愛しいあなたは彼女を愛してる~ドアマットヒロインは運命に逆らう

あかし瑞穂

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どうして、こうなったんだろう

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 ――どうして、想定外の場所で菅山さんに遭うんだろう。しかも二度目。

 私はぽかんと口を開けたまま硬直していた。
 菅山さんも無表情のまま、私とお兄ちゃんの顔を交互に見下ろしていた。
「知り合いか、ありさ?」
 お兄ちゃんの訝し気な声に、やっと我に返った私は「う、うん。同じ職場の先輩の菅山さん」と答えた。お兄ちゃんがへえと片眉を上げた。
「偶然ですね。良かったらどうぞ」
 お兄ちゃんが自分の隣の席を指すと、「では、お言葉に甘えて」と菅山さんが静かに座った。店員さんに「プレーンオムライスを」と注文する声がどこか遠くに聞こえる。
「俺は戸津っていいます。ありさの幼馴染で……まあ、兄貴分みたいなもんです」
 にこやかに自己紹介したお兄ちゃんに、菅山さんは小さく笑った。
「……菅山です。水城と同じ部に勤務しています。彼女と同じタイミングで転勤してきました」

「ああ、それならこの辺分かりますか? ここに来る間、ありさにも色々と説明していたんですが」
「今日一日歩き回りましたから、ある程度は。住みやすそうないい街で安心しました」
「そうでしょう! 俺も住んで三年になりますけど、治安もいいし、いいところですよ、ここは」

 ……お兄ちゃんと菅山さんの会話が弾んでいる。
 運ばれてきたオムライスを食べながら、お兄ちゃんと話している菅山さんは、仕事中の厳しい顔付きではなく、少し柔らかな表情を浮かべていた。
(菅山さんが仕事以外の話するの、初めて見た……)
 そつがない、というのがぴったりだ。お兄ちゃんも転勤してきた彼に分かるような話題を振ってるけど、それに淀みなく答える菅山さんも、実はコミュニケーション能力が高いんじゃ……。
(さっきから、女性客の注目浴びてるの、気のせいじゃないよね?)
 アイボリー色のセーターを着た菅山さんに、革ジャンを着たお兄ちゃん。どちらもタイプは違うけど、人目を惹く男性だ。『あなた誰』みたいな視線が私に飛んでるのも、無理ないと思う。 
 とりあえず私は、オムライスを愉しむ事に専念する事にした。
 うん。本当に美味しいわ。卵ふわふわ。
 黙っている私を余所に、二人の会話は進んでいく。

「よくこの店分かりましたね。ここ地元じゃ有名ですけど、ネットにも雑誌にも載せてないはずで」
「オーナーが祖父の知り合いで。こちらに住むなら必ず顔を出せと脅されましてね」
「へえ! 世の中狭いですね」

(それにしても……)
 菅山さんって、綺麗な食べ方するんだなあ。上品というか。今まで一緒に食事に行った事ないから、気付かなかった。
 きっと高級ホテルのディナーでも、こんな風に自然に振る舞っているのよね。

「……さ、おい、ありさ?」
「ひえっ!?」
 物思いに耽っていた私は、お兄ちゃんの問い掛けに気が付かなかったみたい。びくっと肩を揺らすと、「何やってんだ?」と変な顔をされた。
「食後のコーヒー頼むか?」 
「う、うん」
 いつの間にか食事タイムは終わっていた。お兄ちゃんが店員さんにコーヒーを三つ頼んでいる間、私は落ち着かない気分でいた。
 菅山さんは何を考えているのか、分からない目で私を見てる。居たたまれない。意味なくお冷やを飲んでしまう。
 運ばれてきたコーヒーにミルクとシュガーを入れて、一口飲む。お兄ちゃんと菅山さんはブラックのまま飲んでいるみたい。

