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好きだけど、死にたくないんです
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それは、私がぼーっと河川敷を歩いていた時の出来事だった。
どかん!
顔面を突然の衝撃に襲われた私は、そのまま地面に後ろ向きに倒れ込んでしまう。後頭部にごんと衝撃を受けた私の目に火花が散った。
「うわーお姉ちゃん大丈夫!?」
「大丈夫じゃねえ! 倒れたじゃねえか!」
「お前、どこ蹴ってんだよ! まともに顔面シュートだったぞ!」
「救急車ーっ!」
叫ぶ子ども達の声が、次第に遠くなっていく。
私が最後に見たのは、抜けるような青空と逆光で暗くなった子ども達の顔だった。
***
倒れた時に頭を打って気を失ってるから、念のため一晩入院って事になった。そう言うと、りりかは安心したように笑った。
「精密検査の結果、何ともなかったんだよね? 良かったね、ありさ」
「……うん。お見舞いありがと、りりか」
ふわりとした猫毛を肩に下ろしたりりかは、ぱっちりと大きな瞳を瞬いた。私が救急に運ばれたと知った彼女は、友人の中で真っ先に駆け付けてくれたのだ。ベッド近くのパイプ椅子に座ったりりかは、お見舞いのお花を活けた花瓶を備え付けのテーブルに置いてくれた。薄いサーモンピンクのワンピースが、彼女にはよく似合ってる。
――可愛くて、優しくて、妖精みたいなりりか。
私はふとりりかの後ろの窓ガラスを見た。そこに映っている私は、おでこにテーピングし、病院の寝間着を着た、黒髪ストレートの平凡な女の子だった。そう、私はりりかとは違う。皆から愛されているりりかとは。
「新人も祐希もありさが怪我して運ばれたって聞いてびっくりしてた。仕事が終わり次第、こっちに来るって」
「そ、う」
胸の奥がずきんと痛むのもいつもの事だ。そうして数分後、こんこんとドアをノックする音がした。がらりと引き戸を開けて入ってきたのは、スーツを着た長身の男性二人だった。
「ありさ、大丈夫か?」
「ボールに当てられたって?」
「新人、祐希。ありさは怪我人なのよ? もっと静かに入って来なさいよ」
ぷくっと頬を膨らませたりりかに、「ごめん、つい焦って」と頭を掻いたのが、新人だ。さらさらの黒髪に、涼し気な瞳。大正時代の書生さんのような雰囲気の彼は、会社でも一目置かれている営業マンだ。
「大丈夫だった? ありさ。お見舞い買って来たけど」
そう言って私の好きな店のシュークリームが入った小箱を掲げたのが祐希。新人と同じくらい背が高い彼は、やや茶色がかったくせ毛にたれ目がちな瞳で、何とも色っぽい男性だ。祐希だけが、りりかと私そして新人とは違う会社で研究職員として働いている。
「うん、大丈夫。ありがとう、新人、祐希」
小箱を受け取った私は、小さく微笑んで礼を言った。りりかが立ち上がり、祐希の二の腕に自分の左手を絡ませた。その薬指がきらりと光る。
「ねえ、祐希。帰りにあのお店に寄っていい? シュークリーム見てたら、ケーキ食べたくなっちゃった」
りりかを見下ろす祐希の表情は、とても甘かった。
「いいよ、りりか。食べ過ぎないと約束してくれるならね?」
「もう! そんな事しないわよ。だって、ウェディングドレスが入らなくなったら大変だもの」
私はそっと新人の方を見た。じゃれあってるりりかと祐希を見ている新人は、どこか他人行儀で――そして辛そうだった。でも、二人が新人の方を向いた時、彼の顔にはいつもの笑みしか浮かんでいなかった。
「新人はどうする? 一緒に食いに行くか?」
「俺はいいよ。あてられて、馬に蹴られたくないからな」
おどけた感じで言ってるけど、彼の胸の内は痛みで一杯なんだろう。今の私みたいに。
「じゃあ、ありさ。また来るね」
「もういいよ、りりか。明日すぐ退院だし、会社で会えるじゃない」
「そう?」
