死者の見る夢

フッシー

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一時休戦

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 結局、船に乗ることができたのは、それから更に二日後の朝だった。雨は止み、見上げれば昨日までが夢や幻であったかのように青空が広がっている。水に浸かった家具などを外に運び出し、入り込んだ水を掻き出す作業に追われる人々の間を縫って、港へ向かう六人は誰もが神妙な面持ちで歩いていた。
 船を待つ間、伊吹は落ち着かない様子で何度も周囲に目を配った。今は皆大人しく行列を組んで船を待ち、二日前の混乱は全くない。海は穏やかで、聞こえる音はウミネコの鳴き声だけ。そして、雪花たちの姿はどこにも見当たらなかった。
 誰も追手のことは話題にせず、伊吹以外は押し黙ったまま海を眺めている。その様子を、後ろ側で並んでいた蒼龍とお蘭が見守っていた。
 突然、伊吹の表情が固くなった。
「来た、奴らだ」
 皆が伊吹の顔に目を遣り、その視線の方向を追う。雪花たちがゆっくりとこちらに向かってくる姿を認め、他の者たちも動揺が隠せない。
「どうする、もう一日待つか?」
 伊吹が怯えた声を出した。源兵衛は頭を横に振って
「いや、そうすれば奴らも乗るのを止めるだけだ。このまま行こう」
 と答える。他の誰もそれに異を唱えることはなく、伊吹は仕方なくうなずいた。
 雪花は行列の最後に並んだ。その気に押されたのか、伊吹たちは前を向いたまま動くことができない。その様子に気がついた蒼龍が振り返った時、微笑みを浮かべた雪花と目が合った。
 船には多くの人が乗り込み、その場で座るのが精一杯なくらい混み合っている。伊吹たちは端のほうに、雪花たちは中央あたりに陣取り、蒼龍とお蘭はどちらからも離れた場所に座った。雪花たちに目を遣ると、やはり彼女たちの周囲に一人分くらいの隙間が作られていた。部屋には丈夫な屋根が付いていて、太陽の日差しを直接浴びる心配はない。それに四方は柱のみなので、潮風のおかげで空気が澱むことはない。それでも、人の熱量によって部屋の中はやはり蒸し暑く感じた。
「大丈夫かい?」
 少し顔の赤いお蘭を目にして蒼龍が心配そうに尋ねた。お蘭はうなずくが、その表情には疲労の色が隠せない。
「ちょっと横になるといい。俺の膝を枕にしていいよ」
 よほど辛いのか、お蘭は素直に蒼龍の指示に従い、頭を膝の上に乗せて目を閉じた。蒼龍は、お蘭の頬に優しく手の甲を当てる。その手を通して彼女の熱が伝わってきた。
 何の問題も生じなければ、海の旅は二日間の予定だ。途中、和泉国の岸和田で一泊し、雑賀川河口を目指す。船は陸地に沿って、海上を滑るように航行し、その後方に美しい波の文様を浮かび上がらせた。
 旅人たちは、各々が自由に行動していた。子どもたちが、座っている人々の間を器用にすり抜けて追いかけっこをしている。それを母親らしきキツネ目の女性が大声で怒鳴りつけた。別の場所では泣き止まない赤ん坊に乳を与えようとする女と、それをまごまごしながら眺めている旦那らしき男の姿がある。食事をする者、座ったまま仮眠をとる者、楽しげに話し合う人々など、蒼龍は見ていて飽きなかった。
 この喧噪の中、すっと立ち上がった一人の女性の姿が目に入った。それは雪花であった。彼女は優雅な足取りで伊吹たちのほうへ歩み寄る。源兵衛が気配に気づき、さっと立ち上がるのを見た雪花は立ち止まり
「争うつもりはありません。心配しないで」
 と柔らかな口調で話しかけた。その声は部屋中に響き渡り、人々がその瞬間、話すのを止めた。遊んでいた子供が立ち止まって雪花の姿を不思議そうに眺めている。
「何の用だ」
 源兵衛が威圧的な物腰で叫んだ。しかし、雪花は意にも介さず再び歩みを始める。それ以上、誰も口を開けることができず、ただ彼女の動向を見守るしかなかった。雪花は、一人分が座れるくらいの空き場所で立ち止まり、静かに座った。隣には小太りの青年が唖然として雪花の横顔を眺めている。その視線に気づいた雪花が
