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卵焼きは塩味で

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 ――背中が温かい

「ん……?」
 ぼんやりと目を開けた私の耳元で、低い声が聞こえる。
「起きたのか?」
「え……」
 ぼうっとしている間に身体が反転した。訳も分からずされるがままになっていた私は、逞しい腕に閉じ込められて唇を奪われていた。
「んんんっ!?」
 ぺろりと私の下唇を舐めた建吾さんが、にっこりと笑っている――息が掛かる距離で。
「おはよう、ありさ」
「……おは……?」
 え、ちょっと待って。一体私は……
(え、え……)
 建吾さんは夕べ見たパジャマ姿。そして私も。そして、私達のいる場所は……同じベッドの、上……?

「えええええええええええーっ!?」

 思わず大声を上げて後ずさった私は、勢い余ってベッドから転がり落ちてしまったのだった。

***

 ダイニングテーブルの上には、薫り高いコーヒーにキツネ色に焼けたトーストにスクランブルエッグ、サラダにコンソメスープという、ホテル並みの朝食が並んでいる。もちろん、それを用意したのは私――ではなく。
「ううう……」
 恨みがましい視線を真正面に座る彼に向けると、にっこりと笑顔を浮かべたあげく、スルーされた。酷い。
「妻と一緒に寝ていただけだ。結婚したのだから、当たり前の権利だろ」
 それはそうですけど! だけど、政略結婚のはずでしょう!?
「ほら冷めるぞ」
「……いただきます……」
 トーストにスクランブルエッグを載せて、一口食べる。美味しい……と思うのだけれど、味がよく分からない。澄ました顔で食事をしている元凶の誰かさんの顔をじっと見つめる。
(こんな時まで綺麗な顔って、狡い……)
 ワイシャツにグレーのスラックスを穿いた建吾さんは、髪が少し乱れていて何とも色っぽい。第二ボタンが外れてて、喉元とかに視線が行ってしまう。眼鏡掛けてないけれど、家では外してるのかな。
 一方の私は長袖の薄いセーターにフレアスカートという、いつもの格好。色気なんて、ある訳もなく。
(差がありすぎる……)
 そう思いながら食べていたら、突然爆弾が落とされた。
「今日から一緒に出社するぞ」
「うぐ!?」
 思わず喉を詰めた私は、慌てて胸を叩く。
「なっ、何を言って」
 建吾さんはあくまで冷静な態度だ。
「夫婦なんだから当たり前だ。人事部にも届けを出すんだぞ。もっとも、お前は旧姓を呼称とするから、単なる恋人同士と思われるだけだ」
 そちらの方が恥ずかしい、と言えずに私は俯いた。会社では結婚後も旧姓を使う事を認められている。上司部下の関係で夫婦、というのはあまり推奨されない、という事で、私は社内的には『水城ありさ』のまま、当面結婚は大っぴらにしない――という事で同意していたと思ったのに。
(建吾さんと恋人同士になったって思われたら……)
 女性社員の嫉妬がコワイのですが。ぶるっと肌に震えが走る。
(結婚指輪は銀の鎖に通して、服の下に隠すし、バレないと思うけれど)
 キスシーンを見られてしまった高田くんや、情報通の杉本さんには知られちゃうかもしれないけど。二人以外には隠しておきたい。特に女性陣。

「とにかく一人になる時間を作るな。あの女が何をしてくるか分からない」
 建吾さんの言葉に、私ははっと顔を上げた。彼の眼差しに息が詰まる。
「帰宅時間は俺の方が遅くなるだろうから、今まで通り戸津さんに送ってもらう。今週末両親に結婚の報告をするが、当面はそうしてくれ」
「はい……」
(もしかして、一緒に暮らそうと言ってくれたのも……茉莉花さんの事があったから?)
 車に連れ込まれそうになった事を思い出し、ぞっとして二の腕を擦る。建吾さんと結婚したって知ったら、あの人は。

 ――二度と建吾の前に姿を現せないようにしてやるわ。今度こそ

 真っ赤なルージュが狡猾に嗤う。私はぐっと拳を握り締めた。
 確かにあの人は怖い。あの時だって、新人が来てくれなかったら、どんな酷い目に遭わされていたか。だけど……

