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5.

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「……綾香!? おはよう。珍しいわね、この時間にロビーで会うなんて」
「おはよう、みどり……」
息を切らして会社に入った綾香は、同期の早見はやみ碧と並んでエレベーターを待った。
(ああもう! あの男のせいでっ!)
いつもなら、もうとっくに席に着いている時間なのに。今日は定時の二十分前……いつもは一時間半前に出社する綾香にとって初めての黒星だ。
昨夜は腹が立って、むしゃくしゃして、おまけにキスされた唇が熱くて、なかなか寝付けなかった。おかげで珍しく寝坊し、いつもきちんとまとめているセミロングの髪も下ろしたままだ。
「ねえ、綾香? あなた感じ変わったよね。社長代理のおかげなの?」
「え?」
綾香は隣に立つ碧を見た。髪を肩のあたりでくるんと巻き、淡いイエローのワンピースを着た碧は、可愛い外見ながらもしっかり者だ。そんな彼女が綾香を見て、うんうんと頷く。
「なんていうか……綾香ってとっつきにくい感じだったのよね。サイボーグ感満載で」
綾香の目が点になる。サイボーグ感とは何だろうか。同期で一番仲のいい友人の言葉に、綾香は戸惑うしかない。
開いたエレベーターに一緒に乗り込みながら、碧は続ける。
「だけど今は、すごくいい感じになっているわよ? 生き生きしているっていうのかしら」
「そ、そう……?」
(怒りモードの間違いじゃないの?)
心の中で反論する綾香に、碧はにやりと笑って見せる。
「いいこと、思いついちゃった。ねえ、綾香。ちょっと総務部に寄っていってよ」
「え? でも時間が……」
普段より遅いのに、と躊躇ちゅうちょする綾香に、碧が畳みかけるように言った。
「いつもが早すぎるのよ。大丈夫、定時の五分前には席に座れるようにするから」
「ちょ、ちょっと、碧」
エレベーターが総務部のある三階に着いた途端、腕を引かれて降ろされた綾香は、そのまま鼻歌交じりの碧に引っ張られていった。

***

(今日、来客予定がなくて良かった……)
秘書室の姿見をのぞいた綾香は、はああと深く溜息をついた。
――見慣れない顔がそこにあった。コテでふわっとカールさせた髪は、肩にやわらかく落ち、つけ睫毛まつげにアイラインをほどこした目はいつもより大きくて……普段の綾香は、ここまで化粧はしない。
気後きおくれする綾香の耳に、さっき碧に言われた言葉がよみがえった。
『大体、綾香はもったいなさすぎるのよ! 美人なんだから、これくらいしなさいっ!』
碧はそう言って、自分のロッカーからコテやら化粧品やらを引っ張り出してきて、あれよあれよという間にこのメイクを完成させてしまったのだ。
早業はやわざ……』
呆然と呟くと、『だって、始業時間に間に合うようにメイクしないといけないでしょ~?』という答えが返ってきた。通勤でメイクが乱れるため、碧はいつも家ではベースメイクと眉だけ整え、会社に来てから完璧に仕上げるのだそうだ。
『前から綾香を変身させたかったのよ~。あ、そうそう、今日同期で飲みに行こうって話があるんだけど、綾香も来なさいよ』
『え? 私……』
『今まで妹さんのために早く帰らないといけないからって、ほとんど飲み会にも参加していなかったでしょ? たまにはいいじゃない』
『……そう、ね……』
今までは綾菜がいたから。でもこれからはもう……
綾香の胸の痛みを察したのか、碧がぽん、と肩を叩いた。
『今度は綾香の番でしょ? いい加減、恋人作ったら? 綾香が好みだって言ってる男の人、結構社内にいるのよ?』
『今は、そんな気に――』
なれない、と言おうとしたら、むにっと両手で頬を引っ張られた。
『何言っているのよ! いつ恋人を作るの!? 今でしょ! 今しかないって!』
『み、碧……』
『大体、あんなセクシーな社長代理と一緒にいるっていうのに、もったいないわよっ!』
うぐっ、と綾香は声を詰まらせた。またあの瞳を思い出しそうになり、必死に頭から振り払う。
『そ、そんなの関係ないわよ。仕事に厳しい方だし……』
(おまけに意地悪で、俺様で、わけの分からないことばっかり言うしっ)
碧はそんな綾香の表情の変化をじーっと見つめると、ふふふ、としたり顔で笑った。
『と・に・か・く! 今日は飲み会よ、準備しておいてね!』

