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side 菅山 茉莉花
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――なに、この地味な女
忌々しい程愛おしい男の後ろで立ちすくむ女の姿を、私はゆっくりと見回した。
ストレートの黒髪にほぼ化粧っ気のない顔。ジーンズにジャケットという、これまたごく普通の服装。煌びやかさの欠片もない、平凡な女。
――なのに
何故か、その女の持つ雰囲気に――私は苛立ちを覚えたのだった。
***
今から半年前の事だ。シャンデリアが輝く大広間での煌びやかなパーティー。一流ホテルで開催されたその会には、正装した男女が参加し、あちらこちらで歓談している。その中で、私の目の前に立つ黒の礼服を着た男は、愛想笑いの一つも見せなかった。
「いい加減にしろ。俺はお前に興味などない」
そう言い捨てて私の手を払いのけた男は、その冷たい表情をぴくりとも動かさない。
頭脳明晰、容姿端麗。婚外子とはいえ、財閥の御曹司。何人もの女に言い寄られても、決して陥落しない男。
今まで私から声を掛けた男で、私の前に跪かなかった男などいない。皆、私の身体に溺れて、いいなりになった。
だから、真っ赤なドレスに身を包み、今度はこの男と狙いを定めて声を掛けたのだ。
なのに、どうしてこの男は、私をこんな無機質な目で睨むのかしら
「あら、女に興味がないという噂は本当だったのかしら?」
そう言って嗤ってやると、男は目をすっと細めた。その冷淡な顔を見た時――背筋がぞくりとした。
「お前に興味がないだけだ。勘違いするな」
踵を返して立ち去る男の後ろ姿を見ながら、私は久しぶりに現れた極上の獲物に心躍る想いがした。
あの冷徹な表情を崩してやったら、どんなに素敵かしら。あの均整の取れた美しい身体をぐちゃぐちゃにしてやったら、どれほど心が沸き立つかしら。
「ふっ……ふふふ……」
ぺろりと舌なめずりをした私は、あの男の情報を得るために――こちらを見て惚けている男の元へと歩いて行ったのだった。
――菅山 建吾。伊織コーポレーションの会長の孫で、社長の愛人の子。幼い頃父親に引き取られたが、正妻の虐めに遭い、祖父母の家で育てられた。
社交界でも有名な美形である父親そっくりの顔に、財閥当主としての才能を祖父から受け継いだ彼は、誰がどう見ても正妻の子である腹違いの兄より、次期当主に相応しい男だった。
そう、ただ一点を除いては。
「結婚している事が条件なんて、今時古臭い決まりよね」
「そうだろ? だから母が煩いんだよ。建吾よりも先に結婚しろって」
あの男の兄である建斗は、顔はそこそこ美形だが怖ろしく口が軽い。別件のパーティーで声を掛け、その二ヶ月後には寝る関係になっていた。そしてピロートークであっさりとあの男の弱点を明かしたのだ。
――結婚していなければ、当主の座に就く事は出来ない。あの女嫌いに、そんな相手はいない。
「ねえ、建斗さん? 私……」
あの男よりは薄いであろう胸板に、指を這わせると、それを見る男の目に熱が籠った。
「子どもが出来たみたいなの……」
「えっ!?」
がばりと男が身を起こす。そうして私の身体をぎゅっと抱き締めた。
「本当かい、茉莉花!? 本当に俺の子どもが!?」
「……ええ、間違いないと思うわ」
一番妊娠しやすい時期を見計らって、この男に催淫剤を飲ませ、そうしてベッドへと誘惑したのだから。二日間存分に私を堪能した男は、もうすっかり私に骨抜きとなっていた。
