死者の見る夢

フッシー

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顔合わせ

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「眠れないのですか?」
 蒼龍は、裏庭に面した縁側に腰を下ろし、外の景色をぼんやり眺めていた。そこへお蘭がやって来て、声を掛けたのだ。蒼龍はさっと振り向いて驚いた顔で
「お蘭、起きていたのか?」
 と尋ねる。
「私もなんだか眠れなくて」
「そうか・・・ お天道様が顔を出している間は、どうも目が冴えてしまう」
 そう言いながら、蒼龍は床をトントンと叩いて座るよう催促した。お蘭が左側に座り、首を蒼龍の肩に預けつつ、上目遣いで見つめるのを、蒼龍は少し照れた顔で
「どうした?」
 と問いかける。しかし、お蘭はクスクスと笑うだけで何も答えない。その仕草に渋い顔をした蒼龍も、次第に顔がほころび、二人で笑いだした。
 笑いが収まって、蒼龍がお蘭の黒髪を優しく撫でながら話を始めた。
「最初はおいしい仕事だと思っていたんだが・・・ お前にまで危険な目に合わせてしまったな」
 お蘭は、蒼龍に寄り添ったまま目を閉じていた。
「でも、こうして無事でいられたんだから、私は平気よ」
 気丈に振る舞うお蘭であるが、今回の体験はかつて味わったことのない恐怖だったに違いない。蒼龍はため息をついた。
「俺、この仕事から降りようかと思うんだ」
 お蘭が目を開いた。
「伊吹殿を説得して、全員で因幡に戻るんだ。あの二人がもう一度恋仲になるのなら、相手も手出しはしなくなるだろう。これ以上、犠牲者が増えることもない」
 蒼龍の言葉にじっと耳を傾けていたお蘭が、しばらくの間のあとに口を開いた。
「お互い、仲間を亡くしているのよ。そう簡単に丸く収まるかしら」
 再びため息をつく蒼龍に、お蘭は話を続ける。
「それに、この旅で私の病気を治す手がかりが見つかるかもしれないのよ」
 確かに、旅の目的はお蘭の病気の治療法を探すことであり、途中で旅を止めるのは、それを諦めることを意味する。ためらうお蘭の背中を押した蒼龍にとって、簡単に中断することは許されることではない。そう思った蒼龍は
「そうだな・・・ 諦めるわけにはいかないな」
 と言いながら、三度目のため息をついた。
 生暖かい風が、二人の顔をかすめながら通り過ぎていく。裏庭に生えた松の木を通して、緑に包まれた遠くの山々が、雲ひとつない青空を背景に揺らめいて見える。蒼龍もお蘭も、口を閉ざしたまま正面の景色を眺めていた。
「そうそう、夢の中でね、初めて人と話ができたの」
 首を持ち上げ、愛嬌のある目を大きく開きながら、お蘭は蒼龍に向かって嬉しそうに話し始めた。ちょっと驚いた顔をした蒼龍が
「本当かい?」
 とお蘭の顔に目を移す。
「お初ちゃんっていう女の子でね。果ての世界にいるお姉さんに会うために一緒に旅をすることになったのよ」
「果ての世界?」
 初めて聞いたその場所に、蒼龍は興味を覚えて聞き返すが、お蘭は首を横に振った。
「どんな場所なのか、私にも分からないの。きっと、遠くにあるんだと思うんだけど」
 蒼龍は、うなずきはしたものの、当然理解できたわけではない。話題を変えて
「お初ちゃんという子とは、お互いに見えているわけか。俺たちの親戚だとか、なにか関係があるのかな?」
 と首をひねった。
「私達の子供だったらいいのにな」
 お蘭の顔が曇った。その悲しげな顔を前に、蒼龍は優しく声を掛けた。
「そのためにも病気を治さなくちゃ」
