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私が選んだのは
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私はごくんと生唾を呑み込み、目の前の邸宅を見上げた。昭和初期に建てられたという館は、赤レンガと漆喰を組み合わせたモダンな造りをしていた。大きな屋敷の周囲は、ロートアイアンのフェンスに囲まれている。赤レンガの門柱に付けられた門扉もロートアイアンだ。残念ながら、優美な曲線を描く扉に感心する心の余裕は私にはなかった。
前に来たのは、結婚の報告の時。その時だって緊張していたけれど、今はもっと緊張してる。
強張った私の左の指先が、大きな手に包まれた。
「ありさ。大丈夫か?」
私は左斜め上を見上げた。いつになく緊張している顔付きの建吾さんが、私をじっと見つめている。指先から彼の体温が伝わって来る。私は少しだけ微笑んで見せた。
「緊張はしてますけど、大丈夫です」
眼鏡を掛けていない建吾さんの視線が、ふっと柔らかくなった。黒のスーツを着た彼は、いつもにも増して綺麗に見えて、こんな時なのに私の頬は熱くなった。
一方の私は、よそ行きワンピース姿。柔らかい紺色の生地は、肌触りもいい。首元はタートルネックで、前身ごろにはパールのボタンが並んでいる。ハイウェストの切り替えで、スカート部分はひざ丈だ。上品な印象のこのワンピースは、建吾さんが買ってくれた。アクセサリーは、パールのイヤリングに左薬指の結婚指輪と婚約指輪だけ。髪は毛先をカーラーで巻いて、ふわっと下ろすだけにした。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
インターフォンを押した後、門扉を開ける建吾さんに続いて、門の中に入る。玄関で出迎えてくれたお手伝いさんに案内されて廊下を歩いている間も、建吾さんは手をずっと握っていてくれた。
(……うん)
頑張ろう。艶のある木の扉の前で、私はすうと大きく息を吸い、そして吐いた。
「建吾様とありさ様がお見えです」
建吾さんの後を追うようにして開かれたドアをくぐり、以前案内された客間へと足を踏み入れる。
視線が一斉に私達を捉えた。その視線は――身に刺さる程に鋭い。
「よく来たな、建吾、ありささん。座ってくれ」
建一郎さんの出迎えにお辞儀をした建吾さんと私は、勧められたソファに腰を下ろしたのだった。
***
簡単に挨拶を済ませる間も、憎々し気な視線を浴びせられた私は、口元がぴくっと引き攣っていた。
(この人達が建吾さんのご両親……)
奥側から黒の羽織袴姿の建一郎さん、その右横に抹茶色の着物を着た志乃さんが座り、更にその右に建吾さん、私の順で座っていた。建一郎さんと志乃さんはそれぞれソファと同じ椅子に座り、私達は二人掛けのソファに座っている。
そしてその向かい側、建一郎さんの真正面に座っているのがお父さんの建一さん。黒のスーツ姿の彼の姿は、何十年か後の建吾さんかと思える程似ていた。眼光鋭い目付きも、きりっと引き締まった口元も似ている。
違うのは、髪が白髪混じりで、若干皺があるぐらいかもしれない。
そして、向かってその右隣が義母の百合子さん。白地に赤い牡丹の柄の着物を着た彼女もまた、若い頃はさぞかし華やかな美人だったのだろうと思わせる女性だった。綺麗にアップに巻いた茶色の髪には白髪もない。やや吊り目気味の瞳に不愉快そうに結ばれた唇が、私に対する感情を表している。
「へえ、君がありささんなんだ。可愛いね。建吾がこんな趣味だったとは知らなかったな」