「すぐに結婚しよう。茉莉花が僕の花嫁になってくれるなんて、夢みたいだ」
「ええ、嬉しいわ建斗さん」
ええ、とても嬉しいわ。私の言いなりになる素敵な犬を手に入れたのだから。私が一言言えば、宝石でもドレスでも車でも、何でも買ってくれるあなた。
そしてあの男も、あなたには手出しが出来ない。だって、正妻の子であるあなたの方が、立場は上なんですもの。
(いずれ全て壊してやるわ……あの男の大切な物、全てを)
無表情な顔を思い浮かべながら、私は一番美しい笑顔で建斗に応えた。私の柔肌に顔を埋める彼の髪を撫でながら、私は次の一手を考えていたのだった。
***
妊娠中という事もあり、建斗との結婚式は身内のみで早々に執り行われた。
義姉となった私に、あの男は冷たい瞳で応じるだけだった。こちらが話し掛けても、必要最低限の言葉しか口にしない。
少しでも隙を見せれば、『建吾が私に手を出した』と建斗に泣き付こうと思っていたのに、全く彼が私に近寄らない状態ではそれも難しい。
建斗の母親は、『とにかく結婚さえしてくれれば』と思っていたらしく、私にはよい子を産んでくれ以外の事は口にしない。父親の方は我関せずといった風で、こちらもまた口出しはしてこない。
鬱陶しいのは、彼の祖父だ。現会長である祖父は、建斗にも厳しい態度をとっている。
『そんな事では、お前に当主を任せる訳にはいかん』
『あなたも無駄遣いばかりせず、当主夫人としての品格を身に付けねばならんだろう。さもなくば、お前たち夫婦の事を認められん』
口煩いったらありはしない。こちらが媚びを売っても機嫌を直さない所は、建斗よりも建吾の方に似ている。
この煩い男が彼の育ての親だというのも、頷ける話だ。
――この爺が主導権を握っている限り、建斗が当主の座に就く事はない。すぐに死にそうにない爺は邪魔だが、こちらから手を出せる相手ではない。
(……なら)
最もあの男を憎んでいるあの女を焚き付ければいい。
それは至極簡単な事だ。
「ねえ、お義母様? ご相談した事がありますの……建吾さんの事で」
その一言で、あの女の表情が変わった。般若のような顔をした義母に、私は『建吾さんが実権を握ったら、建斗さんもこの子も追い払われてしまいます……』と涙ながらに訴えた。
――一年後、後継者を発表する
そう、建斗の父が宣言したのは、それから間もなくの事。定年前に後継者を決めたいという現社長の意向に、あの爺も口を挟めなかった。
(さぞ焦っている事でしょうね)
現時点で、あの男に恋人はいない。爺が色々と女を紹介しているらしいが、悉く蹴っていると聞いた。
後は彼の周辺を見張り、近付いてきた女を排除すればいい。そして私が後継者を産めば完璧だ。
(これで当主の座は建斗のもの――)
あの男から全てを取り上げ、追放してやってもいいわね。建斗だって彼の事は忌まわしく思っているようだから。もっとも私に跪くなら考え直してやってもいいけれど。
「ふふっ」
「どうした、茉莉花? えらく楽しそうだね」
「ええ、とっても。この子の事を想うと楽しいわ」
(そうだわ、仕事の関係で地方に飛んだと聞いたわね。様子を見に行ってみようかしら)
嫌がる顔を見に行っただけだったのだが……そこであの男と一緒にいる女を見掛けた。
何も分かっていないようなその女に話し掛けた途端――男の態度が変わる。
『俺を本気で怒らせる前に、とっとと消えろ』
初めてだった。あの男がこんな声を出すところを見るのは。いつだって冷静で、声を荒げた事さえなかったのに。
彼との間の空気がびりびり震える。本気で怒りを抑えているのだ。この男にこんな感情があっただなんて。
(……庇っている?)
