ハジメテは間違いから

あかし瑞穂

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1巻

1-1

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   1 どうか、私のハジメテをもらって下さい


 ――何、これ……
 ――お前の親父がサインした借用書だ。見覚えあるだろ、その字。
 ――そんな……
 ――返済期限まで、もう日がねえって分かるよな? このままじゃ、華族かぞくだっていう水無みずなし家も形無かたなしだよなあ。俺の親父がお前んちに貸した金、あの古びた屋敷を抵当ていとうに入れたところで、払いきれない額になってるんだぜ? 
 ――お前が俺と結婚するなら、この借金、なかった事にしてやるよ。親父だって、息子の嫁の実家に金を返せとは言わねえだろうしな。
 ――どうせ返す当てもないんだろ? なら、帳消しにしてやるから俺と結婚しろよ。落ちぶれたとはいえ、名家の水無から嫁をもらえば、俺の家を成金扱いする奴らに一泡吹かせてやれる。
 ――男に見向きもされない地味女を嫁にもらってやろうって言ってるんだ。むしろ感謝してもらいたいぐらいだぜ、なあ琴葉ことは? 
 ――私が……あなたと結婚したら……
 ――もちろん、あの家もそのままにしておいてやるよ。身体の弱ったじいさんや、心臓の悪い父親が今まで通り暮らしていけるようにな。
 ――私……
 ――もう少し愛想あいそ良くしてみろよ。まったく、色気のねえ女だよな。
 ――何するの!? 放して! 
 ――どうせ結婚するんだからいいだろ? 味見させろよ、琴葉――


「いやっ……!」

 そこで琴葉は、はっと目を開けた。視線の先には、小さなあかりがついた薄暗い天井が見える。いやらしく笑うあの男の顔は、どこにも無かった。

(さっきのは……夢?)

 夢から覚めたのだと理解するまで、数秒かかった。
 思い出さないようにしていた、三ヶ月前の事。あごつかむ手の、嫌な感触が生々しくよみがえってくる。おかげで息が上がり、心臓もどきどきしていた。
 しばらくして、ようやく呼吸が落ち着いてくる。

(良かっ……!?)

 安堵あんどの溜息をつき、ふと左横を見た琴葉は――固まった。

「……ひ……っ……!?」

 がばっと起き上がると、上掛けがするりと身体から落ちた。肌に直接、初春の空気が触れる。き出しになった白い胸のふくらみを、慌てて手で隠した。

(え、裸!? ……ええっ!?)

 口をぱくぱくと開閉させながら、琴葉は自分の左隣でこちらに顔を向けて眠る男性をまじまじと見つめた。

「あ……あ……」

 乱れた前髪。長いまつ毛。少し緩んだ薄い唇。鼻筋の通った端整たんせいな顔立ち。
 無造作に投げ出された、程よく筋肉の付いた右腕。そこから少し盛り上がった肩のなめらかなライン。
 ベッドサイドに置かれた銀縁ぎんぶち眼鏡を見なくても、彼が誰なのかは明白だ。

(や、八重倉やえくら課長ーっ!?)

 転がり出るようにベッドから下りた琴葉は、完全にパニック状態だった。
 一体何がどうなってこうなったのか、まるで分からない。

(え、だって、どうして!? どうして八重倉課長と!? だって私は氷川ひかわ課長を……)

 そう、憧れていた隣の課の氷川を誘ったつもりだったのに。なぜお堅い直属の上司の八重倉りくと、裸でベッドに寝ているのか。
 それって、つまり。

(かかか、課長と私っ……!)
「……ん」

 かすかな声と同時に、八重倉の眉が少し動いた。裸のまま呆然ぼうぜんと床に座り込んでいた琴葉は、あわあわと周囲に視線を動かす。
 見たところ、ここはどこかのホテルの一室らしい。あるものといえば、ダブルベッドと小さな備え付けの冷蔵庫に黒い机。同じく黒い椅子の上に、自分の服が無造作に掛けられていた。

(と、とにかく逃げないとっ)

 音を立てないように、急いで着替えた琴葉は、床に落ちていた自分のショルダーバッグを抱えて部屋を出る。
 そうして一度も後ろを振り返らず、エレベーターホールに小走りで向かったのだった。


 ――翌日の朝。

(どうして、こんな事に……)