そして百合子さんの隣に座っているのが、兄の建斗さん。黒髪の建吾さんとは違い、百合子さんと同じ茶色の髪をした彼は、飄々とした雰囲気の男性だった。顔付きは中性的な美青年だけど、どこか軽薄そうな感じがする。
――建斗さんの隣には、あの人が座っている。相変わらず、大輪の薔薇のように華やかな笑みを浮かべているけれど……目は全く笑っていない。私と建吾さんを射殺す勢いで睨んでいた。赤いワンピースを着ているけれど、前のように身体の線が露わになる形じゃない。ウェスト部分も締まってなくて、ふわりとしたラインだ。下腹部に右手を当てている彼女の仕草に、お腹が目立ってきたのかもしれないと思った。
「それで? その貧相な娘があなたの結婚相手ですって?」
尖った声を出したのは、百合子さんだった。建吾さんの周囲の空気がぴりと厳しくなったけれど、彼の口調は変わらなかった。
「ええ。すでにありさとは婚姻届けも提出し、共に暮らしています。仕事の関係上、式を挙げるのはまだ先になりそうですが」
そこで言葉を切った建吾さんが、私に視線を移した。愛おし気な笑みに、心臓が跳ねる。
「まあまあ、熱々なのねえ」
ほほほと志乃さんが私の顔を見て笑う。多分、私の頬は真っ赤に染まってるのだろう。私を睨む百合子さんの目がますます吊り上がった。
「どうかしら。財閥当主の座を狙うために、政略結婚したんじゃないの?」
茉莉花さんが、猫撫で声で言う。そんな茉莉花さんを見る建斗さんは、きらりと瞳を輝かせた。
(面白がってる?)
建吾さんとは財閥当主を巡るライバル……のはずだけど、彼からは何の気概も感じられない。必死になっているのは、百合子さんと茉莉花さんだ。
(それに……)
私は伏目がちに建一さんの方を見た。この人も、どこか他人事のような顔をしている。
「俺はありさと結婚したかったから、彼女を口説き落として結婚しました。それ以上でもそれ以下でもありませんよ」
建吾さんが淡々と答える。ぐっと百合子さんが唇を引き締めたところで、建一郎さんの声がした。
「これで建吾も当主になる資格を得た事になる。建斗と建吾、どちらを当主にするのかは、これからの二人の実績で決めればどうだ」
百合子さんの顔色がさっと変わった。きっと建吾さんを睨んだ後、建一郎さんに向かって口火を切る。
「建斗は菅山家の長男。れっきとした嫡子なんですよ!? どこの馬の骨とも知れない、妾の子とは違うんです!」
咄嗟に隣の建吾さんを見上げると、彼の横顔は動いていなかった。だけど、膝の上に置かれた手が硬く握り締められている。
私は左手を彼の右拳に重ねた。婚約指輪のダイヤがきらりと光る。少しだけ、建吾さんの手が緩んだ気がした。
「建吾は建斗と同じ、私達の孫だ。財閥の当主という重責を担うのに相応しいのはどちらか、実力で判断するのが筋だろう」
凛とした建一郎さんの声に、百合子さんがぎゅっと下唇を噛む。建吾さんと私を睨み付けるその眼には、あからさまな憎しみが宿っていた。
身体が震えそうになるけれど、左手に感じる彼の体温が私を冷静にしてくれる。
「実力ねえ。こりゃ大変だ」
腕を組み、おどけた調子で呟く建斗さん。私と目が合うと、バチンとウィンクをしてきた。このギスギスした場でこの態度、ある意味大物かもしれない。
ふっと逸らした視線の先に、建一さんがいた。冷静な彼の顔を見ていると、胸の奥が揺らぐ。
(何かしら……)
違和感。そう、違和感だ。それは……何も言わない、建一さんから感じる。
(お義父さんが今の当主で、お祖父さんが前当主のはず、なのよね?)
