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9:胸に沈む小石
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「綾香。こっちに異動してから会ってなかったね」
営業部の菱本祐が藤堂課長とともに部屋に入って来た。菱本は、綾香と同期で、次の営業部エースと噂されている。きさくでコミュニケーション力が高く、入社以来、朱莉と同様に仲良くしている。
「菱本くん、久しぶり。藤堂課長、申し訳ありません。水無瀬専務は、今、アメリカ支社とのオンライン会議が少し伸びていまして。もう少しお待ちくださいね」
「高辻さん。茉莉花のことで色々迷惑をかけてすまないね。茉莉花が、後任が高辻さんで良かったってずっと言ってるんだ。ありがとう」
藤堂課長が申し訳なさそうに声をかける。とんでもない、とこちらも頭を下げる。
「綾香、藤堂課長がさ、本当は、今日の御園さんの病院に一緒に行きたかったってずっと俺を責めるんだよ。もうちょっと俺が役に立つようになれば、どうぞ任せてくださいって言えるんだけどな。さすがに専務に企画を決めてもらう初めての日に一人は無理で。ホントすいません、課長」
「いや、ホントだよ、菱本。次からは俺も必ず茉莉花に付き添う予定だから今後は頼むな」
「ふふ、菱本くん、頑張って。営業部のエースだもんね」
「任せとけよ、綾香。俺がチーム藤堂をさらに盛り上げるからな」
三人で笑い合っていると、専務室の扉が開き廉が出てきた。廉の表情が少し厳しい。アメリカ支社との話で何か不都合があったのだろうか。
「やぁ、すまない、藤堂さん。お待たせしました。どうぞ」
藤堂課長たちが部屋に入って行ってしばらくすると、今度はエリカがやって来た。
「ごめんなさい。予定の時間より30分早いのはわかっているのだけど、同行のコーディネーターの方が先に広報の担当者と話をしたいらしくて、そっちに行ってしまわれたの。少しここで待たせていただいてもいいかしら」
先日、会った時と変わらず隙の無いスーツ姿で、洗練されたメイクは非の打ちどころがない。天はどうして人に二物も三物も与えてしまうのかと思ってしまう。
「もちろんです。どうぞ、こちらのソファでお待ちください」
ソファに腰かけると、エリカさんは、綾香の方を見てそわそわしている。どうやら話がしたいようだ。
「この間はご自宅に急にお邪魔して、大変失礼しました。とても楽しかったわ」
「はい、私もアメリカの大学時代の話が聞けてとても楽しかったです」
「ね、これからもプライベートでお会いする機会が増えると思うの。もし、あなたが嫌でなかったら、綾香と呼んでいいかしら。私のこともエリカって呼んでくれると嬉しいわ」
プライベートで会う機会が増えるのは、廉の‥‥彼女だからだろうか。ふっと沸いたその感情に笑顔が引き攣る。
「どうぞ、私のことは綾香と呼んでください。私もエリカさんと呼ばせていただきますね」
自然な感じではなかったかもしれないが、なんとか頑張って笑顔は作れたように思う。ただ、エリカさんの表情を見ると、それほど上手くはできなかったかもしれない。
「私、ドイツ生まれで、ドイツ人の父の仕事の関係でいろいろな国を転々としていたの。日本の国籍はあるけど、日本での生活にはまだあまり慣れていなくて。良かったら、綾香に色々教えてもらえると嬉しいわ」
少しためらいがちなエリカの様子に、自分の表情が堅くて気を遣わせたのだとわかった。慌てて殊更に明るい表情で返す。
「もちろんです。私でお役に立てるなら。エリカさんは国際法に強いって伺いましたが、なんで日本の法律事務所で働こうと思われたんですか? 水無瀬専務と同じ大学出身でしたらアメリカの方がもっといい条件の事務所がたくさんありそうに思うのですが」
花が咲くような笑顔とは、こういうことを言うのだろうか、と綾香は思った。