 ――俺と結婚してくれないか。ありさの身の安全は俺が守る。二年後、ありさが望めば離婚してもらって構わない

 自分に頭を下げて結婚して欲しいと言った建吾さん。彼の誠意に応えたい。
(会社の事を考えてる彼を貶めるなんて、絶対に許せない)
 皆の生活を守る為に、会社の為に、建吾さんは財閥当主になろうとしている。ただ贅沢がしたいからという、お義兄さんや茉莉花さんとは違う。
(絶対に、負けるもんですか)

「建吾さん」
 建吾さんが私の目を見据える。私は真っ直ぐに彼を見て、言い切った。

「私は建吾さんに協力するって決めました。だから逃げたりしません」
 建吾さんの目がきらりと光った気がする。どきんと脈打った心臓を押さえて、私は少しだけ視線を下に向けた。
「でも、社内に噂が広がるような事は、やめて欲しいです……」
 たっぷり数分は黙り込んだ後、建吾さんは渋々……本当に渋々頷いたのだった。

***

「で? そんなに疲れてるってワケか?」
「うん……」
 迎えに来てくれたお兄ちゃんと新しい家(建吾さんのマンションだ)近くのスーパーに向かいながら、私はげんなりと肩を落としていた。
(皆に内緒っていうのも、気を遣うものなのね……)
 建吾さんはいつものように早めに出社して、私もいつも通りの時間に会社に向かった。この時間は通勤時間のピークだし、周囲に同じ会社の人も沢山歩いてる。こんな目立つところで何かすれば、それこそあちら側の不利になるはず。そう言ってこんこんと説得したのだ。……何とか分かってもらえたけれど。
(建吾さんって、過保護すぎない!?)
 部署でだって、いつものように挨拶して、いつものように仕事して……ってしようと思っていたのに。

『あ、水城さん!』
『高田くん』
 システム部にやって来た高田くんが、私の席近くに歩いて来た。にこにこ笑う彼を見てるだけで、何となく癒される。営業部の先輩達から可愛がられてるの、分かる気がした。
『えーっと、今日ランチどうですか? 新しい店、開拓したんですよ』
『え』
 思わずぱちくりと瞬きしてしまう。
(そう言えば、ランチ一緒に行こうって約束してたっけ)
 色んな事がありすぎて、忘れてた……ごめんなさい、高田くん。
『中華点心なんですけど、女性に人気の店らしくて、俺一人だと入りにくいんです』
『そう、なのね』
 照れたように頭を掻いている高田くん、可愛いなあ。男性に可愛いなんて言っちゃ、失礼かもしれないけど。
『今日はお弁当持って来てるから……また今度誘ってくれる?』
『は、はい! 約束しましたよ!』
 ぶんぶんと手を振ってシステム部から出て行く高田くんに、小さく手を振り返す。
『――水城』
 ひやり、と空気の温度が下がった気がした。声の方に顔を向けると、自席に座っている建吾さんが私をじっと見つめている。私は席を立ち、建吾さんの机の前に行った。
『何でしょうか、菅山さん』
 じろりと私を睨んだ建吾さんは、ダブルクリップで挟まれた書類の束を私に手渡した。
『最終チェック済みだ。ファイルに反映させて、所定のフォルダに格納しておいてくれ』
『はい、分かりました』
 いつもの『菅山さん』だ。私は軽く頭を下げて、自席へと戻る。書類の表紙をめくると、そこに黄色い付箋が張ってあった。

 ――高田との昼食は二人きりで行くな。三人以上にしろ……?