百合子さんが何を言っても、何も感じていないような顔をしている。建吾さんが表情を無くしている時と、とてもよく似た雰囲気だ。
(会社のためを思うなら、建吾さんが当主になった方がいいに決まってる。建斗さんが心を入れ替えて働くなら別だけど)
それは当主なら分かっているはずなのに……建吾さんを推すような発言は一切ない。かといって、建斗さんを持ち上げてるのかといえば、そういう訳でもない。
一体何を考えているのか。
(ゲームでは、建吾さんの家族の事ってほとんど出てきてなかったわよね……)
お母さんがお父さんのところに建吾さんを連れて行って。義母に虐げられて、女性不信になる。腹違いのお兄さんがいる――これぐらいの情報しかなかった。内情なんて公開されていない。
(それに)
茉莉花さんを窺うと、彼女の冷たく尖った瞳が私を見据えていた。財閥当主夫人の座は渡さない。そう言われている気がする。
むっとする気持ちを押さえ、私は何気ない素振りをしていた。
――財閥当主夫人になんて、なりたい訳じゃない。ただ、会社を思う建吾さんの手助けをしたいだけ。
建吾さんが当主になって……仕事が落ち着いたら……
(……離婚するんだもの)
私という妻はいずれいらなくなる。建吾さんだって、本当に好きになった人と……
『弁当ありがとう。美味かった』
そう言って、綺麗に食べ終わったお弁当箱を渡してくれた建吾さんの姿が目に浮かぶ。リビングのソファに座り、優しく微笑む彼も。
普段は鋭い目が優しい色を帯びて、引き締まった口元も緩んで。その笑顔を見る度に、心臓が痛くて。
『ありさ』
あんな風に、私以外の誰かを優しく呼ぶ時が来るの、よね……
「……っ……」
つきん、と胸の奥に痛みが走った。心の奥底で何かが蠢く。重ねていた手を引っ込めると、建吾さんが訝しげに私の方を見た。
「そうそう、ありささん。また良ければ一緒にお参りしてくれないかしら?」
明るい志乃さんの声に我に返る。
「えっ、は、はい」
一瞬何を言われているのか分からなかったけれど、すぐに前に行った神棚の事を思い出す。私が頷くと、「何ですって!?」と大きな声がした。
「どういう事ですの、お義母様!? お参りってまさか、神の間に!?」
真っ青な顔をした百合子さんが立ち上がっている。筋が立つほど握り締められた彼女の手が、わなわなと震えていた。
「ええ、そうよ。ありささんはあの間に入っても大丈夫だから」
志乃さんはにこにこと笑いながら答えている。私は訳が分からないまま、百合子さんと志乃さんの顔を交互に見た。
微笑んでいる志乃さんと対照的に、百合子さんの顔はどす黒く染まっている。
「っ、! 失礼しますわっ! 建斗、茉莉花さん、行きますよっ!」
きっと建吾さんを睨み付けた百合子さんは足早にソファを離れ、良家の妻とも思えない乱暴さでドアを開けて、応接間を出て行った。かったるいなあ、と言いつつ立ち上がり、百合子さんの後を追う建斗さん。その後ろを茉莉花さんが強張った顔をしたままついて行く。
向かいのソファに座っているのは、建一さん唯一人。こんな状況でも全く表情の変わらないこの人は、何を考えているのだろう。
「……おい、志乃。わざと煽ったな?」
苦々しい建一郎さんの声に、志乃さんがほほほと少女のように笑う。
「煽るだなんて。事実を言っただけよ? まあ、少しは牽制の意味もあったけれど」
「あの……?」
話が見えなくて首を傾げる私に、建吾さんが溜息交じりに小声で囁いた。
「あの間には――義母も義姉も、立ち入りを許されていないんだ」
「えっ?」
私が目を見張ると、建吾さんは志乃さんの方を見ながら話を続ける。
「あの間は菅山家の守り神を祀っている、という事は前に言っただろう。あそこで祭司立会いの下、当主になる儀式が行われる。実際には祝詞を上げて祈るだけなんだが、その儀式が終わらないと当主と認められない」
「……」
ただ鏡をお祀りしているだけかと思っていたら、重要な役目のある部屋だったのね。
「神の間の祭司は、代々菅山家の当主の妻が行うのが慣例となっている。……が、今の祭司は祖母のままなんだ」
(志乃さんが?)
建吾さんが唇を歪めた。
「祖母は『百合子さんには無理ね』と言って義母を認めなかった。だから彼女はあの間に入る事を許されていない。……あの女も同様だ」
(え……?)
百合子さんと茉莉花さんが入れない? あの部屋に?
「……なら、どうして」
私は入る事が許されたの……?
