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見慣れた背中は

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「この資料の最新版は?」
「すでに指定フォルダに格納済みです」
「昨日開催の業務チームリーダー会議の議事録は出来てるか?」
「原案は作成し、現在出席者に確認中です」
「顧客会議に提出する見積の照査は」
「こちらも本社会計に提出して、現在確認中です」
「営業に提案書の確認を」

 私は営業部に資料を届けるため、ひよこ色のセーターにデニムのフレアスカートという格好で廊下をせかせかと歩いていた。廊下ですれ違う人たちも、心なしか足早だ。
(忙しいのは覚悟して来たけれど、本当に忙しいわっ……!)
 引っ越し休暇が終わり、正式にここの部署に配属された途端、始まった怒涛の日々。
 あの日から、もう早や二週間が経っている。あの時は怖かったけれど、仕事が始まってしまうと忙しすぎて、考えている余裕すらない。
(大体、菅山さんと話す暇もないし)
 私以上に忙しいのは菅山さんだ。予想通り、システム側のプロジェクトリーダーに任命された彼は、あちらこちらの部署と連携を取りながら、物事を進めている。
 朝も早いし夜も遅いし、身体は大丈夫なのだろうか、と心配になってしまう。

 営業部がいる部屋に入り、ぐるりと辺りを見回すと、立ち話をしている担当営業の杉本さんの姿を見つけた。
「杉本さん。システム部の水城です。提案書に記載するシステム資料をお持ちしました」
 おっ、と片手を上げた杉本さんに、付箋が沢山貼られた資料の束を手渡した。
「おっ、ご苦労様……って、相変わらずすごいチェックだな」
 ぺらぺらと中身を見る杉本さんは、感心したように唸る。
「いやー本当、本社から来たメンバー、皆凄いよな。こっちも負けてられないって気になるよ」
 顧客に出す資料は最終的に印刷してチェックする。画面でのチェックでは、フォントのイメージや色合い、印刷位置などが想定していたのと違う場合があるからだ。
 システム部がチェックしているのは、提案書のシステム説明部分。営業側と齟齬がないか、入念に確認した。
「では、失礼しますね」
 お辞儀をして立ち去ろうとした時、「あ、水城さん」と杉本さんに呼び止められた。
「忙しくて歓迎会まだだったけど、今週末なら一段落するからその辺りでやろうと思ってるんだ。メール回すから見ておいて」
「はい、分かりました」
 営業部を出て、また廊下を早足で歩く。ガラス窓の外は青い空が広がっている。
 支社ビルは本社より古いけれど、屋上緑化プロジェクトを推進していて、屋上は小さな森のようになっているらしい。全然見てないけれど、そのうちお弁当食べに行ってみよう。
(歓迎会かあ……)
 忙しすぎて、それどころではなかった。でも、これから一緒に仕事をする支社の人とも知り合いになりたいし、いい機会よね。
(そういえば、菅山さんは歓迎会出るの?)
 今まで飲み会に参加したところ、見た事ないよね。もしかしたら今回も忙しいからと断るのかもしれない。
「一応聞いてみよう」
 そう思いながらシステム部に戻った私は、さっそく菅山さんから色々と(本当に色々と)仕事を任されて、そのまま仕事に没頭してしまったのだった……。

***

「では、プロジェクトの成功と皆の健康を祈って、かんぱーい!」
 杉本さんの音頭で、カチンとグラスが当たる音があちこちから響く。ビールが苦手な私は、ちょっとジョッキに口を付けるだけにした。
 ここは駅近くの居酒屋。支社で飲み会といえば、ここなのだそう。豊富な海の幸メインのお料理と美味しい地酒が有名だと聞いた。
 週末という事もあるのか、店内はかなり混んでいた。人気店というのも頷ける。
 今日はプロジェクトメンバー以外に、支社の社員も入れて総勢三十人ぐらい参加しているので、店の二階の座敷を貸し切りとか。「酔っ払ったら、端っこの方で遠慮なく横になってくれ」と杉本さんも言っていた。
 十人ずつ三列に分かれて、皆座布団の上に座る。私は一番入り口側の列の端の方に腰を下ろした。
 今日は少し寒かったから、アイボリーのVネックセーターと紺のフレアスカートを着てきたけれど、この座敷の中は人が多いせいか熱気が籠っていた。

