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10:揺らぐ思い
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PCの前で明日作成する予定の書類やしなくてはならない業務を整理していると、専務室からエリアマネージャー数名が打ち合わせを終え、その後から廉が姿を見せて一言二言労いの言葉をかけていた。去っていく人たちに礼をしたあと、顔を上げると廉がじっと見つめていた。
「綾香、今日の予定はこれで終了だな。この後、何かあるか?」
「いえ、専務、今日はこの後の打ち合わせは入っておりません」
「そうじゃないよ。綾香の予定はどうなんだ?」
「私の? いえ、特に何の予定もありませんが‥‥」
「そうか、じゃあ一緒に食事にいかないか」
「え、専務とですか?」
廉が腕の時計に目をやる。
「もう、すでに本来の就業時間から2時間の残業だ。仕事は終わりにしよう。せっかく会食のない夜だし、俺もゆっくり旨い物を食べたいんだ。一人じゃ寂しいし、一緒に行ってくれないか?」
「い、いいですけど。エリカさんは? 一緒に食事に行かないんですか?」
「エリカ? エリカは、例のコーディネーターと広告代理店との会食があるって言ってたな」
そうか、忙しいビジネスマン同士が付き合うとなかなか予定も合わないだろう。エリカが廉の近くに来たいと思うのも納得だ。忙しくても近くに居れば少しでも会うことができる。昼間見た、あの愛しい人を思う表情が脳裏に浮かんだ。
廉は、あんな素敵な人に愛されてるんだなぁ
あんな美人が相手では、自分など到底太刀打ちできない。もともと低い自己肯定感が地べたを張っている気がする。
「綾香、どうした? 何か残っている仕事があるのか?」
いつの間にか黙り込んだ自分の正面で、廉が顔を覗き込んでいた。
「いえ、はい、では、ご一緒させていただきます」
その返事に廉が笑顔を見せる。昔から私はこの笑顔にやられっぱなしだ。
*******************************
廉が離れに越してきて、離婚の話が進んでいた頃、子どもたちにそうした面倒ごとを悟らせまいという配慮だったのだろう、廉と兄、そして綾香を連れて、母は週末になるたびにあちこちに遊びに連れて行ってくれた。熱海や箱根のグループホテルに泊まり一日プールで遊んだり、一棟貸しのコテージに泊まって3人で夜の森を散策したり、周りから見れば廉は3人の中で長兄のように見えただろう。
でも、綾香は廉を兄として見たことなどない。初めて廉の家で彼に会った時から、廉は自分にとっての憧れで、いつだって手の届かない恋焦がれる存在だったからだ。
中学受験が終わり、解放感でウキウキしていた3月、平和で暇な春休みを過ごしていた綾香は、珍しく離れの縁側で飼い猫と一緒に座布団の上で転寝をしている廉を見つけた。その無防備な姿に目が釘付けになる。
数週間前に、自宅近くの公園の遊具の裏で女の子とキスをしている廉を見てしまった。ショックだった。相手の制服は、有名な女子高のもので、前か後かわからないような平坦な体の、見るからにお子ちゃまな自分とは比べものにならない大人な雰囲気の女の子だった。数日の間、その場面を思い出して、廉の顔を見ることができないほどだった。
目の前のすぅすぅと寝息を立てる廉の薄い桃色の唇に目が釘付けになる。綺麗な寝顔。そうっと近づいて、小さく声をかけた。
「廉くん」
廉は目を覚まさない。そうっと近づいて顔を寄せる。
「廉く~ん」
もう一度声を掛けてみる。同じリズムで寝息が続く。綾香はそのまま顔を寄せて、その薄い唇にそっと自分の唇を寄せた。自分の口の中に廉の呼吸が入り込む。耳の奥が心臓になったのかと思うほど、何も聞こえずドクンドクンという鼓動だけが鳴っていた。
顔を離した時に、思わず自分の唇を両手で押さえて、自分のしたことに驚いた。思わず体がよろけて手をついた拍子に、廉の脇で丸くなっていた猫の頭をわしづかみにしてしまい、驚いた猫に激しく威嚇される。
「ミギャァー」
「うきゃー」
思わず自分も叫び声をあげてしまい、驚いた廉が飛び起きて目を丸くしている。
「何? なんだよ。綾香? どうした、大丈夫か?」