「言ったでしょう? ありささんなら大丈夫だと思ったからよ。あの場所は人を選ぶから」
「志乃さん」
志乃さんの笑顔は、出会った時と変わらない。優しくて、そして勇気づけられるような。
「志乃。お前、まさかまた視たのか?」
眉を顰める建一郎さんに、志乃さんは小さく笑うだけだった。
「――建吾」
何の感情も見せない声がした。建吾さんが斜め前に視線を移す。
「なんですか、お父さん」
建吾さんの声も何の感情も込められていない。顔付きが似ている二人が、冷たい表情のまま睨み合う様子に、胸の奥がきりと痛んだ。
「予定通り三ヶ月後、財閥の後継者を指名する。当主になる決意が本物であるなら、それまでに足元を固めておくのだな」
「心しておきます」
無表情のまま頷いた建一さんは、建一郎さんと志乃さんに会釈し、席を立った。ドアの前で立ち止まった彼は、ふと振り返って私を見た。その瞳の中に秘められた光に、ひゅっと息を呑む。
「建吾を選んだ事、後悔してはいないか?」
(えっ!?)
どきんと胸が痛くなる。選んだ事を後悔、って……
目の前にゲームでの結末がちらつく。すうっと血の気が引く音がした。
――トラックに跳ねられて、血塗れになって倒れている私の姿
――お腹を押さえて苦しんだ後、流産して抜け殻になった私の姿
――お兄ちゃんを刺した血塗れのナイフを、自分の喉に突き立てようとしている私の姿
そのどれもが、分岐した私の未来……だった
どくどくと心臓の鼓動が速くなる。僅かに唇を開いたけれど、何も言葉が出てこない。
(私……が)
選択した未来は……
「ありさ?」
心配そうな建吾さんの声に、ふっと身体のこわばりが溶けた。
(私が選択したのは、『今』)
私は真っ直ぐに建一さんを見返した。
「……後悔していません。私が自分で考えて選んだ道ですから」
そう。あの未来には……きっと、もうならない。私が選んだのは、ゲームの結末じゃないから。
「そう、か」
建一さんの口元が少しだけ綻んだ。その不器用な表情があまりに建吾さんに似ていて、頬が少し熱くなる。
「……いい女性を選んだようだな、建吾」
「ええ」
しれっと恥ずかしげもなく答える建吾さんに、ますます頬が熱くなる。建一さんは小さく会釈すると、何事もなかったかのように踵を返す。建吾さんに似た後ろ姿がドアの向こうに消えるのを、私は黙って見つめていた。
(さっき……)
一瞬だけ仮面のような表情が消えて、満足げに笑った?
ちらと隣を見上げたけれど、その笑みを見たはずの建吾さんの表情は何も変わっていなかった。
「……建一にも困ったものだ。昔はああではなかったのだが」
ふうと建一郎さんが溜息をついた。
「父さんの事はもういいでしょう。それより三ヶ月後に当主を決めるというのは本当ですか、お祖父様」
建吾さんの言葉に建一郎さんがふむと腕組みをする。
「建一が六十を迎えるタイミングで発表する、ということだ。当主が決まったとしても、引継ぎがあるからな、実際にその座に就くのは更に半年ぐらい先になるだろう」
(三ヶ月後に決まる)
今のままなら建吾さんに決まる、と思う。建斗さんからは、財閥当主となる覚悟も責任も感じられなかったから。でも――
建吾さんを睨みつけている百合子さんや、茉莉花さんの顔が目に浮かぶ。
(このまま、すんなりとは認めてくれなさそう、よね)
――二度と建吾の前に姿を現せないようにしてやるわ。今度こそ
あの時の声が、にやりと弧を描いた真っ赤な唇と共に心に蘇る。
「ありさ」
ぎゅっと拳を握り締めた私の右肩をぐいと引き寄せた建吾さんが言う。
「あの女が何か仕掛けて来たら、必ず俺に言ってくれ。一人で何とかしようとだけはするな」
温かくて大きな手。深みのある声。それを感じるだけで、不安な気持ちがすうと消えていく。
(守ろうとしてくれてるのね……)
「……はい」
私が小さくそう返事をすると、何故か建一郎さんが咳払いをして、志乃さんは「まあまあ」と口に手を当ててほほほと笑ったのだった。
前に来たのは、結婚の報告の時。その時だって緊張していたけれど、今はもっと緊張してる。
強張った私の左の指先が、大きな手に包まれた。
「ありさ。大丈夫か?」
私は左斜め上を見上げた。いつになく緊張している顔付きの建吾さんが、私をじっと見つめている。指先から彼の体温が伝わって来る。私は少しだけ微笑んで見せた。