「うわあ、お刺身美味しい」
 食べた瞬間思わず声が出た。イカのお造りはぷりっとした食感があり、臭みもなく美味しかった。お醤油も味が濃くて、どこか風味が違う。
「旨いだろ? ここの店長、漁港から直接仕入れてるらしくてさ。ネタが新鮮なんだよ」
 ビール瓶片手に回ってきた杉本さんがそう解説してくれた。私がお酌を断ると、彼は私の右隣に声を掛けた。
「どうだ、菅山。こっちにきた感想は」
「ああ。随分慣れた」
 菅山さんは表情筋を動かさないまま、空のコップを杉本さんに差し出す。ビールを注ぎながら、杉本さんが苦笑した。
「お前、本当に愛想のない奴だな!」
 菅山さんの背中を左手でばんばん叩いている杉本さんは彼と同期らしく、遠慮という文字が見えない。
(菅山さんが飲み会出席って初めてじゃないかな。転勤してきたばっかりだから?)
 そっと杉本さんと話している菅山さんを見る。スーツの上着を脱いで、ワイシャツの姿の菅山さんは、やっぱり人目を惹く男性だった。同じ格好で腕まくりしてる杉本さんは若干親父っぽい感じがするのに、菅山さんはそんな風でもないし。
 あちらこちらから、隣に座っている私に『席を替われ』という視線が飛び交っている。でも、この席になったのは偶然ですから。わざとじゃないんです。
(仕事が終わるタイミングが一緒だったからなあ)
 菅山さんと並んでこの店に来たから、偶々隣になっただけです、と言いたい気持ちで一杯だ。やっぱり菅山さんの容姿って人目を惹くのよね。
 ……そのうち、お手洗いにでも行くフリをして、席を外そう。私は秘かにそう決意した。

「水城」
「はっ、はい?」
 突然話し掛けられた私は、お箸を置いて菅山さんを見た。いつの間にか、杉本さんは向こうの席に移動している。銀縁眼鏡の奥の瞳がどんな色をしているのか、読み取れない。
「この後、時間あるか?」
「え」
 低い声でそう尋ねられて、咄嗟に返事が出来なかった。この飲み会の後?
「特に用事はありません、が」
「そうか」
 ふっと彼の口元が緩んだ。どくんと心臓が一瞬跳ねる。
「あの件の事を話したい。これが終わったら――」
 菅山さんの声が、杉本さんの大きな声に遮られた。
「間に合ったか、久遠! よく来たな!」
(久遠!?)
 思わず息が詰まる。杉本さんが私の後ろを通って入り口に歩いて行き、障子を開けて大部屋に入ってきたトレンチコート姿の男性を迎えている。その姿は、私が見慣れているもので。
(新人っ……!?)
 咄嗟に顔を伏せた。どくんどくんと心臓が早鐘を打つ。杉本さんの声に答える新人の声が耳に入って来た。聞き慣れたその声を聞くだけで、胸が掴まれたみたいにぎゅっと痛くなった。

 どうして新人がここに?
 杉本さんが知ってるって事は、仕事で?

 少しだけ顔を上げると、新人は杉本さんに先導されて、大部屋の奥に座っている営業部長の元へと歩いて行くところだった。大きめのビジネスバッグに白い紙袋を左手に持った彼の背中が、最後に会った日を思い出させる。

「あ……わた、し」
(新人に何を言ったらいいの? 何を言われるの? どんな顔して会ったらいいの?)

