偏屈な私の孤独な一生

りっち

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中編

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 学校をやめて結婚したらしいカトレアは、あの日以来店を訪れなくなった。

 招待されたあの女の結婚式には、勿論顔を出さなかった。


「皮肉なものね。もう勉強なんかしても意味が無くなってから、今までで1番勉強に集中できる環境が整うなんて」


 静けさを取り戻し、けれど目標が無くなった私は、毎日をただ惰性で過ごしていた。

 もう入学金を貯める必要なんてないのに、生活をギリギリまで切り詰めたまま、暇があれば図書館に足を運んで本を読んだ。


 始めは大変だった家事も、数年経てば流石に慣れる。喫茶店の仕事も最早私の生活の一部となった。

 そうやって生活にゆとりが出来ると、逆に勉強が捗るのが不思議よね?





「店の中から見る街並みも、結構変わっちゃったわね……」


 帝都に出てきて10年が経った。


 私はもう25になるけれど、将来の自分なんて想像も出来ない。

 でもなんとなく、私は死ぬまで独りで本を読んでいることだけは想像がついた。




 そんなある日、アメリアという人物から手紙が届いた。


「アメ、リア……? えっと……どこかで聞いたような……」


 思い出せずにもどかしさを覚えた私は、便箋の裏側に記載してあった差出人の住所を見て思い至る。

 ああそうか。アメリアって私の妹じゃない。自分に妹が居たことなんてすっかり忘れちゃっていたわ。


「あの子からの手紙、か……」


 ニコニコと私を見送った妹の顔を思い出し、便箋を開くのをやめる。

 今さら家族から手紙が届いても、なんだか私は開封する気になれなかった。


 だけど……、そうね。母さんが言っていたことは正しくて、私が間違っていたことは認めよう。

 勉強だって自分の過ちを認めないと先には進めないもの。


 私も自分の過ちを認め、ちゃんと母さんに謝って、そして母さんが正しかったと伝えなきゃ。


 実家から届いた手紙を開封することもなく、私は母に手紙を書いた。

『母さん。貴女が正しかった。私の負け。私の人生、幸せでもなんでもなかったよ』って。


「……そうだ。ついでに貯めていたお金も母さんに送ってしまいましょう」


 どうせ使い道のないお金だ。このまま私が貯め込んでいるよりも、ずっと良い使い方のように思えた。

 もしもの時に備えて少しだけ残し、それ以外のお金を私は全て実家に送金した。


「ふふ。私の10年ってなんだったのかしらね?」


 スッカラカンになった預金残高を見て、私は少し清々とした気分になる。

 日々増え続けていく預金残高は、なんだか無駄に過ごした時間の象徴のように思える時があったから。


 将来の目標もない。養うべき家族もいない。

 孤独で生きる意味も無い私には、今日、明日飢えない程度のお金があれば充分だ。


 それ以降、毎回の賃金の余剰分を実家に送金するようになった。

 けれど実家から送られてくる手紙は1度も開封しないまま、貯まっていく一方だった。





「独り田舎から帝都に来て、行き着いた先は喫茶店のマスター、かぁ」


 妹から初めての便りが届いた日から、更に10年の月日が流れた。

 私の勤めている喫茶店はマスターが高齢のため隠居し、そのまま唯一の給仕係だった私に引き継がれる事になった。


 正直言って経営なんて面倒なことはしたくなかったけれど、35にもなって別の仕事を探す方が大変だ。

 少し迷ったけどマスターの申し出を受け入れて、独りで喫茶店を切り盛りしていく事にした。




「ふふ。なんだか本を読むにはとても良い環境ね?」


 客の来ない静かな店内で本を読むのは、自分でも驚くほど快適だった。


 しかし当然と言えば当然だが、私が引き継いでからの喫茶店は売り上げが落ちてしまった。

 売り上げに興味は無く、暇さえあれば本を読むような女が屯している店なんて流行るわけないわよねぇ。


 人を雇う余裕もなく、放っておけば赤字で閉店してしまいそうだった。


「こんな店、潰れたって誰も困らないだろうけれど……。やってやろうじゃないの」


 だけど私は節約がとても得意で、収入が少ない分は経費の無駄をトコトン省くことにした。

 この程度の節約、今ではもう当たり前のようにこなせるから。


 おかげで、生活は決して楽ではないけれど、問題なく暮らしていける程度の収支バランスに落ち着いた。

 生活に不安が無くなったことで、あまりお客の来ない静かな店を見て私は少し嬉しくなる。


 誰も来ない私だけの静かな空間。

 ここは私が静かに本を読むのにちょうど良いわ。



 毎日変わらない日々を過ごし、毎日違う本を楽しむ生活。

 その日もいつも通りお客さんなんか居なくて、私は営業中の店内で図書館から借りてきた本を読んでいた。


 その時、カランカランと来客を知らせるベルの音が聞こえた。入り口のドアが開いた音だ。

 この時間に来るお客さんなんて居たかしら? 珍しいわね?