小首を傾げたりりかは、本当に可愛らしくて――新人も祐希もその笑顔に見とれていた。
「じゃあ、会社でね。ゆっくり休んで」
「じゃあな、ありさ」
祐希とりりかは腕を組んでる。新人はスーツの上着のポケットに両手を突っ込んで、私の方を振り向いた。
「じゃ」
「うん、気を付けて帰ってね」
がらがら、とドアが閉まる。三人の足音が病室から遠ざかっていく。私は小箱をテーブルの上に置き、ふうと溜息をついた。
大学時代からの仲良し四人組。私、水城 ありさに山野 りりか。そして久遠 新人に風間 祐希。同じ経済学科に入った私達は、映画サークルで出会った。引っ込み思案で人付き合いの苦手だった私に、りりかは明るく声を掛けてくれた。新人と祐希も、りりかに引っ張られる形で私と仲良くしてくれた。
……でも、いつの頃からだろう。新人と祐希が――私に向ける目とは違う目でりりかを見てるって気が付いたのは。
ふわふわで可愛くて、優しくて明るいりりかは大学でも人気者で。一方の私は、『いるのかいないのか分からない』と言われるほど、存在感が薄くて目立たない人間だった。
りりかと私と新人が、三人同じ会社に受かったって知った時は、同期同士仲良くしようねと笑い合った。土日は祐希も誘って四人で遊びに行って、バカやって、笑って……でも、いつだって私の中には違和感があった。
それが分かったのは、入社して二年目の夏。四人で海に泳ぎに行った時、そこで初めて、りりかと祐希から結婚するって宣言されたのだ。
そして、その時――新人は一瞬目を見開いて、口元を強張らせた。でもすぐに、笑って「おめでとう」と二人に言った。私は重しを飲み込んだような気持ちがした。
ああ、新人も……やっぱり、りりかを好きだったんだ。
私の胸の奥の痛みは、誰にも言わなかった。
仲のいいりりかと祐希をからかう新人の一瞬見せる悲しみに気付かないふりをして、私は三人の傍にいた。目立つ三人と平凡な私が一緒にいるのは不相応だ、なんて言われた事もあった。でも、離れられなかった。
だって、私は。
りりかを切なそうに見つめる、新人の事が大好きだったから――
***
(……っ、だめ私!)
まずい。非常にまずい。過去の回想シーンを思い出した私の顔からは血の気が引いていた。
(ここってやっぱり、『愛しいあなたは彼女を愛してる』の世界だ……っ……)
顔面にサッカーボールが当たり、頭を打った衝撃なのか、目が覚めた時私は全てを思い出していた。
社畜として働いていた時の息抜きに妹に借りたR18ゲームの内容も、突然会社で倒れてからの記憶がない事も。
そう、ここは妹がドはまりしていた、R18のゲームの世界に間違いない。『愛しいあなたは彼女を愛してる』は、『ヒロインが辛く悲しい目に遭う事がカタルシス』を売り言葉にしていたゲーム。ドアマットのように踏みつけられるヒロイン水城ありさは、これでもかというくらい、悲しい目に遭うのだ。
まずは、久遠 新人(26)。大学の仲良し四人組の一人で、頭がよく顔もいい彼は大学時代もモテモテだった。だけど、彼はずっと山野りりかの事が好きで、彼女しか見ていなかった。
そんな彼を好きになったヒロイン水城ありさは、りりかと祐希の結婚式で酒に酔った新人と一線を越えてしまう。ありさはずっと新人に片思いをしていて、やけ酒に溺れた新人を放っておけなかったのだ。
新人からプロポーズされたありさは、大好きな彼と結婚する。しばらくは幸せな日々が続いたけれど、りりかと祐希の関係が怪しくなった頃からおかしくなってしまう。
祐希が新人とりりかの関係を疑い始め、りりかを責めるようになる。そんなりりかを庇う新人。りりかも次第に新人を頼るようになる。そしてありさは、新人とりりかが自分たちの新居で抱き合ってる姿を見てしまい、咄嗟に家を飛び出してしまう。
そして――呆然と歩いていたところをトラックに跳ねられて、そのまま死亡。祐希と離婚したりりかは、新人と新しい人生を歩むのだ。
(報われない……報われないよ、私……っ……!)