 ――会いたくない

 私の頭の中にはそれしかなかった。私はすっと席を立つ。 
「ごめんなさい、もう帰ります」
 菅山さんが目を見張った。
「水城?」
 今なら新人がこちらに背中を向けている。私は入り口近くに置いてあったショルダーバッグを掴んで部屋を出た。階段を降りる前に、誰かが呼び止める声が聞こえた気がしたけれど、構わず駆け下りた。
 そのまま満員の店を飛び出す。外の冷気に触れて、上着を置き忘れた事に気が付いたけれど、取りに戻る勇気はなかった。
 とにかくその場を離れたくて、駅の方へと歩く楽しそうな人達の流れに逆らって早足で歩く。
 セーターを着てるとはいえ、夜風は肌寒い。二の腕を擦りながら、駅からマンションの方向へと足を進めた。

(新人……ごめんね……)
 やっぱりまだ、胸の奥の傷は塞がってなかった。新人の姿を見ただけで、こんなに動揺するだなんて。今だって、心臓がどきどきと煩くて、胸が痛いままだ。

 ……まだ心の整理がついてない。話し掛けられても、何を言えばいいのか分からない。

 駅から遠ざかるにつれて、次第に人通りが少なくなる。
 暗くなったスーパーに近付く頃には、人並みはすっかり途切れていた。誰もいない駐車場の入り口付近に車が停まっているのが見える。
 あの時の事を思い出すのと同時に、さっき見た菅山さんの驚いた顔が目に浮かぶ。話があるって言っていたのに。 
(悪い事をしちゃった……)
 明日謝ろう。今日は……今日だけは、先に帰る事を許して下さい。

 そう心の中で謝りながら、俯き加減にスーパーの前を通り過ぎようとした私の後ろで、バタンという音が聞こえた気がした。 
 ばたばたと複数の足音がしたかと思うと、いきなり左腕を後ろから引っ張られる。
「きゃっ!?」
 振り向くと、黒っぽい服を着てニット帽を被った男性が私の二の腕を掴んでいた。その男性の後ろにも、似たような格好をした男性がもう一人いる。
「おい、この女で間違いねえのか?」
「そうみだいだな」
 にやりと笑うその目付きに、背筋が寒くなる。
(何、この人達っ!?)
「ちょっと俺達に付き合ってもらうぜ?」
「なにするっ……」
 肩に手を回され、ぐいと大きな身体に引き寄せられる。タバコの匂いが鼻についた。
「なあーに、大人しくしてりゃすぐ済む」
 太い腕に後ろから抱え込まれた私は、必死に手を動かしたけれど、男性の力に敵う訳がない。
「っ、は、放してっ!」
 腕を掴んで引き離そうとしても、びくともしない。はははっと馬鹿にしたような笑い声が上がった。
「へへっ、無駄な抵抗してるぜ、この子」
「結構可愛いよな? 地味だって聞いてたが」   
 そのままずるずると、さっき見た車の方向へと引き摺られる。あれに乗せられてしまったら――!
(いやっ!)
「いやっ、放して! 誰か助けっ、んんんんっ」
 大きな手で口を塞がれ、苦しくて涙が滲む。足を踏ん張っても、抱き抱えられている私にはどうする事も出来ない。
(怖い……怖いっ、嫌……っ……!)
 彼らのうちの一人が運転席に乗り込んだ。車の後部座席のドアが派手に開く。ばたばたと足を動かしても、虚しく空を切るだけ。
(いやっ、誰か、誰か、助けてっ……!)

「――ありさっ!」

「ぐわっ!?」
 何かが男にぶつかった衝撃と共に、私を抑えていた手が一瞬離れる。大きな手が、よろめいた私の腕を掴んで後ろに引っ張った。
「何だ、貴様はっ!」
 そう怒鳴る男と私の間に立ちはだかる、大きな影。私を庇うように、腕を広げて立っているその姿は、

 ――いつも私が見つめていた背中だった。
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