草原ばかり。お蘭とお初は、その間に伸びる坂道を進み続けた。
「どれだけ登るんだろう?」
真っ直ぐに進む目の前の道を見上げながら、お初は独り言のようにつぶやいた。
「どんなに遠くても、必ず最後があるはずよ。がんばろう」
お蘭に声を掛けられ、お初は満面の笑みを浮かべる。ずっと辛い思いをしてきたのに、気落ちしている様子はないようで、お蘭は少し安心した。
ようやく頂が見えてきた。その向こうには鬱蒼とした木々の緑が広がっている。最初は森だと思っていたが、坂を登りきって目の前に現れたのは、森でなく、一本の途方もなく巨大な木であった。
「わあ、大きな木」
お初が元気な声で叫ぶ。思い返せば、お初と最初に出会ったのも巨木の下であったが、それを遥かに超える大きさであった。木の幹が、まるで崖のようにそびえ立っている。上を向けば木の枝が縦横無尽に伸びて陽の光を覆っていた。ふかふかの芝生の絨毯に、柔らかな木漏れ日が降り注ぐ。二人はその木に持たれかかり、しばらく休憩した。爽やかな草木の香りがあたりに漂い、心地よい風が頬を撫でる。いつの間にか二人は眠っていた。
お蘭が目を覚ますと、一人の老人が顔を覗き込んでいることに気づき、思わず小さな悲鳴を上げた。
「お前さんたち、どうしてこんなところにいるのかね」
老人は穏やかな顔で尋ねた。しかし、その顔はお初の体と同じくらいの大きさだろうか。やせ細りあばらが透けて見える上半身は裸で、身に付けているのは獣の皮でできた腰蓑だけ。枯れ木のような手足は異様に長く、その姿は蜘蛛を思わせる。
「私たち、ここで一休みしているうちに眠ってしまったようです」
その姿に圧倒されながらも、お蘭は恐る恐る返答した。その老人は大きな頭を縦に振り
「ここは、死者の衣服を剥ぎ取って罪の重さを量る場所。こんなところにいると、奪衣婆に服を取られてしまうぞ」
と言って笑う。その笑い声でお初も目を覚まし、目の前の巨大な顔に驚いてお蘭にしがみついた。
「わしが聞きたいのは、どうしてこんなところまで来たのかということじゃ。この先は果ての世界。そこを越えればもう戻ることはできぬ。すぐに帰りなさい」
「私たちは、その果ての世界を目指しているのです」
老人の糸のように細い目が大きく見開かれた。
「それは駄目だ。お前さんたち、魑魅魍魎に取り憑かれて永遠に彷徨うことになろうぞ」
老人はすっと立ち上がった。その背は驚くほど高く、先程まで目の前にあった顔が小さく感じる。
「さあ、わしが途中まで送ってあげよう。一緒にいれば、鬼にさらわれる心配もない」
お蘭は、視線を老人からお初の顔へ移した。お初は震えながら、頭を横に振る。
「この子のお姉さんを見つけるまで、戻ることはできません」
お蘭の言葉を聞いた老人は、悲しげな顔になり
「果ての世界に、その子の姉などはおらぬ」
と言った。お初は怯えた顔をゆっくり老人のほうへ向ける。
「だって、お姉ちゃんが呼んでるんだ。ここに来て助けてほしいって」
以前、船守はお初の言葉が嘘だと断じた。しかし、お蘭にはお初の話がでたらめであるとは思えないのだ。ということは、他の誰かが姉だと偽って、お初を呼んでいるのかもしれない。
「それなら、果ての世界には誰が待っているというのですか?」
お蘭が老人に尋ねたが、老人の返事は意外なものだった。
「誰もおらぬ。果ての世界には虚無が広がるのみ」
「では、一体誰がお初ちゃんに声を掛けているの?」
「それは、実際に行ってみなければ分からぬだろうな」
老人は、そう答えた後、大きなため息をついた。それから、話が理解できないという顔をしたお蘭に目を凝らし、話を続ける。
