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「……綾香!? おはよう。珍しいわね、この時間にロビーで会うなんて」
「おはよう、碧……」
息を切らして会社に入った綾香は、同期の早見碧と並んでエレベーターを待った。
(ああもう! あの男のせいでっ!)
いつもなら、もうとっくに席に着いている時間なのに。今日は定時の二十分前……いつもは一時間半前に出社する綾香にとって初めての黒星だ。
昨夜は腹が立って、むしゃくしゃして、おまけにキスされた唇が熱くて、なかなか寝付けなかった。おかげで珍しく寝坊し、いつもきちんとまとめているセミロングの髪も下ろしたままだ。
「ねえ、綾香? あなた感じ変わったよね。社長代理のおかげなの?」
「え?」
綾香は隣に立つ碧を見た。髪を肩のあたりでくるんと巻き、淡いイエローのワンピースを着た碧は、可愛い外見ながらもしっかり者だ。そんな彼女が綾香を見て、うんうんと頷く。
「なんていうか……綾香ってとっつきにくい感じだったのよね。サイボーグ感満載で」
綾香の目が点になる。サイボーグ感とは何だろうか。同期で一番仲のいい友人の言葉に、綾香は戸惑うしかない。
開いたエレベーターに一緒に乗り込みながら、碧は続ける。
「だけど今は、すごくいい感じになっているわよ? 生き生きしているっていうのかしら」
「そ、そう……?」
(怒りモードの間違いじゃないの?)
心の中で反論する綾香に、碧はにやりと笑って見せる。
「いいこと、思いついちゃった。ねえ、綾香。ちょっと総務部に寄っていってよ」
「え? でも時間が……」
普段より遅いのに、と躊躇する綾香に、碧が畳みかけるように言った。
「いつもが早すぎるのよ。大丈夫、定時の五分前には席に座れるようにするから」
「ちょ、ちょっと、碧」
エレベーターが総務部のある三階に着いた途端、腕を引かれて降ろされた綾香は、そのまま鼻歌交じりの碧に引っ張られていった。
***
(今日、来客予定がなくて良かった……)
秘書室の姿見を覗いた綾香は、はああと深く溜息をついた。
――見慣れない顔がそこにあった。コテでふわっとカールさせた髪は、肩にやわらかく落ち、つけ睫毛にアイラインを施した目はいつもより大きくて……普段の綾香は、ここまで化粧はしない。
気後れする綾香の耳に、さっき碧に言われた言葉がよみがえった。
『大体、綾香はもったいなさすぎるのよ! 美人なんだから、これくらいしなさいっ!』
碧はそう言って、自分のロッカーからコテやら化粧品やらを引っ張り出してきて、あれよあれよという間にこのメイクを完成させてしまったのだ。
『早業……』
呆然と呟くと、『だって、始業時間に間に合うようにメイクしないといけないでしょ~?』という答えが返ってきた。通勤でメイクが乱れるため、碧はいつも家ではベースメイクと眉だけ整え、会社に来てから完璧に仕上げるのだそうだ。
『前から綾香を変身させたかったのよ~。あ、そうそう、今日同期で飲みに行こうって話があるんだけど、綾香も来なさいよ』
『え? 私……』
『今まで妹さんのために早く帰らないといけないからって、ほとんど飲み会にも参加していなかったでしょ? たまにはいいじゃない』
『……そう、ね……』
今までは綾菜がいたから。でもこれからはもう……
綾香の胸の痛みを察したのか、碧がぽん、と肩を叩いた。
『今度は綾香の番でしょ? いい加減、恋人作ったら? 綾香が好みだって言ってる男の人、結構社内にいるのよ?』
『今は、そんな気に――』
なれない、と言おうとしたら、むにっと両手で頬を引っ張られた。
『何言っているのよ! いつ恋人を作るの!? 今でしょ! 今しかないって!』
『み、碧……』
『大体、あんなセクシーな社長代理と一緒にいるっていうのに、もったいないわよっ!』
うぐっ、と綾香は声を詰まらせた。またあの瞳を思い出しそうになり、必死に頭から振り払う。
『そ、そんなの関係ないわよ。仕事に厳しい方だし……』
(おまけに意地悪で、俺様で、わけの分からないことばっかり言うしっ)
碧はそんな綾香の表情の変化をじーっと見つめると、ふふふ、としたり顔で笑った。
『と・に・か・く! 今日は飲み会よ、準備しておいてね!』
(碧に流されたわ……)
碧は普段から、綾香が仕事一筋でいるのが気がかりだったらしく、合コンなどの企画をセッティングしようとしていた。綾香はそれを、仕事や綾菜を理由に全て断っていたのだが。
(でもたまには、同期で集まるのもいいわよね。久しぶりだし)
同期の顔を思い浮かべながら、机の上に置かれた営業部からの書類を見た綾香は、そこに書かれていた名前に目を留めた。白井圭一だ。
(白井くん、この春から営業部の課長になったのよね。頑張ってるんだ……)
同期の出世頭の顔を思い浮かべ、ふふっと笑みをこぼした時、秘書室のドアが開いた。黒のスーツを着た司が、さっさっと入ってくる。
「……おはようございます、社長代理」
綾香はいつものように頭を下げた。
「ああ、お……」
(……あら?)