 夫婦である以上、努力してこなかったわけではない。しかし、お蘭に子が宿ることはなかった。毎夜、死者になってしまうのなら、新たな命を授かるのは無理な話であろう。二人とも、それは理解していた。そして、子供を持つためにも、病気を治すことが宿願であったのだ。
 蒼龍は自分の膝をポンと叩いた。
「よし、なんとしても伊勢へ行こう。必ず病気を治そう」
 力強く、お蘭の肩を抱いて、蒼龍はそう宣言する。お蘭はもう一度、蒼龍の肩に首を乗せ、目を閉じた。その目から、一滴の涙が頬を伝った。

 鬼坊はただ一人、仁王立ちの状態で腕を組み、目を閉じたまま彫像のごとく微動だにしなかった。少し離れた場所に、寝たきりの鹿右衛門と、彼を看取る猪三郎、さらに遠く、銀虫が寝転がって夕焼け空を眺めている。雪花の姿はなく、あの二体のゾンビもどこかに隠れていた。
 鬼坊がすっと目を開け、組んでいた腕を解いて頭上に目を遣った。何かが落ちてくる。鬼坊のすぐ前に静かに着地したのは、お蝶だった。
「まだ平福の宿におります。今夜は泊まるつもりでしょう」
 お蝶の報告を受けた鬼坊は、少し考えた末に口を開いた。
「夜に出発する可能性がないわけではない。悪いが、一晩監視をお願いできるか」
 蝙蝠がいる限り、相手の動向は手に取るように分かるはずだが、残念ながら彼が自発的にそれを伝えることはない。今や、蝙蝠も月光も雪花の操り人形だ。結局、お蝶が引き続き監視役を引き受けた。
「それは構いませんが、いっそのこと宿に忍び込んでお嬢様を連れ戻しましょうか」
「いや、それは待て。相手はそれほど甘くはない。間違いなく夜通し監視を置くだろう」
 豪胆な印象の鬼坊であるが、意外と慎重な一面もある。特に、自分の女房が一人で行動するのは、失敗した前例があるだけに避けたいのであろう。
 お蝶は、軽く会釈してから音もなく走り去っていった。お蝶の姿が見えなくなったのを確認し、鬼坊は次に大声で猪三郎を呼んだ。
「鹿右衛門の様子はどうだ?」
 近づいてきた猪三郎に、鬼坊は小声で尋ねる。
「芳しくありません。高熱を出して苦しんでます」
 峰打ちとはいえ、重い鉄の塊で殴られるようなものであるから、場合によっては致命傷を受ける場合もあるだろう。はじめは元気だった鹿右衛門が、段々と深刻な容体になっていた。鬼坊は深いため息をつき、猪三郎に一言
「お前はここにいろ」
 と伝え、鹿右衛門のほうへ歩いていった。
 鹿右衛門の息は荒く、かなり苦しそうだ。その横にしゃがみ込み、鬼坊は鹿右衛門に尋ねた。いつもの厳しい表情は消え、穏やかな目をしていた。
「具合はどうだ?」
 鹿右衛門は、閉じていた目を開き、鬼坊の顔に向けた。
「情けないですね、お頭。相手を甘く考えていた自分の慢心が招いた失態です。言い訳するつもりはありません」
 そう言いながら微笑む鹿右衛門は、何かを覚悟しているようにも思えた。
「・・・なにか伝えておくことは?」
「なにもありません」
「そうか・・・」
 鬼坊は、静かに立ち上がった。鹿右衛門は再び目を閉じ、静かにその時を待つ。
「御免」
 一瞬の出来事だった。鬼坊は抜刀し、地面に向けて斬り下ろした。鹿右衛門の首が、吹き出た血しぶきで転がっていく。その早業を目の当たりにした銀虫が思わず起き上がり、あぐらをかいて鬼坊のほうに体を向けた。
 鬼坊は、血の滴る刀を握りしめたまま、しばらく首のない死体を眺めた後、遠くでその様子を窺っていた猪三郎に向かって叫んだ。
「こいつの墓を作ってやれ」
 それから少しの間をおいて、こう付け加えた。
「なるべく早くな。雪花殿に見つかって、蘇生されてはたまらんからな」

 お蝶の徹夜の見張りは無駄に終わってしまった。蒼龍たちは、一泊して翌日に宿を出た。目指すは三日月宿である。