「お前さん、情に流されて進み続ければ、身を滅ぼす元になるぞ。たとえ果ての世界に着いたとしても、辛い目に遭うことになるだけじゃ。それでもいいのか?」
お蘭は、すぐに答えることができなかった。お初が無言で自分の顔を窺っていることに気づき、思わず視線をそらす。すると、お初がお蘭から体を離した。
「お蘭お姉ちゃん、ごめんなさい。私、一人で果ての世界に行ってみる」
驚いたお蘭は
「駄目よ、お初ちゃん。危険すぎるわ」
と叫んだ。しかし、お初は悲しげに微笑んだ後、すっと後ろを振り向いて老人に話しかけた。
「お爺さん、お蘭お姉ちゃんを元の世界に連れて行ってあげて下さい」
老人がうなずくのを確認するや、お初は突然走り始める。慌てて追いかけようとするお蘭に老人が背後から声を掛けた。
「待ちなさい! あの子の覚悟を尊重してあげられないかね」
「しかし、あんな小さな子が一人で旅をするなんて危険すぎる。それに、私にも覚悟はできています」
お蘭がそう言って走り去る様子を眺めながら、老人は立ち尽くしたまま動こうとしない。やがて、その姿が薄らいで、完全に姿を消してしまった。
「お初ちゃん、待って!」
子供のお初がそんなに早く走れるはずはない。なのに、どこにも姿が見当たらないので、お蘭は闇雲に駆け回った。周囲には隠れるところなどなく、あの巨大な樹の他には花畑が広がるだけだ。
しばらくして、お蘭は立ち止まった。あたりに目を配り、お初の姿を探してみる。
「お初ちゃん!」
声を大にして呼んでみても返事はない。もう一度、走り出そうとしたとき、後ろから声が聞こえた。
「待ちなさい」
振り向いた途端、お蘭は驚いて腰を抜かしそうになった。目の前に、あの老人の顔があったのだ。音も気配も完全に消して、老人はいつの間にかお蘭の背後で屈んでいた。
「お前さん、覚悟はできていると言ったね」
突然、老人に尋ねられ、お蘭はしばらく躊躇していたものの、ゆっくりとうなずいた。
「果ての世界にたどり着けるかどうかは分からない。ある者にとっては本当に果てのない場所にあるかも知れないし、またある者にとってはすぐそこにあるのかも知れない。そして、最後には針の山を越えなければならないだろう。数多の亡者がそこで苦しみもがいている。お前さんたちが登ろうとするのをきっと邪魔するに違いない。そうやって、苦労してたどり着いたとして、何もない空虚な場所に何が待ち受けているかはわしにも分からぬが、お前さんはそこでお初と別れなければならない」
「どうして・・・」
「全てを無に帰す果ての世界で存在することは不可能だからだ」
「では、私も消えてしまうのですか?」
「お前さんは、ここでは異質な存在だからのう。おそらく消えることはないだろう。しかし、お初は消えてしまう」
お初を失うことに、お蘭は耐えられなかった。それをお初に話して、果ての世界へ行くのを止めさせなければならない。お蘭がそう思っていると、まるで老人は心を読んでいたように口を開いた。
「もし、お初を説得して元の世界に戻れば、ずっと一緒に過ごすこともできたのじゃがな」
お蘭は、すぐにでもお初を追いかけたい衝動に駆られた。
「早くお初ちゃんを見つけなきゃ」
「残念ながらあの子の決意は固い。彼女を呼ぶ声が強くなってきたのじゃろうな」
遥か遠くを眺めていたお蘭は、老人の言葉を聞いて、再びその顔に視線を移した。
「このまま、あの子を行かせてあげたらどうじゃ?」
老人の顔は、あまりにも悲しげだった。お蘭がそれを受け入れるとは思っていないのだろう。
「そんなこと、私にはできません。なんとか言い聞かせて、連れて戻りますわ」