綾香が顔を上げると、司の動きが止まっていた。目を見開いて呆然と綾香を見下ろしている。
「あの……?」
首を傾げた綾香に、司は我に返ったように瞬きをし「……おはよう」と小さく返す。
「今日、何かあるのか?」
「え?」
綾香は目をぱちくりさせたが、そういえば、と今の自分のメイクを思い出した。
「え、ええ……今日、同期会が」
「同期?」
「久しぶりなので、楽しみにしているんです。前々から誘われていたんですけれど……」
司は沈黙したままだ。何を考えているのか、全く読めない。ただ綾香を見下ろす瞳がぎらついているような気がした。
(な、何とかして、この空気……どうして睨まれているの、私!?)
綾香は思わず顔を引き攣らせる。
「なら、とっとと仕事を終わらせるんだな。昨日より多くなるが。……無理ならいいんだぞ?」
海斗が同じことを言ったなら、優しさとして受け止められただろうが、司の場合は皮肉にしか思えなくて、かちんときた。
(用事があるって分かっていて、わざと仕事を増やす気なんだわっ! そっちがその気なら、受けて立つわよっ!)
つん、と顔を上げて、司の瞳を正面から見上げた。
「いえ、最後まで仕上げます。仕事の手を抜くつもりはございませんので」
「上等だ」
つい、と司が社長室に入る。バタンと閉まったドアに、思わず舌を出してやりたくなる。声は似ていると思っていたのに……あんな皮肉の込もった言い方、海斗なら絶対しない。
(嫌味ったらしいったらっ!)
これで仕事に不備があったなら、あの男はそれ見たことか、とせせら笑うに違いない。綾香の闘志に火がついた。
「文句のつけようのない、仕事ぶりを見せてやる!」
背中に炎を背負ったまま綾香は自席につき、パソコンのキーボードを恐ろしい勢いで叩き始めるのだった。
***
「綾香ー? まだなの?」
終業時間を十五分ほど過ぎた頃。
少し遅れる、と言った綾香を、碧が迎えに来ていた。
「碧……もう終わるわ」
タタタタッと最後のメールを打ち込み、送信。ふう、と綾香は溜息をついた。
「……これで、終わり」
こきこきと肩を回す綾香に、碧は「すごいわね~」と感心したような声を出した。
「綾香が仕事しているところってあまり見たことなかったけど、鬼気迫るっていうか、迫力あったわ~」
「そう?」
(怒るとそのエネルギーが仕事用に変換されるのかも……)
何とも言えない達成感が綾香を支配していた。椅子から立ち、パソコンの電源を落とす。すでにチェック済みの書類の束を手に持ち、社長室に向かおうとしたところで、社長室のドアが開いた。
「できたのか?」
背後で碧が息を呑む気配がした。綾香はそれを尻目ににっこりと笑って、書類を司に手渡す。
「本日予定していた分と明日の予定表です。ご確認下さい」
「分かった」
書類を受け取った司は、碧の方へ目を向けた。碧が慌ててぺこり、とお辞儀をする。
「水瀬の同期、か」
「は、はい! 総務部の早見碧と申します」
その瞬間、司の瞳がきらりと光ったように見えた。
「今日は同期会だそうだが、あまりこいつに飲ませないように」
「は!?」
(突然何を言いだすの!?)
綾香は咄嗟に司を見た。碧も不思議そうな顔で司を見ている。司は素知らぬ顔で言葉を継いだ。
「こいつは酒に弱いからな。酔ったところを他の男に任せたくない」
(な、何、言っているの、この男はぁっ!!)
綾香の頬が、かああっと熱くなった。碧は目を丸くした後、「分かりました!」とお辞儀をし、綾香の顔を見てにやりと笑った。
『後で洗いざらい白状してもらうわよっ』
そう顔に書いてある。こうなったらもう、白状するまで碧は決して離してくれない。
(余計なことをっ……!)