「ごめんなさい」
 と笑みをたたえた顔を向けた時、名も知らぬ花の様な爽やかな香りがあたりに漂った。青年はひどく取り乱し、声を出すこともできず、正面を見据えたまま固まってしまった。
「あなたと話すことなどありませんが」
 お松が毅然として先に話しかける。
「今はお互いに争わないことにしませんか。話し合えば、よりよい解決法がきっとあるはずですわ」
 雪花は、まるで言うことを聞かない子供に接しているかのような優しい口調で話しかけた。その目は瑠璃色に輝き、見る者を魅了する。しかし、誰も彼女と目を合わせようとはしなかった。妖術の虜になるのを避けるためだ。
「例えば、どんな解決法かね?」
 源兵衛が試しに尋ねてみた。視線を彼のほうに向けた雪花は、一呼吸置いてから口を開いた。
「私どもの目的は、伊吹様を生きて因幡へ連れ戻すことです。命を奪うことが目的ではございません」
「それはお菊殿から聞いている。連れ戻して拷問するつもりだろう」
 雪花は源兵衛の言葉を聞いて首を横に振った。
「元締め様は怒りで我を忘れておいでになるのです。しかし、あのお方もやはり人の子、孫のお菊さんが説得なされば、きっと許して下さりますわ。微力ながら、この私奴もお手伝いいたします故、ご心配には及びませぬ」
 いったん話を区切り、今度は伊吹の顔に目を移した。
「それで?」
 源兵衛が先を促す。雪花は源兵衛に顔を向けて再び話を始めた。
「もし、私たちが力ずくで伊吹様を連れ去ったとします。因幡へ戻るまでに、皆様は必ず奪い返そうとなさるでしょう、何度でも」
 視線をお松に移し、さらに話を続ける。
「そうなれば、皆様を危険に晒すことなく目的を達成することが非常に難しくなります。私は、そのようなことは望んでおりませぬ。これ以上の犠牲者は出したくはないのです」
 ここで言葉を切り、掌を床につけ深々とお辞儀をした雪花は
「どうか、伊吹様とお菊さんを私奴に預けて下さりませぬか?」
 と嘆願した。
 この様子を端から見れば、雪花のほうが源兵衛たちから酷い仕打ちを受けているように感じる。美しい女性が土下座までして願い出ているのだから、それも仕方ないことだろう。周囲の冷たい視線が源兵衛たちを貫いた。
「どうか顔をお上げ下さい。おっしゃりたいことは分かりましたから」
 お松が慌てて口にした。しかし、雪花は顔を上げようとはしない。
「俺は御免だね。わざわざ危険を冒す必要なんてない」
 伊吹が手をゆらゆらと振りながら、あっさりと拒絶する。雪花はゆっくりと伊吹のほうを向いた。氷のような瞳が怪しく輝き、うっかり彼女と目を合わせてしまった伊吹は突然、吸い込まれるような感覚に襲われた。
「信用しては下さらぬか」
 雪花は悲痛な声を上げた。潤んだ瞳が伊吹の目を釘付けにする。まるで夢遊病者が寝言でもつぶやいたかのように
「いや、そんなことはない。あなたのことを信用しよう」
 と伊吹が言い出したので、源兵衛が伊吹を強く揺さぶった。
「しっかりしろ!」
 その声が耳に届いたのか、伊吹は自我を取り戻し、激しく頭を振った。源兵衛は、目を閉じた状態で雪花に顔を向け、きっぱりと言い放つ。
「まやかしを使う者など信用するとでも思っているのか? 交渉は決裂だ。お前とは取引などしない」
 雪花は長い間、黙したまま源兵衛の顔を見据えていた。それから、顔を伏せたままのお松、伊吹、三之丞、お雪へ順に視線を送る。最後に顔を向けたのは、伊吹を心配そうに見つめているお菊であった。
「お菊さん、あなたのお気持ちをお聞かせ願えますか? 因幡に戻り、お二人の仲を元締め様に認めて頂きたくはありませんか?」
 雪花に声を掛けられたお菊は、彼女を一瞥した後、すぐに顔を伏せた。そのまま沈黙を守っているお菊に、雪花は穏やかな表情を向け、彼女が口を開くのを待ち続ける。
「私は、この方々に従います」
 お菊が小さな声でそう答えると、雪花はしばらく目を閉じたまま動かなくなった。話し声や笑い声が飛び交う中、雪花の周囲だけ全てが、時間さえ、止まってしまったようだ。