 頭上には抜けるような青い空が広がっているにもかかわらず、水無琴葉の心はどんよりとくもっていた。おまけにコンタクトをしたまま寝たせいか目が痛くなったので、今日は眼鏡を掛けている。
 真っ直ぐな髪を後ろで一つにくくった地味な髪形はいつも通りだが、せめてもとお気に入りの麻のジャケットとペールグリーンのフレアスカートを着てはみた。しかし、やはり気分は上がらない。右肩に掛けたバッグもいつもより重い感じがする。
 思わぬ事態による衝撃と二日酔いのせいで、まだがんがん鳴っている頭に手を当てて、会社への道をとぼとぼと歩きながら、琴葉は昨日の失態について思い返していた。


 そもそもの始まりは三ヶ月前、母親の十七回忌かいきのため久しぶりに実家へ戻った時の事だった。
 そこで身体の弱い父、はじめの顔色が悪く、どこかやつれて見えた事が気になった琴葉は、病院へ行く事を勧めたのだが、法要の後にも用事が控えていて暇がないらしい。
 ちょうど切らしてしまった常用薬があればすぐ回復するというので、父の代わりに病院へ薬をもらいに行った彼女は、そこで帰りのタクシーを待っている間に、会いたくもない人物にばったりと遭遇したのだった。

『帰って来たのか、琴葉』

 そう言ってにやにや下品にわらうのは、幼馴染おさななじみ湯下ゆげ智倫ともつぐ。明るい茶に染めた髪に加え、ワインレッドの派手なスーツを着込み、太い金鎖きんさのネックレスと高級腕時計を身に着けた彼は、どう見ても素行の悪そうな青年だった。
 黒のワンピースを着た琴葉の身体をめるように見回す視線に、鳥肌が立つ。琴葉は右肩に掛けたバッグの紐を思わずぎゅっと握った。

『法事に参列しに来ただけよ。すぐに向こうへ戻るわ』

 琴葉がそう言うと、智倫の瞳が底意地の悪そうな光をともした。そしていきなり右手を伸ばし、琴葉の二の腕をむんずとつかむ。

『ちょっと来いよ』
『何するのよ、放して!』

 智倫は嫌がる彼女を引きずるように歩き、道路脇にめてあった外国産の高級車に無理矢理押し込んだ。そのまま車を発進させ、人通りのない脇道まで走らせると、そこで、急停車させる。そうしてバッグを胸に抱き、ドアにぴたりと身を寄せて警戒する琴葉の眼前に、一枚の紙を突き付けたのだった。

『何、これ……』

 ――それは莫大ばくだいな金額の書かれた借用書だった。文章を読み進めるにつれ、琴葉の顔から血の気が引いていく。

『お前の親父がサインした借用書だ。見覚えあるだろ、その字。お前の親父、心臓の手術をした事があったよなあ。その時に水無家の不動産事業もかたむいて……そこを同業である俺の親父が助けたって訳だ』
『そんな……』

 琴葉が高校を卒業する直前。祖父が脳梗塞のうこうそくで倒れ、いで父も心臓の発作を起こして入院した。二人とも手術を受けてなんとか一命をとりとめたが、元来身体が丈夫でなかった父は、手術後も半年ほどの入院を余儀なくされた。借用書の日付は確かにその頃のもので、しるされたサインもくせのある父の字に間違いなかった。
 ――私は大丈夫だから、琴葉は何も心配せず、高校を卒業して短大へ進学する事だけを考えなさい。
 入学が決まっていた短大を諦めて働くと言った琴葉に、そう笑って返した父の顔が目に浮かぶ。
 確かに智倫の家に融通ゆうずうを利かせてもらったという話は聞いていたが、あくまで会社関係で金銭の絡まない支援を受けただけだと思っていた。だが借用書には、水無家の会社名の記載はなく、父個人の名前がしるされている。

(私の進学やおじい様の治療費も――やっぱり無理していたの? お父さん……)

 そこに書かれた金額は、とてもじゃないが琴葉一人でどうにか出来る額ではない。自慢げに借用書をちらつかせた智倫は、それをスーツの内ポケットにしまい込むとこう言った。

『返済期限まで、もう日がねえって分かるよな? このままじゃ、華族かぞくだっていう水無家も形無かたなしだよなあ。俺の親父がお前んちに貸した金、あの古びた屋敷を抵当ていとうに入れたところで、払いきれない額になってるんだぜ?』
『……っ』