老人の小さな目が、お蘭の顔を凝視したまま長い時間が経過した。ついに、老人は説き伏せることを諦めたらしく、目を閉じて、ゆっくりと話し始めた。
「この先には大きな門があってな。一人の老婆が門番をしておる。おそらく、あの子一人では簡単に通してはもらえないだろう。今なら間に合うはずだ。いいかね、決して嘘をついてはいけないよ。彼女に嘘は通じない。騙そうとすれば、決して門を開いてはくれない」
老人の忠告を受けて、お蘭はうなずいた。
「ありがとうございます、お爺さん」
深々と礼をした後、お蘭は走り出した。その姿が見えなくなるまで、老人はずっとその場に立ち尽くしていた。
「お久しぶりですな、法心殿」
薄暗い森の中で、灰色の法衣を身にまとった僧侶が、黒ずくめの男、法心と対面している。僧は笠を頭にかぶったまま、法心のほうも目だけを覗かせ、頭巾で顔を隠していた。
「面白い話を伺いましたぞ。氷を操る者がいると」
「拙者も実際に拝見しております。遠方ではありましたが、鷹の目を使いました故、間違いはございません」
「ふむ、どこぞの侍たちも話をしていたのう。これだけ陽の光に晒されていても、氷が溶けないそうじゃ」
「それは初耳です。とても人間業とは思えませんが」
僧は白い歯を見せて
「物の怪の類とでもおっしゃるか」
とせせら笑う。笠が上下に激しく揺れた。
「匂い立つような美女でございましたな。人間を氷漬けにするのですから、雪女かも知れませぬぞ」
法心の目尻が下がった。微かに笑ったようだ。
「そんな化け物を相手に、これからどうするおつもりですかな?」
「昨夜、直に会って交渉いたしまして」
「ほう、お会いなされたか」
法心が大きくうなずいた。
「とある連中を捕らえるという条件で、長と直接面会することになっています」
「その目的は?」
「あの強力な術、迎え入れることができれば強大な戦力になりましょう。ぜひとも仲間にしたいと思っております」
「果たして、それだけかな?」
僧は笠を脱ぎ、法心の顔をその両目で見据えた。無音の時が流れる。
「あなたに隠し事は不可能ですな。我らが不老不死の術を探し求めていることはご存知だと思いますが」
「まさか・・・」
僧の眉がすっと上がった。
「あの女、どうやら不死のようでして」
「それは興味深い・・・ で、不死の秘密を聞き出そうという魂胆か」
「織田弾正忠様ご所望のものが見つかったのですから、ここで逃すわけには参りませぬ。そこで、行者殿のお力をお借りしたいのです」
織田弾正忠とは信長のことである。根来寺は織田信長に対して友好的であった。紀州征伐に抵抗したのは秀吉の時代からで、それが原因で根来衆は滅ぶことになるのだが、この頃は利害関係さえ一致すれば問題はなかったのであろう。しかも、信長の密かな望みを叶えるために、裏で暗躍していたようである。
僧はふっと溜息をついてから、おもむろに口を開いた。
「まともに闘って勝てる相手ではないな。盗賊どもと同じ末路を歩むのが落ちだ」
「あなたは数多の不思議な術をお持ちではないですか」
「戯れのまやかしなど数には入らぬ。相手の力量が分からない今、敢えて危険を冒すつもりはない」
今度は法心が大きく息を吐いた。
「報酬なら、お望みのものは何でもご用意いたします」
僧の口元が緩んだ。
「ならば、その女、わしがもらう」
僧の言葉に、法心はかなり驚いた様子で
「何ですと?」
と叫んだ。
「不死の女と交わるも、また一興。なあに、戦のときにはお貸しいたしますぞ。貸賃はもらいますがな」