「アメリカの事務所で3年働いたんだけど、どうしても愛する人の元へ来たくて」
白く美しい肌がうっすらと桃色に染まり、凛々しく美しい顔が一瞬で愛しい人を思う表情に変わる。
そういうことか。綾香の心がさらに冷たく重く沈む。専務室の扉が開き、営業部の2人とともに廉が出てきた。
「藤堂さん、その内容をもう少し詰めて、必ず来週の金曜までに他の取締役が納得のいくエビデンスをまとめておいて欲しい。菱本くんはその内容をしっかり説明できるようにしておいてくれ」
廉にそう声を掛けられながら、営業の2人はソファに座っているエリカの姿に視線が釘付けになっていた。
「あぁ、藤堂さん、菱本くん、今回のプランの件でも世話になるから紹介しておこう。今期からうちの国際部門の顧問弁護士をしてくれる、LGK総合法律事務所の最上エリカさんだ。エリカ、うちの営業部の藤堂と菱本だ。例の台南のリゾート開発の件で動いてくれているのは彼らなんだ」
互いに挨拶が始まったので、綾香はカウンターの向こうに静かに控えた。エリカの輝くような美しさに菱本祐が惚けたようになっているのを見て、思わず眉間に皺が寄った。皆、美人が好きだよね。まぁ、私もそうなんだけど。自分の周りに美人で優秀な人が多いだけに、綾香は時々こうして卑屈になってしまう悪い癖がある。
綾香自身も育ちからくる品の良さがあり、それなりに整った顔立ちではあるのだが、周りのレベルが高すぎて自己肯定感が少しも上がらず、いつも自分を卑下してしまうのだった。
エリカが同行してきたコーディネーターがやってきて、さらにフロアで挨拶があり、その後、打ち合わせのための専務室に入っていった。
「すごい美人。びっくりした」
菱本が専務室の扉を眺めて、声を漏らす。
「これから一緒に仕事できるとか、楽しみでしかないわ。眼福、眼福」
エレベーターホールから藤堂係長に、早く来るようにせかされ、菱本は慌ててそちらへ向かって行った。綾香は、エリカのあの愛し気な表情と『―どうしても愛する人の元へ来たくて』という言葉が頭の中で消えずに残り、胸の奥に小さな小石が沈んだような違和感に苛まれた。
営業部の菱本祐が藤堂課長とともに部屋に入って来た。菱本は、綾香と同期で、次の営業部エースと噂されている。きさくでコミュニケーション力が高く、入社以来、朱莉と同様に仲良くしている。
「菱本くん、久しぶり。藤堂課長、申し訳ありません。水無瀬専務は、今、アメリカ支社とのオンライン会議が少し伸びていまして。もう少しお待ちくださいね」
「高辻さん。茉莉花のことで色々迷惑をかけてすまないね。茉莉花が、後任が高辻さんで良かったってずっと言ってるんだ。ありがとう」
藤堂課長が申し訳なさそうに声をかける。とんでもない、とこちらも頭を下げる。
「綾香、藤堂課長がさ、本当は、今日の御園さんの病院に一緒に行きたかったってずっと俺を責めるんだよ。もうちょっと俺が役に立つようになれば、どうぞ任せてくださいって言えるんだけどな。さすがに専務に企画を決めてもらう初めての日に一人は無理で。ホントすいません、課長」
「いや、ホントだよ、菱本。次からは俺も必ず茉莉花に付き添う予定だから今後は頼むな」
「ふふ、菱本くん、頑張って。営業部のエースだもんね」
「任せとけよ、綾香。俺がチーム藤堂をさらに盛り上げるからな」
三人で笑い合っていると、専務室の扉が開き廉が出てきた。廉の表情が少し厳しい。アメリカ支社との話で何か不都合があったのだろうか。
「やぁ、すまない、藤堂さん。お待たせしました。どうぞ」
藤堂課長たちが部屋に入って行ってしばらくすると、今度はエリカがやって来た。
「ごめんなさい。予定の時間より30分早いのはわかっているのだけど、同行のコーディネーターの方が先に広報の担当者と話をしたいらしくて、そっちに行ってしまわれたの。少しここで待たせていただいてもいいかしら」
先日、会った時と変わらず隙の無いスーツ姿で、洗練されたメイクは非の打ちどころがない。天はどうして人に二物も三物も与えてしまうのかと思ってしまう。