「……いらっしゃい。好きな席にかけていいわよ。注文が決まったら声をかけてちょうだい」


 本から目を離すこともなく、入ってきた相手に声をかける。

 雇われていた時ならこんな態度は許されないけど、今は私が店長だ。誰にも文句は言わせない。


「良かったアシュリー……。まだここで働いていてくれて」

「……え?」


 客は席に着かずに私に話しかけてきた。


 あまりにも呼ばれる事が少なくなっていたから、私は自分がアシュリーという名前だったことすら半分忘れかけていた。

 そんな私の名前を知っているなんて、誰がやってきたんだろう?


 興味を引かれて本を閉じると、カウンターテーブルの前に身なりの良い中年女性が立っていた。

 初めて見る顔だけど、これは間違いなく貴族でしょうね。


「メニューはここね。決まったら声かけて。席はどこでも好きなところに座ってちょうだい」


 特に見覚えのない相手だったので、最低限の接客に留めて視線を本に戻す。

 私にとっては接客よりも本を読む方が優先度が高いんだと、閉じた本を開き直して読書を再開する。


「ま、待ってアシュリー! 私よ! カトレアよ! 覚えてないかな!? 昔ここで貴女に勉強を教えてもらったじゃない!」


 ……カトレア。

 その名前を聞いて、私の体の奥の奥で、何かがほんの少し疼いた気がした。


 だけど、それ以上に特に思うこともない。

 孤独で静かに過ごした日々は、あれだけ激しかった私の炎も風化させてしまったみたいだ。


「ええ、覚えてるわよカトレア。確か心底嫌いだから、2度と会いに来ないで欲しいと言ったと思うけれど、貴女こそ忘れてしまったかしら?」

「お、覚えてるわよ……。忘れられるわけ、ないじゃない……」


 改めて拒絶の意を伝える私に、怯えたようにたじろぐカトレア。

 へぇ。物覚えの悪い貴女にしては良く覚えていたじゃないの。


「で、でも今日は貴女に折り入って相談があって足を運んだのよ……!」

「お断りします。私は貴女と関わる気は一切ありませんから」

「待って! お願いっ、話だけでも聞いて欲しいの!」


 拒絶する私に食い下がるカトレア。

 そう言えばコイツ、どこまでも人の話を聞かない女だったわね。


 逃げ出そうにもここは私の店だ。ここを出たらどこにも行く場所なんてない。

 人の話を聞かないこの女を撃退するしかないなんて、なんて面倒な……。


 どうやってこの女を撃退しようかと悩んでいると、相変わらずそんな私に構わず、聞いてもいないのに用件を語りだすカトレア。


「今度私の娘が帝国学校に入学することになったんだけど、学校の勉強についていけるか不安なのっ。それで……」

「ああ。貴女もそう言えば劣等生だったわね。まあでも劣等生なりに学校に在籍していたのは間違いないのだし、貴女が教えてあげればいいじゃないの。ここで私に縋りに来る貴女の神経を疑うわよ」


 彼女の言葉から用件を推測し、下らない頼み事をされる前に先回りして断っておく。

 しかしカトレアは私に怒りの篭った視線を向けて踏み止まった。


「……そもそもだよ!? 私の事が嫌いって何!? 私、アシュリーに何かしたっ!? それだったら謝るから! 何をしたのかくらい教えてよっ!」

「……はっ」


 カトレアの怒りに、思わず乾いた笑いが零れる。


 何かしたかですって? 謝るですって?