とても坊主が発したとは思えない言葉である。しかし、法心もはじめから雪花を捕らえるつもりだったようだ。強力な術に対抗するために、僧の不思議な力を利用しようと考えているらしい。
「拙者の一存では決めかねますな。長に伺う必要があります」
陰湿な笑い声を上げる僧に、法心は答えた。
「ならば自由斎殿にお尋ねくだされ。わし以外に、その女を止める術があるかのう」
自由斎流の開祖、杉之坊二代目院主の照算が法心のいう長であるようだ。父親の算長こそ、銃の量産化に成功し、根来鉄砲隊を創設した人物であるが、照算も負けず劣らずの砲術家だったそうである。
「承知いたした。長には拙者自ら説得に向かうと致しましょう。しかし、必ずや女を捕らえて下され」
僧は大きくうなずいた。
「されば、参りましょうか」
「いや、わしはここに残る」
「何故でございますか? あなたがお越しくだされば、長もさぞお喜びになりましょう」
「その女の要求、叶えられなかったらどうするおつもりかな?」
法心は、僧の問いかけを一笑に付した。
「我らが失敗するとおっしゃりますか。万が一にもそんなことはござりませぬ」
「慢心は身を滅ぼしますぞ。それにな、その女、早く顔を拝んでおきたいからのう」
そんな言葉を発して、僧は笑い出した。
蒼龍とお蘭の二人が無事に潮見坂を越え、四方を山に囲まれた小さな集落に到着したのは、太陽が西に少し傾いた頃の暑い最中であった。
少し散策してみたが、宿はおろか店も全くないらしい。代わりにあった宿坊の門に、目印の草履が掛けられているのを見つけ、二人は中へ入っていった。
豊かな森に囲まれ、いくつかの古い建物が散在している。昔は多くの参詣人で賑わっていたのだろう。その面影は跡形もないものの、手入れは隅々まで行き届いており、寂れた雰囲気はなかった。
「一晩、宿をお借りしたいのだが」
掃除をしていた小坊主に話しかける。剃髪した頭は青々として、可愛らしい顔からは性別の判断ができない。大きくて丸い目を二人に向け、しばらくしてから
「今日は珍しく、たくさんのお客様がお越しになる。ですが、ちょうど一部屋空いております」
と返答し、部屋まで案内してくれた。
「そんなに多くの人が泊まっているのかい?」
蒼龍に尋ねられ、小坊主は屈託のない笑顔を見せる。
「大半はお侍さんたちですよ。どこのお武家さんかは存じませぬが」
蒼龍たちが今いる辺りは領土がはっきりと定まっておらず、小さな争いは日常茶飯事であった。往来する兵士も数多いので、宿坊は頻繁に利用されるのだろう。寺社と言えども争いに巻き込まれる可能性はあるのだから、兵を泊めるのは避けたいところだが、下手に断れば何をされるか分からないから、そんなわけにもいかない。
「少し前に、旅の方が二組来られまして。いつもなら、修行僧とお侍以外、お泊りになる方は全くいらっしゃいませんから、不思議なこともあるものです」
「二組か・・・ 六人いたんじゃないかな?」
「はい、そうです。お知り合いですか?」
「まあ、そんなところだ」
「なるほど、それで納得しました」
小坊主は笑みを浮かべたまま何度もうなずいた。これまでの話で、伊吹たちは何かの理由で二手に分かれたのだろう、と蒼龍もお蘭も思ったに違いない。しかし、実際はそうではなかった。
「その方々が最初に来られてから、しばらく後にお武家様が現れたので、何人かで部屋の案内をしていたのです。そしたら突然、驚くほど美しい御方に声を掛けられまして」
蒼龍とお蘭は、互いに顔を見合わせた。
「どこかのお姫様でしょうか。上品なお顔立ちで、仕草もすごくおしとやか。見惚れてしまって、しばらく声を出すことができませんでした」