 RRRRRRR……

「あ、失礼」
 お兄ちゃんがジーンズのポケットからスマホを取り出した。画面を見て眉を顰めたお兄ちゃんが電話に出る。
「はい、戸津です。……はい……えっ!? 止まった!?」
 さっと雰囲気が変わった。何か難しい話をしているけど、どうやらトラブルが起こったらしい。電話を切ったお兄ちゃんが私に向かって済まなさそうな表情を浮かべた。
「……すまん、ありさ。俺の行ってる工場で、機械が故障したらしい。もうここを出てもいいか? すぐに送るか」
「――水城なら、俺が送りますよ」
「菅山さん!?」
 お兄ちゃんの言葉を遮った菅山さんの言葉に、私は目を丸くした。
「だ、大丈夫ですよ。後は家に帰るだけですし」
 わざわざ送ってもらうなんて、と言った私に菅山さんが冷静な声で言う。
「俺は午前中に契約を済ませてから、この辺りをうろついていたから、大体場所も分かる。水城は今日が引っ越しの予定だったろう。なら、あまり周辺を見る時間は少なかったはずだ」 
「そ、うですけれど」 
 私が言い淀むと、菅山さんはお兄ちゃんを見てにっこりと笑った。うわ、菅山さんのこんな笑顔って初めて見た気がする。
「どうぞ遠慮なく。水城は俺が責任をもって送りますから」
 お兄ちゃんがほっとした顔をした。
「ありがとうございます、菅山さん。もう暗いから一人で帰らせるのは心配で。――ありさ。菅山さんに送ってもらえ。まだお前はこの辺よく分かってないだろうから」
 じっとこちらを見る二人の視線に私は負けた。
「……はい」
「じゃあ、お言葉に甘えます。ありさをお願いします、菅山さん。会計は済ませておくので。ありさ、また連絡するからな」
「お兄ちゃんも気を付けて」
 席を立ったお兄ちゃんは、ぺこりと菅山さんにお辞儀をした後、足早に入り口の方へと歩いて行った。その後ろ姿を見送った後、菅山さんに視線を戻すと――彼は私をじっと見つめていた。
(何だろう、このむず痒い感じ……)
 感情の籠らない瞳で見つめられるのは、何だか変な感じ。観察されているというか、分解されているというか、そんな気がする。
「菅山さん?」
 そう問い掛けると、菅山さんは目を瞬いた。 
「あの……本当に私大丈夫で」
 睨み付けられた私は、それ以上言葉が出なくなった。
「戸津さんに約束しただろう。破らせる気か?」
「いえ……」
 私は内心溜息をつきながら、コーヒーを口にした。その後は、何も会話がないまま、黙々としたコーヒータイムとなったのだった。

 外に出ると、空には半月がぽっかりと浮かんでいた。大通りまで出たところで、菅山さんが私を見下ろして言う。
「水城の家はどちらだ?」
「あ、こちらです」
 見覚えのある方向を指さすと、菅山さんが身体をそちらに向けた。
「住所も教えろ。確認する」
「はい」
 住所を告げると、菅山さんは「ああ、この辺りか」とスマホで何やら調べている。画面を見終えた彼は、迷いのない足取りで歩き始めた。私も菅山さんについて行く。 
(あれ?)
 私と菅山さんの歩調が合っている。かなり身長差あるのに。 
(もしかして、合わせてくれてる?)
 私が急ぎ足にならない程度の速度で、道路側を歩く菅山さん。その右隣を歩きながら、ちらと彼を見上げると、いつもと同じ無表情な横顔が目に入った。
(まつ毛も長いし、鼻筋が通ってて……やっぱり菅山さんって、綺麗な顔よね)
 まるで美術館に飾られている、ギリシャ神話に出てくる神の彫刻のようだ。この容姿で浮いた話一つないっていうのは、きっと菅山さんの態度が原因なんだろう。

 バレンタインの時も、義理チョコすら受け取らないって聞いた事あるし、そもそも女性とあまり話してない。私だって、仕事関連以外で話なんて……今日が初めてじゃないかな。
(勿体ない気がするけれど、菅山さんの事情からすれば仕方ないのかも)
 とくに会話もないまま、菅山さんと私は街灯が灯った歩道を歩いて行く。駅前付近は週末を楽しむ人達で溢れていた。ロータリーにもタクシーが何台も停まっている。
 私と菅山さんは一定の距離を置きつつ、同じペースで足を運んでいた。
 何だか、その空気が……心地よくて。

(……心地よい?)
 何もしゃべってないのに、あまり焦ってない。よく知らない人と歩く時、会話の内容にいつも困るのに。会話が途切れると不安で、必死に話題を探すのに。
 菅山さんが相手だと、何だか黙っていてもいいような気がして。
(そもそも、あまり話す人じゃないものね)
 しばらく歩くうちに、閑静な住宅街へと風景が変わっていく。さっきのスーパーはもうじき閉店なのか、一杯だった駐車場に空きが出来ていて、出口の方へと動く車が何台か見えた。 

