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もう、友達でいられない
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「んっ、んんんんーっ」
ずっしりと圧し掛かってくる熱い身体が重い。息が出来ない。苦しい。
必死に抗って身体を捩っても、両手で胸板を叩いても、新人はキスを止めない。いつの間にか侵入してきた舌に、歯茎も舌も舐め回された。ぴちゃぴちゃと唾液が混ざる音が卑猥すぎて、目まいがする。
「んっ、んあ、はあ、んっ」
アルコールの匂いのするキスは、甘くて苦くて、そして辛かった。それでも唇を食まれているうちに、じわじわと熱いものがお腹の底から湧き上がってくる。
「んはっ、はあっ、は……あう!?」
左の耳たぶを甘噛みされて、肩がぴくんと震えた。新人が上半身を起こして、引き抜くように自分のコートを脱いだ。そして私のジャケットも引っ張って、無理矢理脱がせる。
ぴりとした感覚が、喉元を擦った。ジャケットと一緒に、鎖の切れたペンダントも床に放り投げられる。新人の右手が、そのまま背中のファスナーに回り、じゃっと下ろす音が聞こえた。
「ありさっ……!」
――切なく叫ぶ声に、新人を押している手から力が抜けそうになった。こんな声で私の名前、呼んでくれた事なんか今まで一度もない。
(どう、して……?)
――どうして、こんな声で呼ぶの? お酒に酔ってるから? 祐希とりりかの事、忘れたいから?
そんな事も聞けないうちに、新人が乱暴にワンピースを肩からずらした。喉元に、鎖骨に、我が物顔で吸い付く唇がちくりとした痛みをあちらこちらに残していく。
「っ……!」
新人が声にならない息を吐いた。まるで声を出さずに吠えているような、そんな顔つきをしている。
「ああっ」
右胸全体を薄いレース越しに掴まれた私は、思わず声を上げてしまった。先端を指で転がされて、ぴりぴりとした刺激が身体中を走る。
「や、めっ……ひゃあ、あん!」
下着の肩ひもも下にずらされ、白い膨らみが露わになる。ぎらぎらした目でそれを見ていた新人が、硬く尖っていた先端を口に含んだ。
「あっ、あああんっ」
舌で尖った蕾を転がされ、歯で甘噛みされた私は、新人の髪に手を差し入れて引っ張った。でも、新人の口は外れない。執拗に蕾を吸って舐めている。
(だめ……だめ……っ!)
快感が身体から力を奪っていく。新人の唇と舌と指に触られたい。もっと奪って欲しい。そんな想いが、私の決意を上回っていく。
(だけど、このまま流されてしまったら。そうしたら――)
新人は責任を取るって言うのだろう。そして私は、少しは愛されるんじゃないかって、期待してしまうのだろう。……そんな事、あり得ないのに。
――それでも、いいじゃない
――たった一度だけでも、愛されたなら
――身体だけでも繋がる事が出来るなら
そんな想いが私を捕らえて放さない。
新人の右手が、するりとスカートを捲り上げた。太腿に彼の手を感じて身震いした時だった。
……りりか
吐息と共に吐かれた新人の言葉を聞いた瞬間――身体に力が戻った。私はかっと目を見開き、思い切り右手を振り上げる。
「いやーっ!」
「――っ――!?」
バシン! と小気味いい音が響いた。呆然とした新人が、自分の左頬を押さえる。その隙に、思い切り新人の胸を両手で押した。火事場の馬鹿力が出たのか、新人がぐらりと体勢を崩す。
「うっ……!」
よろめいた新人の下から、私は抜け出した。ベッドから転がり出て、ずれた下着の紐を直し、後ろ手でファスナーを上げる。はあはあと息を乱しながら、私はベッドの上で尻もちをついた新人を睨み付けた。
「どう、して……どうしてこんな事するのよっ!?」
「あ、りさ……?」
今まで新人の前で一度も怒った事のない私の怒鳴り声に、彼は目を見張るだけだった。そんな新人の輪郭が、次第にぼやけてくる。
「り、りりかの事が好きなくせにっ……! 私の事なんて、何とも思ってないくせに……っ……!」
新人の顔が歪んだ。まるで泣くのを我慢しているような表情になっている。泣きたいのはこっちなのに、どうして罪悪感が込み上げてくるんだろう。
「ずっとりりかを見てたくせに! 祐希と一緒にいるりりかを見て、悲しそうな顔してたくせに! どうして好きでもない私なんかに手を出すのよっ!」
痛い。胸が痛い。堪えきれなかった涙がぽろぽろと零れ落ちる。
「ありさ」
新人の声に懇願するような響きが混ざっている。でも私は止められなかった。
「りっ、りりかを想うように、わっ、私の事、お、もえなくたって……っ、せ、せめて」
――ずっと、りりかになりたかった。あんな風にあなたに見つめられる彼女になりたかった。
――でも、それは。叶う事のない夢に過ぎなかったから。
ぐっと唇を噛んだ後、私は想いを絞り出すように叫んだ。
「せめて私の事、大事な友達だって思ってくれてるなら……こんな、こんな……」
祐希がいて、りりかがいて、新人がいて、私がいて。みんなで笑って、色んなところへ行って、はしゃいで。
あなたにとって、四人で過ごした日々も――それすら、どうでも良かったの?