 そっと目を上げて建吾さんを見ると、彼は素知らぬ顔でパソコンのキーボードを叩いていた。
 私の事なんて、まるで気にしてませんって感じの表情だけど、これは逆らってはいけない……と思う。
(……坂東さんあたりに声を掛けて、何人か誘ってもらばいいよね)
 私はそっと溜息をついて、坂東さんあてのメールを書こうと心に決めた。


「そんな感じで……私のところに誰か来ると、一々チェックが入って」
 あれ、絶対システム部の人だって変に思ってると思う。建吾さんの私への構い方が今までと違うんだから。建吾さんのところに来た杉本さんまで、不審そうな目で私達を見ていた。
(お弁当もいるって言ってたし……)
 私はいつもお弁当なので、一応聞いてみたら、明日から作って欲しいと言われてしまい。人目のない所で食べるからってバレないだろうって。何だか――
「何だか……囲い込まれてる気がするの」 
「――ありさ、お前……」
 私の話を聞いたお兄ちゃんの、生温い視線がいたたまれない。並んで歩道を歩きながら、私はうううと頭を抱えた。
「今まで気付いてなかったのか……まあ、頑張れ」
 ぽんと肩を叩かれた私は、お兄ちゃんの深い同情?を感じ取った。はああと深い溜息をついた後、私はお兄ちゃんと一緒に大きなスーパーへと足を踏み入れた。

***

 無事に買い物を終えた私は、お兄ちゃんに送ってもらってマンションへ戻って来た。建吾さんは夕食はいらないと言ってたから、一人分だけそそくさと作って食べる。
 この広いダイニングで一人で食べるのって、何だか味気ない。片づけをして、シャワーを浴びて、リビングのソファに座ってぼうっとテレビを見ていたら、いつの間にか十一時になっていた。濡れた髪も、すっかり乾いてる。
「遅いなあ、建吾さん……」
 遅くなるから先に寝てていいって言われたけど、好き嫌いとかアレルギーとかないか、聞いておかないといけないし。スーパーの袋に入ったお弁当箱を見る。
『おい、それで足りるのか? 俺だったらこれくらい食うけどな』
『お兄ちゃん……それ大きすぎない……?』
 お兄ちゃんが選んだのは特大のお弁当箱。お重に近いかも知れない。いくらなんでも、と男性用の黒い二段重ね弁当箱にしたけれど、これで良かったのかなあ……
 ああ、それに私は卵焼きは塩派だけど、彼は甘い方が好きかもしれない。お肉の味付けも甘めがいいのか、辛めがいいのか。

 ――ガチャリ 

 そんな事を考えていたら、リビングのドアが開いて、グレースーツ姿の建吾さんが入って来た。私の方を見て、目を丸くしてる。
「ありさ? ……ただいま。まだ起きてたのか?」
「お、帰りなさい。ちょっと建吾さんに確認したい事があって」
「分かった。先にシャワー浴びさせてくれ」
 上着を脱いで、ネクタイを緩めながら建吾さんが寝室の方へと歩いて行く。私はどきどきする胸を押さえながら、建吾さんを待つ事にした。

 建吾さんがタオルで髪を拭きながらリビングに戻ってきたのは、ニ十分後の事。乱れた髪にブルーのストライプのパジャマ姿でも、モデルみたいに格好がいいってどういう事なのでしょうか。
「待たせたな。それで話って?」
 ぽすんと私の左隣に座った建吾さんに、私はおずおずと口を開いた。
「あ、のですね。……建吾さんって、卵焼きの味付けは塩ですか、砂糖ですか、お醤油ですか」
「……は?」
 ぽかんと口を開けた彼の表情は、会社では絶対見られないもので。とくんと小さく心臓が跳ねた。
「あと、アレルギーがないかも聞いておきたくて。好きな物とか嫌いな物とか」
「……」
「なるべくお肉系のおかず増やしますけど……それからこれも買ったので、これで足りるか見て下さい」
 袋から二段の黒いお弁当箱をローテーブルの上に置いた。建吾さんは黙ったまま、お弁当箱をじっと見ている。
「ご飯多めがいいですか? それともおかずを増やしますか?」
「……ありさ」 
 建吾さんの口端がふっと上がった。優しい眼差しに、私の言葉が止まる。
「……卵焼きは塩がいい。味付けは薄味が好みだ。特に食物アレルギーはないが、貝類は苦手だ」
「貝?」
 私が聞き返すと、建吾さんが少しだけ視線を下にずらした。
「貝だしは好きなんだが、あのふにっとした食感がどうも……」
 ばつの悪そうな表情を浮かべてる建吾さんを見ているうちに、ふふふと笑いが込み上げてくる。
「分かりました。量はこれで大丈夫ですか? お兄ちゃんはもっと大きくてもいいって言ってたんですけど、彼本人が大食いですから」
「ああ、これくらいで十分だ」
 よかった。ほっと一安心した。
「じゃあ、明日から作りますね。おかずは私と同じになっちゃいますけど」
「ああ」
「!?」
 ことんと建吾さんの頭が、私の右肩に乗る。そのまま彼の腕が私の背中に回された。
「ありがとう、ありさ」
「け、んごさん!?」
 シトラス系の香りがする。パジャマ越しに感じる彼の体温が熱い。