いたって平凡そのものの女。その彼女を私から隠すように立つ男。嫌な予感がする。
(この女……やっかいな存在になるかも知れない)
驚いた顔で立ち尽くす女の顔を覚えた後、私は踵を返し車へと戻ったのだった。
***
「この女よ」
夜の仕事をしていた時の特技。人の特徴を捉えて、似顔絵を描いていた事が役に立った。金で仕事をする男達に似顔絵を渡し、特徴を伝えた。
「どちらかといえば小柄。地味な感じの女だったわ」
似顔絵を見た男は、目を細めた。
「……それで? この女どうしろと?」
「そうねえ……裸の写真撮って脅してもいいし、いっそ犯して孕ませてもいいわね」
二度とあの男の前に姿を現さないように。
「俺達も捕まるのはごめんだからな。適当に遊ばせてもらうぐらいにしておくぜ」
「任せるわ」
あの女を見掛けた場所を男達に告げ、周辺を洗い出すよう指示をする。
そうして男達からの連絡を待っていた私を訪ねてきたのは、建斗の祖父母夫婦だった。
リビングのソファに座る祖父母に、私はゆったりと挨拶をした。向かい合うソファに腰を下ろし、家政婦が淹れてくれた紅茶を二人にも勧める。
「茉莉花さんもお元気そうでなによりね」
「ええ、ありがとうございます、お祖母さま」
おっとりと微笑む老女からは何の悪意も感じられない。その左に座るしかめっ面の老人からは不機嫌そうな気配が漂っているが。
上品な萌黄色の着物を着た祖母は、いかにも上流階級の女性らしい仕草で紅茶を飲む。
その手付きに苛々させられる。きっとこの婆は苦労など知らない人生だったに違いない。
そんな嫌悪感をおくびにも出さず、彼女と他愛ない話をする。身体の調子はどうだ、何か困っている事はないか、そんなありきたりの質問ばかり。
「建斗とはうまくやっていけそうかしら?」
そう心配そうに聞く彼女に、私はにこやかに応じた。
「ええ、建斗さんはとてもお優しくて。今も私の体調を第一に考えていてくれますわ」
私の言う事なら、何でも聞いてくれる建斗。男としては物足りないが、犬を飼っていると思えば可愛いものだ。
「……ねえ、茉莉花さん」
すっと彼女の目が真剣な色を帯びた。皺のある手を膝に重ねた婆はゆっくりと言葉を継いだ。
「私にとっては、建斗も建吾も可愛い孫なの。二人共幸せになって欲しいと願っているわ」
「そうでしょうね」
「だから、ね?」
微笑む皺だらけの顔に、息を呑んだ。
「……あなたは建斗の事だけを考えて頂戴?」
責めている訳でも、牽制している訳でもない。なのに
――この笑顔に底知れない恐怖を感じるのは、何故だろう
「あ、あら、当たり前ですわ。私は建斗さんの妻ですから」
取り繕った声を出した私に、彼女はゆったりと微笑み返した。
「そうね、そうして頂戴」
――隣に座る爺よりも、この婆の方が強敵なのかもしれない
冷や汗をかきながら、私はぐっとカップを持つ手に力を入れた。
そして、二人が立ち去った後。あの男から失敗した、との連絡がスマホに入っていた事に気が付いた。
折り返し連絡すると、どうやら他の男が現場に居合わせ、殴り合いの喧嘩になったらしい。そうこうしているうちに、建吾が駆け付けたため、止む無くその場を引いた、と。
男達には約束していた報酬の半額を支払う事にした。顔を見られたあいつらは、もう使えない。
ちっと舌打ちをした後、親指の爪を強く噛む。
居合わせた男の事も建吾は知っているようだった、と男は言っていた。そしてその男と女はかなり親しい関係そうだ、とも。
ああ、苛々する。
あの女の泣き叫ぶ顔が見たかったのに。二度と建吾に近寄れなくしてやるつもりだったのに。
建吾にも別の男にも庇われている女。
あんな平凡そうな女のどこが――
そこまで考えた私はひゅっと息を呑んだ。
あの女に感じた嫌な予感。平凡なのに、どこか意志の強そうなあの表情は。
――婆によく似てる
そうだ、さっき私に会いに来た、あの婆によく似ているのだ。雰囲気や表情が。
建吾が唯一心を許している女。それがあの婆だ。彼女の前でしか、あの男は微笑まない。
(だから……)
だから、建吾はあの女の事を庇ったの……?
身体が冷えていく。もし建吾があの女に惹かれたら、どうなる?
建吾が結婚すれば、間違いなく当主の座に就く。そうなったら、私も建斗も今の生活は出来なくなるだろう。追い出されるかもしれない。
――それに
あの冷たく美しい男が、他の女のモノになる……?
