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side 久遠 新人

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「ありさったら、水臭いわよねえ。私達が新婚旅行から戻ってくるのと入れ替わりだなんて」
「仕方ないだろ、りりか。あのプロジェクトすぐに立ち上がるって話だったし、今頃家探しに忙しいんじゃないか?」
「それにしたって……ねえ、新人? ありさから何か聞いてた?」
「……」
「新人ってば!」
 はっと俺は我に返った。俺の斜め左前に座るりりかが、訝し気にこちらを見ている。
 俺は「いや」と短く返事をして、湯呑を手に持ち、とっくに冷めた緑茶を一口飲んだ。

 ――祐希とりりかが新婚旅行から帰ってきたその翌週、ありさは入れ替わりで引っ越し休暇に入ってしまった。
 あれから、ありさと二人きりで話す機会はなかった。向こうは引継ぎの仕事が忙しく、俺も出張が入り、ゆっくり会う事も出来なかったからだ。
 一度だけメッセージを送ったが、たった一言『時間を下さい』と返ってきただけだった。それから、何度もメッセージを送ろうと、電話をしようとしては……指を止めて、悩むだけの日々。
 そうこうしているうちに、俺の前から彼女の姿は消えた。もう本社に出社する事もないのだろう。

 落ち込んでいる俺を見かねたのか、今日はりりかに誘われて、会社が近い祐希も一緒に昼食を食べていた――いつもの小料理屋で。

 いつも四人で座っていた席が、今は三つしか埋まってない。俺の真正面、誰も座っていない座布団が、こんなに寂しく感じるとは思わなかった。
 食べた弁当の味も、ほとんど分からない。ただ思い出すのは――

 ――新人。私、新人の事が好きだった
 そう言って、泣きそうな顔で笑ったありさの顔。艶やかな黒い髪が、潤んだ瞳に少し紅潮した頬が、ずっと頭から離れない。

「ねえ、新人。新人もちょっと変じゃない? ぼーっとしちゃって」
 りりかが俺の顔を覗き込んできた。つぶらな瞳にきゅっと締まった唇。柔らかそうなふわふわの髪。薄いグリーンのワンピースが良く似合ってる。りりかを見ると、やるせない思いに胸が痛くなっていた――はずなのに。

 ――新人がりりかの事見てたのも知ってた。だって私は……ずっと新人を見ていたから

 ……どうして、あの時のありさの事ばかり、思い出すんだろう

「ありさがいなくなったのが、堪えてるんだろ? 新人」
 祐希の声に内心ぎくりとした。さり気なく左手に座る祐希の方を見ると、あいつはやれやれと肩を竦めた。
「お前、気が付いてなかったのか? ありさといる時のお前って自然体だっただろ?」
「……え」
 俺が目を見張ると、祐希が半ば呆れたような口調で言った。
「人見知りが激しいお前は、人前で話す時少なからず緊張してるだろ。そりゃ大学の時に比べれば社会人として経験積んでるから、一見分からないけどさ」
「……」
 そこで祐希は緑茶を一口飲んだ。

「だけど、ありさと一緒にいる時のお前って、黙ってる時間も長かっただろうが。気を遣ってしゃべらなくても良かったんだよ、ありさの前じゃ」
 祐希の言葉に、俺は愕然とした。

 ありさの前で、俺はどうしてた?

(……思い出せない)
 そう、特にこれといって何かした、という覚えがないのだ。会話を繋げようと必死になるとか、先回りして気を遣うとか――一生懸命、話そうともしていなかった。ただ、何も考えずに、そこにいるだけで良かった。
 そんな俺を、ありさはずっと見ていてくれたのか。

 胸が、重くて痛い。

「……」
「たく、なあ」
 祐希ががしがしと頭を掻いた。
「新人もありさも不器用過ぎるだろ。なんでこう、上手くいかないんだか」
 と祐希がぼやくと、りりかもしんみりと呟いた。
「ありさ、また本社の方に来る事あるかしら」
「しばらくは無理じゃないのか? 向こうの生活に慣れなきゃならないし」
 りりかがふうと溜息をついた。

「そうね……あ、でも菅山さんが一緒だから、心強いわよね」
(菅山?)
 眼鏡を掛けた無愛想な男の姿が目に浮かんだ。ありさと話しているのを見た事がある。凄腕のシステムエンジニアで、大きな案件にはほぼ名前が挙がっていた。