 やがて、雪花は静かに立ち上がった。
「承知いたしました。それでは、他の手段を考えましょう」
 そう言葉を残し、雪花は去っていった。

「このまま後を追いかけるのですか?」
 岸和田に停泊した船の中で、猪三郎は雪花に語りかけた。ほとんどの者が船を降りて宿に向かう中、雪花たちは船に残り、一夜を明かすつもりらしい。
「他に方法がありますか?」
 雪花が聞き返すので、猪三郎は答える代わりに頭を軽く横に振る。彼にはもう一つ気掛かりなことがあった。銀虫がやけに静かなのだ。まるで操り人形のように、黙って雪花に付き従っている。他の死体たちと何ら変わらない。すでに死んでいるのではないかと疑念さえ抱き始めた。それ故に、雪花に逆らうことは恐ろしくてできない。
「心配なさらないで。あの方々を安全に捕らえる機会は必ずあります。それまでは私を信じてお待ち下さい」
 猪三郎の懸念を感じ取ったのか、雪花は少し首を傾げ、諭すように言葉を掛けた。そのあまりに妖艶な仕草に我を忘れそうなほど色欲をそそられ、猪三郎は動揺を隠すように目を伏せる。彼の心の内を知ってか知らずか、雪花はその様子を眺めながら微笑んだ。
「伊勢に着いてからのことは何も考えていなかったわね」
 宿の一室で、伊吹とお菊を除いた四人が輪になり、船を降りてからの旅程について話し合う中、お松がふと口にした。
「追手がいる限り、この闘いは続くというだけだ」
 源兵衛が事も無げに言ってのけた。
「伊勢に到着するまでに全員を倒すことができればいいんですけどね」
 三之丞がため息交じりに言葉を漏らす。
「倒す・・・ か。あの女を倒す、何かいい手はないものだろうか」
「そうだ、遠くから弓矢で狙うのはどうだろうか。こちらにはお雪さんという名人が・・・」
「駄目よ!」
 三之丞の話をお松が遮った。お雪は青い顔をしてうつむいている。
「お雪にはこれ以上、人を殺めるような仕事をさせたくないの」
 お松は、事情を知らない三之丞にそう説明した。彼女が言い終えてから
「残りの連中は、わしら三人で相手せねばならない」
 と源兵衛も念押しする。
「私、できます」
 さっと顔を上げてお雪は叫んだ。気丈に振る舞う彼女を目に、お松は首を横に振りながら優しく声を掛ける。
「無理をしては駄目よ。あなたは、若旦那やお菊殿を守るほうに注力して頂戴。心配しないで、必ず倒す方法が見つかるわ」
「そうだな。相手も人間だ、絶対にやっつける策はあるはずだ」
 源兵衛は豪快に笑い始めた。それが不可能であることを、源兵衛はまだ知らない。
「具合はどうだ?」
 蒼龍が、床に寝そべっているお蘭に尋ねた。
「薬を飲んだら、だいぶよくなったわ」
 船に乗っている時、例の発作に襲われたお蘭は、船を降りてすぐ、源兵衛に調合してもらった薬を飲んだ。明石の宿で、別れる前に源兵衛から託された薬だった。
「源兵衛殿に渡されるまで、薬が切れていたことをすっかり忘れていた。いや、危なかったよ」
「そうね・・・ 源兵衛様には感謝しなくちゃ」
 お蘭はゆっくりと起き上がり、蒼龍に寂しげな顔を向けた。
「本当に、源兵衛様たちとは一緒に旅をしないつもりなの?」
 そう尋ねられた蒼龍は、答える代わりに深くため息をつく。
「船の中で、何か話をされていたようでした。結果はどうなったのか分かりませんが」
「大人しく降伏するよう説得したのかも知れんな」
「それじゃあ、断られたでしょうね。実力行使に出たりしないかしら?」
 蒼龍は頭を振りながら
「約定違反だ。そんなことはしないだろう」
 と言った。
「信じられるの?」
「保証はないさ。しかし、約束を破れば、俺たちが元の鞘に収まることになるから、相手にとっては都合が悪いだろ」
「それだけ、あなたを恐れているということ?」
 蒼龍はニヤリと笑った。
「今まで手玉に取られてきたような俺を恐れるわけがなかろう。あの女、お前のことを恐れているようだ」
 お蘭は目を大きく見開いて
「私を? どうして?」