「お付きの人はいなかったのかい?」
「それが、誰もいなかったのです。このご時世、お一人で旅をなさるなんて危険だと思うのですけどね」
危険というより無謀と言ったほうがいいだろう。女性が単身で旅をするなど、この時代では考えられない話だ。蒼龍は、その女が雪花であると確信したものの、一人で旅をしているという点が気になった。
「赤毛の男とか、やたら図体のでかい奴はいなかったか?」
蒼龍に尋ねられた小坊主は首をひねり
「そのような方にはお会いしていないです。でも、今日はたくさん人がいましたからね」
と答える。うなずく蒼龍に、小坊主は目を輝かせながら話を続けた。
「もしかして、あのお姫様ともお知り合いだったんですか? 一体、どんな御方なのでしょうか?」
「少なくとも、お姫様でないことは確かだ」
蒼龍は、小坊主の無垢な笑顔を目にして答えた。
「たった六人を捕まえるのに、鉄砲まで用意する必要があるのかね?」
暗闇の中で、篝火の周囲だけが赤く浮かび上がっている。その近くで見張りをしていた二人の男性、一人は背が高くて痩せているのに対し、もう一人は洋梨のような体つきをしていた。
「相手に闘う気を起こさせないためだよ。怪我を負わせても駄目らしいからね」
「ここで寝込みを襲えば、すぐ方がつくのにな」
「頭も不在だし、勝手には動けないんだろう。まあ、簡単な仕事だから気楽にやればいいさ」
そんな話をしているところに、誰かが近づいてきた。二人とも、その気配を感じて身を固くする。
「ようやく追いついたわい」
声とともに現れたのは、あの灰色の衣を着た僧であった。笠を頭に付けたままで、顔は影に覆われ全く見えない。
「行者殿でしたか」
「法心殿がお戻りになるまで、ここに御滞在なさると伺ってな。旅の御方というのも、こちらにいらっしゃるのかな?」
僧に尋ねられ、背が高いほうの男が畏まって頭を下げる。僧のことを少し恐れているようだ。
「はい、皆様、この宿坊にお泊まりでございますが」
僧は大きくうなずいたらしく、笠が上下に揺れている。
「ほっ、囚われの者が四人ほど。哀れ、今、開放してやろうかの」
言い終えるや、右手に持っていた錫杖を地面に打ち付けた。あたりに涼やかな音が鳴り響く。僧は左手をかざし、目を閉じて瞑想を始めた。その様子を、二人はただ黙って見ていることしかできなかった。
その頃、雪花は部屋の中で一人、開け放たれた障子越しに広がる何もない暗闇を眺め立ち尽くしていた。行灯の明かりがゆらゆら揺れて、雪花の姿を微かに照らしていた。雪花の体は青白い光で包まれ、知らぬ人が目撃すれば亡霊と勘違いしそうだ。
遠くから、金属同士の触れ合う軽やかな音が聞こえてくる。その瞬間、雪花の顔に苦痛の表情が浮かんだ。その場に座り込み、右手で頭を押さえながら、左の腕を真っ直ぐ、暗闇のほうへ伸ばした。
「まさか・・・」
口を開くが言葉にならず、うめき声を上げながら懸命に意識を集中させようとする。そのまま長い時間、雪花は一切の動きを止めた。
猪三郎と銀虫は、兵士たちと共に大部屋の中で体を休めていた。銀虫はすでに眠っているのに対し、その横にいた猪三郎はいつもと違う環境に慣れないのか、何度も寝返りを打ちながら、眠れぬ夜を過ごしていた。他の死人組は、部屋の隅で座ったまま動かない。兵士たちは気味悪がって、誰も近くに寄ろうとはしなかったので、猪三郎と銀虫は広い場所を専有することができた。
ようやく眠りかけていた猪三郎は、奇妙なうめき声のせいで目を覚ましてしまった。その声の主は銀虫だと気づいて、猪三郎は上半身を起こし、銀虫に話しかけた。