いつか新人も自分を振り向いてくれるかも知れない、好きになってくれなくても傍にいたい……そう思ってたありさの心は、振り向いてくれない新人のために砕け散ってしまう。そして、最後は交通事故死。
(だめだ、新人ルートは阻止しないと)
新人の事は大好きだ。今でも覚醒する前の私の気持ちが残ってる。胸が締め付けられるような痛みを伴う、隠していた想いが。……だけど。
(死にたくないよ……)
りりかの事忘れられないのに、酒に酔って一度間違えて抱いたからって、私と結婚して。それに私も、いつかは私を愛してくれるかも、なんて淡い期待を抱いて、本当報われない。
(結局、新人はりりかを選ぶんだから、だめだよね……)
さっき祐希が買ってくれたシュークリームを一つ、ぱくりと頬張る。程よい甘みのカスタードクリームが口の中で蕩けた。
好きになって欲しい、私を見て欲しいって気持ちがなくなった訳じゃないけど、もう忘れないといけない。さもなくば、死が待っているんだから。
「ああ、でも……新人を避けたとしても、次があるのよね、確か」
私の頭の中に浮かんだのは、眼鏡を掛けたいつも沈着冷静な先輩の顔だった。
菅山 建吾(28)。私達と同じ会社の先輩。銀縁眼鏡がトレードマークの先輩は、新人と同じくらい背が高い。髪を七三分けにしていて、生真面目そうだけど、眼鏡を取るとすんごい美形という設定だった。
彼はヒロインが新人ルートに行かなかった時に出てくるキャラ。新人に片思いをしているヒロインに、ぐいぐい迫ってくるのだ。失恋したところに熱烈にラブコールを受けたヒロインは、結局絆されて彼と結婚。
……しかし。その後彼の態度は豹変する。
彼は実家を継ぐために誰かと結婚しないといけなかっただけなのだ。それで騙されやすいヒロインを選んだ。結婚したらもう用済みとばかりに冷たい態度を取られ、それでも健気なヒロインは頑張るけれど――最後は妊娠中に浮気されてショックで流産、そのまま家を出るラストだったわよね。
(こちらも報われないわ……死なないだけましだけど)
今のところ、先輩と私との接点は仕事しかない。うん、このまま仕事だけの関係に留めよう。
(それから、もう一人いたわよね、攻略対象が)
戸津 賢志(30)。私の実家の隣に住んでいた、幼馴染のお兄ちゃん。大学時代ラグビーをやっていた、筋肉逞しいスポーツマン。短髪で日に焼けた肌が似合う、明るい男性だ。お兄ちゃんのルートは、新人と菅山先輩をスルーした時に発生する。
賢志お兄ちゃんは、私の姉であるみすずが好きで、ずっと片思いをしている。お姉ちゃんが結婚して、それでも諦められなくて、少しでも似ている妹の私と結婚するという設定。ただでさえ明るく美人な姉にコンプレックスを持っているのに、髪形とか仕草とかを姉と比べられ、どんどん精神的に追い詰められていった私は、逆上して彼をナイフで刺し、そして自ら命を絶つ……というストーリーだった。
……ダメ、絶対。殺人犯にはなりたくない。
(賢志お兄ちゃんは、今は一人暮らしをしてたはず。わざわざ会いに行かなければ、会う事もないよね)
私は机に置いてあったバッグを引き寄せ、中から手帳とペンを取り出した。そして、今後の対策を考えながらメモしていく。
その1.りりかと祐希の結婚式の三次会には出ない。酒に酔った新人は他の人に任せる。
その2.菅山先輩が甘い言葉を掛けてきても信用しない。仕事上の関係に留める。
その3.賢志お兄ちゃんには極力会わない。連絡もしない。
「とりあえず、一ヶ月後の結婚式を乗り切れば、その1はクリアできるはずだよね」
りりかと祐希の結婚式。もちろん、新人も私も呼ばれている。
(新人は……辛いんだろうな……)
自分の親友と愛する女性の結婚式。幸せそうな二人を祝福しないといけないなんて。……でも、そんな新人に報われない恋をしている私も大概だと思う。
(思い出したお陰で、少し冷静になれたかも。とにかく流されちゃだめ)
ぱたんと手帳を閉じた私は、決意した。
「――ドアマットヒロインの座から、逃げ出して見せる……!」
――と。
どかん!