 祐希が「菅山? 誰だそれ」と聞くと、りりかがテーブルに身を乗り出して話し出した。
「二つ年上の先輩よ、システム部の。ものすごく仕事出来る人で、ありさもいっつも褒めてたわ。ちょっとぶっきらぼうで、とっつきにくい感じだけど、信頼できる人だって評判よ」
「へえ。そいつも新プロジェクトに行くのか?」
「ええ、そう聞いたわ。本社のシステム部からは、ありさと菅山さん、あと新藤課長の三人が行くんだって」 
 そこで言葉を切ったりりかが、俺の方に視線を投げた。
「新人は支社に行く事あるでしょ? 営業だし、出張だってあるじゃない」
「あ、ああ」
「これ、お願い」
 りりかが小さな紙の手提げ袋を俺に手渡した。白地に金色の模様が入った袋には、十五センチ四方の箱が入っている。
「ありさに買ってきたお土産。どうせなら、新人から渡して欲しいの。私は総務部だから、出張なんて滅多にないし」
「……」
 俺は紙袋を手に持ち、じっと見た。何故かずっしりと重く感じた。

 祐希が、黙ったままの俺の肩をぽんと叩いた。
「どちらにしろ、ちゃんと話して来いよ、ありさと。このままじゃまずいだろ」
 何を言った訳でもないのに、何かがあったと祐希は気付いているようだ。心配そうに顔を曇らすりりかも。

 俺はふうと息を吐いた後、祐希とりりかの顔を交互に見た。
「分かった。ありさに渡してくる」
 俺がそう言うと、祐希とりりかは安心したように笑った。

 その帰り道。祐希と並んで歩くりりかの後ろ姿を見ながら、俺はスーツの上着のポケットに右手を突っ込んだ。取り出したのは、細い金の鎖に、小さな真珠の花が付いたペンダント。
 ――あの日、ありさが走り去った後。深酒し過ぎて、身体が動かなくて床に座り込んでしまった俺は、ありさを追いかける事が出来なくて。何度もメッセージや電話もしたが、ありさは出なかった。
 いつの間にかそのまま意識を無くしてしまった俺は、次の日の朝、床の上できらりと光る鎖を見つけたのだ。

 ……あの時、俺が無理矢理切ってしまった金の鎖。俺が壊してしまった、俺達の関係のようだった。

 鎖はアクセサリーショップで直してもらった。ありさに渡すだけなら、社内メール便ででも送ればいい。
 ――だが、それも出来なくて、こうして持ち歩いている。
 この鎖のように、ありさと元の関係に戻る事は……もうない。

 ふと前を見ると、祐希と仲良さそうに歩くりりかの後ろ姿が目に入る。いつもその光景を見て胸が痛くなったのに、あの時からずっと胸が痛いのは――
(りりかを忘れようと、ありさに縋るなんて――最低だ、俺は) 
 そう思う、自分の後悔のせいなのか。

「……ありさ」

 そう呟いても、それに答えてくれるありさの声は、当然ない。
 
 あの晩、泣かせてしまった。辛い思いをさせてしまった。
 俺を好きだと言ってくれたありさを、傷付けてしまった。

 謝りたくても――「もう、いい」そう言って、悲しさも堪えて笑うのだろう、ありさは。 

(俺は……)
 りりかを思っていたはずの心は、今はここにいない誰かに占められている。
 笑顔の明るいりりかが、眩しかった。楽しそうなりりかを見ているだけで、幸せな気持ちになれた。
 
 だが、いつも傍にいたありさがいなくなって――初めて気が付いた。
 ありさの控えめな笑顔を見ていると、心が温かくなっていた事を。
 あまりに自然過ぎて、傍にあり過ぎて……その大切さを全く分かっていなかった事を。

 左手に持つ紙袋に目をやる。
 これを渡しに、ありさのところに行く。
 祐希とりりかには、何もかもバレているのかもしれない。だが、二人は俺に何も聞かない。ありさと話すきっかけを作ってくれただけだ。

 謝っても許してもらえないかも知れない。それだけの事をしてしまったのだから。
 ――それでも、俺は
 俺は鎖をぐっと握り締めた後、またポケットの中に仕舞い込んだ。

 そうして俺は、二人の後を追って会社への道を歩いて行ったのだった。
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