 実家の水無の屋敷は、華族かぞくだった祖先が建てたもので、広い日本庭園に加えてくらまである、由緒正しい日本家屋だ。
 ただし、のどかな田園風景が広がる山裾やますそに位置するため、広いと言っても土地自体の値段はさほど高くなく、売ったところでそこまでの金額にはならないだろう。それに何より、先祖代々引きがれてきたあの屋敷を祖父が手放すとも思えない。

(おばあ様が大切にしていた桜が咲くのを、毎年楽しみにしているのに)

 祖母を亡くし元気をなくした祖父の生きがいは、もはや思い出の詰まったあの屋敷だけなのだから。
 もし、それを奪われたら――

(おじい様は生きる気力をなくしてしまう……それにお父さんだって)

 婿むこである父が水無家の事業を立て直そうと必死に頑張っている事は、琴葉だって十分すぎる程理解している。その事業が借金のせいでダメになったら、父は自分自身を責めるに違いない。そうしたら、また身体の具合も悪くなってしまうかも……
 黙り込んでしまった琴葉に、智倫は楽しそうに言葉を続けた。

『なあ、お前次第でこの借金チャラにしてやる……って言ったらどうする?』
『えっ』

 琴葉が息を呑むと、智倫は口端こうたんを上げてにまりと笑った。その目には、獲物をなぶり殺すけもののようなぎらぎらとした色が浮かんでいる。

『お前が俺と結婚するなら、この借金、なかった事にしてやるよ。親父だって、息子の嫁の実家に金を返せとは言わねえだろうしな』
『な……』

 ――智倫と、結婚?
 全身におぞ気が走った。大きく目を見張り、顔を強張こわばらせた琴葉に、智倫はだみ声でたたみかけてくる。

『そろそろ俺も、所帯を持って落ち着くようにと親父から言われてんだよ。なら、お前がちょうどいいって訳だ。元華族かぞくの水無家といえば、上流階級にも知られた名家だからな』

 智倫は、彼の父親が一代できずき上げた不動産会社の跡取り息子だが、金と権力に物を言わせて我儘わがまま放題のどうしようもない男だ。
 二歳年上の彼とは小学校からの知り合いだが、『地味女』だの『野暮やぼったい』だの『陰気臭いんきくさい』だの、散々いじめられてきた記憶しかない。周囲の子ども達も、智倫の顔色をうかがって琴葉を遠巻きに見ている状態だった。
 琴葉はなるべく彼に近付かないようにしていたが、何故か向こうからやって来ては、こちらを傷付ける言葉を投げていく。そして智倫の瞳に浮かぶ薄気味悪い執着心も、年々大きくなっていくようだった。
 琴葉が地元を離れて就職したのには、そういう理由もあった。物理的に距離を置けば、そうそう会う事もなく、智倫も興味を失うだろうと思ったのだ。なるべく里帰りしないようにしていたのも、このせいだ。

『水無家の名前が欲しいって言うの? そのために、気に入らない女とでも結婚するって?』
『気に入らないなんて言ってねえだろ? 琴葉』

 ねっとりとした声音こわねに、ぞくりと背筋が寒くなった。たくさんの女を知っている智倫の目は今、琴葉を獲物としてとらえている。

『どうせ返す当てもないんだろ? なら、帳消しにしてやるから俺と結婚しろよ。落ちぶれたとはいえ、名家の水無から嫁をもらえば、俺の家を成金扱いする奴らに一泡吹かせてやれる』

 智倫や彼の父親の評判は、地元ではあまりかんばしくない。智倫自身の素行の悪さに加え、片田舎のこの地方では、いまだに家柄を重んじる風習があるからだ。今にして思えば、彼が琴葉をいじめていたのも、名家の出自が気に入らないからだったのかもしれない。それを、今回の件を利用して、手に入れようとしているのだろうか。

『男に見向きもされない地味女を嫁にもらってやろうって言ってるんだ。むしろ感謝してもらいたいぐらいだぜ、なあ琴葉?』

 琴葉はぐっと唇を噛んだ後、口を開いた。

『私が……あなたと結婚したら……』
『もちろん、あの家もそのままにしておいてやるよ。身体の弱ったじいさんや、心臓の悪い父親が今まで通り暮らしていけるようにな』
(お父さん……おじい様……)

 借金の事を何も言わなかった父。
 きっと琴葉に心配を掛けまいとしたのだろう。父はいつだって、琴葉のために無理をしてしまう。また心臓が悪くなったら……それに祖父も、祖母との思い出をあんなに大切にしているにもかかわらず、父と琴葉のためを思って屋敷を売ろうと考えるかもしれない。