私はあなたにとって、友達ですらなかったの?
りりかを忘れるために利用できる、そんな関係でしかなかったの?
「私を友達だと思う気持ちまで、汚すような真似、しないでよっ……!」
その瞬間、新人の顔から表情が抜け落ちた。
――その後の事はあまり覚えていない。床に落ちていたジャケットとショルダーバッグを引っ掴んで、新人の前から逃げ出した。何か新人が叫んでいたような気がしたけれど、耳元でがんがんと何かが鳴ってて、聞き取る事は出来なかった。
そのまま走って走って走って――駅の近くまで来た時、息が続かなくなって立ち止まった。背中を曲げて、息を吐く。全力疾走したなんて何年ぶりだろう。乱れた心臓と息は、中々元には戻らない。
「うっ……うっ……う」
ぽたり、ぽたりと涙が路上に落ちた。口元を震える手で押さえて、呻き声を隠す。
新人……新人……新人っ……!
(どうして……どうして……?)
ゲームでだって、どうして新人が私を抱いたのか、よく分からなかった。今だって……どうしてなのか、何も分からない。
(りりかの名前、呼んでた……)
祐希とりりかも、今頃ホテルの中だろう。そして二人で甘い夜を過ごしているに違いない。その事を忘れたくて、辛くて、こんな事したの?
(絶対りりかの事を忘れるために、好きでもない私を抱こうとしたんだ……)
新人に触れられた肌はまだ熱い。無理矢理に近かったけど乱暴ではなく、新人の手や唇は優しかった。私もお酒を飲んでいたら、きっと流されてしまっていたに違いない。
「ひっ、く……」
胸が痛い。痛くて痛くて、涙が止まらない。
馬鹿だ、私。これで良かったはずなのに――心のどこかで、これが新人に抱いてもらえる、最後のチャンスだったかもしれなかったのにって、囁く声がする。
(これで……おしまい……)
もう新人とは、友達の関係には戻れない。下唇をきゅっと噛んだ私は、ショルダーバッグからスマホを取り出した。結婚式からマナーモードにしていたスマホには、新人から電話もメッセージも何件か入ってる。私は震える指で画面を操作し、新人を着信拒否にして電源を切った後、またスマホをバッグに仕舞った。
「あら、と……」
好きだけど
好きだから
好きになって欲しかった
でも言えなかった
りりかを見つめる瞳で、私を見て欲しかった
いつも優しいあなたの視線に、熱さが籠るのを見たかった
そう、さっきみたいに
街灯の灯りが涙で薄ぼんやりと滲んだ。繁華街を歩く人たちは、皆楽しそうで……俯き加減に涙を落としている私の事なんて、誰も見向きもしなかった。
結局、私は駅前でタクシーを拾って家まで帰った。顔を洗おうと洗面所の鏡を覗き込んだ私の目に映ったのは、悲惨な自分の姿だった。泣き腫らしたまぶた、髪飾りも落ちてくしゃくしゃになった髪、皺だらけのワンピース……タクシーの運電手が「大丈夫ですか?」と気を遣ってくれた理由が分かった。
私は顔を洗い、ワンピースを脱いでシャワーを浴びた。新人に触れられた部分をごしごしと強めに洗う。シャワーと涙が入り混じって、私の頬を伝って流れる。
「っ……う、うっ……」
新人の唇も、舌も、指の感触も、全部全部覚えてる。きっと忘れられない。でも
(忘れ、なきゃ……)
そう、忘れないと。もう新人とは……友達同士ですら、なくなったのだから。今まで見たいに、気軽に話す事も出来なくなったのだから。
ずきずきと痛む胸を押さえたまま、私は暫くシャワーに打たれ続けていた。このぐずぐずした想いも、全部お湯で洗い流せたらいいのに。そんな事を思いながら。
しばらくしてお風呂場から出た私は、適当にTシャツを着てベッドに転がった。タオルで拭いただけの髪はまだ濡れていたけれど、ドライヤーで乾かすのももう億劫だ。
電気を消し、上掛け布団の中に潜り込む。ぎゅっと目を瞑った私の瞼に浮かんだのは――最後に見た新人の、蝋人形のような顔だった。
***
――辞令 システム部 水城 ありさを〇月一日より支社勤務とする。
散々泣きながら夜を明かした次の月曜の朝、麻色のとっくりセーターにデニムのフレアスカートを着て出勤した私を待っていたのは、支社転勤の辞令だった。