「おい、どうした?」
銀虫は目を閉じたまま、猪三郎の呼びかけにも応じず唸り続けるだけだ。気がつけば、鬼坊や月光、蝙蝠も、体を左右に大きく揺らしながら天井を見上げ、明らかに様子がおかしい。
近くで寝ていた兵士の何人かが異変に気づき、遠巻きに見守っている。その数は増えていき、唯一まともに話ができそうな猪三郎に声を掛ける者も現れた。
「どうした? 発作でも起こしたのか?」
「いや、俺にも分からん」
銀虫は頭を抱え、ありとあらゆる苦痛をその身に受けているかのように顔を歪ませながら激しく転げ回った。これは、痛みをほとんど感じないはずの彼が初めて味わう感覚なのかも知れない。誰もが何もできずにいる中で、銀虫の苦悶の声だけが部屋中に響き渡る。その状態がどれだけ続いただろうか。銀虫の体が痙攣した後、ピタリと動かなくなってしまった。
「もしかして死んだのか?」
兵士の一人が猪三郎に尋ねるが、彼にも状況が分からず、何も答えられない。気がつけば、奥にいた三人も体を横たえ動きを止めている。静まり返った室内に、鈴のような音が鳴り響いた。
雪花は両手を床につき、荒く息をしながら暗闇を睨んでいた。額に玉のような汗をかいて、普段は見せたことのない驚愕の表情をしている。紅玉のような色の瞳が、呼吸を整えることで琥珀色に変わると、ようやく雪花はよろよろと立ち上がり、縁側に出て遠くに光る篝火の炎を凝視した。
赤く燃える炎の他には暗闇ばかりが広がる中で、雪花は自分へ向けられた鋭い視線を感じ取っていた。それは彼女の意思を奪い、思いのままに操ろうとする力を持っている。その眼力に抗いながら、雪花は相手の正体を暴こうとしていた。
強烈な視線がふっと消滅し、雪花は緊張を解いた。しばらくしてから、雪花はその明かりに向かい、吸い寄せられるように歩き出した。その顔は、いつもの微笑みを湛えた表情に戻っている。
彼女が篝火の近くまで来たとき、その背後にいたのは、あの二人の番人だけで、他には誰もいなかった。雪花は歩みを止め、その二人の姿に目を凝らしていたのだが、相手は気がついていない。やがて、雪花は宿のほうへ戻っていった。
「その者たちは、すでに死んでおる。弔ってやりなさい」
部屋に入ってきた灰色の僧は、部屋の奥で倒れている三人を指し示して、近くにいた兵に命じた。そして、銀虫の様子を観察してから、猪三郎に声を掛けた。
「あなたの連れは、強力な力で支配されておる」
「強力な力?」
猪三郎は、困惑気味に聞き返す。
「拙僧はその力から開放させようと力を尽くしたが、死人と違ってこの男は生きておるからのう。これ以上負荷をかければ気が狂ってしまう」
そう言って、行者は三人の死体に近づき、読経を始めた。
川を渡ってから、果てしなく登り坂が続く。まわりにあるのは若草色の草原ばかり。お蘭とお初は、その間に伸びる坂道を進み続けた。
「どれだけ登るんだろう?」
真っ直ぐに進む目の前の道を見上げながら、お初は独り言のようにつぶやいた。
「どんなに遠くても、必ず最後があるはずよ。がんばろう」
お蘭に声を掛けられ、お初は満面の笑みを浮かべる。ずっと辛い思いをしてきたのに、気落ちしている様子はないようで、お蘭は少し安心した。
ようやく頂が見えてきた。その向こうには鬱蒼とした木々の緑が広がっている。最初は森だと思っていたが、坂を登りきって目の前に現れたのは、森でなく、一本の途方もなく巨大な木であった。
「わあ、大きな木」
