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時間を下さい

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 いきなり声を掛けられた私は、涙を拭う事も忘れ、呆然と菅山さんを見上げる。陽の光が遮られ、逆光になった彼の表情は――相変わらず「無」だった。

 ――どうしてここに、菅山さんが?

 そんな私の疑問を感じ取ったのか、菅山さんが話し始める。
「今日は午後から客先に行く予定だったから、早めに社を出て、ここで昼食を採っていた。そこに水城が来た」
「……」

 全然気付いてなかった。もっとも、噴水の反対側にいたのだったら、分からなくても不思議じゃないけど。

 ふと視線を下にやると、彼の左手に握られた黒のビジネスバッグが目に入った。偶然居合わせたって事なのだろうか。

 菅山さんの視線も声も、何の乱れもない。いつも通り、冷静なままだ。
「エレベーターホールで水城と久遠の様子がおかしかった、と外出する前に聞いた。一緒に昼食に出るようだとも」

「……」
 上着のポケットに右手を突っ込んだ菅山さんが、私に向かって青いハンカチを差し出した。その動きがあまりに自然で、つい受け取ってしまう。
「それで、そんな顔をしていたら、久遠と何かあったのだろうと想像はつく」
「……」
 渡されたハンカチをぐっと右手で握り締める。今の私は、ぐしゃぐしゃな顔をしてるに違いない。涙も拭かずにここに座っていたんだから。

 菅山さんが左手首に嵌めた腕時計を確認した。私でも知ってる有名ブランドの時計だ。高いのだったら百万円以上したんじゃなかったっけ。
(やっぱり……菅山さんの実家って、資産家なんだ……)

 ゲーム通りなら、菅山さんは資産家のお父さんの婚外子で、正妻の子であるお兄さんがいるはず。お兄さんは浪費家で女にもだらしなくて、彼よりも優秀な菅山さんを後継者にと推す声が多い。
 でも、会長であるお祖父さんが、『結婚して一人前』という考え方だから、まだ独身の菅山さんより最近結婚したお兄さんを立てようとしていて。
 ――それを阻止するために、結婚相手を探していた。そこに引っ掛かったのが、失恋したばかりのヒロイン
 ……って設定だった、確か。
 
 そんな事をぼんやり考えていたら、菅山さんがズボンのポケットから黒い財布を取り出し、一万円札を出した。 
「俺はもう客先に向かう。夕刻に来客があるんだが、今からこれでお茶請けのケーキを買っておいてくれ。八人分。店はLeckere Kuchenレクレ クーヘンでいい」 
「は、い」
 呆然としたまま代金を受け取った私に、菅山さんの視線が痛い。

 ふっと口端を上げた彼は、「社の方には俺が連絡しておくから、ゆっくり選んで来い」と言って踵を返し、そのまま出口の方向へと歩き出した。
  
 ……今のは一体、何だったんだろう。

 私はベンチに座り、渡されたハンカチと一万円札を持ったまま、立ち去る後ろ姿を見えなくなるまで見送っていた。 
 
***

 ケーキの入った白い箱を右手に持った私が会社に戻って来た時、菅山さんと会ってから一時間半ぐらい経過していた。

 ――あの後、公園のトイレの鏡で自分の顔を見た私は、あまりの悲惨さに目まいがした。泣き腫らした瞼に赤くなった鼻の頭や頬、その上お化粧も剥げてて、とてもじゃないが人前に出られない状態だ。

 とりあえず、ばしゃばしゃと顔を洗って公園を出、近くのコンビニで化粧品セットを買って、そこのトイレで化粧を整えた。
 それから、駅ビルの中にあるドイツ菓子専門店に行ってケーキを選んで――今に至る。

 部に入ると、原田さんが近付いて来て「おかえりなさい」と声を掛けてきた。
「ケーキ買って来てくれたんでしょ? 菅山くんから電話で聞いたわ」
「あ、はい」
 ケーキの箱を原田さんに手渡し、私はバッグを自分の机の上に置いた。

「お客様は何時にお見えですか? このケーキお出ししないと」
 そう言うと、原田さんが首を傾げた。
「え? それ菅山くんからの個人的な差し入れだって聞いたわよ? 部内で食べて欲しいって」
「え?」
 私が目を丸くすると、原田さんが箱を開けて中を確認した。
「ほら、ちょうど八つ。今部内にいる人数でしょ? 菅山くん、たまにポケットマネーで差し入れしてくれるのよ。忙しさのピークを越えた後とかね」
「……」