「緊張はしてますけど、大丈夫です」
眼鏡を掛けていない建吾さんの視線が、ふっと柔らかくなった。黒のスーツを着た彼は、いつもにも増して綺麗に見えて、こんな時なのに私の頬は熱くなった。
一方の私は、よそ行きワンピース姿。柔らかい紺色の生地は、肌触りもいい。首元はタートルネックで、前身ごろにはパールのボタンが並んでいる。ハイウェストの切り替えで、スカート部分はひざ丈だ。上品な印象のこのワンピースは、建吾さんが買ってくれた。アクセサリーは、パールのイヤリングに左薬指の結婚指輪と婚約指輪だけ。髪は毛先をカーラーで巻いて、ふわっと下ろすだけにした。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
インターフォンを押した後、門扉を開ける建吾さんに続いて、門の中に入る。玄関で出迎えてくれたお手伝いさんに案内されて廊下を歩いている間も、建吾さんは手をずっと握っていてくれた。
(……うん)
頑張ろう。艶のある木の扉の前で、私はすうと大きく息を吸い、そして吐いた。
「建吾様とありさ様がお見えです」
建吾さんの後を追うようにして開かれたドアをくぐり、以前案内された客間へと足を踏み入れる。
視線が一斉に私達を捉えた。その視線は――身に刺さる程に鋭い。
「よく来たな、建吾、ありささん。座ってくれ」
建一郎さんの出迎えにお辞儀をした建吾さんと私は、勧められたソファに腰を下ろしたのだった。
***
簡単に挨拶を済ませる間も、憎々し気な視線を浴びせられた私は、口元がぴくっと引き攣っていた。
(この人達が建吾さんのご両親……)
奥側から黒の羽織袴姿の建一郎さん、その右横に抹茶色の着物を着た志乃さんが座り、更にその右に建吾さん、私の順で座っていた。建一郎さんと志乃さんはそれぞれソファと同じ椅子に座り、私達は二人掛けのソファに座っている。
そしてその向かい側、建一郎さんの真正面に座っているのがお父さんの建一さん。黒のスーツ姿の彼の姿は、何十年か後の建吾さんかと思える程似ていた。眼光鋭い目付きも、きりっと引き締まった口元も似ている。
違うのは、髪が白髪混じりで、若干皺があるぐらいかもしれない。
そして、向かってその右隣が義母の百合子さん。白地に赤い牡丹の柄の着物を着た彼女もまた、若い頃はさぞかし華やかな美人だったのだろうと思わせる女性だった。綺麗にアップに巻いた茶色の髪には白髪もない。やや吊り目気味の瞳に不愉快そうに結ばれた唇が、私に対する感情を表している。
「へえ、君がありささんなんだ。可愛いね。建吾がこんな趣味だったとは知らなかったな」
そして百合子さんの隣に座っているのが、兄の建斗さん。黒髪の建吾さんとは違い、百合子さんと同じ茶色の髪をした彼は、飄々とした雰囲気の男性だった。顔付きは中性的な美青年だけど、どこか軽薄そうな感じがする。
――建斗さんの隣には、あの人が座っている。相変わらず、大輪の薔薇のように華やかな笑みを浮かべているけれど……目は全く笑っていない。私と建吾さんを射殺す勢いで睨んでいた。赤いワンピースを着ているけれど、前のように身体の線が露わになる形じゃない。ウェスト部分も締まってなくて、ふわりとしたラインだ。下腹部に右手を当てている彼女の仕草に、お腹が目立ってきたのかもしれないと思った。
「それで? その貧相な娘があなたの結婚相手ですって?」
尖った声を出したのは、百合子さんだった。建吾さんの周囲の空気がぴりと厳しくなったけれど、彼の口調は変わらなかった。
「ええ。すでにありさとは婚姻届けも提出し、共に暮らしています。仕事の関係上、式を挙げるのはまだ先になりそうですが」
そこで言葉を切った建吾さんが、私に視線を移した。愛おし気な笑みに、心臓が跳ねる。
「まあまあ、熱々なのねえ」
ほほほと志乃さんが私の顔を見て笑う。多分、私の頬は真っ赤に染まってるのだろう。私を睨む百合子さんの目がますます吊り上がった。
「どうかしら。財閥当主の座を狙うために、政略結婚したんじゃないの?」
茉莉花さんが、猫撫で声で言う。そんな茉莉花さんを見る建斗さんは、きらりと瞳を輝かせた。
(面白がってる?)