「もちろんです。どうぞ、こちらのソファでお待ちください」
ソファに腰かけると、エリカさんは、綾香の方を見てそわそわしている。どうやら話がしたいようだ。
「この間はご自宅に急にお邪魔して、大変失礼しました。とても楽しかったわ」
「はい、私もアメリカの大学時代の話が聞けてとても楽しかったです」
「ね、これからもプライベートでお会いする機会が増えると思うの。もし、あなたが嫌でなかったら、綾香と呼んでいいかしら。私のこともエリカって呼んでくれると嬉しいわ」
プライベートで会う機会が増えるのは、廉の‥‥彼女だからだろうか。ふっと沸いたその感情に笑顔が引き攣る。
「どうぞ、私のことは綾香と呼んでください。私もエリカさんと呼ばせていただきますね」
自然な感じではなかったかもしれないが、なんとか頑張って笑顔は作れたように思う。ただ、エリカさんの表情を見ると、それほど上手くはできなかったかもしれない。
「私、ドイツ生まれで、ドイツ人の父の仕事の関係でいろいろな国を転々としていたの。日本の国籍はあるけど、日本での生活にはまだあまり慣れていなくて。良かったら、綾香に色々教えてもらえると嬉しいわ」
少しためらいがちなエリカの様子に、自分の表情が堅くて気を遣わせたのだとわかった。慌てて殊更に明るい表情で返す。
「もちろんです。私でお役に立てるなら。エリカさんは国際法に強いって伺いましたが、なんで日本の法律事務所で働こうと思われたんですか? 水無瀬専務と同じ大学出身でしたらアメリカの方がもっといい条件の事務所がたくさんありそうに思うのですが」
花が咲くような笑顔とは、こういうことを言うのだろうか、と綾香は思った。
「アメリカの事務所で3年働いたんだけど、どうしても愛する人の元へ来たくて」
白く美しい肌がうっすらと桃色に染まり、凛々しく美しい顔が一瞬で愛しい人を思う表情に変わる。
そういうことか。綾香の心がさらに冷たく重く沈む。専務室の扉が開き、営業部の2人とともに廉が出てきた。
「藤堂さん、その内容をもう少し詰めて、必ず来週の金曜までに他の取締役が納得のいくエビデンスをまとめておいて欲しい。菱本くんはその内容をしっかり説明できるようにしておいてくれ」
廉にそう声を掛けられながら、営業の2人はソファに座っているエリカの姿に視線が釘付けになっていた。
「あぁ、藤堂さん、菱本くん、今回のプランの件でも世話になるから紹介しておこう。今期からうちの国際部門の顧問弁護士をしてくれる、LGK総合法律事務所の最上エリカさんだ。エリカ、うちの営業部の藤堂と菱本だ。例の台南のリゾート開発の件で動いてくれているのは彼らなんだ」
互いに挨拶が始まったので、綾香はカウンターの向こうに静かに控えた。エリカの輝くような美しさに菱本祐が惚けたようになっているのを見て、思わず眉間に皺が寄った。皆、美人が好きだよね。まぁ、私もそうなんだけど。自分の周りに美人で優秀な人が多いだけに、綾香は時々こうして卑屈になってしまう悪い癖がある。
綾香自身も育ちからくる品の良さがあり、それなりに整った顔立ちではあるのだが、周りのレベルが高すぎて自己肯定感が少しも上がらず、いつも自分を卑下してしまうのだった。
エリカが同行してきたコーディネーターがやってきて、さらにフロアで挨拶があり、その後、打ち合わせのための専務室に入っていった。
「すごい美人。びっくりした」
菱本が専務室の扉を眺めて、声を漏らす。
「これから一緒に仕事できるとか、楽しみでしかないわ。眼福、眼福」
エレベーターホールから藤堂係長に、早く来るようにせかされ、菱本は慌ててそちらへ向かって行った。綾香は、エリカのあの愛し気な表情と『―どうしても愛する人の元へ来たくて』という言葉が頭の中で消えずに残り、胸の奥に小さな小石が沈んだような違和感に苛まれた。
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