「そうそう、大事なことを忘れていた。これを返しておくよ」
 蒼龍がお蘭に差し出したのは、銀細工の施された、あの一振りの刀であった。お蘭は驚いて
「もう戻らないと思ってた」
 と顔をほころばせた。
「大事な義母上の形見だからな。失くしたら大変だ」
 お蘭はうなずき、蒼龍から刀を受け取った。それを大事そうに胸に押し当て、それから不思議そうに話し始める。
「空き巣に物を盗まれたことがあったけど、この刀だけは無事に戻ったのよね。なんだか、自分で私のところに帰ってきているみたい」
「これだけ立派な刀だからな。きっと魂が込められているんだよ。なにか、不思議な力を持っているのかもな」
 お蘭の短刀は、母親から引き継がれたものだった。しかし、どんな謂れがあるのかについては何も聞かされていない。
「さあ、皆が待っているかも知れないから、そろそろ行こうか」
 刀を食い入るように見つめていたお蘭は、蒼龍に促され、懐に刀を収めた。
 すでに日は昇り、淡い水色の空には昨日と同様、雲ひとつなかった。月明かりの中、不安に包まれながら歩いた道は、太陽の下でその姿を顕にし、地面は乾いた土埃を時々撒き散らして旅人に意地悪をする。先頭を歩いていた伊吹は、口を手で覆いながら
「口の中がジャリジャリ言いやがる。どうにかならないもんかね」
 と閉口した。
 途中、蒼龍と月光の決闘場所であった墓地を通り過ぎた。人の姿はなく、静まり返ったその場所を眺めていると、蒼龍には二日前の出来事がもっと昔のことのように思えて仕方なかった。久しぶりにこの地を訪れ、遠い過去のことをふと思い出したような、そんな錯覚を覚えたのだ。今回は、蒼龍が勝ちを収めた。しかし、もしかしたら負けていたのは、死んでいたのは自分だったかも知れない。そう考えても、蒼龍が恐怖を感じることはなかった。今まで何度もくぐり抜けてきた戦いの一つくらいにしか考えていないらしい。だから、あまり強く印象に残ることもないのだろう。
 彼は、死に対して恐れを抱くことがないのだろうか。昨夜、兼光らに対して示した態度を思い出せば、誰もがそのように感じるはずだ。今までも、多くの修羅場の中で生き抜いてきたわけだから、自分は闘いにおいて死ぬことは決してない、と強く信じている可能性もある。あるいは、死への恐れが遥か昔に麻痺してしまったのかも知れない。
 そんな彼にも恐れていることはある。お蘭を失うことだ。だから、お蘭がさらわれた時は、いつもの蒼龍らしからぬ取り乱し様であった。もし、お蘭を人質に取られてしまえば、蒼龍には何もできなくなるだろう。お蘭は、蒼龍にとってかけがえのない存在であると同時に、唯一の弱点でもある。
 平福から南に下れば佐用宿に至る。ここで因幡街道は出雲街道と交わり、進路を北西に取れば出雲へ、南東に取れば姫路へ行くことができる。もちろん、蒼龍たちの進む方向は南東だ。
 山間の道を歩く一行は、時々とりとめのない会話をするくらいで、途中の休憩もほとんど取らなかった。もっとも、お蘭の体を気遣って、相変わらず進むペースはゆっくりだったので、佐用宿に到着した頃には太陽もだいぶ高く昇っていた。平福宿に比べると人の往来はまばらで、少々寂れた雰囲気である。それでも、街の中心部らしき場所ではいくらか賑わっていた。
「腹が減ったな」
 伊吹がつぶやく。隣にいた三之丞もうんうんと激しく同意した。
「ここを過ぎたら峠を越さなければなりません。少し早いですが、休憩を兼ねて腹ごしらえしておきましょうか」
 二人のすぐ後ろにいたお松が提案する。近くにあった茶屋に入り、銘々が注文をし終えて料理が来るのを待っている間、源兵衛が蒼龍に話しかけた。
「また、あの女だな」