ぎりと噛んだ爪が切れた。
あの女は――まずい。
建吾の傍から排除しなければ。
だけど、こんな事件があった後では、建吾に警戒される恐れがある。同じ手はもう使えない。
(もう一人の男の事も調べてみる必要があるわね)
その男とあの女が親しいのなら、ちょうどいい。プライドの高い建吾なら、あの女が別の男のモノになれば見向きもしなくなるだろう。
(そちらも焚き付けておけば)
情報を集めなければ。私はそういった依頼を受けるところに連絡をした。
(建吾は渡さないわ)
強張った顔で私を見ていたあの女の顔を、私は心の中で引き裂いてやったのだった。
忌々しい程愛おしい男の後ろで立ちすくむ女の姿を、私はゆっくりと見回した。
ストレートの黒髪にほぼ化粧っ気のない顔。ジーンズにジャケットという、これまたごく普通の服装。煌びやかさの欠片もない、平凡な女。
――なのに
何故か、その女の持つ雰囲気に――私は苛立ちを覚えたのだった。
***
今から半年前の事だ。シャンデリアが輝く大広間での煌びやかなパーティー。一流ホテルで開催されたその会には、正装した男女が参加し、あちらこちらで歓談している。その中で、私の目の前に立つ黒の礼服を着た男は、愛想笑いの一つも見せなかった。
「いい加減にしろ。俺はお前に興味などない」
そう言い捨てて私の手を払いのけた男は、その冷たい表情をぴくりとも動かさない。
頭脳明晰、容姿端麗。婚外子とはいえ、財閥の御曹司。何人もの女に言い寄られても、決して陥落しない男。
今まで私から声を掛けた男で、私の前に跪かなかった男などいない。皆、私の身体に溺れて、いいなりになった。
だから、真っ赤なドレスに身を包み、今度はこの男と狙いを定めて声を掛けたのだ。
なのに、どうしてこの男は、私をこんな無機質な目で睨むのかしら
「あら、女に興味がないという噂は本当だったのかしら?」
そう言って嗤ってやると、男は目をすっと細めた。その冷淡な顔を見た時――背筋がぞくりとした。
「お前に興味がないだけだ。勘違いするな」
踵を返して立ち去る男の後ろ姿を見ながら、私は久しぶりに現れた極上の獲物に心躍る想いがした。
あの冷徹な表情を崩してやったら、どんなに素敵かしら。あの均整の取れた美しい身体をぐちゃぐちゃにしてやったら、どれほど心が沸き立つかしら。
「ふっ……ふふふ……」
ぺろりと舌なめずりをした私は、あの男の情報を得るために――こちらを見て惚けている男の元へと歩いて行ったのだった。
――菅山 建吾。伊織コーポレーションの会長の孫で、社長の愛人の子。幼い頃父親に引き取られたが、正妻の虐めに遭い、祖父母の家で育てられた。
社交界でも有名な美形である父親そっくりの顔に、財閥当主としての才能を祖父から受け継いだ彼は、誰がどう見ても正妻の子である腹違いの兄より、次期当主に相応しい男だった。
そう、ただ一点を除いては。
「結婚している事が条件なんて、今時古臭い決まりよね」
「そうだろ? だから母が煩いんだよ。建吾よりも先に結婚しろって」
あの男の兄である建斗は、顔はそこそこ美形だが怖ろしく口が軽い。別件のパーティーで声を掛け、その二ヶ月後には寝る関係になっていた。そしてピロートークであっさりとあの男の弱点を明かしたのだ。
――結婚していなければ、当主の座に就く事は出来ない。あの女嫌いに、そんな相手はいない。
「ねえ、建斗さん? 私……」
あの男よりは薄いであろう胸板に、指を這わせると、それを見る男の目に熱が籠った。
「子どもが出来たみたいなの……」
「えっ!?」
がばりと男が身を起こす。そうして私の身体をぎゅっと抱き締めた。
「本当かい、茉莉花!? 本当に俺の子どもが!?」
「……ええ、間違いないと思うわ」