顔面を突然の衝撃に襲われた私は、そのまま地面に後ろ向きに倒れ込んでしまう。後頭部にごんと衝撃を受けた私の目に火花が散った。
「うわーお姉ちゃん大丈夫!?」
「大丈夫じゃねえ! 倒れたじゃねえか!」
「お前、どこ蹴ってんだよ! まともに顔面シュートだったぞ!」
「救急車ーっ!」
叫ぶ子ども達の声が、次第に遠くなっていく。
私が最後に見たのは、抜けるような青空と逆光で暗くなった子ども達の顔だった。
***
倒れた時に頭を打って気を失ってるから、念のため一晩入院って事になった。そう言うと、りりかは安心したように笑った。
「精密検査の結果、何ともなかったんだよね? 良かったね、ありさ」
「……うん。お見舞いありがと、りりか」
ふわりとした猫毛を肩に下ろしたりりかは、ぱっちりと大きな瞳を瞬いた。私が救急に運ばれたと知った彼女は、友人の中で真っ先に駆け付けてくれたのだ。ベッド近くのパイプ椅子に座ったりりかは、お見舞いのお花を活けた花瓶を備え付けのテーブルに置いてくれた。薄いサーモンピンクのワンピースが、彼女にはよく似合ってる。
――可愛くて、優しくて、妖精みたいなりりか。
私はふとりりかの後ろの窓ガラスを見た。そこに映っている私は、おでこにテーピングし、病院の寝間着を着た、黒髪ストレートの平凡な女の子だった。そう、私はりりかとは違う。皆から愛されているりりかとは。
「新人も祐希もありさが怪我して運ばれたって聞いてびっくりしてた。仕事が終わり次第、こっちに来るって」
「そ、う」
胸の奥がずきんと痛むのもいつもの事だ。そうして数分後、こんこんとドアをノックする音がした。がらりと引き戸を開けて入ってきたのは、スーツを着た長身の男性二人だった。
「ありさ、大丈夫か?」
「ボールに当てられたって?」
「新人、祐希。ありさは怪我人なのよ? もっと静かに入って来なさいよ」
ぷくっと頬を膨らませたりりかに、「ごめん、つい焦って」と頭を掻いたのが、新人だ。さらさらの黒髪に、涼し気な瞳。大正時代の書生さんのような雰囲気の彼は、会社でも一目置かれている営業マンだ。
「大丈夫だった? ありさ。お見舞い買って来たけど」
そう言って私の好きな店のシュークリームが入った小箱を掲げたのが祐希。新人と同じくらい背が高い彼は、やや茶色がかったくせ毛にたれ目がちな瞳で、何とも色っぽい男性だ。祐希だけが、りりかと私そして新人とは違う会社で研究職員として働いている。
「うん、大丈夫。ありがとう、新人、祐希」
小箱を受け取った私は、小さく微笑んで礼を言った。りりかが立ち上がり、祐希の二の腕に自分の左手を絡ませた。その薬指がきらりと光る。
「ねえ、祐希。帰りにあのお店に寄っていい? シュークリーム見てたら、ケーキ食べたくなっちゃった」
りりかを見下ろす祐希の表情は、とても甘かった。
「いいよ、りりか。食べ過ぎないと約束してくれるならね?」
「もう! そんな事しないわよ。だって、ウェディングドレスが入らなくなったら大変だもの」
私はそっと新人の方を見た。じゃれあってるりりかと祐希を見ている新人は、どこか他人行儀で――そして辛そうだった。でも、二人が新人の方を向いた時、彼の顔にはいつもの笑みしか浮かんでいなかった。
「新人はどうする? 一緒に食いに行くか?」
「俺はいいよ。あてられて、馬に蹴られたくないからな」
おどけた感じで言ってるけど、彼の胸の内は痛みで一杯なんだろう。今の私みたいに。
「じゃあ、ありさ。また来るね」
「もういいよ、りりか。明日すぐ退院だし、会社で会えるじゃない」
「そう?」
小首を傾げたりりかは、本当に可愛らしくて――新人も祐希もその笑顔に見とれていた。