お初が元気な声で叫ぶ。思い返せば、お初と最初に出会ったのも巨木の下であったが、それを遥かに超える大きさであった。木の幹が、まるで崖のようにそびえ立っている。上を向けば木の枝が縦横無尽に伸びて陽の光を覆っていた。ふかふかの芝生の絨毯に、柔らかな木漏れ日が降り注ぐ。二人はその木に持たれかかり、しばらく休憩した。爽やかな草木の香りがあたりに漂い、心地よい風が頬を撫でる。いつの間にか二人は眠っていた。
お蘭が目を覚ますと、一人の老人が顔を覗き込んでいることに気づき、思わず小さな悲鳴を上げた。
「お前さんたち、どうしてこんなところにいるのかね」
老人は穏やかな顔で尋ねた。しかし、その顔はお初の体と同じくらいの大きさだろうか。やせ細りあばらが透けて見える上半身は裸で、身に付けているのは獣の皮でできた腰蓑だけ。枯れ木のような手足は異様に長く、その姿は蜘蛛を思わせる。
「私たち、ここで一休みしているうちに眠ってしまったようです」
その姿に圧倒されながらも、お蘭は恐る恐る返答した。その老人は大きな頭を縦に振り
「ここは、死者の衣服を剥ぎ取って罪の重さを量る場所。こんなところにいると、奪衣婆に服を取られてしまうぞ」
と言って笑う。その笑い声でお初も目を覚まし、目の前の巨大な顔に驚いてお蘭にしがみついた。
「わしが聞きたいのは、どうしてこんなところまで来たのかということじゃ。この先は果ての世界。そこを越えればもう戻ることはできぬ。すぐに帰りなさい」
「私たちは、その果ての世界を目指しているのです」
老人の糸のように細い目が大きく見開かれた。
「それは駄目だ。お前さんたち、魑魅魍魎に取り憑かれて永遠に彷徨うことになろうぞ」
老人はすっと立ち上がった。その背は驚くほど高く、先程まで目の前にあった顔が小さく感じる。
「さあ、わしが途中まで送ってあげよう。一緒にいれば、鬼にさらわれる心配もない」
お蘭は、視線を老人からお初の顔へ移した。お初は震えながら、頭を横に振る。
「この子のお姉さんを見つけるまで、戻ることはできません」
お蘭の言葉を聞いた老人は、悲しげな顔になり
「果ての世界に、その子の姉などはおらぬ」
と言った。お初は怯えた顔をゆっくり老人のほうへ向ける。
「だって、お姉ちゃんが呼んでるんだ。ここに来て助けてほしいって」
以前、船守はお初の言葉が嘘だと断じた。しかし、お蘭にはお初の話がでたらめであるとは思えないのだ。ということは、他の誰かが姉だと偽って、お初を呼んでいるのかもしれない。
「それなら、果ての世界には誰が待っているというのですか?」
お蘭が老人に尋ねたが、老人の返事は意外なものだった。
「誰もおらぬ。果ての世界には虚無が広がるのみ」
「では、一体誰がお初ちゃんに声を掛けているの?」
「それは、実際に行ってみなければ分からぬだろうな」
老人は、そう答えた後、大きなため息をついた。それから、話が理解できないという顔をしたお蘭に目を凝らし、話を続ける。
「お前さん、情に流されて進み続ければ、身を滅ぼす元になるぞ。たとえ果ての世界に着いたとしても、辛い目に遭うことになるだけじゃ。それでもいいのか?」
お蘭は、すぐに答えることができなかった。お初が無言で自分の顔を窺っていることに気づき、思わず視線をそらす。すると、お初がお蘭から体を離した。
「お蘭お姉ちゃん、ごめんなさい。私、一人で果ての世界に行ってみる」
驚いたお蘭は
「駄目よ、お初ちゃん。危険すぎるわ」
と叫んだ。しかし、お初は悲しげに微笑んだ後、すっと後ろを振り向いて老人に話しかけた。
「お爺さん、お蘭お姉ちゃんを元の世界に連れて行ってあげて下さい」
老人がうなずくのを確認するや、お初は突然走り始める。慌てて追いかけようとするお蘭に老人が背後から声を掛けた。