 そんなことにいったい何の意味があるって言うの、馬鹿馬鹿しい。


「一方的に嫌いだなんて言われて、一方的に拒絶されたって納得出来るわけないじゃないっ!!」

「……そもそもの話、貴女が私に一方的に話しかけてきただけじゃない」


 カトレアの怒りに対して、自分の感情が余りにも動かなくて驚いてしまう。

 この女はいつまでも若々しくて活力に溢れているけれど、私はもうとっくに燃え尽きてしまっているのでしょうね。


「元々嫌いだったわよ貴女なんて。でもあの時の私は雇われの身だったからね。店長に協力してやれって言われたら従うしかなかったのよ」


 彼女の怒りを正面から取り合わずに、呆れたように吐き捨てる。

 ……ああそうか。あの時の事務員もきっとこんな気持ちだったのね。確かに面倒臭いわ。


「こうして貴女と会話するのも苦痛。貴女の顔を見るのも苦痛。貴女の声を聞くのも苦痛。貴女の理屈に付き合うのも苦痛よ。分かったら帰ってちょうだい」

「違うでしょ! 始めに私に声をかけてきたのはアシュリーのほうじゃない! 嫌いな相手になんて声をかけないでしょう!?」


 理路整然と論理立てて説明しても、それを全て無視する感情の波。

 それが全て間違っているとは言わないけど……。


 こうして1歩引いてみると、随分と見苦しい姿だったわね、恥ずかしいわ。


「私の事が元々嫌いだったなら、何であの日私に声をかけてきてくれたのよ!? あの日の行動まで店長の指示だったなんて言わせないわよっ!?」

「私が気になったのは貴女じゃなくて課題の方よ。嫌々学校に通っていた貴女と違って、私は勉強するのが好きで、学ぶために学校に入りたかったからね」


 ずっと本を読んで、ずっと節制して生きてきた私は、自分の行動全てを理論立てて説明する自信がある。

 感情に流されてなんとなく生きてきたりはしてないのだ、私は。


「貴女じゃなくて学校の課題が気になって覗いてみただけよ。貴女に声をかけたかったわけじゃないわ」

「う~~! じゃあもう私の事が嫌いでもいいから、娘の勉強は見てくれてもいいじゃない! 娘は私じゃないんだし、正式に報酬だって払うわよ!」

「嫌よ。何を教えてもどうせ結婚して無駄にするんでしょ? 貴女の娘ですものね。1年間も在籍すれば嫁いでいくでしょうから、たった1年くらいは頑張りなさいな」

「う~~……!」


 自分の過去を持ち出されて言い返す言葉が見つからないカトレアは、悔しそうに地団駄を踏み始めた。

 まったく、淑女然とした外見が台無しね? でもこれが正しい女の姿なのかしら。


 愛想を振り撒き他人に甘え、そして自分だけしっかり幸せを掴む。

 なるほど、女性としては何も間違っていないようね。


「アシュリーの分からず屋ーっ! 店だってこんなに暇してるじゃない! 貴女なんか本読んでるだけだし! 暇なんだったら協力してくれたっていいじゃないのっ!」

「空いた時間を何に使うか貴女に決められる筋合いはないわ。嫌々通学していた貴女には理解できないでしょうけれど、私は本を読んで知識を蓄えるのが好きなのよ」


 そうね。カトレアに限らず、他の人から見た私はとても暇を持て余している女に見えることでしょう。


 だけど私は忙しいの。私が本を読む時間を、他人の為に1秒だって割きたくない。

 だってこの世界は数え切れないほどの書物で溢れ返っているのだから。


「貴女には、私が暇で無駄な時間を過ごしているように見えるのでしょうね。でも貴女の価値観を押し付けないでくれるかしら?」

「あー言えばこー言うんだからっ! もういい! 帰る!」

「ありがとうございました。またのご来店はご遠慮ください」


 のっしのっしとカトレアが出て行く。淑女の品位もあったものじゃない。

 そんな彼女の背中に向けて、しっしっと右手を払って見送った。


 まぁ帰ってくれたのだからいいでしょう。これでまたゆっくりと本が読めるわ。


 ……なんて思っていたんだけれど、どうやら私はカトレアの行動力を甘く見ていたようね。





「アシュリー。紹介するわ。娘のプルーメ。今14歳。来年15歳になるから帝国学校に入学させる予定なの」


 追い返した次の日、頼み事を了承した覚えもないのに娘を連れて来店するカトレア。

 ……店を持ったことに後悔はないけど、押しかけられると逃げ場が無いのは困ったものね。


「ほらプル。挨拶して」

「う、うん! は、初めましてアシュリーさん! プルーメと言います!」


 本当にこの女は昔から人の話を聞かないわね。

 まぁ取り付く島が無いのは私も同じなんだろうけど。


 私を無視して紹介されたカトレアの娘は、15年前のこの女を思い出させる、まるで生き写しのような容姿をしていた。


「……マ、ママが言うには、1番勉強を教えるのが上手い人だと聞いています! 宜しくお願いしますっ!」

「……ふぅん」


 だけど良く見ると、両手が白くなるくらい硬く拳を握り締め、小さな体は小刻みに震えている。

 どうやらとても緊張しているようね。


 ……私も15の頃はこうだったかしら。

 明るい将来を疑ってもいなかったくせに、帝都の人間に強く憧れていたくせに、それでも帝都の人々が怖くて仕方なかったわ。


 子供っていうのは、いつの時代も変わらないものなのかもしれないわね。

 ……私が家庭を持つことは叶わなかったけれど。


「ねぇ貴女。本当に大丈夫?」

「えっ……?」


 気が変わった私は本を閉じて、ゆっくりと娘の方に向き直る。


「私は貴女の母が心から嫌いだし、貴族も嫌いだし、出来の悪い生徒も嫌いよ?」

「い、今は私の話は関係ないじゃない……! 余計なこと言わなくていいでしょっ!」

「それに私は人に勉強を教えた経験なんて無いし、人に物を教えるのが上手いとも思ってないわ。そして私は名前も覚える気が無いほど貴女に興味を持ってないけど、それでも私に教わりたい?」

「も、勿論ですっ……! ど、どうか宜しくお願いしますっ!」


 我ながら酷いことを問いかけたのに、カトレアの娘は喜色満面の笑顔になって答えを返してくる。

 それがまるで遠い日のカトレア本人のようで、私の胸の奥が少しだけ疼いた。


「私……あんまり勉強が得意じゃなくて。いつも先生に匙を投げられるんです……。だから教えてくださるだけでも嬉しいですっ! 宜しくお願いします! アシュリー先生!」


 教われるだけでも嬉しい。私にもこんな時間があったのかしら?