(私さえ我慢すれば)

 お父さんもおじい様も、このままあの家で平穏に暮らしていける――? 
 だが、智倫と結婚すると考えただけで吐きそうになった。体温が下がり、握りしめた手のひらに冷や汗がじわりとにじむ。
 どうする? と見下すようにわらう智倫を前に、琴葉はごくんと生唾を呑んだ。

『――私……』

 ――本当に、父と祖父の生活を保障してくれるのか。
 そう聞くと、智倫は『それはお前次第だな』とまたわらった。にやにやする彼の視線を浴びながら、しばらく考えた後、琴葉は心を決めた。
 彼女が黙ったまま首を縦に振るのを見た智倫は、じゃらりとアクセサリーを鳴らして琴葉に右手を伸ばしてくる。

『もう少し愛想あいそ良くしてみろよ。まったく、色気のねえ女だよな』
『何するの!? 放して!』

 あごつかまれた琴葉が叫ぶと、智倫は顔を寄せてきた。

『どうせ結婚するんだからいいだろ? 味見させろよ、琴葉――』

 必死に抵抗して、車から転がり出た琴葉を、智倫はそれ以上追っては来なかった。車上から琴葉を見る彼の顔には嗜虐的しぎゃくてきよろこびが浮かんでいる。

『半年以内には覚悟決めとけよ。じゃあな』

 彼の車が走り去った後も、琴葉は震えながらその場で立ちつくすしかなかった――


 それから色々と考えてはみたものの、やはり智倫と結婚しなければならないという結論しか出なかった。
 借金は琴葉の退職金をつぎ込んだところで何とかなる額ではない。そんな大金を出してくれそうな親戚もいない。むしろどちらかといえば、本家である水無の家に頼ってくる者ばかりだ。
 破産申請をして会社を手放したとしても、琴葉の収入では身体の弱い父と祖父を抱えて生活出来る見込みはない。何より、これ以上二人の体調を悪化させるような事はしたくなかった。
 ただ……

(あの男にこのままハジメテをささげるのだけは、絶対に……!)

 嫌だ。
 智倫のいやらしい視線を思い出した琴葉は、自分を抱き締めるようにして二の腕をさすった。
 地元にいた間は、智倫が琴葉をいじめるせいで男性が寄り付かず、恋人など出来ようもなかった。家を離れて就職してからも、仕事と新生活に慣れるのに必死で、これまた余裕がなかった。
 だが、智倫と結婚せざるを得ないとしても、せめてハジメテくらいは自分の選んだ人と、と思うのは贅沢だろうか。

(少しだけでも、好きだって思える人と、一度限りでいいから結ばれたい……)

 そうすれば、その後の結婚生活も何とか乗り切れるかもしれない。自分のハジメテは、自分が選んだ人にささげた、という思い出さえあれば。
 だけど誰を選んだとしても、半年後に必ず別れる事になる。そんな身勝手が許されるのだろうか。

(それに結ばれたいっていっても、そもそもどうしたらいいのか……)

 男性経験が皆無かいむな琴葉には、いい考えがまるで思い浮かばなかった。故郷にはもちろん、会社にもそこまでプライベートな事を相談出来る親しい相手はいない。八方塞がりの状況に頭を抱えてしまう。
 そんなふうに三ヶ月ほど悶々もんもんと悩んでいた琴葉の視界に入ってきたのが――隣の課の氷川凛久りく課長の姿だった。彼を目にした途端、琴葉の心にぱっと光が差す。

(そうだ、氷川課長なら)

 目鼻立ちが整った甘いマスク。いつもほのかに香るさわやかなコロン。
 琴葉の直属の上司である八重倉も長身だが、氷川も同じくらい身長が高い。さらには、普段着ているスーツも仕立ての良いブランド物が多く、日本有数の財閥である氷川財閥の御曹司おんぞうしではないかとも噂されていた。
 そんな彼に近付く女性は当然後を絶たず、氷川の女性関係はなかなかに派手だ。が、彼の仕事が忙しいため、数ヶ月ぐらいで別れる事が多いと聞いていた。
『それでも悪評は聞かないのよ。元カノ達も、彼ならしょうがないって感じだし。人徳かしら』とは、社内の情報通、音山おとやま敬子けいこの言葉だ。
 来る者こばまず、去る者追わずが、氷川の信条らしい。
 さらに、彼は別れた女性の事についてほとんど口にしないらしく、この辺りの事は全て女性側からの情報との事。つまり、抱いてもらっても、琴葉が黙ってさえいれば大事おおごとにならない可能性が高い。