「待ちなさい! あの子の覚悟を尊重してあげられないかね」
「しかし、あんな小さな子が一人で旅をするなんて危険すぎる。それに、私にも覚悟はできています」
お蘭がそう言って走り去る様子を眺めながら、老人は立ち尽くしたまま動こうとしない。やがて、その姿が薄らいで、完全に姿を消してしまった。
「お初ちゃん、待って!」
子供のお初がそんなに早く走れるはずはない。なのに、どこにも姿が見当たらないので、お蘭は闇雲に駆け回った。周囲には隠れるところなどなく、あの巨大な樹の他には花畑が広がるだけだ。
しばらくして、お蘭は立ち止まった。あたりに目を配り、お初の姿を探してみる。
「お初ちゃん!」
声を大にして呼んでみても返事はない。もう一度、走り出そうとしたとき、後ろから声が聞こえた。
「待ちなさい」
振り向いた途端、お蘭は驚いて腰を抜かしそうになった。目の前に、あの老人の顔があったのだ。音も気配も完全に消して、老人はいつの間にかお蘭の背後で屈んでいた。
「お前さん、覚悟はできていると言ったね」
突然、老人に尋ねられ、お蘭はしばらく躊躇していたものの、ゆっくりとうなずいた。
「果ての世界にたどり着けるかどうかは分からない。ある者にとっては本当に果てのない場所にあるかも知れないし、またある者にとってはすぐそこにあるのかも知れない。そして、最後には針の山を越えなければならないだろう。数多の亡者がそこで苦しみもがいている。お前さんたちが登ろうとするのをきっと邪魔するに違いない。そうやって、苦労してたどり着いたとして、何もない空虚な場所に何が待ち受けているかはわしにも分からぬが、お前さんはそこでお初と別れなければならない」
「どうして・・・」
「全てを無に帰す果ての世界で存在することは不可能だからだ」
「では、私も消えてしまうのですか?」
「お前さんは、ここでは異質な存在だからのう。おそらく消えることはないだろう。しかし、お初は消えてしまう」
お初を失うことに、お蘭は耐えられなかった。それをお初に話して、果ての世界へ行くのを止めさせなければならない。お蘭がそう思っていると、まるで老人は心を読んでいたように口を開いた。
「もし、お初を説得して元の世界に戻れば、ずっと一緒に過ごすこともできたのじゃがな」
お蘭は、すぐにでもお初を追いかけたい衝動に駆られた。
「早くお初ちゃんを見つけなきゃ」
「残念ながらあの子の決意は固い。彼女を呼ぶ声が強くなってきたのじゃろうな」
遥か遠くを眺めていたお蘭は、老人の言葉を聞いて、再びその顔に視線を移した。
「このまま、あの子を行かせてあげたらどうじゃ?」
老人の顔は、あまりにも悲しげだった。お蘭がそれを受け入れるとは思っていないのだろう。
「そんなこと、私にはできません。なんとか言い聞かせて、連れて戻りますわ」
老人の小さな目が、お蘭の顔を凝視したまま長い時間が経過した。ついに、老人は説き伏せることを諦めたらしく、目を閉じて、ゆっくりと話し始めた。
「この先には大きな門があってな。一人の老婆が門番をしておる。おそらく、あの子一人では簡単に通してはもらえないだろう。今なら間に合うはずだ。いいかね、決して嘘をついてはいけないよ。彼女に嘘は通じない。騙そうとすれば、決して門を開いてはくれない」
老人の忠告を受けて、お蘭はうなずいた。
「ありがとうございます、お爺さん」
深々と礼をした後、お蘭は走り出した。その姿が見えなくなるまで、老人はずっとその場に立ち尽くしていた。
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