一番妊娠しやすい時期を見計らって、この男に催淫剤を飲ませ、そうしてベッドへと誘惑したのだから。二日間存分に私を堪能した男は、もうすっかり私に骨抜きとなっていた。
「すぐに結婚しよう。茉莉花が僕の花嫁になってくれるなんて、夢みたいだ」
「ええ、嬉しいわ建斗さん」
ええ、とても嬉しいわ。私の言いなりになる素敵な犬を手に入れたのだから。私が一言言えば、宝石でもドレスでも車でも、何でも買ってくれるあなた。
そしてあの男も、あなたには手出しが出来ない。だって、正妻の子であるあなたの方が、立場は上なんですもの。
(いずれ全て壊してやるわ……あの男の大切な物、全てを)
無表情な顔を思い浮かべながら、私は一番美しい笑顔で建斗に応えた。私の柔肌に顔を埋める彼の髪を撫でながら、私は次の一手を考えていたのだった。
***
妊娠中という事もあり、建斗との結婚式は身内のみで早々に執り行われた。
義姉となった私に、あの男は冷たい瞳で応じるだけだった。こちらが話し掛けても、必要最低限の言葉しか口にしない。
少しでも隙を見せれば、『建吾が私に手を出した』と建斗に泣き付こうと思っていたのに、全く彼が私に近寄らない状態ではそれも難しい。
建斗の母親は、『とにかく結婚さえしてくれれば』と思っていたらしく、私にはよい子を産んでくれ以外の事は口にしない。父親の方は我関せずといった風で、こちらもまた口出しはしてこない。
鬱陶しいのは、彼の祖父だ。現会長である祖父は、建斗にも厳しい態度をとっている。
『そんな事では、お前に当主を任せる訳にはいかん』
『あなたも無駄遣いばかりせず、当主夫人としての品格を身に付けねばならんだろう。さもなくば、お前たち夫婦の事を認められん』
口煩いったらありはしない。こちらが媚びを売っても機嫌を直さない所は、建斗よりも建吾の方に似ている。
この煩い男が彼の育ての親だというのも、頷ける話だ。
――この爺が主導権を握っている限り、建斗が当主の座に就く事はない。すぐに死にそうにない爺は邪魔だが、こちらから手を出せる相手ではない。
(……なら)
最もあの男を憎んでいるあの女を焚き付ければいい。
それは至極簡単な事だ。
「ねえ、お義母様? ご相談した事がありますの……建吾さんの事で」
その一言で、あの女の表情が変わった。般若のような顔をした義母に、私は『建吾さんが実権を握ったら、建斗さんもこの子も追い払われてしまいます……』と涙ながらに訴えた。
――一年後、後継者を発表する
そう、建斗の父が宣言したのは、それから間もなくの事。定年前に後継者を決めたいという現社長の意向に、あの爺も口を挟めなかった。
(さぞ焦っている事でしょうね)
現時点で、あの男に恋人はいない。爺が色々と女を紹介しているらしいが、悉く蹴っていると聞いた。
後は彼の周辺を見張り、近付いてきた女を排除すればいい。そして私が後継者を産めば完璧だ。
(これで当主の座は建斗のもの――)
あの男から全てを取り上げ、追放してやってもいいわね。建斗だって彼の事は忌まわしく思っているようだから。もっとも私に跪くなら考え直してやってもいいけれど。
「ふふっ」
「どうした、茉莉花? えらく楽しそうだね」
「ええ、とっても。この子の事を想うと楽しいわ」
(そうだわ、仕事の関係で地方に飛んだと聞いたわね。様子を見に行ってみようかしら)
嫌がる顔を見に行っただけだったのだが……そこであの男と一緒にいる女を見掛けた。
何も分かっていないようなその女に話し掛けた途端――男の態度が変わる。
『俺を本気で怒らせる前に、とっとと消えろ』
初めてだった。あの男がこんな声を出すところを見るのは。いつだって冷静で、声を荒げた事さえなかったのに。
彼との間の空気がびりびり震える。本気で怒りを抑えているのだ。この男にこんな感情があっただなんて。
(……庇っている?)
