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俺の大事な

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「はあ!? 結婚する!? 菅山さんと!?」
「お兄ちゃん、声が大きいって!」
 私は慌ててお兄ちゃんの声を遮り、きょろきょろと辺りを見回した。ここはまだ会社の近くの路上だから、誰かに聞かれる可能性も高い。

 ――建吾さんの家に住むなら、お兄ちゃんの送り迎えを断らないと
 そう思って、迎えに来てくれたお兄ちゃんに『今までありがとう。もう送ってもらわなくていいから』と言ったら、彼は訝し気に眉を顰めた。

『何故だ? また危ない目に遭ったらどうする』
『その……家を引っ越すの』
『え? まだ引っ越してきたばかりじゃないか。一体どこに』
『う……その、菅山さんの、ところに』
『は!? 菅山さんのところって、どうして』
『その……』
 ……そこから問い詰められて、どうにも誤魔化しきれなくなって、冒頭に至る。

「……どういう事だ」
 お兄ちゃんが私を睨みながら抑えた声で言う。つんつんと立った短い髪が、何だか怒ってるように見える。
「帰りながら話すわ」
 私は少しでも会社から遠ざかろうと、早足で歩き始めようとした。
「待て」
 ぐっと左の二の腕を大きな手に掴まれた。振り向くと、目を吊り上げたお兄ちゃんが、ぐっと口元を引き締めている。

「そこで話せ」
「おにっ……!?」
 ずるずると引き摺られるように、いつもの通りから一本細い路地に入る。表通りとは違って、あまり人の行き来がない道を少し歩くと、ビルの谷間にある駐車場に辿り着いた。  
 そこに入ったお兄ちゃんが、私を見下ろして言った。
「……で?」
 黒のトレンチコートが悪魔の衣装に見える。大柄な身体を屈めて私にぐっと迫ってきた。
 口元は辛うじて微笑んでる体だけど、全く笑っていないお兄ちゃんの目が怖い……っ!

 ――全部、吐け

 そう心の声で言われた私は、つっかえながらも正直に話してしまったのだった。

 ***

「だから、私も納得して」
「お前の気持ちは聞いてない」
 私から事情を聴いたお兄ちゃんは一言、『菅山さんを呼べ』としか言わなかった。連絡してみると、ちょうど仕事は一段落していたようで、『すぐ向かう』と言ってくれた。

 そんなこんなで、私とお兄ちゃんは私の家近くにある小さな公園で彼を待っていた。もう日が暮れて、街灯が灯っている公園は当然人気がない。
 砂場近くのベンチに並んで座ってるけど、腕組してるお兄ちゃんの顔は険しい。小学生の頃、私をいじめた男の子達に怒ってる時も、こんな顔だった。その隣で、身を縮こまらせて座っている私。

「あ」
 公園の入り口に背の高い人影が見えた。長い影がベンチに向かって伸びてくる。無表情の建吾さんも黒いトレンチコートを着ているから、こちらもある意味悪魔に見える、かもしれない。
「建吾、さん」
 お兄ちゃんがすくっと立ち上がった。私も慌ててベンチから腰を浮かした。私とお兄ちゃんの前まで歩いてきた建吾さんは、お兄ちゃんに向かって頭を下げた。
「……お待たせしました」
「菅山さん」
 お兄ちゃんは眉間に皺を寄せたまま、話しだした。

「ありさと政略結婚するっていうのは本当ですか」
 建吾さんの表情は動かなかった。淡々とした声でお兄ちゃんに答える声がする。
「ええ。事情を話してありさに協力してもらいました」
「っ!」
「お兄ちゃんっ!?」
 お兄ちゃんが両手を伸ばして、建吾さんのコートの襟元をぐっと掴んだ。建吾さんは動かない。同じぐらいの身長の二人が、顔を付き合わせてる。