自分の衝動に顔を真っ赤にして思わず叫びながら、逃げ去った。
「今日の晩御飯! 本邸に食べに来てってお母さんがっ!」
廉はとてもモテる。まだ、高校生だと言うのに、自宅にやってくる父の商談相手の女性に口説かれているのを見たこともある。そうしたことを目の当たりにする度に、平凡な容姿で、特に優秀というわけではない自分に劣等感を抱き、自分では到底、彼の隣には立てないと思い続けてきた。
*******************************
廉が選ぶ相手は、自分が足元にも及ばないような人なのだ。今、まさに彼の隣にはそういう女性がいる。しかも、彼を追って自分のキャリアを顧みず日本へとやってきたというではないか。絶対に勝てない。
帰り支度をしながら、自分はいったいどれだけ耐えられるのだろう、廉とエリカが仲睦まじく過ごす姿を見続けて、この思いを忘れていくことができるのだろうか、と考えていた。
「綾香、地下の駐車場に車を止めてあるんだ。表まで回してくるからエントランスで待っていてくれるか?」
エレベーターに乗り込むと考えに浸ってしまっていた。その言葉に、黒い仕立ての良いコートを羽織った廉を惚けたように見つめて、コクコクと頷く。その姿を見て、廉が襟元で歪んだストールを直すように綾香の首元に触れる。
「綾香、そんな顔で誰かを見つめるなよ。食われるぞ」
廉が、綾香の瞳を見つめながら、不穏なことを言った‥‥ような気がした。二人だけの密室に今までにない空気が流れる。見つめ合った目が逸らせない。綾香のお腹の奥がギュッと絞られるような感覚に陥った。
チンッという音とともにドアが開き、扉の向こうにオフィスビルの一階らしい人の行き交う音が戻って来た。
「外は寒いから、エントランスの中で待ってろよ」
廉はそう言って綾香を押し出すと、そのままさらに地下へと下りて行った。
さっき、『食われるぞ』って言わなかった?
私、そんなに物欲しそうな顔してたのかな。彼氏いない歴23年。別に廉に操を建ててきたわけではないが、思いを消すこともできず、結局、今に至る。何か好かれる努力をした訳でもないから、報われないという表現はおかしいのだが、だいぶ初恋をこじらせている自覚はある。
そんなことを考えながら、車寄せが見えるように、出口の窓ガラスに額を寄せた。
「綾香、今日の予定はこれで終了だな。この後、何かあるか?」
「いえ、専務、今日はこの後の打ち合わせは入っておりません」
「そうじゃないよ。綾香の予定はどうなんだ?」
「私の? いえ、特に何の予定もありませんが‥‥」
「そうか、じゃあ一緒に食事にいかないか」
「え、専務とですか?」
廉が腕の時計に目をやる。
「もう、すでに本来の就業時間から2時間の残業だ。仕事は終わりにしよう。せっかく会食のない夜だし、俺もゆっくり旨い物を食べたいんだ。一人じゃ寂しいし、一緒に行ってくれないか?」
「い、いいですけど。エリカさんは? 一緒に食事に行かないんですか?」
「エリカ? エリカは、例のコーディネーターと広告代理店との会食があるって言ってたな」
そうか、忙しいビジネスマン同士が付き合うとなかなか予定も合わないだろう。エリカが廉の近くに来たいと思うのも納得だ。忙しくても近くに居れば少しでも会うことができる。昼間見た、あの愛しい人を思う表情が脳裏に浮かんだ。
廉は、あんな素敵な人に愛されてるんだなぁ
あんな美人が相手では、自分など到底太刀打ちできない。もともと低い自己肯定感が地べたを張っている気がする。
「綾香、どうした? 何か残っている仕事があるのか?」
いつの間にか黙り込んだ自分の正面で、廉が顔を覗き込んでいた。
「いえ、はい、では、ご一緒させていただきます」
その返事に廉が笑顔を見せる。昔から私はこの笑顔にやられっぱなしだ。
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廉が離れに越してきて、離婚の話が進んでいた頃、子どもたちにそうした面倒ごとを悟らせまいという配慮だったのだろう、廉と兄、そして綾香を連れて、母は週末になるたびにあちこちに遊びに連れて行ってくれた。熱海や箱根のグループホテルに泊まり一日プールで遊んだり、一棟貸しのコテージに泊まって3人で夜の森を散策したり、周りから見れば廉は3人の中で長兄のように見えただろう。