建吾さんとは財閥当主を巡るライバル……のはずだけど、彼からは何の気概も感じられない。必死になっているのは、百合子さんと茉莉花さんだ。
(それに……)
私は伏目がちに建一さんの方を見た。この人も、どこか他人事のような顔をしている。
「俺はありさと結婚したかったから、彼女を口説き落として結婚しました。それ以上でもそれ以下でもありませんよ」
建吾さんが淡々と答える。ぐっと百合子さんが唇を引き締めたところで、建一郎さんの声がした。
「これで建吾も当主になる資格を得た事になる。建斗と建吾、どちらを当主にするのかは、これからの二人の実績で決めればどうだ」
百合子さんの顔色がさっと変わった。きっと建吾さんを睨んだ後、建一郎さんに向かって口火を切る。
「建斗は菅山家の長男。れっきとした嫡子なんですよ!? どこの馬の骨とも知れない、妾の子とは違うんです!」
咄嗟に隣の建吾さんを見上げると、彼の横顔は動いていなかった。だけど、膝の上に置かれた手が硬く握り締められている。
私は左手を彼の右拳に重ねた。婚約指輪のダイヤがきらりと光る。少しだけ、建吾さんの手が緩んだ気がした。
「建吾は建斗と同じ、私達の孫だ。財閥の当主という重責を担うのに相応しいのはどちらか、実力で判断するのが筋だろう」
凛とした建一郎さんの声に、百合子さんがぎゅっと下唇を噛む。建吾さんと私を睨み付けるその眼には、あからさまな憎しみが宿っていた。
身体が震えそうになるけれど、左手に感じる彼の体温が私を冷静にしてくれる。
「実力ねえ。こりゃ大変だ」
腕を組み、おどけた調子で呟く建斗さん。私と目が合うと、バチンとウィンクをしてきた。このギスギスした場でこの態度、ある意味大物かもしれない。
ふっと逸らした視線の先に、建一さんがいた。冷静な彼の顔を見ていると、胸の奥が揺らぐ。
(何かしら……)
違和感。そう、違和感だ。それは……何も言わない、建一さんから感じる。
(お義父さんが今の当主で、お祖父さんが前当主のはず、なのよね?)