いたって平凡そのものの女。その彼女を私から隠すように立つ男。嫌な予感がする。
(この女……やっかいな存在になるかも知れない)
驚いた顔で立ち尽くす女の顔を覚えた後、私は踵を返し車へと戻ったのだった。
***
「この女よ」
夜の仕事をしていた時の特技。人の特徴を捉えて、似顔絵を描いていた事が役に立った。金で仕事をする男達に似顔絵を渡し、特徴を伝えた。
「どちらかといえば小柄。地味な感じの女だったわ」
似顔絵を見た男は、目を細めた。
「……それで? この女どうしろと?」
「そうねえ……裸の写真撮って脅してもいいし、いっそ犯して孕ませてもいいわね」
二度とあの男の前に姿を現さないように。
「俺達も捕まるのはごめんだからな。適当に遊ばせてもらうぐらいにしておくぜ」
「任せるわ」
あの女を見掛けた場所を男達に告げ、周辺を洗い出すよう指示をする。
そうして男達からの連絡を待っていた私を訪ねてきたのは、建斗の祖父母夫婦だった。
リビングのソファに座る祖父母に、私はゆったりと挨拶をした。向かい合うソファに腰を下ろし、家政婦が淹れてくれた紅茶を二人にも勧める。
「茉莉花さんもお元気そうでなによりね」
「ええ、ありがとうございます、お祖母さま」
おっとりと微笑む老女からは何の悪意も感じられない。その左に座るしかめっ面の老人からは不機嫌そうな気配が漂っているが。
上品な萌黄色の着物を着た祖母は、いかにも上流階級の女性らしい仕草で紅茶を飲む。
その手付きに苛々させられる。きっとこの婆は苦労など知らない人生だったに違いない。
そんな嫌悪感をおくびにも出さず、彼女と他愛ない話をする。身体の調子はどうだ、何か困っている事はないか、そんなありきたりの質問ばかり。
「建斗とはうまくやっていけそうかしら?」
そう心配そうに聞く彼女に、私はにこやかに応じた。
「ええ、建斗さんはとてもお優しくて。今も私の体調を第一に考えていてくれますわ」
私の言う事なら、何でも聞いてくれる建斗。男としては物足りないが、犬を飼っていると思えば可愛いものだ。
「……ねえ、茉莉花さん」
すっと彼女の目が真剣な色を帯びた。皺のある手を膝に重ねた婆はゆっくりと言葉を継いだ。
「私にとっては、建斗も建吾も可愛い孫なの。二人共幸せになって欲しいと願っているわ」
「そうでしょうね」
「だから、ね?」
微笑む皺だらけの顔に、息を呑んだ。
「……あなたは建斗の事だけを考えて頂戴?」
責めている訳でも、牽制している訳でもない。なのに
――この笑顔に底知れない恐怖を感じるのは、何故だろう
「あ、あら、当たり前ですわ。私は建斗さんの妻ですから」
取り繕った声を出した私に、彼女はゆったりと微笑み返した。
「そうね、そうして頂戴」
――隣に座る爺よりも、この婆の方が強敵なのかもしれない
冷や汗をかきながら、私はぐっとカップを持つ手に力を入れた。
そして、二人が立ち去った後。あの男から失敗した、との連絡がスマホに入っていた事に気が付いた。
折り返し連絡すると、どうやら他の男が現場に居合わせ、殴り合いの喧嘩になったらしい。そうこうしているうちに、建吾が駆け付けたため、止む無くその場を引いた、と。
男達には約束していた報酬の半額を支払う事にした。顔を見られたあいつらは、もう使えない。
ちっと舌打ちをした後、親指の爪を強く噛む。
居合わせた男の事も建吾は知っているようだった、と男は言っていた。そしてその男と女はかなり親しい関係そうだ、とも。
ああ、苛々する。
あの女の泣き叫ぶ顔が見たかったのに。二度と建吾に近寄れなくしてやるつもりだったのに。
建吾にも別の男にも庇われている女。
あんな平凡そうな女のどこが――
そこまで考えた私はひゅっと息を呑んだ。
あの女に感じた嫌な予感。平凡なのに、どこか意志の強そうなあの表情は。
――婆によく似てる
そうだ、さっき私に会いに来た、あの婆によく似ているのだ。雰囲気や表情が。
建吾が唯一心を許している女。それがあの婆だ。彼女の前でしか、あの男は微笑まない。
(だから……)
だから、建吾はあの女の事を庇ったの……?
身体が冷えていく。もし建吾があの女に惹かれたら、どうなる?
建吾が結婚すれば、間違いなく当主の座に就く。そうなったら、私も建斗も今の生活は出来なくなるだろう。追い出されるかもしれない。
――それに
あの冷たく美しい男が、他の女のモノになる……?
ぎりと噛んだ爪が切れた。
あの女は――まずい。
建吾の傍から排除しなければ。
だけど、こんな事件があった後では、建吾に警戒される恐れがある。同じ手はもう使えない。
(もう一人の男の事も調べてみる必要があるわね)
その男とあの女が親しいのなら、ちょうどいい。プライドの高い建吾なら、あの女が別の男のモノになれば見向きもしなくなるだろう。
(そちらも焚き付けておけば)
情報を集めなければ。私はそういった依頼を受けるところに連絡をした。
(建吾は渡さないわ)
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