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名前を、呼んで

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 ――マンションに戻る途中も、建吾さんは不機嫌そうな顔を崩さなかった。私はタクシーの後部座席で、左隣に座っている彼をちらと見上げた。

 冷たい横顔。無表情に近い顔でも、彫像のように綺麗。視線は窓の外を向いている。私は膝の上に置いた手をぎゅっと握り締めた。
(私が建斗さんと話してたから? だから怒ってるの?)
 やっぱり当主を巡るライバルである義兄と、かりそめとはいえ自分の妻が関わるのはいやだったのだろう。胸の奥がずきんと痛んだ。
(でも、お母さんの事……)
 大金を受け取って姿を消した女性。中庭で血を吐き、『建吾を頼む』と言い残した女性。どちらも、この人のお母さんなのだ。

(本当の事を知りたいけれど、あの人が危険だって事も分かるし)
 本当に兄弟なのだろうか。どちらもタイプの違う美形ではあるけれど、纏う空気があまりにも違いすぎる。

 一見、親切で優しそうだけれど、薄暗い感情が見え隠れする建斗さん。
 無愛想で冷たい印象だけど、責任感が強くて守ってくれる建吾さん。

 ――どちらを信用できるか、なんて考える必要もないくらい。

 握り潰した名刺を突っ込んだ彼の上着のポケットを見て、そっと息を吐いた。
(私からは連絡もしないでおこう……)
 何かの機会があったら、志乃さんあたりに聞いてみてもいいかもしれない。
「……」
 私は、相変わらず外を見てこちらに目もくれない建吾さんを見て、また溜息をついた。

***

「ふう……」
 お風呂に入ったら、少しさっぱりした。何となく、あの鼻についた香りがいつまでも纏わり付いているような気がしていたから。
 いつものパジャマを着てリビングに戻ると、ワイシャツにスラックス姿の建吾さんがソファに座っていた。右手に持っているのは、琥珀色の液体が入ったグラス。
 髪が掻き回したみたいに乱れていて、ワイシャツのボタンも三つほど開いている。じっとグラスを見つめるその視線に、ぞくりとするような色気が漂っていた。
 私が建吾さんが座るソファの右側に行くと、彼はグラスをローテーブルに置いた。私を見上げる瞳に何が映っているのか、まるで分からない。
「建吾さん? あのお風呂は……っ!?」
ぐいと右手首を掴まれた私は、そのまま彼に引っ張られた。建吾さんの膝の上にぽすんと横座りの状態になった私は、慌てて降りようとしたけれど、逞しい腕に邪魔されて身動きできない。

「ありさ」
 右耳に低い声が注がれた。僅かに香るお酒に匂いに、艶のある声に、そして何より、間近で見る彼の瞳に、心臓がどきどきと早鐘を打ち始める。
「ななな、なんで、しょう、か」
 綺麗な漆黒の瞳。眼鏡を掛けていないからか、視線が真っ直ぐ突き刺さってくる気がする。

「どうして、兄について行った? あの男は危険だ」
「そ、れは」
 思わず口籠ってしまったけれど、建吾さんの目は何かを言うまで許してくれそうにない色をしていた。これは誤魔化し切れない、と分かる。
「……建吾さんの、お母さんの話を聞きに行ったの」
 ぽつりと私が呟くと、建吾さんの眉がぴくっと上がった。
「お母さんの事を知ってるって言われて、それで」
「母の事はもうどうでもいい」
 ばっさりと切り捨てるように言う彼に、私はでも、と言葉を絞り出した。
「お母さんは建吾さんを捨てたって言ってたけど、それがそうじゃなかったら? 何か事情があってそんな態度をとってたんだとしたら……っ!?」
 私の言葉は、建吾さんの唇に遮られた。私を食むように動く彼の唇が熱くて、身体が硬直してしまう。擦れ合う唇の感触に背筋がぞくりと震えた。触れ合う唇からは、ほのかにウィスキーの味がする。

「んんっ……! は、あっはあ」
 ようやく唇が解放された時、私は大きく息を吐いた。建吾さんの表情は変わってなくて――瞳だけがぎらぎらと光っている。
「ありさ」
 建吾さんの左手が私の腰に回り、右手は私の左頬を包んでる。視線を逸らしたくても逸らせない。ほんの数センチ動けば、再び唇が触れるような位置で、建吾さんが低い声で囁いた。
「母の事はもういいんだ。そんな事を聞くために、ありさがあの男と二人きりになるぐらいなら、何も知らないままでいい」 
「建、吾さん……?」
 この人はこんな目で私を見ていたのだろうか。心の奥底にまで届きそうな強い視線に、身体が縫い留められてしまって、動けない。

「……待つつもりだった」
 ぽつりと彼の口から言葉が零れた。
「ありさが久遠の事を乗り越えられるまで。俺を、俺自身を見てくれるまで」
「――っ!?」
 思わずひゅっと息が詰まる。建吾さんは表情を変えないまま、抑揚のない声で言葉を継いだ。