百合子さんが何を言っても、何も感じていないような顔をしている。建吾さんが表情を無くしている時と、とてもよく似た雰囲気だ。
(会社のためを思うなら、建吾さんが当主になった方がいいに決まってる。建斗さんが心を入れ替えて働くなら別だけど)
それは当主なら分かっているはずなのに……建吾さんを推すような発言は一切ない。かといって、建斗さんを持ち上げてるのかといえば、そういう訳でもない。
一体何を考えているのか。
(ゲームでは、建吾さんの家族の事ってほとんど出てきてなかったわよね……)
お母さんがお父さんのところに建吾さんを連れて行って。義母に虐げられて、女性不信になる。腹違いのお兄さんがいる――これぐらいの情報しかなかった。内情なんて公開されていない。
(それに)
茉莉花さんを窺うと、彼女の冷たく尖った瞳が私を見据えていた。財閥当主夫人の座は渡さない。そう言われている気がする。
むっとする気持ちを押さえ、私は何気ない素振りをしていた。
――財閥当主夫人になんて、なりたい訳じゃない。ただ、会社を思う建吾さんの手助けをしたいだけ。
建吾さんが当主になって……仕事が落ち着いたら……
(……離婚するんだもの)
私という妻はいずれいらなくなる。建吾さんだって、本当に好きになった人と……
『弁当ありがとう。美味かった』
そう言って、綺麗に食べ終わったお弁当箱を渡してくれた建吾さんの姿が目に浮かぶ。リビングのソファに座り、優しく微笑む彼も。
普段は鋭い目が優しい色を帯びて、引き締まった口元も緩んで。その笑顔を見る度に、心臓が痛くて。
『ありさ』
あんな風に、私以外の誰かを優しく呼ぶ時が来るの、よね……
「……っ……」
つきん、と胸の奥に痛みが走った。心の奥底で何かが蠢く。重ねていた手を引っ込めると、建吾さんが訝しげに私の方を見た。
「そうそう、ありささん。また良ければ一緒にお参りしてくれないかしら?」
明るい志乃さんの声に我に返る。
「えっ、は、はい」
一瞬何を言われているのか分からなかったけれど、すぐに前に行った神棚の事を思い出す。私が頷くと、「何ですって!?」と大きな声がした。
「どういう事ですの、お義母様!? お参りってまさか、神の間に!?」
真っ青な顔をした百合子さんが立ち上がっている。筋が立つほど握り締められた彼女の手が、わなわなと震えていた。
「ええ、そうよ。ありささんはあの間に入っても大丈夫だから」
志乃さんはにこにこと笑いながら答えている。私は訳が分からないまま、百合子さんと志乃さんの顔を交互に見た。
微笑んでいる志乃さんと対照的に、百合子さんの顔はどす黒く染まっている。
「っ、! 失礼しますわっ! 建斗、茉莉花さん、行きますよっ!」
きっと建吾さんを睨み付けた百合子さんは足早にソファを離れ、良家の妻とも思えない乱暴さでドアを開けて、応接間を出て行った。かったるいなあ、と言いつつ立ち上がり、百合子さんの後を追う建斗さん。その後ろを茉莉花さんが強張った顔をしたままついて行く。
向かいのソファに座っているのは、建一さん唯一人。こんな状況でも全く表情の変わらないこの人は、何を考えているのだろう。
「……おい、志乃。わざと煽ったな?」
苦々しい建一郎さんの声に、志乃さんがほほほと少女のように笑う。
「煽るだなんて。事実を言っただけよ? まあ、少しは牽制の意味もあったけれど」
「あの……?」
話が見えなくて首を傾げる私に、建吾さんが溜息交じりに小声で囁いた。
「あの間には――義母も義姉も、立ち入りを許されていないんだ」
「えっ?」
私が目を見張ると、建吾さんは志乃さんの方を見ながら話を続ける。
「あの間は菅山家の守り神を祀っている、という事は前に言っただろう。あそこで祭司立会いの下、当主になる儀式が行われる。実際には祝詞を上げて祈るだけなんだが、その儀式が終わらないと当主と認められない」
「……」
ただ鏡をお祀りしているだけかと思っていたら、重要な役目のある部屋だったのね。
「神の間の祭司は、代々菅山家の当主の妻が行うのが慣例となっている。……が、今の祭司は祖母のままなんだ」
(志乃さんが?)
建吾さんが唇を歪めた。
「祖母は『百合子さんには無理ね』と言って義母を認めなかった。だから彼女はあの間に入る事を許されていない。……あの女も同様だ」
(え……?)
百合子さんと茉莉花さんが入れない? あの部屋に?
「……なら、どうして」
私は入る事が許されたの……?