 ……私が誰かに何かを教わる機会は、ついぞ訪れなかったけれど。


「1つ言っておくわ。次に先生って言ったら2度と教えないからね? 2度と言わないで」

「えっ? で、でも……」

「母親の方はどうぞお帰りください。貴女に教える事は何もありませんから」

「言われなくても帰ります~っ! じゃあねプル! 夕方になったら迎えに来るから! お腹空いたら何か注文しなさい。一応は喫茶店なんだし、軽食くらい出せるでしょっ!」

「昨日メニュー見せたのに把握してないの? 母親がそんなだから娘が苦労するのよ。娘の教育に精を出す前に、己を磨いて模範となる姿を娘に示すのが親の役目でしょ」

「はいはいはいはいっ! わ~か~り~ま~し~た~っ! アシュリーって私の母親なのっ!? もう!」


 プイっと顔を背けて、床を踏み抜くようにのっしのっしと店を出ていくカトレア。

 ま、逃げるように店を出て行ったカトレアの事は忘れて、とりあえず娘の勉強を見てあげましょうか。暇だし。


「それじゃ貴女が今学んでいる教材を出しなさい。貴女の今の学力を知りたいわ」

「あ、はいっ! 分かりましたっ……!」

「あとコーヒー、紅茶、ミルク、どれが飲みたい? 初回だしサービスしてあげる」

「あ、ありがとうございますっ。それじゃ紅茶をいただけますか?」

「紅茶ね。それじゃ今用意するから、貴女はこのテーブルに教材を広げておいてちょうだい」


 客の居ない店内の適当なテーブルを繋げて、簡易的な勉強スペースを作る。

 さて……。あの女の娘の学力は、いったいどんなものなのかしらねぇ。



 そんな風に少しだけ心が動くのを感じながら勉強を教えること数時間。

 えっと、彼女の学力は要するに……。


「ん~……。つまり持ってきた教材は、殆ど理解できないということね?」

「う、ううう~。済みません~……」

「怒ってないわ。確認よ」


 この娘、当時のカトレアよりも学力が低そうね……。

 貴族令嬢だから教育はしっかり受けているものだと思っていたけど……。まぁカトレアの娘だし仕方ないわ。


 だけどこのまま縮こまったままで居られても困るわ。萎縮したままでは学習意欲なんて生まれないもの。


「いい? 良く聞きなさいね」


 私が声をかけると、恐る恐る視線を向けてくるカトレアの娘。

 私は彼女を怖がらせないように、かつて妹に語り掛けていたときのような口調で語りかける。


「勉強っていうのはね、自分が分かっているか分かっていないかをちゃんと把握する事が大切なの。そして分からない事をそのままにして進まないこと。覚えておきなさいな」


 嫌々帝国に入学してさっさと退学していった母親と違って、少なくともこの娘からは学びたいという意欲だけは感じられた。


 だけどこの娘にはまだ、学習の基盤となる基礎知識が不足しているようだ。

 まずはそこから是正しないといけないわ。


「私の言ってる事が理解できたら答えてちょうだい。今持ってきた教材は、貴女にはまだ理解出来ていないわね?」

「は、はいぃ……。お恥ずかしながら、私には難しすぎますぅ……」

「ふぅん。今回持ってきた教材は役に立たない、と」


 比較的高等な内容の教材を持ち込んでいるのに、これでは宝の持ち腐れだ。

 教材のレベルの高さから、彼女に施されていた教育の水準の高さは想像がつくけれど、その教育内容はこの娘にはまだ早すぎるようね。


「悪いけど貴女、ノートとペンを貸してくれる?」

「あ、はいどうぞっ! でもいったい何をされるんですかアシュリーせ……店長さん」

「少し段階を分けて貴女に出題しようと思ってね。簡単すぎる問題に感じるかもしれないけど、私が知りたいから真面目に答えてね。貴女を馬鹿にするつもりはないから」


 彼女の学力を推し量る為、適当な難易度の問題を用意してあげましょう。


 ……そうね。私がまだ帝都に来る前、故郷で読んでいた本の内容なんかがいいのかもしれない。