「……だが、今日の事で思い知った。待っていたら、ありさを奪われてしまう、と」
「え……っ?」
(奪われる? 私を?)
 私が瞬きすると、少しだけ建吾さんの口端が上がった。笑みというには小さな、自嘲するような表情に、言葉が出ない。
「あの男がありさを狙っていた事に、気が付いてなかったのか? 俺が行くのがもう少し遅かったら、今頃母の事を餌にかどわかされていただろうな」
 私を見た建斗さんの目付き。確かに背筋が寒くなったけど、そんな。
「……だって、あの家には志乃さん達だっていたのに」
 息が掛かる距離まで建吾さんが近付く。ほんの数センチ動いたら、唇が重なってしまいそうな距離に、胸が圧迫されて息苦しい。
「そんな事で大人しくなるような奴じゃない」
「建吾、さん……ひゃっ!?」
 建吾さんの顔が左肩に埋まったかと思うと、思い切り首筋を吸われていた。
「あっ」
 舌が首筋を下から上へと舐めていく。びくっと肩を震わせた私の左耳に寄せられた唇から、どこか張り詰めた声が零れ落ちた。
「あの男だけじゃない。ありさを狙ってる男は他に何人もいる――俺は」
 顔を上げた建吾さんの瞳が、私を真っ直ぐに見据えた。息が、出来ない。

 ゆっくりと薄い唇が動いた。まるでスローモーションのように見える。
「ありさを他の男には渡さない。渡せない」
「建吾さ」
「……ありさを愛しているからだ」

「……え?」
 一瞬、建吾さんが何を言っているのか理解出来なかった。呆然と口を開けた私を見ている建吾さんの表情は、ほとんど動いてなくて彫像みたい。ぎらぎらと光る目に、言葉を紡いでいる唇だけが生きている証のよう。

「俺はありさを愛してる。だから、当主問題が解決しても離婚はしない」

 どくん……

 心臓が大きく動いた。建吾さんの言った言葉が、ぐるぐると頭の中を駆け巡る。

(あい……してる?)

 誰が? ――建吾さんが?
 誰を? ――私を?

(愛して……る……っ……!?)
 胸を抉られるような重い衝撃が走った。どくどくと早鐘を打ちだした心臓が、痛い。  
 じっと私を見つめる建吾さんの目の前で、頬に血が一気に上ってくるのを感じた。

「だ、だって、あの時……!」
 そう、プロポーズを受けた時、建吾さんはこう言ったのだ。

 ――俺と結婚してくれないか。ありさの身の安全は俺が守る。二年後、ありさが望めば離婚してもらって構わない――と。  

「あれは」
 建吾さんの目に、一瞬躊躇するような色が映った。
「ああ言わなければ、ありさが結婚に同意しないと思ったからだ。あの時、俺が本当の事を告げたら――好きだから結婚してくれと言ったなら、承諾してくれたのか?」
「っ、」
 ――痛い所を突かれた。
(あの時、そう言われてたら)
 ゲームと同じだと警戒して、きっと頷けなかった。政略結婚だから、二年間だけの限定だから、と引き受けたのだから。
(ああ、でも建吾さんは)
「望めば離婚するって……」
 騙された、って事なのだろうか。でも――
 さりげなく頬を撫でる長い指にも、体温を感じる距離にも、どきどきが止まらなくて、胸底が燃えるように熱くて。

 そんな私の心の中を読んだのか、建吾さんがさりげなく告げた。
望めば・・・、と言っただろう。ありさが望まないように口説くつもりだった」
「~~~~っ!」
 ますます熱くなった頬の温度を確かめるように、手のひらが擦り付けられた。心なしか、彼の視線に艶が混ざった気がする。
 
 建吾さんは……
(わ、私の事、好きだから、結婚したくて、プロポーズしたって……言ってるの……?)

 信じられない。だけど、建吾さんはこんな事で嘘を言う人じゃない。私に注がれている、焼き焦げてしまいそうな熱い視線。それが彼の気持ちを表してる。

 こんな未来は知らない。ゲームで見た、私の事を駒としてしか思っていなかった、あの冷酷な人はここにはいない。
(完全に現実が変わった、の……?)

「ありさ」
 建吾さんの瞳に、強い光が宿った。
「お前は……俺の事をどう思っているんだ? 曲がりなりにも結婚してくれたのだから、嫌われてはいないだろうとは思っているが」

 どくん……どくん……
 心臓が痛い。熱い彼の目から視線を逸らせない。

「ど、う……って」
 唇が少し震えて、思わず下唇を舐めると、建吾さんのこめかみがぴくっと動いた気がした。

(私は建吾さんの事)
 目を伏せた私の頭の中で、今までの建吾さんとのやり取りが万華鏡のように回っている。

 銀縁眼鏡を掛けてても、端整過ぎる顔は隠せてなくて。長身ですらりとした体型は人目を惹いて。こうして私に触れている手が大きくて。
 一見無愛想で、仕事に厳しくて。だけど、責任感が強くて、他人の事もよく見てくれていて。
(新人の事で泣いてた時も時間をくれて……お兄ちゃんに送り迎えも頼んでくれて、今日だって守ってくれた)