「言ったでしょう? ありささんなら大丈夫だと思ったからよ。あの場所は人を選ぶから」
「志乃さん」
志乃さんの笑顔は、出会った時と変わらない。優しくて、そして勇気づけられるような。
「志乃。お前、まさかまた視たのか?」
眉を顰める建一郎さんに、志乃さんは小さく笑うだけだった。
「――建吾」
何の感情も見せない声がした。建吾さんが斜め前に視線を移す。
「なんですか、お父さん」
建吾さんの声も何の感情も込められていない。顔付きが似ている二人が、冷たい表情のまま睨み合う様子に、胸の奥がきりと痛んだ。
「予定通り三ヶ月後、財閥の後継者を指名する。当主になる決意が本物であるなら、それまでに足元を固めておくのだな」
「心しておきます」
無表情のまま頷いた建一さんは、建一郎さんと志乃さんに会釈し、席を立った。ドアの前で立ち止まった彼は、ふと振り返って私を見た。その瞳の中に秘められた光に、ひゅっと息を呑む。
「建吾を選んだ事、後悔してはいないか?」
(えっ!?)
どきんと胸が痛くなる。選んだ事を後悔、って……
目の前にゲームでの結末がちらつく。すうっと血の気が引く音がした。
――トラックに跳ねられて、血塗れになって倒れている私の姿
――お腹を押さえて苦しんだ後、流産して抜け殻になった私の姿
――お兄ちゃんを刺した血塗れのナイフを、自分の喉に突き立てようとしている私の姿
そのどれもが、分岐した私の未来……だった
どくどくと心臓の鼓動が速くなる。僅かに唇を開いたけれど、何も言葉が出てこない。
(私……が)
選択した未来は……
「ありさ?」
心配そうな建吾さんの声に、ふっと身体のこわばりが溶けた。
(私が選択したのは、『今』)
私は真っ直ぐに建一さんを見返した。
「……後悔していません。私が自分で考えて選んだ道ですから」
そう。あの未来には……きっと、もうならない。私が選んだのは、ゲームの結末じゃないから。
「そう、か」
建一さんの口元が少しだけ綻んだ。その不器用な表情があまりに建吾さんに似ていて、頬が少し熱くなる。
「……いい女性を選んだようだな、建吾」
「ええ」
しれっと恥ずかしげもなく答える建吾さんに、ますます頬が熱くなる。建一さんは小さく会釈すると、何事もなかったかのように踵を返す。建吾さんに似た後ろ姿がドアの向こうに消えるのを、私は黙って見つめていた。
(さっき……)
一瞬だけ仮面のような表情が消えて、満足げに笑った?
ちらと隣を見上げたけれど、その笑みを見たはずの建吾さんの表情は何も変わっていなかった。
「……建一にも困ったものだ。昔はああではなかったのだが」
ふうと建一郎さんが溜息をついた。
「父さんの事はもういいでしょう。それより三ヶ月後に当主を決めるというのは本当ですか、お祖父様」
建吾さんの言葉に建一郎さんがふむと腕組みをする。
「建一が六十を迎えるタイミングで発表する、ということだ。当主が決まったとしても、引継ぎがあるからな、実際にその座に就くのは更に半年ぐらい先になるだろう」
(三ヶ月後に決まる)
今のままなら建吾さんに決まる、と思う。建斗さんからは、財閥当主となる覚悟も責任も感じられなかったから。でも――
建吾さんを睨みつけている百合子さんや、茉莉花さんの顔が目に浮かぶ。
(このまま、すんなりとは認めてくれなさそう、よね)
――二度と建吾の前に姿を現せないようにしてやるわ。今度こそ
あの時の声が、にやりと弧を描いた真っ赤な唇と共に心に蘇る。
「ありさ」
ぎゅっと拳を握り締めた私の右肩をぐいと引き寄せた建吾さんが言う。
「あの女が何か仕掛けて来たら、必ず俺に言ってくれ。一人で何とかしようとだけはするな」
温かくて大きな手。深みのある声。それを感じるだけで、不安な気持ちがすうと消えていく。
(守ろうとしてくれてるのね……)
「……はい」
私が小さくそう返事をすると、何故か建一郎さんが咳払いをして、志乃さんは「まあまあ」と口に手を当ててほほほと笑ったのだった。
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