「ご苦労だった、水瀬。もういいぞ? 久しぶりの同期会、楽しんでこい」
怒りのあまりふるふると震える綾香を見て、司は肉食獣の笑みを浮かべながらそう言った。
「おはよう、碧……」
息を切らして会社に入った綾香は、同期の早見碧と並んでエレベーターを待った。
(ああもう! あの男のせいでっ!)
いつもなら、もうとっくに席に着いている時間なのに。今日は定時の二十分前……いつもは一時間半前に出社する綾香にとって初めての黒星だ。
昨夜は腹が立って、むしゃくしゃして、おまけにキスされた唇が熱くて、なかなか寝付けなかった。おかげで珍しく寝坊し、いつもきちんとまとめているセミロングの髪も下ろしたままだ。
「ねえ、綾香? あなた感じ変わったよね。社長代理のおかげなの?」
「え?」
綾香は隣に立つ碧を見た。髪を肩のあたりでくるんと巻き、淡いイエローのワンピースを着た碧は、可愛い外見ながらもしっかり者だ。そんな彼女が綾香を見て、うんうんと頷く。
「なんていうか……綾香ってとっつきにくい感じだったのよね。サイボーグ感満載で」
綾香の目が点になる。サイボーグ感とは何だろうか。同期で一番仲のいい友人の言葉に、綾香は戸惑うしかない。
開いたエレベーターに一緒に乗り込みながら、碧は続ける。
「だけど今は、すごくいい感じになっているわよ? 生き生きしているっていうのかしら」
「そ、そう……?」
(怒りモードの間違いじゃないの?)
心の中で反論する綾香に、碧はにやりと笑って見せる。
「いいこと、思いついちゃった。ねえ、綾香。ちょっと総務部に寄っていってよ」
「え? でも時間が……」
普段より遅いのに、と躊躇する綾香に、碧が畳みかけるように言った。
「いつもが早すぎるのよ。大丈夫、定時の五分前には席に座れるようにするから」
「ちょ、ちょっと、碧」
エレベーターが総務部のある三階に着いた途端、腕を引かれて降ろされた綾香は、そのまま鼻歌交じりの碧に引っ張られていった。
***
(今日、来客予定がなくて良かった……)
秘書室の姿見を覗いた綾香は、はああと深く溜息をついた。
――見慣れない顔がそこにあった。コテでふわっとカールさせた髪は、肩にやわらかく落ち、つけ睫毛にアイラインを施した目はいつもより大きくて……普段の綾香は、ここまで化粧はしない。
気後れする綾香の耳に、さっき碧に言われた言葉がよみがえった。
『大体、綾香はもったいなさすぎるのよ! 美人なんだから、これくらいしなさいっ!』
碧はそう言って、自分のロッカーからコテやら化粧品やらを引っ張り出してきて、あれよあれよという間にこのメイクを完成させてしまったのだ。
『早業……』
呆然と呟くと、『だって、始業時間に間に合うようにメイクしないといけないでしょ~?』という答えが返ってきた。通勤でメイクが乱れるため、碧はいつも家ではベースメイクと眉だけ整え、会社に来てから完璧に仕上げるのだそうだ。
『前から綾香を変身させたかったのよ~。あ、そうそう、今日同期で飲みに行こうって話があるんだけど、綾香も来なさいよ』
『え? 私……』
『今まで妹さんのために早く帰らないといけないからって、ほとんど飲み会にも参加していなかったでしょ? たまにはいいじゃない』
『……そう、ね……』
今までは綾菜がいたから。でもこれからはもう……
綾香の胸の痛みを察したのか、碧がぽん、と肩を叩いた。
『今度は綾香の番でしょ? いい加減、恋人作ったら? 綾香が好みだって言ってる男の人、結構社内にいるのよ?』
『今は、そんな気に――』
なれない、と言おうとしたら、むにっと両手で頬を引っ張られた。
『何言っているのよ! いつ恋人を作るの!? 今でしょ! 今しかないって!』
『み、碧……』
『大体、あんなセクシーな社長代理と一緒にいるっていうのに、もったいないわよっ!』
うぐっ、と綾香は声を詰まらせた。またあの瞳を思い出しそうになり、必死に頭から振り払う。
『そ、そんなの関係ないわよ。仕事に厳しい方だし……』
(おまけに意地悪で、俺様で、わけの分からないことばっかり言うしっ)
碧はそんな綾香の表情の変化をじーっと見つめると、ふふふ、としたり顔で笑った。
『と・に・か・く! 今日は飲み会よ、準備しておいてね!』
(碧に流されたわ……)
碧は普段から、綾香が仕事一筋でいるのが気がかりだったらしく、合コンなどの企画をセッティングしようとしていた。綾香はそれを、仕事や綾菜を理由に全て断っていたのだが。
(でもたまには、同期で集まるのもいいわよね。久しぶりだし)
同期の顔を思い浮かべながら、机の上に置かれた営業部からの書類を見た綾香は、そこに書かれていた名前に目を留めた。白井圭一だ。
(白井くん、この春から営業部の課長になったのよね。頑張ってるんだ……)
同期の出世頭の顔を思い浮かべ、ふふっと笑みをこぼした時、秘書室のドアが開いた。黒のスーツを着た司が、さっさっと入ってくる。
「……おはようございます、社長代理」
綾香はいつものように頭を下げた。
「ああ、お……」
(……あら?)