「――水城」
「はい?」
 突然名前を呼ばれた私が菅山さんを見ると、彼はじっと私の顔を見下ろしていた。思わず足が止まる。
 立ち止まった菅山さんが口を開きかけた時、彼の後ろを眩しいライトが通り過ぎた。同時に急ブレーキの音が響く。 
「えっ!?」
 左方向を見ると、スーパーの駐車場の入り口付近に黒い車が一台、急停止していた。菅山さんも同じ方向を向いた途端、舌打ちする。 
 何かと思う間もなく、菅山さんが私と車の間に立った。ばたんと乱暴な音が響き、女の人が一人運転席から降りてくる。街灯の灯りでは顔は良く見えないけど、毛皮のコートとワンピースを着た髪の長い女性だった。ほっそりとした足の影が、アスファルトの上に長く伸びている。
 つかつかと私達に近寄ってきたその人は、右手で菅山さんの左腕に触れた。
「建吾。探したわよ」
 猫なで声なのに、どこか背筋が寒くなるような声だった。
(建吾? って、菅山さんの名前、呼び捨て?)
「……何の用ですか、お義姉さん」
 背筋が今度こそ、ぞくりと震えた。菅山さんの平坦な声の中に混ざった、紛れもない悪意が怖い。広い背中から感じるのも、拒絶の意志だけだ。
(おねえさんって) 
 お兄さんのお嫁さん? その彼女が、どうして菅山さんを探してるの?

「あら、何の用だだなんて。あなたを心配して来ちゃダメなの?」
 この女性の声にも、菅山さんに負けないくらい悪意が潜んでる。くすくす笑う声も怖い。私は身動き一つ出来ないまま、その場に立ち尽くしていた。

「それで――紹介してくれないのかしら? そこのお嬢さんを」
 菅山さんの隣に一歩足を踏み出した彼女が、じろじろと私の身体を見回している。私も彼女の顔を見返す。
 ゆるくウェーブのかかった黒髪に、やや釣り目気味の瞳。赤いルージュを引いた唇が、にまりと三日月型の弧を描いていた。白っぽいワンピースの裾が、彼女のひざ下で揺れている。 
 すべてが綺麗な女性で――すべてが怖かった。
「仕事上の知り合いで、偶然居合わせただけだ」
 菅山さんは私を紹介しようとはしていない。私も黙って頭を下げるだけに留めた。 

 私を見る目の瞳孔が、大きくなる。くすりと笑うその姿に、ネズミを甚振る猫の姿が思い浮かんだ。 
「ねえ、あなた。建吾に付き纏っても無駄よ? 彼は一介のサラリーマンに過ぎないんだから」
「は?」
 ぽかんと口が開いた。何を言ってるんだろう、この人は。
「だって彼は結婚してないんだもの。それに、私のお腹には――」
 まだなだらかな下腹部を自慢げに撫でるその人の瞳には、狂気にも似た光が宿っていた。
「いい加減にしろ。単なる知り合いだと言ってるのが分からないのか」 
 また菅山さんが私と彼女の間に割って入った。冷たくて硬い声。関係ない私でも鳥肌が立ちそうなぐらいなのに、彼女は平然と笑っている。
「まあ、いいわ。ねえ、そこのあなた? 建吾に手を出すようなら……」
 ぺろりと赤い唇を舐める舌が、妙に印象に残った。私を睨む瞳がギラリと光る。その執着と悪意に息が詰まった。

「……容赦しないわよ?」
 嘲笑っている暗い瞳に呑み込まれそうになった。明確な殺意ともいえる気配に身体が強張った瞬間、菅山さんが唸るような声を出した。
「俺を本気で怒らせる前に、とっとと消えろ」
 いやね、怖い。そうワザとらしく言った彼女は、踵を返して車の方へと戻って行った。派手な音が響いた後、また車が急発進した。
 あっという間に消えていった車をぼんやり見ていた私の肩が、大きな手に掴まれた。