「じゃあ、会社でね。ゆっくり休んで」
「じゃあな、ありさ」
祐希とりりかは腕を組んでる。新人はスーツの上着のポケットに両手を突っ込んで、私の方を振り向いた。
「じゃ」
「うん、気を付けて帰ってね」
がらがら、とドアが閉まる。三人の足音が病室から遠ざかっていく。私は小箱をテーブルの上に置き、ふうと溜息をついた。
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……でも、いつの頃からだろう。新人と祐希が――私に向ける目とは違う目でりりかを見てるって気が付いたのは。
ふわふわで可愛くて、優しくて明るいりりかは大学でも人気者で。一方の私は、『いるのかいないのか分からない』と言われるほど、存在感が薄くて目立たない人間だった。
りりかと私と新人が、三人同じ会社に受かったって知った時は、同期同士仲良くしようねと笑い合った。土日は祐希も誘って四人で遊びに行って、バカやって、笑って……でも、いつだって私の中には違和感があった。
それが分かったのは、入社して二年目の夏。四人で海に泳ぎに行った時、そこで初めて、りりかと祐希から結婚するって宣言されたのだ。
そして、その時――新人は一瞬目を見開いて、口元を強張らせた。でもすぐに、笑って「おめでとう」と二人に言った。私は重しを飲み込んだような気持ちがした。
ああ、新人も……やっぱり、りりかを好きだったんだ。
私の胸の奥の痛みは、誰にも言わなかった。
仲のいいりりかと祐希をからかう新人の一瞬見せる悲しみに気付かないふりをして、私は三人の傍にいた。目立つ三人と平凡な私が一緒にいるのは不相応だ、なんて言われた事もあった。でも、離れられなかった。
だって、私は。
りりかを切なそうに見つめる、新人の事が大好きだったから――
***
(……っ、だめ私!)
まずい。非常にまずい。過去の回想シーンを思い出した私の顔からは血の気が引いていた。
(ここってやっぱり、『愛しいあなたは彼女を愛してる』の世界だ……っ……)
顔面にサッカーボールが当たり、頭を打った衝撃なのか、目が覚めた時私は全てを思い出していた。
社畜として働いていた時の息抜きに妹に借りたR18ゲームの内容も、突然会社で倒れてからの記憶がない事も。
そう、ここは妹がドはまりしていた、R18のゲームの世界に間違いない。『愛しいあなたは彼女を愛してる』は、『ヒロインが辛く悲しい目に遭う事がカタルシス』を売り言葉にしていたゲーム。ドアマットのように踏みつけられるヒロイン水城ありさは、これでもかというくらい、悲しい目に遭うのだ。
まずは、久遠 新人(26)。大学の仲良し四人組の一人で、頭がよく顔もいい彼は大学時代もモテモテだった。だけど、彼はずっと山野りりかの事が好きで、彼女しか見ていなかった。
そんな彼を好きになったヒロイン水城ありさは、りりかと祐希の結婚式で酒に酔った新人と一線を越えてしまう。ありさはずっと新人に片思いをしていて、やけ酒に溺れた新人を放っておけなかったのだ。
新人からプロポーズされたありさは、大好きな彼と結婚する。しばらくは幸せな日々が続いたけれど、りりかと祐希の関係が怪しくなった頃からおかしくなってしまう。
祐希が新人とりりかの関係を疑い始め、りりかを責めるようになる。そんなりりかを庇う新人。りりかも次第に新人を頼るようになる。そしてありさは、新人とりりかが自分たちの新居で抱き合ってる姿を見てしまい、咄嗟に家を飛び出してしまう。
そして――呆然と歩いていたところをトラックに跳ねられて、そのまま死亡。祐希と離婚したりりかは、新人と新しい人生を歩むのだ。
(報われない……報われないよ、私……っ……!)