(これで……良かったんだ……)
社内Webに公表された辞令を自席のパソコンで見た私は、ほっと胸を撫で下ろした。
「ちょっと、水城さん!? 転勤って!?」
同じく辞令を見ていたらしい隣の原田 幸代さんが声を掛けてきた。私はやや引き攣った笑いを浮かべながら、「前々から考えていました。いい機会だと思ってチャレンジします」と答える。
冷たいタオルで冷やしたけど、どう見ても腫れぼったい目をした私の顔を彼女はじっと見ていたが、それ以上何も言わなかった。
「水城も応募したのか?」
低い声が後ろから聞こえた。思わずキーボードを打つ手が強張る。恐る恐る振り返ると、銀縁眼鏡の奥の鋭い目が私を見下ろしていた。原田さんが彼に話し掛ける。
「菅山くん、菅山くんも辞令出てたわよね。水城さんと同じプロジェクトなの?」
「ああ。目ぼしい開発も終えたし、新しい事に取り組もうと思ってな」
原田さんは菅山さんと同期同士だ。私は呆然と目の前に立つ菅山さんを見上げていた。
――菅山 建吾。私の先輩で腕利きのシステムエンジニア。黒髪を七三分けにし、銀縁眼鏡を掛けている彼は、ほとんど表情を動かさない。開発が佳境に入り皆が疲れて判断能力を無くしている状況でも、彼だけは冷静に判断を下す。
グレースーツに紺色のネクタイをした菅山さんが、原田さんと何か話しているようだったが、私の耳には言葉が入ってこなかった。
(菅山さんも、あのプロジェクトに!?)
新人を避けようと応募したのに、菅山さんが応募してたなんて知らなかった。ああ、でも、彼の性格なら、チャレンジするかもしれないって思わないといけなかったんだ。
菅山さんの視線が私の顔や肩に下ろした髪をじろじろと見回している。鋭い視線に観察されているようで、居心地が悪い。
「水城、またよろしく頼む。大変そうだが、やりがいもあるプロジェクトらしいから」
「は、はい。こちらこそよろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げると、原田さんに手を振った菅山さんは自分の席へと戻っていった。そっと胸を撫で下ろした私に、原田さんがさもありなんといた雰囲気で呟く。
「菅山くん、仕事厳しいからねえ。ついてくの、大変よきっと」
「まあ、それは今に始まった事でもありませんし。きっと大丈夫です」
私はさり気なさを装って原田さんに応じたが、心臓がどくどくと早鐘を打つのを抑えられなかった。
(仕事上では関わる事になるけど……)
大体、今だって同じシステム部の先輩だが、プライベートでは全く接点がない。菅山さんは飲み会にだってほぼ参加しないし、遅くまで残業する事も多い。仕事中は無駄口も叩かないし、私に構ってる暇なんてないだろう。菅山さんの実力だったら、多分プロジェクトマネージャーになるだろうし。
(気を付ければいいだけよね)
今まで通りに振る舞おう。そう心に決めた。
「私、人事部に行ってきますね」
原田さんに断って、席を立つ。転勤するなら、家探ししないといけない。会社でも現地の不動産業者を紹介してくれるから、まずはそこから始めよう。
(残業しても安全に帰宅できる範囲っていえば、どの辺りまでかしら)
――そう、思っていたのに
「ありさ」
びくっと肩が震えた。エレベーターホールで待っていた私が声のした方を向くと――ダークグレーのスーツを着た、表情のない新人がそこに立っていた。
ずっしりと圧し掛かってくる熱い身体が重い。息が出来ない。苦しい。
必死に抗って身体を捩っても、両手で胸板を叩いても、新人はキスを止めない。いつの間にか侵入してきた舌に、歯茎も舌も舐め回された。ぴちゃぴちゃと唾液が混ざる音が卑猥すぎて、目まいがする。
「んっ、んあ、はあ、んっ」
アルコールの匂いのするキスは、甘くて苦くて、そして辛かった。それでも唇を食まれているうちに、じわじわと熱いものがお腹の底から湧き上がってくる。
「んはっ、はあっ、は……あう!?」
左の耳たぶを甘噛みされて、肩がぴくんと震えた。新人が上半身を起こして、引き抜くように自分のコートを脱いだ。そして私のジャケットも引っ張って、無理矢理脱がせる。