 蒼龍が「うむ」と返事をする。あの女とはお蝶のことだ。一行の後をつけているらしい。
「今度こそ、捕まえてやるか?」
 その問いに対しては、蒼龍は首を横に振った。
「放っておこう。お菊さんがこちらにいる限り、下手に手出しはできぬさ。それに、我々がいなくなったところをこの間のように狙われてはたまらん。これからは、できるだけ離れないようにしたほうがいい」
 蒼龍は、お蘭がさらわれたことで不安を感じ、できるだけ一緒にいることにしようと考えていた。彼女のことを守るのが、蒼龍の今の最も重要な任務になったわけだ。彼は伊吹の護衛役として雇われたのだが、そのことは頭から抜けてしまったらしい。蒼龍の意見に対し、源兵衛は少し考えてから反論する。
「いや、固まっていたら一網打尽だ。むしろ、相手を撹乱するために、いくつかに別れて行動するほうがいいと思うんだ。ちょっとした考えがあってな」
 その考えを説明しようとしたところで膳が運ばれてきた。会話を中断し、蒼龍と源兵衛は目の前の料理を食べ始めた。
 客は蒼龍たち以外にもいたが、部屋の中の半分程度が埋まっているくらいで、それほど混雑しているわけでもない。会話を楽しむ者、一人静かに酒を嗜む者など、各々が自由にくつろいでいた。蒼龍たちも食事を終え、白湯を飲みながら旅の疲れを癒やしていた時、忙しく店の給仕をしていた女性が、新しい客の入ってきたことに気づいて振り返った。
「いらっしゃい・・・」
 陽気な掛け声は途中で消え去り、代わりに「ひっ」という小さな悲鳴が聞こえた。店の入口のほうに顔を向けていた伊吹が、その客の姿を目の当たりにして動けなくなる。
 入ってきたのは、大きく屈強な体の武士と、それとは対照的に細身で赤毛の男性だった。鬼坊と銀虫である。その後ろからは、お蝶、猪三郎、そして雪花も続いて店に入り、蒼龍たちのいる場所から少し離れた位置を占拠した。あの二つの死体、蝙蝠と月光の姿はない。どこかに隠しているのだろうか。
 顔をひきつらせながらも愛想笑いで応対する女性に料理を注文した鬼坊は、腕を組んだまま何食わぬ顔で座っている。銀虫は、蒼龍らのほうに目を向けていた。その視線の先にはお蘭がいる。お蘭がそれに気がつくと、銀虫は下品な笑みを浮かべながら小さく手を振った。お蘭は思わず目を背け、その様子に気づいたお菊が銀虫を睨んだ。しかし、銀虫は気にすることなく、舐め回すようにお蘭を凝視している。
「お頭、鹿右衛門を殺ったのはどいつで?」
 猪三郎が小声で鬼坊に尋ねた。鬼坊は顎で指し示しながら
「あの女だ」
 と返す。その方向にいたお松を確認した猪三郎が怒りの目を向ける。お松はそちらには目を向けず、少しうつむいた状態で身を固くしていた。向かい合わせに座っていたお雪が、ちらりと鬼坊に目を遣った。鬼坊はお雪を睨みつけている。お雪は慌てて視線を逸らし、お松同様動かなくなった。
 蒼龍に源兵衛、そして三之丞は、一番奥にいる、今まで見たことのない一人の女性を注視していた。雪花だ。
「お菊さん、あれが妖術を使うという女性かい?」
 源兵衛がさり気なくお菊に質問した。お菊がうなずくのと、雪花が源兵衛に青い目を向けたのがほぼ同時であった。その瞬間、源兵衛は雪花の美しい顔立ちに魅了された。
 少しの間の後、源兵衛は激しく首を横に振った。
「どうした、源兵衛殿?」
 源兵衛の突然の理解できない行動に、三之丞が驚いて尋ねる。源兵衛は、息を弾ませながら
「いや・・・ 何というか・・・」
 と曖昧な受け答えをするだけだ。その様子に、蒼龍も慌てて目を逸らした。向こうでは雪花がクスクスと笑い出す。