「……どういうつもりだ。なんでありさを巻き込んだ。あんた、他の女とも会ってただろう」
 お兄ちゃんの声色が変わった。少しだけ口元を歪めた建吾さんが、感情の見えない声で言う。
「巻き込みたくはなかった。だが、彼女以外に信頼できる相手がいませんでした」
 ぎりとお兄ちゃんが歯を食いしばる音が聞こえた。建吾さんを掴む手に筋が立ってる。 
「お兄ちゃん、私っ」
「ありさは黙ってろ!」
 お兄ちゃんの右腕に触れようと伸ばした手が、びくっと震えた。
 こんなに怒ってるお兄ちゃんを見た事がない。 

「……ありさは人一倍心の優しいやつなんだ。辛い事や悲しい事があっても、それを一人で呑み込んで、微笑みを浮かべるような」
 お兄ちゃんの声から、抑えきれない怒りが伝わってくる。 
「そんなありさを、政略結婚なんて冷たい関係に縛り付けるなんて、何考えてる! ありさは!」
 お兄ちゃんの瞳を見た私は息を呑んだ。激しい感情が溢れてて、その想いが伝わってくる。

「こいつを心から愛してる男と! こいつが心から愛してる男と! 幸せになるべきなんだ! それを!」

 首を絞める手に力が入ったのか、ぐっと建吾さんが息を詰めた。お兄ちゃんが吐き捨てるように叫ぶ。

「ありさの幸せを二年も奪うだと!? 平気なのか、あんたはっ!」 
「……く、っ……!」
(お兄ちゃん……!?)

(建吾さん、抵抗してない!?)
 襟を掴んだはずみに、首を絞められた格好になってるのに、全く動いてない。お兄ちゃんにされるがままになってる。

「もう止めてっ!」
 両手でお兄ちゃんの右腕にしがみ付く。お兄ちゃんがギラギラした目で私を見下ろしてる。
「ありさ、こいつは!」
 私は必死に力が入った硬い腕を引っ張った。でも、お兄ちゃんはびくともしない。
「分かってる! 建吾さんは全部話してくれたから! その上で私が決めたの!」
「お前のお人好しのところに付け込んだだけだろうが! こいつは、お前が思ってるよりも計算してるっ!」
 口元を歪め苦しそうな表情を浮かべる建吾さんを見ていられない。

「それでも!」
 お兄ちゃんに向かって、思い切り叫んだ。

「それでも力になりたいって、そう思ったの……っ!」

「っ」
 ちっと舌打ちする音が聞こえた。お兄ちゃんの手が、建吾さんの喉元から離れる。
 げほげほっと建吾さんがむせてる。彼の二の腕に手を当てて、俯き気味の顔を覗き込んだ。
「建吾さん、大丈夫?」
「……ああ」
 額に冷や汗かいてる。右手の甲で汗を拭った建吾さんは、真っ直ぐにお兄ちゃんを見据えた。お兄ちゃんの眼光の鋭さは全く変わっていない。

 しばらく二人で睨み合った後、お兄ちゃんがゆっくりと口を開いた。

「……ありさは」
 お兄ちゃんの声も掠れている。
「俺の大事な……」

 ほんの少しだけ、言葉が止まった。 

「……幼馴染で、妹分だ。こいつを不幸にするなら、許さない」

 お兄ちゃんの顔も苦しそうに歪んでる。健吾さんは、そんなお兄ちゃんを見て「分かっています」と頷いた。
「ありさを守ると約束しました――みすずさんとも。守れなかったら、別れさせると言われました」
 お兄ちゃんの目が大きく見開かれた。
「みすずがそんな事を……?」
「ええ」
 健吾さんが同意すると、お兄ちゃんは苦々しい表情を浮かべて、短い髪をぐしゃっと掻いた。 
「あいつがそう言ったって事は、あんたの事認めたんだな」
(お兄ちゃん?)