 確かに部内を見渡すと、外出している人を除いてちょうど七人、席に座っている。私を入れたら八人だ。
「今日は特に何もないのに、なんでかしらね~? まあ、あそこのお菓子食べれるんだから大歓迎だけど」

(もしか、して)
 無表情な彼の顔が目に浮かんだ。
(時間作って、くれたの……?)
 あの状態ですぐ社に戻っていたら、泣いた事が周囲にバレてしまっていただろう。そうしたら新人も巻き込んで、大事になっていたかもしれない。
 ケーキを買うという名目の時間があったから、落ち着いたし、何とかなった。

「今日って菅山さん、直帰でしたっけ……お釣り返さないといけないのに」
 壁に掛かっている白板を見ると、菅山さんのところは外出→直帰、になっている。明日じゃないとだめみたい。

「明日は朝出社の予定だから、その時返したら? それよりも、早くケーキ配りましょうよ」
「はい」
 原田さんと一緒に給湯室へと向かう。食器棚からお皿やフォークを取り出してトレイに並べている間、私は菅山さんの事を考えていた。
 
 だって、よくよく考えたら……
(泣き顔見られた……っ……!)
 あの泣き腫らした酷い顔を見られてしまった。恥ずかしくて、身悶えしそうだ。今度会う時に、どんな顔すればいいんだろう。ああ、あまりに悲惨だったから時間を作ってくれたのかも……

(ま、まあ、菅山さんの性格だったら、言いふらしたりはしないだろうけど) 
 無駄口を叩かない彼なら、黙っていてくれると思う。この件には触れずにいよう。

 ――部内の皆で食べたアップルシュトルーデル煮りんごの包み焼きは、甘酸っぱくて美味しかった。

 その美味しさが妙に心に残り……その日の帰りにも店に寄って、一人分買ってしまう。

 お風呂上り、一人でりんごの甘さを堪能していた私には、スマホに届いていたメッセージを見る勇気がまだなかった。

***

 翌朝、早めに出社した私は、すでに席に着いている菅山さんの近くに行った。グレースーツを着た彼は、私を見るとキーボードに置いた手を止めた。

「あの、菅山さん。これ昨日のお釣りと領収書と……お借りしたハンカチです。ありがとうございました」
「ああ」
 お釣りと領収書を入れた封筒と、洗濯してアイロン掛けしたハンカチを差し出すと、菅山さんはすっと受け取って上着のポケットに入れた。

 ……それで終わり。
 へ? と思って立ちすくむ私に、菅山さんは何だ?、と言わんばかりの視線を投げてきた。私はお辞儀をしてそそくさとその場を立ち去る。
  
(……もう気にしないでおこう)
 多分、向こうもこのまま流してくれるつもりなのだろう。菅山さんが、仕事以外で社員と関わっているのを今まで見た事ないし。私だってその方がいい。
(あんまりこちらが気にしても、面倒がられるだけよね)
 ゲームの攻略対象である彼には、あまり近付きたくない。私はそう納得し、自席へと戻った。

 そこからは、本当にいつも通りの一日――というより、いつもより忙しい日がスタートする。転勤前に引き継がなければならない事が山程あるからだ。

 手を動かしながら、システム部に来ていた他の営業の話を漏れ聞くと、新人は大きな仕事が入り、今日からしばらく出張が続くらしい。 
 営業部とシステム部はフロアが違うから、元々新人と偶然会う機会は少ないけれど……正直ほっとした。

 昼休みに、昨日来た新人からのメッセージを恐る恐る見る。そこには謝罪の言葉と出張に行くからしばらく会えない、戻ってきたら話がしたい、と書いてあった。胸の奥が鈍く痛む。

(今はまだ……会いたくない……)
 スマホでカレンダーを確認する。祐希とりりかがヨーロッパでの新婚旅行から戻ってくるのは、二週間後。私が引っ越し休暇をもらうのと、ちょうど入れ替わりになる。

 今この状態で、直接二人に会う勇気もない。りりかに根掘り葉掘り聞かれそうで。落ち着いたら、こちらから連絡しよう。

 水臭いって怒りそうだよね、りりかは。 
 でも……
 
(……ごめんね)
 落ち着いて考える時間を下さい。
 祐希にもりりかにも、そして――新人にも。
 ちゃんと話せるようになるから。

 だから、今は

 ――時間を下さい。

 そう思いながら、私は転勤に向けての準備を再開した。
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