 ――それなら。
 それなら……私みたいな地味女が迫っても、抱いてくれて。
 私がいなくなっても、彼を傷付ける事もなく。
 迷惑をかけずに、後腐あとくされなく立ち去れる――? 
 おまけにタイミングのいい事に、大口の案件を取れたとかで、氷川の営業二課とここ営業一課の合同飲み会が来週開催される事になっている。
 そこで何とか二人きりになって、氷川課長に頼み込んでみよう。、親切にしてくれた優しい彼なら、一夜限りの関係を持ってくれるかも――


「……っ!?」

 ぼうっと考え込んでいた琴葉は、こちらを見ている八重倉とふと目が合った。銀縁ぎんぶち眼鏡の奥の瞳がじっと琴葉を見つめている。咄嗟とっさに小さく会釈えしゃくして視線をらしたが、心臓がどきどきと速く脈打っていた。

(や、八重倉課長の視線って心臓に悪い……)

 こちらの想いを見透みすかすかのような視線に気まずさを覚え、椅子の上でもぞもぞと腰を動かし、座る位置を変える。その時、八重倉の視線を追うように氷川がくるりと振り向き、琴葉に声をかけてきた。

「あ、水無さん。この前うちの課の近藤こんどうが世話になったって聞いたよ、ありがとう」

 にこやかなその態度に、琴葉は一瞬頭が真っ白になったが、「いえ、二課の皆さんにはいつもお世話になっていますから」と何とか返事をする事が出来た。

「ここ数年のデータを集計してくれたんだって? 水無さんの資料、分かりやすいって顧客にも評判でね。近藤も案件をゲット出来たと喜んでたよ。そのうち本人が礼に来ると思うけれど」

 二課の営業補佐が急病で休んだ時、琴葉がピンチヒッターとして近藤の資料作成を手伝った件を言っているのだろう。データの収集や分析は、琴葉の得意分野だった。

「ありがとうございます。そう言って頂けると嬉しいです」

 やや口元を強張こわばらせつつも、琴葉は笑みを浮かべて言った。
 それも営業補佐の仕事のうちだから、当たり前の事をしただけだが、こうしてさり気なくめられると、やはり嬉しい。

「鬼課長の特訓にもめげずについていった成果だろうね。なあ、八重倉?」

 そう話を振られた八重倉の表情は変わらない。無表情のままこちらを見つめる彼の視線に、琴葉は椅子の後ろにでも隠れたくなった。

「無駄口叩いてないで、さっさと戻れ」

 八重倉が抑揚よくようのない声で言うと、氷川は「分かった分かった。お邪魔したね」と軽く手を振り、八重倉の机から離れて行った。
 琴葉も氷川に会釈えしゃくをすると先程思い付いた事を頭の片隅に追いやり、かたかたとキーボードを叩く作業に集中し始める。
 ――そうして飲み会の夜。氷川と八重倉はいつものように女子社員に取り囲まれていた。琴葉はビールびんを持ち、あちこちにおしゃくをして回りながら、氷川の様子をうかがう。そして、二人の真正面が空いたと同時にそこにすべり込み、彼のグラスにビールを注いだのだった。


「次は柚子ゆずチューハイをお願いします」
「へえ、水無さんって結構イケる口なんだね?」

 そう微笑む氷川に、琴葉はぎこちなく笑い返す。自分の前に並ぶ空になったグラスの量は、いつも少ししか飲まない琴葉にしてはあり得ない数だった。だけど、こうでもしないと間が持たなくて、逃げ出しそうになってしまう。すぐ来たグラスを受け取った琴葉は、チューハイに口を付けながら、氷川を観察した。
 薄いブルーのワイシャツに、こんのストライプのネクタイを締めた氷川は、『社内の王子様』と言われるだけあり、居酒屋の座敷に座っている姿ですら人目をいている。
 氷川の前に座る琴葉に女子社員からの視線が突き刺さってきたが、今日だけは負けられないと席をゆずらず飲み続けていた。
 今の琴葉は、いつも一つにくくっている髪を肩まで下ろし、ふわりと内巻きにカールさせている。メイクもいつもより明るめのリップグロスをつけ、服装も、あわいピンクのフレアスカートに七分袖しちぶそでの白のブラウスという、これまたいつもよりも明るい色を選んでいた。それもこれも、氷川の目をくためだ。


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