ぴりとした感覚が、喉元を擦った。ジャケットと一緒に、鎖の切れたペンダントも床に放り投げられる。新人の右手が、そのまま背中のファスナーに回り、じゃっと下ろす音が聞こえた。
「ありさっ……!」
――切なく叫ぶ声に、新人を押している手から力が抜けそうになった。こんな声で私の名前、呼んでくれた事なんか今まで一度もない。
(どう、して……?)
――どうして、こんな声で呼ぶの? お酒に酔ってるから? 祐希とりりかの事、忘れたいから?
そんな事も聞けないうちに、新人が乱暴にワンピースを肩からずらした。喉元に、鎖骨に、我が物顔で吸い付く唇がちくりとした痛みをあちらこちらに残していく。
「っ……!」
新人が声にならない息を吐いた。まるで声を出さずに吠えているような、そんな顔つきをしている。
「ああっ」
右胸全体を薄いレース越しに掴まれた私は、思わず声を上げてしまった。先端を指で転がされて、ぴりぴりとした刺激が身体中を走る。
「や、めっ……ひゃあ、あん!」
下着の肩ひもも下にずらされ、白い膨らみが露わになる。ぎらぎらした目でそれを見ていた新人が、硬く尖っていた先端を口に含んだ。
「あっ、あああんっ」
舌で尖った蕾を転がされ、歯で甘噛みされた私は、新人の髪に手を差し入れて引っ張った。でも、新人の口は外れない。執拗に蕾を吸って舐めている。
(だめ……だめ……っ!)
快感が身体から力を奪っていく。新人の唇と舌と指に触られたい。もっと奪って欲しい。そんな想いが、私の決意を上回っていく。
(だけど、このまま流されてしまったら。そうしたら――)
新人は責任を取るって言うのだろう。そして私は、少しは愛されるんじゃないかって、期待してしまうのだろう。……そんな事、あり得ないのに。
――それでも、いいじゃない
――たった一度だけでも、愛されたなら
――身体だけでも繋がる事が出来るなら
そんな想いが私を捕らえて放さない。
新人の右手が、するりとスカートを捲り上げた。太腿に彼の手を感じて身震いした時だった。
……りりか
吐息と共に吐かれた新人の言葉を聞いた瞬間――身体に力が戻った。私はかっと目を見開き、思い切り右手を振り上げる。
「いやーっ!」
「――っ――!?」
バシン! と小気味いい音が響いた。呆然とした新人が、自分の左頬を押さえる。その隙に、思い切り新人の胸を両手で押した。火事場の馬鹿力が出たのか、新人がぐらりと体勢を崩す。
「うっ……!」
よろめいた新人の下から、私は抜け出した。ベッドから転がり出て、ずれた下着の紐を直し、後ろ手でファスナーを上げる。はあはあと息を乱しながら、私はベッドの上で尻もちをついた新人を睨み付けた。
「どう、して……どうしてこんな事するのよっ!?」
「あ、りさ……?」
今まで新人の前で一度も怒った事のない私の怒鳴り声に、彼は目を見張るだけだった。そんな新人の輪郭が、次第にぼやけてくる。
「り、りりかの事が好きなくせにっ……! 私の事なんて、何とも思ってないくせに……っ……!」
新人の顔が歪んだ。まるで泣くのを我慢しているような表情になっている。泣きたいのはこっちなのに、どうして罪悪感が込み上げてくるんだろう。
「ずっとりりかを見てたくせに! 祐希と一緒にいるりりかを見て、悲しそうな顔してたくせに! どうして好きでもない私なんかに手を出すのよっ!」
痛い。胸が痛い。堪えきれなかった涙がぽろぽろと零れ落ちる。
「ありさ」
新人の声に懇願するような響きが混ざっている。でも私は止められなかった。
「りっ、りりかを想うように、わっ、私の事、お、もえなくたって……っ、せ、せめて」
――ずっと、りりかになりたかった。あんな風にあなたに見つめられる彼女になりたかった。
――でも、それは。叶う事のない夢に過ぎなかったから。
ぐっと唇を噛んだ後、私は想いを絞り出すように叫んだ。
「せめて私の事、大事な友達だって思ってくれてるなら……こんな、こんな……」
祐希がいて、りりかがいて、新人がいて、私がいて。みんなで笑って、色んなところへ行って、はしゃいで。
あなたにとって、四人で過ごした日々も――それすら、どうでも良かったの?