でも、綾香は廉を兄として見たことなどない。初めて廉の家で彼に会った時から、廉は自分にとっての憧れで、いつだって手の届かない恋焦がれる存在だったからだ。
中学受験が終わり、解放感でウキウキしていた3月、平和で暇な春休みを過ごしていた綾香は、珍しく離れの縁側で飼い猫と一緒に座布団の上で転寝をしている廉を見つけた。その無防備な姿に目が釘付けになる。
数週間前に、自宅近くの公園の遊具の裏で女の子とキスをしている廉を見てしまった。ショックだった。相手の制服は、有名な女子高のもので、前か後かわからないような平坦な体の、見るからにお子ちゃまな自分とは比べものにならない大人な雰囲気の女の子だった。数日の間、その場面を思い出して、廉の顔を見ることができないほどだった。
目の前のすぅすぅと寝息を立てる廉の薄い桃色の唇に目が釘付けになる。綺麗な寝顔。そうっと近づいて、小さく声をかけた。
「廉くん」
廉は目を覚まさない。そうっと近づいて顔を寄せる。
「廉く~ん」
もう一度声を掛けてみる。同じリズムで寝息が続く。綾香はそのまま顔を寄せて、その薄い唇にそっと自分の唇を寄せた。自分の口の中に廉の呼吸が入り込む。耳の奥が心臓になったのかと思うほど、何も聞こえずドクンドクンという鼓動だけが鳴っていた。
顔を離した時に、思わず自分の唇を両手で押さえて、自分のしたことに驚いた。思わず体がよろけて手をついた拍子に、廉の脇で丸くなっていた猫の頭をわしづかみにしてしまい、驚いた猫に激しく威嚇される。
「ミギャァー」
「うきゃー」
思わず自分も叫び声をあげてしまい、驚いた廉が飛び起きて目を丸くしている。
「何? なんだよ。綾香? どうした、大丈夫か?」
自分の衝動に顔を真っ赤にして思わず叫びながら、逃げ去った。
「今日の晩御飯! 本邸に食べに来てってお母さんがっ!」
廉はとてもモテる。まだ、高校生だと言うのに、自宅にやってくる父の商談相手の女性に口説かれているのを見たこともある。そうしたことを目の当たりにする度に、平凡な容姿で、特に優秀というわけではない自分に劣等感を抱き、自分では到底、彼の隣には立てないと思い続けてきた。
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廉が選ぶ相手は、自分が足元にも及ばないような人なのだ。今、まさに彼の隣にはそういう女性がいる。しかも、彼を追って自分のキャリアを顧みず日本へとやってきたというではないか。絶対に勝てない。
帰り支度をしながら、自分はいったいどれだけ耐えられるのだろう、廉とエリカが仲睦まじく過ごす姿を見続けて、この思いを忘れていくことができるのだろうか、と考えていた。
「綾香、地下の駐車場に車を止めてあるんだ。表まで回してくるからエントランスで待っていてくれるか?」
エレベーターに乗り込むと考えに浸ってしまっていた。その言葉に、黒い仕立ての良いコートを羽織った廉を惚けたように見つめて、コクコクと頷く。その姿を見て、廉が襟元で歪んだストールを直すように綾香の首元に触れる。
「綾香、そんな顔で誰かを見つめるなよ。食われるぞ」
廉が、綾香の瞳を見つめながら、不穏なことを言った‥‥ような気がした。二人だけの密室に今までにない空気が流れる。見つめ合った目が逸らせない。綾香のお腹の奥がギュッと絞られるような感覚に陥った。
チンッという音とともにドアが開き、扉の向こうにオフィスビルの一階らしい人の行き交う音が戻って来た。
「外は寒いから、エントランスの中で待ってろよ」
廉はそう言って綾香を押し出すと、そのままさらに地下へと下りて行った。
さっき、『食われるぞ』って言わなかった?
私、そんなに物欲しそうな顔してたのかな。彼氏いない歴23年。別に廉に操を建ててきたわけではないが、思いを消すこともできず、結局、今に至る。何か好かれる努力をした訳でもないから、報われないという表現はおかしいのだが、だいぶ初恋をこじらせている自覚はある。
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