 張り詰めた空気の中、他のお客は異様な雰囲気に押され、次々と店を出た。そして、蒼龍らと鬼坊ら、二つの集団だけが残った後、伊吹とお菊が立ち上がったのはほぼ同時だった。
「さあ、出発しよう」
 か細い声で伊吹が皆に告げると、それを合図に他の者も黙したまま立ち上がり、給仕に勘定を支払って、そそくさと店を出た。最後に残ったのは蒼龍だ。出口に向かっていた時、鬼坊が威嚇するような声を上げた。
「遊びはここまでだ。覚悟しておくのだな」
 途中で立ち止まった蒼龍が振り返る。五人の視線をまともに受けながら、蒼龍は鬼坊の目を睨み
「俺は負けぬ」
 と断言した。

 鬼坊の目的が、自分たちへの宣戦布告なのか、動揺させるためなのか、または他の理由があるのか、それは蒼龍たちにも分からなかった。しかし、心理的に追い詰められたことは確かである。遊びはここまで、その気になれば、いつでも襲撃することができる。たとえお菊を人質にしていてもだ。皆、不安は隠せなかったが、特に伊吹が再び恐怖で怯えてしまった。真っ青な顔の伊吹に対して、お菊が心配そうに様子を窺っている。
 森の中に入ってから、蒼龍たちは警戒を怠らず、慎重に歩を進めた。蒼龍や源兵衛には、相変わらずお蝶が尾行していることが分かっていたが、それ以上の気配は感じられなかったため無視して歩き続けた。やがて道は登り坂となり、眺めのいい頂上に到着した。遥か北にある山には、立派な城がそびえ立っている。以前、平福で見たものと同じ城であろう。
 峠を越えてからしばらくして、伊吹たちより少し遅れて歩いていたお蘭の足がふらついたのに、隣にいた蒼龍が気づいた。
「大丈夫か?」
 心配そうに尋ねる蒼龍に、お蘭は笑顔で
「まだ歩けます」
 と答えたが、その顔が少し青白くなっていたので、蒼龍は立ち止まってしゃがみ込み
「無理はいけない。しばらくおんぶしていこう」
 と言った。
「そんな、あなたも疲れてらっしゃるのに」
「これくらいでへたばる俺じゃないよ。さあ」
 少しためらっていたお蘭であったが、やはり無理をしていたのだろう。素直に蒼龍の背に体を預けた。
「子供の頃、こうやっておんぶして家まで帰ったことがあったよね」
 お蘭を背負って歩き出してから間もなく、蒼龍はそんな事を言い始めた。
「私が遊んでて足をくじいた時ですね」
「あの頃は、お蘭のほうが体が大きかったから、運ぶのにすごく苦労したっけな」
 蒼龍は、その頃を思い出し、懐かしそうに微笑んだ。
「私、ずっと泣いていたから、途中のことはよく覚えてないの。でも、家に着くなり、あなたが倒れちゃったのは記憶してるわ」
「そうなのかい? お蘭はずっと、私をここに置いて、家の人を呼んできてって言ってたよ」
「そうだったかしら?」
「うん。でも、俺は意地になって降ろそうとしなかったな。何故だろう?」
 当の本人が、その時の自分の心情をよく覚えていないようだ。お蘭にだって、分かるわけがない。二人ともしばらく口を閉ざしていたが、そのうちにお蘭がクスクス笑い出した。
「なんか、おかしなこと言ったかな?」
「ごめんなさい。でも、あなた、いつも私の体を心配してくれたから、嬉しかったな」
 蒼龍は、照れ隠しに笑った。そんな仲睦まじい様子を、他の者に見られていたのに二人が気づいたのはその直後だ。皆が微笑ましく眺めている中で、お雪だけは少し表情を固くしていた。
「ごめんなさい、お蘭殿はだいぶお疲れのご様子。気づきませんでしたわ」
 近づいてきた蒼龍とお蘭に、お松が申し訳なさそうに言葉を掛けた。
「敵の近づく気配もないし、少し休憩しましょう」
 源兵衛がニヤニヤしながらも、そう提案した。

「これで、お互い顔を突き合わせることができたわけだな」