 と尋ねる。
「正確には、お前が傷ついたり、命を落とすことを恐れているみたいだね。だから、俺ではなくお前を同行させたくないんだ」
 お蘭は首を傾げながら天井を眺め、考えを巡らせてみるが、蒼龍の言った意味を理解することができない。
「何故なのかは俺にも分からない。でも、お前の病気と関係があるような気がしてならぬのだ。あの女、何か知っているのではないか」
 お蘭がハッとして口を手で押さえた。
「どうした?」
「私、あの方に病気について伺ったことがあるのです。私が眠ると死体になること、ご存知でしたので」
 お蘭は蒼龍に、雪花の言ったことを話して聞かせた。
「でも、今日は私の失策だったわ」
 すでに暗くなった船の中、雪花がつぶやいた。
「そうですか」
 猪三郎はまだ起きているようだ。興味なさげに答える声が聞こえる。
「あのとき、術を使ったのは誤りだった。習慣というものは恐ろしいわね」
 複数の人間を同時に意のままに操ることは、さすがの雪花も無理らしい。多人数が相手では、一人だけが惑わされても、すぐに気づかれてしまう。
「それさえなければ、伊吹の野郎を捕らえられたと?」
「あるいは・・・」
 それ以上、雪花は言葉を発しない。猪三郎は、しばらく待った後、ため息をついて床に寝転がった。

 翌日も雲ひとつない青空が広がり、太陽の熱によって朝から気温が上昇した。陽炎が立ち込める中、伊吹たちは汗を拭いながら船に向かっていた。
「昨日以上に暑くなりそうだな」
 三之丞が額の汗を手で払いながら空を仰いだ。横にいたお雪は、すでに疲れた顔をして
「また一日、あの中で過ごさなきゃならないのね」
 と不平を漏らす。
「あと一日の辛抱よ」
 前を歩いていたお松が振り向きざまお雪に声を掛けた。
「まだ道のりは半ばだ。こんなところで弱音を吐いていたら置いていくぞ」
 源兵衛が快活に声を上げる。こうして、一行は取り留めのない会話を続けていた。
 港に近づき、人だかりが見えてきた。船に乗る人たちだと思ったが、それにしては数が多い。その原因は、海が視界に入った時に分かった。海全体が、白い雲に覆われていたのだ。船は、まるで雲に浮かんで漂流しているようだ。その光景には全員が呆然と立ちすくんでしまった。
「これは一体なんだい?」
 伊吹が、海の様子を眺めていた一人に尋ねてみた。
「見ての通りの霧だよ。しかし、こんなのは初めてだね」
「こんな状態で出港できるのか?」
「これじゃあ何も見えんからな。無理だろうね」
 そう言われて、伊吹は返す言葉がなかった。
「雪花殿、あなたの仕業ではないでしょうな」
 猪三郎が不審そうに問いかける。しかし、雪花に
「私に、こんな力はありませんわ。だいたい、何の得になるのですか?」
 と答えられ、彼は押し黙ってしまった。船室は霧に覆われ、そのまま中にいれば身体中が濡れてしまう。全員が外に出て、海の様子を観察していた。雪花たちも例外ではなく、不死の軍団を含めて港で待機している。
 遅れて到着した蒼龍とお蘭は、霧に包まれた海を目の当たりにして絶句した。
「何だこれは?」
 ようやく口にした蒼龍の第一声である。お蘭がお松の姿を見つけ
「お松さん方がいらっしゃるわ」
 と話し掛けた。しかし、蒼龍は「そうか」と答えるだけで、彼女たちの下へ近づこうとはしなかった。雪花の監視の目が気になるのだろう。お蘭は、しばらく迷った後に、お松たちのほうへと駆け出した。
「あの・・・」
 海にばかり注目していたので、誰もお蘭に気付くものがいなかった。彼女の遠慮がちな声を聞いて、六人が一斉に振り返る。伊吹は舌打ちをして視線を外し、三之丞と源兵衛は少し驚いたように眉を上げ、残る女性三人は皆が笑顔になる。
「お蘭さん、どうしたの? 蒼龍殿は?」
 お松に尋ねられ、お蘭は深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。追手の目が気になるみたいで」
 そう答えた後、今度は源兵衛に向かってもう一度頭を下げる。