「水城、大丈夫か!?」
「菅山、さん」
 彼の顔を見上げていると、自分の身体が小刻みに震えているのに気が付いた。悪意をまともに受けたせいか、足にも力が入らない。
 よろけた私は、思わず菅山さんの腕を掴んでしまった。菅山さんの手が、私の背中に回って身体を支えてくれる。
「済まない、俺のせいだ」
 苦々しさが混ざる声に私が顔を上げると、ぐっと唇を引き締めた彼の顔が目に入った。
「そんな事ない……って、きゃあ、すみませんっ!」
 私、菅山さんに縋り付いてた! 慌てて飛び退こうとしたら、逆に引き寄せられてしまった。
「すすすす、菅山さんっ!?」
 両手を彼の胸板に当てた状態で、私は思わず叫んだ。菅山さんの腕の中にいるって! 心臓に悪い!
「足元がふらついてるぞ。落ち着くまで、このままでいろ」
 彼の体温が伝わる距離に、身の置き所がなくて呻きたい。
(菅山さんがこんな近くにいるという事自体が落ち着きませんっ!)
「も、もう、大丈夫ですから。放して下さい」
 涙目で必死に頼むと、眉を顰めた菅山さんが手を緩めてくれた。急いで一歩下がる。菅山さんの表情はしかめっ面のままだ。
(し、心臓が……)
 ばくばくと音を立てている心臓を押さえて、何とか声を絞り出した。
「と、とにかく行きましょう」
 私がそう言うと、菅山さんがじっと見下ろしてきた。その視線に、息が詰まりそうになる。しばらく黙ったまま私を見つめていた菅山さんが、ふっと息を吐いた。
「……ああ、そうだな」
 再び二人並んで歩き出す。まだ私がよろめいたりしないか心配なのか、左を歩く菅山さんががっちりと私の左腕を掴んでいる。
「だ、大丈夫で」
 とまで言い掛けた私は、鋭い視線に射抜かれ、もごもごと口籠りながら俯いてしまった。
 ――掴まれた腕が妙に熱く感じて、居心地が悪い。

 住宅街に入ると、大通りのような賑わいはなかった。人気の少ない道を、マンション目指して歩く。等間隔に灯った街灯の傍を通る度に、並んだ影がぐるりと方角を変える。

(さっきのは、一体何だったの?)
 ――建吾に付き纏っても無駄よ
 何だか私を牽制してる感じだったけれど。菅山さんに近付くなって。
 どうしてお義姉さんがそんな事言うんだろう。
 疑問は尽きないけれど、下手に首を突っ込むと泥沼になりそうで怖い。
(そもそも菅山さんに近付く気、ないんだけど)
 そんな事を考えながら、黙って足を動かした。

 やがて私のマンション前に着いた時、ようやく菅山さんが手を離してくれた。私が送ってもらった礼を言うと、菅山さんは硬い表情で口を開いた。
「さっきは済まなかった。不愉快な思いをさせた」
 菅山さんが私に頭を下げている。私は焦ってぶんぶんと右手を振った。
「い、いえ! 何とも思ってませんから、頭上げて下さいっ」 
 顔を上げた菅山さんは、じっと私の目を見たまま言った。
「水城、連絡先を交換してくれ」
「へ?」
 連絡先? 思わず間抜けな声を出した私に、菅山さんがゆっくりと説明した。
「念のためだ。さっきの女は兄の妻だが――あの通り常識の通じる相手ではない。何か仕掛けてくる可能性がある」
「えっ」
 ぎらぎらと光る猫の目を思い出し、ぞくりときた私は思わず二の腕を擦った。
「詳しい事は後で説明する。何か異常があればすぐに連絡して欲しい。俺も気を付けるが、ずっと傍にいて守る事は現状では難しい」
(傍にいて守る!?)
 そちらの方が心臓がやられて危険な気がした。
「わ、分かり、ました」
 スマホを取り出して、菅山さんとメッセージと電話番号の交換をする。
(プライベートな連絡先を菅山さんと交換するなんて)
 なるべく避けようと思っていたのに。がっくりと肩を落とした私に、菅山さんが早く部屋に入るようにと言った。
「菅山さんも帰り気を付けて下さいね。お疲れ様でした」
 ぺこりと頭を下げると、菅山さんが溜息をついた。
「……ああ」
 その後、オートロックの扉に入り、エレベーターが来るまで、菅山さんはガラス扉の向こうに立っていた。その姿に何故か胸が重くなる。
 お辞儀をしてエレベーターに乗り込んだ私は、はあと深い溜息をついてエレベーターの壁にもたれてしまった。

 ――どうして、こうなったんだろう

 とにかく、説明を聞いてから考えないと。どっと疲れが出た私は、家に戻りシャワーを浴びるとすぐ、ぐったりと寝込んでしまったのだった。
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