 鬼坊が満足そうにお蝶へ話しかけた。お蝶はその顔を一瞥して
「前にも一度対面してるじゃないか」
 と反論する。
「全員が一堂に会したことはない。これで彼奴ら、こちらの顔ぶれを把握することができたわけだ。もっとも・・・」
 鬼坊は背後に視線を送りながら
「あの死体どものことはどう思っているのか知らないが」
 と言葉を続けた。後ろでは、雪花が二人のお供を従えて歩いている。蝙蝠と月光だ。どこに隠れていたのか、森の中から忽然と二人が現れたのを目にしたお蝶はひどく気味悪がっていた。
「傍から見れば、化け物の集団だね」
「それより、蒼龍たちは峠を越えたんだな」
「ああ、その後しばらく休息をとって、また出発したよ」
 お蝶は一息ついて、また話し始めた。
「どこで仕掛けるのさ?」
 鬼坊はお蝶の顔に視線を送った。
「先にお嬢様を連れ戻さなければ」
「どうやって?」
 お蝶に問い詰められても、鬼坊は表情を崩さずじっとお蝶を凝視したままだ。お蝶はため息をついて
「私が説得してみるよ」
 と言った。
「どうやって?」
 今度は鬼坊が尋ねる番だ。少し不機嫌な様子でお蝶が答える。
「今夜は次の宿場で泊まるつもりだろう。夜中に忍び込んで話をしてみるさ」
「見張られているかも知れないぞ」
「危険は承知の上。その時はすぐ逃げるよ」
 お蝶が肩をすくめて受け流すが、鬼坊は納得できないらしく、お蝶から目を離さずなおも食い下がった。
「あの男が出てきたら逃げるのも難しくなる」
 お蝶は鬼坊と目を合わせたまま、しばらく無言になった。鬼坊が自分の身を案じていることが伝わってきて、お蝶は無意識に微笑んだ。
「前にもちゃんと逃げられたじゃないか。大丈夫、心配しないで」
 鬼坊はそれ以上何も言わず、ただ黙ってうなずくだけだった。
 一長からの指示通り、伊吹に恐怖を与えるために、これまで三人の護衛を葬った。しかし、こちら側も同じ数の犠牲者を出している。そして、とうとう自分の身内とも言える者まで失ってしまった。鹿右衛門は、元々お菊の護衛役として連れてきたのである。だから、闘いに巻き込んでしまったのは失敗だったと、鬼坊は後悔していた。今後はできるだけ銀虫と雪花を使い、お蝶や猪三郎は表に出さないようにしたかったので、お蝶に危険な任務を負わせることはできれば避けたい。そういう思いがあったのは、鬼坊の心が得も言われぬ不気味で不吉な兆候を感じ取っていたからである。蒼龍が控えているとはいえ、恐るべき刺客を揃えた集団に相手が敵うはずがなく、この仕事もすぐに終わるものと考えていた。銀虫の、今となっては愚かというしかない発言のせいで、その予想は見事に外れてしまった。両者はすでに、血で血を洗う争いへと身を置いている。鬼坊には、いずれ相手のみならず自分たち全員までもが命を失うのではないかと危惧していた。自分自身がそれを恐れることはなかったが、特にお蝶がその犠牲になるのだけは何としても避けたかったのだ。
「じゃあ、そろそろ監視に行ってくるよ」
「いや、ちょっと待て」
 お蝶が立ち去ろうとするのを、鬼坊が引き留めた。
「どうしたんだい?」
 お蝶は、後ろを振り向いて首を傾げた。歩くのを止めた鬼坊に対して訝しげに視線を送るお蝶の顔を、鬼坊は口を半開きにしたまま眺めている。しばらくの間があった後、鬼坊は
「ああ・・・ 気をつけてな」
 と一言、絞り出すように声を掛けた。その言葉に、お蝶は顔をほころばせる。
「分かってるよ」
 そう言葉を残し、前を向いて駆け出すお蝶の姿が視界から消えてしまうまで、鬼坊は目を凝らしたまま動かなかった。
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