私はあなたにとって、友達ですらなかったの?
りりかを忘れるために利用できる、そんな関係でしかなかったの?
「私を友達だと思う気持ちまで、汚すような真似、しないでよっ……!」
その瞬間、新人の顔から表情が抜け落ちた。
――その後の事はあまり覚えていない。床に落ちていたジャケットとショルダーバッグを引っ掴んで、新人の前から逃げ出した。何か新人が叫んでいたような気がしたけれど、耳元でがんがんと何かが鳴ってて、聞き取る事は出来なかった。
そのまま走って走って走って――駅の近くまで来た時、息が続かなくなって立ち止まった。背中を曲げて、息を吐く。全力疾走したなんて何年ぶりだろう。乱れた心臓と息は、中々元には戻らない。
「うっ……うっ……う」
ぽたり、ぽたりと涙が路上に落ちた。口元を震える手で押さえて、呻き声を隠す。
新人……新人……新人っ……!
(どうして……どうして……?)
ゲームでだって、どうして新人が私を抱いたのか、よく分からなかった。今だって……どうしてなのか、何も分からない。
(りりかの名前、呼んでた……)
祐希とりりかも、今頃ホテルの中だろう。そして二人で甘い夜を過ごしているに違いない。その事を忘れたくて、辛くて、こんな事したの?
(絶対りりかの事を忘れるために、好きでもない私を抱こうとしたんだ……)
新人に触れられた肌はまだ熱い。無理矢理に近かったけど乱暴ではなく、新人の手や唇は優しかった。私もお酒を飲んでいたら、きっと流されてしまっていたに違いない。
「ひっ、く……」
胸が痛い。痛くて痛くて、涙が止まらない。
馬鹿だ、私。これで良かったはずなのに――心のどこかで、これが新人に抱いてもらえる、最後のチャンスだったかもしれなかったのにって、囁く声がする。
(これで……おしまい……)
もう新人とは、友達の関係には戻れない。下唇をきゅっと噛んだ私は、ショルダーバッグからスマホを取り出した。結婚式からマナーモードにしていたスマホには、新人から電話もメッセージも何件か入ってる。私は震える指で画面を操作し、新人を着信拒否にして電源を切った後、またスマホをバッグに仕舞った。
「あら、と……」
好きだけど
好きだから
好きになって欲しかった
でも言えなかった
りりかを見つめる瞳で、私を見て欲しかった
いつも優しいあなたの視線に、熱さが籠るのを見たかった
そう、さっきみたいに
街灯の灯りが涙で薄ぼんやりと滲んだ。繁華街を歩く人たちは、皆楽しそうで……俯き加減に涙を落としている私の事なんて、誰も見向きもしなかった。
結局、私は駅前でタクシーを拾って家まで帰った。顔を洗おうと洗面所の鏡を覗き込んだ私の目に映ったのは、悲惨な自分の姿だった。泣き腫らしたまぶた、髪飾りも落ちてくしゃくしゃになった髪、皺だらけのワンピース……タクシーの運電手が「大丈夫ですか?」と気を遣ってくれた理由が分かった。
私は顔を洗い、ワンピースを脱いでシャワーを浴びた。新人に触れられた部分をごしごしと強めに洗う。シャワーと涙が入り混じって、私の頬を伝って流れる。
「っ……う、うっ……」
新人の唇も、舌も、指の感触も、全部全部覚えてる。きっと忘れられない。でも
(忘れ、なきゃ……)
そう、忘れないと。もう新人とは……友達同士ですら、なくなったのだから。今まで見たいに、気軽に話す事も出来なくなったのだから。
ずきずきと痛む胸を押さえたまま、私は暫くシャワーに打たれ続けていた。このぐずぐずした想いも、全部お湯で洗い流せたらいいのに。そんな事を思いながら。
しばらくしてお風呂場から出た私は、適当にTシャツを着てベッドに転がった。タオルで拭いただけの髪はまだ濡れていたけれど、ドライヤーで乾かすのももう億劫だ。
電気を消し、上掛け布団の中に潜り込む。ぎゅっと目を瞑った私の瞼に浮かんだのは――最後に見た新人の、蝋人形のような顔だった。