 建吾さんの事を思うと、いつも胸に鈍い痛みが走ってた。『どうせ別れるんだから』って思っていたから。
(それって……)
 胸が痛い。心臓も潰れてしまいそうなくらい痛い。離れてしまうと思ったら、こんなにも胸が痛い。
 こんなに悲しくて辛くなるのは、何故なのか。……考えなくても分かる。
 怖くて今まで見ようとしなかった、自分の心の中。ぼんやりとした霧のような思いが、少しずつはっきりとした形になっていく。もう誤魔化せない。

(私、建吾さんの事が……好き……)
 すとんと心の中に落ちてきた、「好き」という思い。一度認めてしまうと、それは胸の中で鈍い痛みと熱に変わる。
(仕事の出来る尊敬する先輩から、政略結婚の相手に変わって……少しずつ気持ちが積み重なっていた、んだ……)

 ……ゲームの建吾さんと現実の建吾さんは、別人。それはもう、身に染みて分かってる。だけど私が、一歩踏み出せなかったのは……
(怖……かったから)
 いつかゲーム通りになってしまうんじゃないかと怯えてた。でも、それは結局――
(建吾さんを信じていなかったんだ……)
 きゅ、と唇を噛んだ後、私は建吾さんの瞳を見た。黙ったまま私を見つめる彼に、私はようやく口を開いた。

「約束、してもらえますか」
「約束?」
 建吾さんが眉を顰める。私は小さく頷くと、やはり小さな声で呟くように言った。

「……『お前には関係ない』って言わない、と」
「!」
 私の言葉を聞いた建吾さんが息を呑む。そうこのセリフは、茉莉花さんの関心を私から逸らすために、建吾さんが複数の女性と会っていた時に言った言葉。
 あの時、私は――
「私、は……お前には関係ない、って言われて……」
 声が震える。今思えば、あの時ショックを受けたのは。
(建吾さんが……ゲームみたいになってしまうんじゃないかと思って)
「怖かった、んです……」
 建吾さんの顔が、苦しそうに歪んだ。
「ありさ。……済まない」
 私の身体は、広い胸にぎゅっと抱き締められていた。彼の体温がじわりと伝わってくる。
「あの女から守ろうとして、結果的にありさを傷付けてしまった。もう二度と言わない」
 深い後悔が感じられる声に、涙がぽろりと落ちる。両手で建吾さんの胸元を掴んで、顔を上げた。建吾さんの顔が涙で滲む。
「ほ、んとうに? 私もちゃんと巻き込んでもらえますか? 私の為だって言って、一人で全部背負わないって、約束してくれますか?」
 一瞬、くっと唇を引き締めた建吾さんは、苦みが混ざった声を出した。
「……分かった。事情により言えない事もあるが、ありさには出来る限り話すようにする」
 ほっと身体から力が抜ける。建吾さんは約束を守る人だから、もうあんな事は起こらない。

 (ああでも――あと一つ、だけ)
 あと一つだけ、約束して欲しい事が、ある。

 ぐっとお腹に力を溜めた後、私はゆっくりと口を開いた。
「……建吾さん」

 私の声に何かを感じたのか、建吾さんの顔付きが微妙に変わった。警戒しているような、待っているような、そんな複雑な表情を浮かべてる。

「私は、建吾さんを……好きになるのが、怖かったんです」
 建吾さんの瞳が大きくなる。
「いつか、私以外の人を見るようになるんじゃないかって。好きになっても、捨てられてしまうんじゃないかって」
 そう、ゲームのように。妊娠したのに捨てられてた、あのヒロインありさのように。

「でも、それは……目の前の建吾さんをちゃんと見てなかった私の、思い込みだったんですね」
 建吾さんはゲームの建吾さんとは違うのに。分かっていたつもりだったけど、結局はゲームの結末が怖くて、好きだという思いから逃げていた。
(もう、逃げない)
「ありさ……?」
 訝し気な表情を浮かべる建吾さんに、私はもう一つのお願いをする事にした。

「建吾さん。私は建吾さんの事が好きです」
「っ」
 建吾さんの喉ぼとけが動いた。目を見開いて固まってしまった建吾さんに、胸が熱くなって泣きそうになる。

「だから……」
 どうか、お願い。私を捕らえていた、最後の鎖を断ち切って。

 手を伸ばして、建吾さんの首にしがみ付く。彼の左耳に唇を寄せて、小声で囁いた。

「私の名前を、呼んで欲しいんです……」
「名前を? 今でも呼んでいるだろう?」
 不思議そうな声に、私は小さくかぶりを振った。

「……愛し合っている時に。建吾さんが愛してくれているのは、私だって分かるようにして、下さい……」

 消えそうな声でそう言うと……建吾さんの身体が硬く強張った、気がした。

 そして、数秒後。
「……ありさっ……!」
 私の身体は、さっきよりも強い力で抱き締められていた。どきどきする心臓の鼓動が、私のものなのか建吾さんのものなのか、分からない。分からなくなるくらい、互いの身体を抱き締め合っている。
 くぐもった声が、身体が溶けてしまいそうな熱を伝えてきた。
「約束する。だから、ありさ」

 ――お前を愛させてくれ……

 熱と欲望が重なり合った声に、私は小さく頷いたのだった。
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