「源兵衛様、昨日は頂いたお薬のおかげで回復することができました。本当にありがとうございました」
 お蘭の言葉を聞いた源兵衛が
「それを告げるためにここへ?」
 と問いかけた。お蘭が少し悲しげな表情でうなずくのを目にして、源兵衛は笑みを浮かべた。
「そうか・・・ あの薬が役に立ってよかったよ。もし、薬がなくなったら、声を掛けてくれ」
 そうお蘭に言った後、遠くでこちらを見つめる雪花の姿が目に映り、源兵衛は眉をひそめた。
「蒼龍殿の考える通り、あの女は油断がならない相手のようだ。変に警戒されないうちに退散したほうがいい」
 お蘭は、源兵衛の言うことに従い、お辞儀をして蒼龍の下へと戻っていった。

 結局、霧が晴れて船が出港できたのは昼に近い頃であった。前日に増して暑苦しい室内で、乗客はすでに疲れ果てていた。
 死人たちを従えた雪花は、船が海上を進む間ずっと目を閉じたまま、仏像のごとく動かない。それでも、体から発する不思議なオーラが周囲の注目を集めている。
 そんな彼女が突然、すっと目を開いた。視線を向けたその先には、自分のほうへ近づく蒼龍の姿があった。
 猪三郎が警戒して立ち上がっても、蒼龍は雪花に目を向けたまま歩みを止めない。
「いかがなさいましたか?」
 目の前にやって来た蒼龍に、雪花は優しく声を掛けた。対する蒼龍は険しい表情をしている。
「お蘭から話は聞いた。対になる呪いの持ち主について知っていることを教えてほしい」
 蒼龍に尋ねられた雪花は少し眉を上げ、少し間をおいてから話し始めた。
「私の存じ上げていることは全てお話ししました。これ以上、申し上げられることは何もございませんが」
「どんな些細な事でもいいんだ。何か思い出すことはできないか?」
「私が覚えているのは、それが遠い昔から存在する呪いで、それを受けた者は・・・」
 雪花は途中で額に手を遣り、険しい表情のまま口を閉ざした。蒼龍は、彼女の様子が、何か思い出そうとしているというより、苦痛に苛まれているように感じ
「大丈夫か?」
 と声を掛けた。
「ごめんなさい、いろいろと思い出そうと努力しているんだけど、無理みたい」
「そうか・・・ それが書いてある巻物も残っていないのか?」
「どうなったのか記憶が曖昧だけど、すでに存在しないわ」
「本当なのか? 探せばあるのでは? 俺たちを、あなたの家に連れて行ってくれないか?」
 休戦中とはいえ、敵である相手に無茶な要求をするものだが、それだけ蒼龍も必死なのだろう。雪花は首を横に振って
「昔の書物は全て失ってしまったの。今ある巻物は全て、私の記憶に残っている妖術について書き直したものばかり。呪いに関する巻物がないのは確かね」
 と答える。蒼龍は大きなため息をついた。
「せめて、どんな呪いなのか分かれば、人に尋ねることもできるのだが」
 しばらく思案していた蒼龍は、やがて雪花に目を向けた。
「お蘭はあなたに助けてもらったと聞いた。礼を言うのが遅くなってしまったな。ありがとう」
 雪花はそれを聞いて微笑んだが、なぜかその表情は悲しげだった。
「私は、乱暴されそうなところを止めただけですわ。か弱い女性を数や力でねじ伏せようなんて、許せないでしょ」
 当の本人である猪三郎が苦々しい顔をした。一方の銀虫は、視点の定まらない目をして座ったまま表情は変わらない。
「できれば・・・ これ以上の争いは避けたいものだな」
 蒼龍は一呼吸置いた後
「恩人のあなたを倒したくはない」
 と言葉を続けた。
「私を倒せると?」
 雪花が不敵に笑う。
「報酬を受け取った以上、邪魔をすれば倒す。だから、あなたには手を引いてほしいのだ」
 両者は、互いの目を合わせ続けた。それは長い時間であった。猪三郎は、その様子を窺っているうちに、黒い霧が目の前に現れて視界を遮られ、二人が見えなくなったように感じた。驚いて目を閉じ、思い切り頭を振る。もう一度目を開けた時、すでに立ち去ろうとする蒼龍の姿が視界に入った。
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