綾香が顔を上げると、司の動きが止まっていた。目を見開いて呆然と綾香を見下ろしている。
「あの……?」
首を傾げた綾香に、司は我に返ったように瞬きをし「……おはよう」と小さく返す。
「今日、何かあるのか?」
「え?」
綾香は目をぱちくりさせたが、そういえば、と今の自分のメイクを思い出した。
「え、ええ……今日、同期会が」
「同期?」
「久しぶりなので、楽しみにしているんです。前々から誘われていたんですけれど……」
司は沈黙したままだ。何を考えているのか、全く読めない。ただ綾香を見下ろす瞳がぎらついているような気がした。
(な、何とかして、この空気……どうして睨まれているの、私!?)
綾香は思わず顔を引き攣らせる。
「なら、とっとと仕事を終わらせるんだな。昨日より多くなるが。……無理ならいいんだぞ?」
海斗が同じことを言ったなら、優しさとして受け止められただろうが、司の場合は皮肉にしか思えなくて、かちんときた。
(用事があるって分かっていて、わざと仕事を増やす気なんだわっ! そっちがその気なら、受けて立つわよっ!)
つん、と顔を上げて、司の瞳を正面から見上げた。
「いえ、最後まで仕上げます。仕事の手を抜くつもりはございませんので」
「上等だ」
つい、と司が社長室に入る。バタンと閉まったドアに、思わず舌を出してやりたくなる。声は似ていると思っていたのに……あんな皮肉の込もった言い方、海斗なら絶対しない。
(嫌味ったらしいったらっ!)
これで仕事に不備があったなら、あの男はそれ見たことか、とせせら笑うに違いない。綾香の闘志に火がついた。
「文句のつけようのない、仕事ぶりを見せてやる!」
背中に炎を背負ったまま綾香は自席につき、パソコンのキーボードを恐ろしい勢いで叩き始めるのだった。
***
「綾香ー? まだなの?」
終業時間を十五分ほど過ぎた頃。
少し遅れる、と言った綾香を、碧が迎えに来ていた。
「碧……もう終わるわ」
タタタタッと最後のメールを打ち込み、送信。ふう、と綾香は溜息をついた。
「……これで、終わり」
こきこきと肩を回す綾香に、碧は「すごいわね~」と感心したような声を出した。
「綾香が仕事しているところってあまり見たことなかったけど、鬼気迫るっていうか、迫力あったわ~」
「そう?」
(怒るとそのエネルギーが仕事用に変換されるのかも……)
何とも言えない達成感が綾香を支配していた。椅子から立ち、パソコンの電源を落とす。すでにチェック済みの書類の束を手に持ち、社長室に向かおうとしたところで、社長室のドアが開いた。
「できたのか?」
背後で碧が息を呑む気配がした。綾香はそれを尻目ににっこりと笑って、書類を司に手渡す。
「本日予定していた分と明日の予定表です。ご確認下さい」
「分かった」
書類を受け取った司は、碧の方へ目を向けた。碧が慌ててぺこり、とお辞儀をする。
「水瀬の同期、か」
「は、はい! 総務部の早見碧と申します」
その瞬間、司の瞳がきらりと光ったように見えた。
「今日は同期会だそうだが、あまりこいつに飲ませないように」
「は!?」
(突然何を言いだすの!?)
綾香は咄嗟に司を見た。碧も不思議そうな顔で司を見ている。司は素知らぬ顔で言葉を継いだ。
「こいつは酒に弱いからな。酔ったところを他の男に任せたくない」
(な、何、言っているの、この男はぁっ!!)
綾香の頬が、かああっと熱くなった。碧は目を丸くした後、「分かりました!」とお辞儀をし、綾香の顔を見てにやりと笑った。
『後で洗いざらい白状してもらうわよっ』
そう顔に書いてある。こうなったらもう、白状するまで碧は決して離してくれない。
(余計なことをっ……!)
「ご苦労だった、水瀬。もういいぞ? 久しぶりの同期会、楽しんでこい」
怒りのあまりふるふると震える綾香を見て、司は肉食獣の笑みを浮かべながらそう言った。
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