***
――辞令 システム部 水城 ありさを〇月一日より支社勤務とする。
散々泣きながら夜を明かした次の月曜の朝、麻色のとっくりセーターにデニムのフレアスカートを着て出勤した私を待っていたのは、支社転勤の辞令だった。
(これで……良かったんだ……)
社内Webに公表された辞令を自席のパソコンで見た私は、ほっと胸を撫で下ろした。
「ちょっと、水城さん!? 転勤って!?」
同じく辞令を見ていたらしい隣の原田 幸代さんが声を掛けてきた。私はやや引き攣った笑いを浮かべながら、「前々から考えていました。いい機会だと思ってチャレンジします」と答える。
冷たいタオルで冷やしたけど、どう見ても腫れぼったい目をした私の顔を彼女はじっと見ていたが、それ以上何も言わなかった。
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低い声が後ろから聞こえた。思わずキーボードを打つ手が強張る。恐る恐る振り返ると、銀縁眼鏡の奥の鋭い目が私を見下ろしていた。原田さんが彼に話し掛ける。
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「ああ。目ぼしい開発も終えたし、新しい事に取り組もうと思ってな」
原田さんは菅山さんと同期同士だ。私は呆然と目の前に立つ菅山さんを見上げていた。
――菅山 建吾。私の先輩で腕利きのシステムエンジニア。黒髪を七三分けにし、銀縁眼鏡を掛けている彼は、ほとんど表情を動かさない。開発が佳境に入り皆が疲れて判断能力を無くしている状況でも、彼だけは冷静に判断を下す。
グレースーツに紺色のネクタイをした菅山さんが、原田さんと何か話しているようだったが、私の耳には言葉が入ってこなかった。
(菅山さんも、あのプロジェクトに!?)
新人を避けようと応募したのに、菅山さんが応募してたなんて知らなかった。ああ、でも、彼の性格なら、チャレンジするかもしれないって思わないといけなかったんだ。
菅山さんの視線が私の顔や肩に下ろした髪をじろじろと見回している。鋭い視線に観察されているようで、居心地が悪い。
「水城、またよろしく頼む。大変そうだが、やりがいもあるプロジェクトらしいから」
「は、はい。こちらこそよろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げると、原田さんに手を振った菅山さんは自分の席へと戻っていった。そっと胸を撫で下ろした私に、原田さんがさもありなんといた雰囲気で呟く。
「菅山くん、仕事厳しいからねえ。ついてくの、大変よきっと」
「まあ、それは今に始まった事でもありませんし。きっと大丈夫です」
私はさり気なさを装って原田さんに応じたが、心臓がどくどくと早鐘を打つのを抑えられなかった。
(仕事上では関わる事になるけど……)
大体、今だって同じシステム部の先輩だが、プライベートでは全く接点がない。菅山さんは飲み会にだってほぼ参加しないし、遅くまで残業する事も多い。仕事中は無駄口も叩かないし、私に構ってる暇なんてないだろう。菅山さんの実力だったら、多分プロジェクトマネージャーになるだろうし。
(気を付ければいいだけよね)
今まで通りに振る舞おう。そう心に決めた。
「私、人事部に行ってきますね」
原田さんに断って、席を立つ。転勤するなら、家探ししないといけない。会社でも現地の不動産業者を紹介してくれるから、まずはそこから始めよう。
(残業しても安全に帰宅できる範囲っていえば、どの辺りまでかしら)
――そう、思っていたのに
「ありさ」
びくっと肩が震えた。エレベーターホールで待っていた私が声のした方を向くと――ダークグレーのスーツを着た、表情のない新人がそこに立っていた。
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