いつか新人も自分を振り向いてくれるかも知れない、好きになってくれなくても傍にいたい……そう思ってたありさの心は、振り向いてくれない新人のために砕け散ってしまう。そして、最後は交通事故死。
(だめだ、新人ルートは阻止しないと)
新人の事は大好きだ。今でも覚醒する前の私の気持ちが残ってる。胸が締め付けられるような痛みを伴う、隠していた想いが。……だけど。
(死にたくないよ……)
りりかの事忘れられないのに、酒に酔って一度間違えて抱いたからって、私と結婚して。それに私も、いつかは私を愛してくれるかも、なんて淡い期待を抱いて、本当報われない。
(結局、新人はりりかを選ぶんだから、だめだよね……)
さっき祐希が買ってくれたシュークリームを一つ、ぱくりと頬張る。程よい甘みのカスタードクリームが口の中で蕩けた。
好きになって欲しい、私を見て欲しいって気持ちがなくなった訳じゃないけど、もう忘れないといけない。さもなくば、死が待っているんだから。
「ああ、でも……新人を避けたとしても、次があるのよね、確か」
私の頭の中に浮かんだのは、眼鏡を掛けたいつも沈着冷静な先輩の顔だった。
菅山 建吾(28)。私達と同じ会社の先輩。銀縁眼鏡がトレードマークの先輩は、新人と同じくらい背が高い。髪を七三分けにしていて、生真面目そうだけど、眼鏡を取るとすんごい美形という設定だった。
彼はヒロインが新人ルートに行かなかった時に出てくるキャラ。新人に片思いをしているヒロインに、ぐいぐい迫ってくるのだ。失恋したところに熱烈にラブコールを受けたヒロインは、結局絆されて彼と結婚。
……しかし。その後彼の態度は豹変する。
彼は実家を継ぐために誰かと結婚しないといけなかっただけなのだ。それで騙されやすいヒロインを選んだ。結婚したらもう用済みとばかりに冷たい態度を取られ、それでも健気なヒロインは頑張るけれど――最後は妊娠中に浮気されてショックで流産、そのまま家を出るラストだったわよね。
(こちらも報われないわ……死なないだけましだけど)
今のところ、先輩と私との接点は仕事しかない。うん、このまま仕事だけの関係に留めよう。
(それから、もう一人いたわよね、攻略対象が)
戸津 賢志(30)。私の実家の隣に住んでいた、幼馴染のお兄ちゃん。大学時代ラグビーをやっていた、筋肉逞しいスポーツマン。短髪で日に焼けた肌が似合う、明るい男性だ。お兄ちゃんのルートは、新人と菅山先輩をスルーした時に発生する。
賢志お兄ちゃんは、私の姉であるみすずが好きで、ずっと片思いをしている。お姉ちゃんが結婚して、それでも諦められなくて、少しでも似ている妹の私と結婚するという設定。ただでさえ明るく美人な姉にコンプレックスを持っているのに、髪形とか仕草とかを姉と比べられ、どんどん精神的に追い詰められていった私は、逆上して彼をナイフで刺し、そして自ら命を絶つ……というストーリーだった。
……ダメ、絶対。殺人犯にはなりたくない。
(賢志お兄ちゃんは、今は一人暮らしをしてたはず。わざわざ会いに行かなければ、会う事もないよね)
私は机に置いてあったバッグを引き寄せ、中から手帳とペンを取り出した。そして、今後の対策を考えながらメモしていく。
その1.りりかと祐希の結婚式の三次会には出ない。酒に酔った新人は他の人に任せる。
その2.菅山先輩が甘い言葉を掛けてきても信用しない。仕事上の関係に留める。
その3.賢志お兄ちゃんには極力会わない。連絡もしない。
「とりあえず、一ヶ月後の結婚式を乗り切れば、その1はクリアできるはずだよね」
りりかと祐希の結婚式。もちろん、新人も私も呼ばれている。
(新人は……辛いんだろうな……)
自分の親友と愛する女性の結婚式。幸せそうな二人を祝福しないといけないなんて。……でも、そんな新人に報われない恋をしている私も大概だと思う。
(思い出したお陰で、少し冷静になれたかも。とにかく流されちゃだめ)
ぱたんと手帳を閉じた私は、決意した。
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――と。
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