(碧に流されたわ……)
碧は普段から、綾香が仕事一筋でいるのが気がかりだったらしく、合コンなどの企画をセッティングしようとしていた。綾香はそれを、仕事や綾菜を理由に全て断っていたのだが。
(でもたまには、同期で集まるのもいいわよね。久しぶりだし)
同期の顔を思い浮かべながら、机の上に置かれた営業部からの書類を見た綾香は、そこに書かれていた名前に目を留めた。白井圭一しらいけいいちだ。
(白井くん、この春から営業部の課長になったのよね。頑張ってるんだ……)
同期の出世頭の顔を思い浮かべ、ふふっと笑みをこぼした時、秘書室のドアが開いた。黒のスーツを着た司が、さっさっと入ってくる。
「……おはようございます、社長代理」
綾香はいつものように頭を下げた。
「ああ、お……」
(……あら?)
綾香が顔を上げると、司の動きが止まっていた。目を見開いて呆然と綾香を見下ろしている。
「あの……?」
首をかしげた綾香に、司は我に返ったようにまばたきをし「……おはよう」と小さく返す。
「今日、何かあるのか?」
「え?」
綾香は目をぱちくりさせたが、そういえば、と今の自分のメイクを思い出した。
「え、ええ……今日、同期会が」
「同期?」
「久しぶりなので、楽しみにしているんです。前々から誘われていたんですけれど……」
司は沈黙したままだ。何を考えているのか、全く読めない。ただ綾香を見下ろす瞳がぎらついているような気がした。
(な、何とかして、この空気……どうしてにらまれているの、私!?)
綾香は思わず顔を引きらせる。
「なら、とっとと仕事を終わらせるんだな。昨日より多くなるが。……無理ならいいんだぞ?」
海斗が同じことを言ったなら、優しさとして受け止められただろうが、司の場合は皮肉にしか思えなくて、かちんときた。
(用事があるって分かっていて、わざと仕事を増やす気なんだわっ! そっちがその気なら、受けて立つわよっ!)
つん、と顔を上げて、司の瞳を正面から見上げた。
「いえ、最後まで仕上げます。仕事の手を抜くつもりはございませんので」
「上等だ」
つい、と司が社長室に入る。バタンと閉まったドアに、思わず舌を出してやりたくなる。声は似ていると思っていたのに……あんな皮肉の込もった言い方、海斗なら絶対しない。
(嫌味ったらしいったらっ!)
これで仕事に不備があったなら、あの男はそれ見たことか、とせせら笑うに違いない。綾香の闘志に火がついた。
「文句のつけようのない、仕事ぶりを見せてやる!」
背中に炎を背負ったまま綾香は自席につき、パソコンのキーボードを恐ろしい勢いで叩き始めるのだった。

***

「綾香ー? まだなの?」
終業時間を十五分ほど過ぎた頃。
少し遅れる、と言った綾香を、碧が迎えに来ていた。
「碧……もう終わるわ」
タタタタッと最後のメールを打ち込み、送信。ふう、と綾香は溜息をついた。
「……これで、終わり」
こきこきと肩を回す綾香に、碧は「すごいわね~」と感心したような声を出した。
「綾香が仕事しているところってあまり見たことなかったけど、鬼気迫ききせまるっていうか、迫力あったわ~」
「そう?」
(怒るとそのエネルギーが仕事用に変換されるのかも……)
何とも言えない達成感が綾香を支配していた。椅子から立ち、パソコンの電源を落とす。すでにチェック済みの書類のたばを手に持ち、社長室に向かおうとしたところで、社長室のドアが開いた。
「できたのか?」
背後で碧が息を呑む気配がした。綾香はそれを尻目ににっこりと笑って、書類を司に手渡す。
「本日予定していた分と明日の予定表です。ご確認下さい」
「分かった」
書類を受け取った司は、碧の方へ目を向けた。碧が慌ててぺこり、とお辞儀をする。
「水瀬の同期、か」
「は、はい! 総務部の早見碧と申します」
その瞬間、司の瞳がきらりと光ったように見えた。
「今日は同期会だそうだが、あまりこいつに飲ませないように」
「は!?」
(突然何を言いだすの!?)
綾香は咄嗟とっさに司を見た。碧も不思議そうな顔で司を見ている。司は素知そしらぬ顔で言葉をいだ。
「こいつは酒に弱いからな。酔ったところを他の男に任せたくない」
(な、何、言っているの、この男はぁっ!!)
綾香の頬が、かああっと熱くなった。碧は目を丸くした後、「分かりました!」とお辞儀をし、綾香の顔を見てにやりと笑った。
『後で洗いざらい白状してもらうわよっ』
そう顔に書いてある。こうなったらもう、白状するまで碧は決して離してくれない。
(余計なことをっ……!)
「ご苦労だった、水瀬。もういいぞ? 久しぶりの同期会、楽しんでこい」
怒りのあまりふるふると震える綾香を見て、司は肉食獣の笑みを浮かべながらそう言った。
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