「俺を見てくれたんだろ? 今ここにいる俺を」
(え……?)
 建吾さんの声がくぐもって聞こえる。私は何の事か分からなくて、ただじっとしていた。
 やがて建吾さんが頭を上げ、間近で私の目を見据えた。

「いつもありさは……俺でない誰かを見ていた」
「っ!」
 びくっと肩が揺れる。思わず身を引こうとしたけれど、彼の腕がそれを許してくれなかった。 
「だが今、俺の好みを聞いてくれただろう。俺の事を知ろうとしてくれた。それが嬉しい」
「……!」
 頬に熱が集まってくる。まなじりを下げて頬を緩めた建吾さんの笑顔がとても嬉しそうで、胸が痛い。

(私……)
 建吾さんのプライベートな事、ほとんど知らない。食べ物の好みだって、好きな色も、音楽も、スポーツも、趣味も。何一つ。

 ――ゲームでの知識はある。『建吾さんというキャラクター』がどんなのだったかは覚えてる。だけど、『ここにいる建吾さん本人』の事は知らなかったのだ。
(私が今まで見てたのは、『ゲームの建吾さん』なんだ)
 本当の……ここにいる目の前の『建吾さん』を見てなかった。そして建吾さんは、その事に気が付いてた……?
 広い胸にぎゅっと抱き締められる。パジャマ越しに感じるのは、規則正しい彼の心臓の鼓動。私の心臓が……どきどきしてるの、伝わってる?
「ありさは? 俺はありさの好きな物を知りたい」
「建吾さん……」
 耳元で囁かれる優しい声にじわりと目頭が熱くなった。顔を見れなくて、胸元に顔を埋めたまま、ぽつりぽつりと話す。

 私が好きな物。食べ物の好き嫌いはないけれど、あまり脂っこいものは苦手。煮込み料理が好き。趣味は……読書とお菓子作り。スイーツの食べ歩きも好き。
 音楽を聴くのも好き。運動は苦手だけど、ぶらぶらと歩くのは好き。
 動物も好きだけど、一人暮らしだから飼えなかった。
 色は淡い色が好き。

 そんな些細な事を取り留めもなく話した。建吾さんの好きな物も知りたいって言ったら、彼も含み笑いをしながら話してくれた。

 おばあ様に育てられたから、味付けは和風が好きで。休日はドライブしたり、読書をしたり。運動不足解消のためにジムに通ってて、筋トレしてるって。
 ブルー系の色が好きで。お酒は強いけれど、ガンガン飲んだりせず、雰囲気を楽しむタイプなのだそう。行きつけのバーもあるって。

 落ち着いた声を聞いていたら、何だか眠くなってきた。建吾さんの腕の中は温かくて、居心地がいい。ふわあと欠伸をすると、建吾さんがくすっと笑った。
「もう寝た方がいい。十二時過ぎたぞ」
「は、い……んんっ!?」
 ちゅ、とリップ音を立てて、建吾さんの唇が私の唇に重なっていた。柔らかくて熱い感触に、かっと身体が燃え上がる。間近に迫る彼の瞳が妖しく輝く。
「明日弁当楽しみにしてる。……一緒に寝るか?」
「!?」
 どくっと胸が圧迫された。にやりと意地悪く笑う建吾さん。「えええ遠慮しますっ! お休みなさいっ」と叫んだ私は、笑い声を漏らしている彼から離れ、大慌てで自分の寝室へと駆け込んだのだった。
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