 じっと建吾さんを見据えていたお兄ちゃんが、やがて深い溜息をついて私の方を向いた。
「で? 今度からどこに送ればいいんだ?」
「え?」
 私が目を丸くすると、お兄ちゃんが噛んで含めるように言った。 
「お前が危険な目に遭った事には変わりないし、菅山さん・・・・がお前より帰宅時間が遅いのも変わらないだろうが。だったら、送り先がお前のマンションから菅山さんの家に変わるだけだ」
「お兄ちゃん……!」
(分かってくれた。分かってくれたんだ……!)
 胸に熱いものが込み上げてきた。昔もガキ大将から守ってくれたお兄ちゃん。今も私の事、守ってくれようとした。全然そういうところ、変わってないんだ。  

「ありがとう、お兄ちゃんっ!」
 思わず小さい頃みたいに、お兄ちゃんの幅広い胸板に抱き付いた。
「うおっ、ありさっ!?」
 いきなりぶつかっていった私を、大きな手が支えてくれる。 
「分かってくれて嬉しい。ありがとう!」
 お兄ちゃんは、そう言って笑う私の頭を「あーもうー」と言いながら、ぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。
「ほらもう離れろ、ありさ。小学生の時とは違うんだぞ」
 両手で肩を掴まれた私は、お兄ちゃんの身体から離された。

「あ」
 我に返ると……何だか物凄く恥ずかしくなってきた。私、お兄ちゃんに抱き付いてたよね……!?
「ごごご、ごめんなさいっ! ついくせで」
 はははと苦笑するお兄ちゃんは、もういつもの朗らかなお兄ちゃんに戻っていた。
「ま、役得って事にしておいてやるよ。なあ、菅山さん?」
(え?)
 にやにや笑うお兄ちゃんは、私の後ろの方を見ていた。そちらに視線を向けると――
(うっ……!)
 すっと目を細めて私を見下ろす建吾さんの姿があった。何だか能面のような顔をされてますけどっ……!?
(怖い。怖すぎるっ……!)
 さっきまでのお兄ちゃんとは違う怖さが私に迫ってくる。
「あ」
 固まったまま突っ立ってた身体が後ろに引っ張られた。お兄ちゃんの手が肩から離れ、代わりに背中が温かいものに包まれた。
「けけけ、建吾さんっ!?」
 建吾さんの腕が、後ろから前に回されてる。後ろからぎゅっと抱き締められて、動けない。
「……ありさを守ってくれている事には感謝しています。送り迎えの件も。……ですが」
 抑揚のない声が不気味な雰囲気を醸し出していた。

「ありさには手を出さないでいただきたい」
「俺から出した訳じゃないだろ? ……ったく」
 にやり笑いを通り越して、からからとお兄ちゃんが大声で笑った。

「そういう余裕のない顔も出来るんだな、あんたは。ちょっと安心した」
「ライバルが多くてね、困っているんですよ」
「だろうなあ。恋愛には疎いし、ある意味鈍感だし……まあ、それは俺とみすずのせいでもあるんだがな」
「へえ……」

(え、あの)
 ……私の頭越しに、会話が進んでいく。しかも一見平和そうで、実は不協和音を鳴らしているみたいな、変な感じが。

「なあ、ありさ」
 お兄ちゃんが建吾さんの腕に囚われている?私に視線を向けた。ふざけた表情は消え失せ、真面目な顔をしている。
 その瞳に宿る何かに、どくんと心臓が鳴った。

「お前は辛い事があっても、すぐ我慢するだろ。いいか、何かあったら絶対に隠すな。すぐに言え。逃げたかったら、俺が絶対に逃がしてやるから」
「お兄ちゃん……」

 私を想ってくれる気持ちが伝わって来た。いつだって頼りがいがあって、優しくて。
(そうだ、こういう人だったよね)
 目頭が熱くなる。それを隠して、私は微笑んだ。
「……ありがとう。小さい頃、いじめっ子から庇ってくれたお兄ちゃんの事、ヒーローだと思ってた。今だってそうだよ」
「ヒーローか……サンキュ」
 照れ笑いを浮かべるお兄ちゃんは、あの頃の――中学生の制服を着た少年のようにも見えて。

「ヒーロー、ねえ」
 ……そう耳元で囁いた建吾さんの声に、背筋が寒くなったのは内緒にする事にした。
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