 今となっては稚拙だとすら思える内容だけれど、あの始まりの本があったからこそ、私は学びの楽しさを知ることが出来たのだから。


 遠い記憶を手繰り寄せて、賑やかな自宅で母に怒鳴られながら読んでいた本に記載されていた問題を書き起こす。


「……っと出来たわ。それじゃこれを解いてみて。解けなくても間違ってもいいから」

「そ、即興で問題を作ったんですか……!? 私だけのために……!?」

「びっくりしてないで解きなさい。時間は有限、学べる時間は多くないわ」


 カトレアの娘を急かし、問題に意識を向けさせる。


 彼女が問題に取り組む度に、少しだけ難易度を上げ下げした問題を用意し、彼女の学力を測りながら勉強への理解と意欲を深めていく。

 閑散とした店には他に客が来ることもなく、私達は食事も忘れて勉強を続けたのだった。



 カリカリとペンの走る音だけが聞こえる心地良い店内。

 そこにカランカランと入店の鈴の音に続いて、賑やかでけたたましい招かれざる来客が訪れた。


「プルー。迎えに来たわよー。どうだったー?」

「あら? もう迎えの時間だったのね? 私としたことが気付かなかったわ……」


 自分が学んでいたわけでもないのに、随分と集中してしまったみたいね。

 カトレアの姿を確認した娘は、読んでいた本を丁寧に閉じてから母親に駆け寄った。


「すっごい! すっごいよママ! 勉強って、こんなに楽しいものだったんだねっ!」

「え? ど、どうしたのプル、落ち着いて?」


 娘に詰め寄られたカトレアは、困惑した様子で私と娘の顔を交互に見比べている。

 そういえばこの女は学ぶ楽しみを理解できなかったわね。娘の言っていることが分からないみたい。


 ……それにしても、この私が時間を忘れるほど没頭してしまうなんて。


「人に教えるというのも、案外良い勉強になるものなのね……」


 ずっと独りで学ぶ人生だったから、人と学ぶということを初めて体験した。


 独りで学び続けるのだって悪くないけど、誰かと共に知識を深めるというのも思った以上に有意義なものね。

 相手の士気の高さに引っ張られて、私の学習意欲まで向上するかのようだったわ。


「自分では理解していると思っていても、人に説明する為には更に噛み砕いて説明しなきゃいけないから、理解度がより深まる。これは盲点だったわ……」


 学びの喜びを必死にカトレアに訴える少女を見ながら、私は眼からウロコが落ちたような気分を味わうのだった。





「店長先生! 見てください! これも全部店長先生のおかげです!」

「先生と呼ぶなと言っているでしょう? ……でも、ふふ。この結果ならきっと、誰も不満に思ったりはしないでしょうね。良くやったわ」


 あの日以来足繁く店に通うようになったカトレアの娘は、始めの低学力が嘘だったかのようにメキメキと学力を上げていき、結果的に帝国学校に主席入学を果たすまでになった。


 ……別に私が何をしたわけでもないけれど、なんとなく私は学校の鼻を明かしてやった気分になった。

 もう帝国学校で私が学ぶべきものなど何もないのだと。


「店長先生! 教えて欲しいところがあるんです!」

「先生と呼ぶなら教えないわよ? なにかしら?」

「プ、プルーメさんが店長先生に教えてもらえって……!」

「ここに教師なんて居ないわ。居るのはただの本好きの偏屈な女店主だけよ。で? 何が分からないの?」


 学校に無事入学した後も娘はこの店に通い続けた。

 そして主席入学者である彼女を真似して、この喫茶店には多くの学生が訪れるようになった。


 繁盛の噂を聞きつけた前店長が様子を身に来て、


「やはり君にこの店を託して正解だったよ」


 なんて無責任なことを言いながら笑っていた。


 まったく、冗談じゃないわよ。

 私は静かに本が読める以前の店が気に入ってたっていうのにね?
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