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チロル・クラート

イントロダクション

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「お帰りなさいませ! チロルお嬢様!」


 目の前にはずらりと並んだ大勢の使用人が、感極まったような表情を浮かべて私の帰宅を喜んでいる。

 毎度毎度、実家に変えるたびに大袈裟すぎるのよねぇ。何とかならないかしらこれ? 貴族家じゃあるまいし……。


「はいはい、ただいまただいまーっと」


 ちょっとだけウンザリした気持ちを置き去りにするように、勢い良く馬車から飛び降りる。

 使用人に文句を言っても仕方ない。大元は彼らを雇っているうちの家族が元凶なんだしね。


家族みんなはどうしてる? いつも通りかしら?」

「はい。旦那様たち男性陣はチロル様の歓迎の為に、厨房で奮闘されておりますよ」

「ちゃんと食べきれる量にしてって伝えておいてね? 無駄だろうけど。それで母さんやお婆ちゃんは?」

「居間で寛いでおいでです。夕食の準備が整うまでは、チロル様も顔を出すようにと言付かっております」

「了解。着替えたらすぐ向かうと伝えておいて頂戴」


 使用人に伝言を頼み、久しぶりの自室でササッと着替える。

 前回部屋に戻ったのっていつだっけ? ひょっとして数週間ぶりだったかしら? その時間を感じさせない見事な管理ね。あとで評価しておきましょう。


 余所行き用のドレスを脱ぎ捨て、自室にあった動きやすい服に着替えた私は、お母様たちが待っているという居間に向かった。

 自宅に帰ってくる服装が余所行きの服だなんて、我ながら呆れるわねぇ。


「あーーーーっ! チロルお姉さまだーーーーっ!」


 居間に向かう私の正面から、叫び声と共に突撃してくる少女を受け止める。

 この子ったら、私が居間に向かうまでのわずかな時間も待てなかったね。


「お帰りなさいませチロルお姉さまっ! ミミはすっごく寂しかったですーーっ!」

「ただいまミミ。でも助走をつけて突撃してくるのはそろそろ止めなさいね? 普通に危険だから」

「はぁい。分かりましたぁっ」


 私を抱きしめて何度も頬ずりしてくるミミ。この様子じゃあ、きっと私の話は聞こえてないわねぇ。


 私の3歳年下のミミは、妖精姫と称えられるその美貌を恍惚に蕩けさせて、一心不乱に私に頬ずりを続けている。

 ミミのこの顔を見たら世界中の男が卒倒しそうね。私が同じことをしたら警備隊に通報されちゃいそうだけど。


「ミミー。そろそろ放してくれない? 私、居間に来るよう言われてるんだけど?」

「気にしないでお姉様っ! 気にせずこのまま居間に移動なさってくださいっ」

「気にするなってそっち? 12の妹を引き摺って移動しろって言うの?」

「はいっ!」

「はいじゃないでしょ、まったく。なんで自宅で騎士団のトレーニングみたいなことをさせられなきゃいけないのよ……」


 3歳下の妹だけど、私はちんちくりんの幼児体型で、ミミは蝶になる前の蛹のように将来の美貌を約束されたような美しいプロポーションをしているから、引き摺るのも結構大変なんだけど……。


「はぁ~……。ほんっとミミは相変わらずなんだから……」


 我が侭で甘え上手のミミは、私の言う事なんて聞いてくれないのよね。


 仕方ないので、本当にミミに引っ付かれたまま歩き出す。

 これでもアンに付き合ってそれなりの運動はしてるからね。体力には自信ありよっ。


 けれどやっぱり居間に到着する前に、私の前に立ちはだかる人物が現れた。


「なかなか姿を現さないと思ったら、やっぱりミミに付き合ってたのね。まったくチロルちゃんは人がいいんだからぁ」

「勝手に抱き付いて来られたのは付き合ってるとは言わないし、妹を振り解かないだけで人がいい判定はどうかと思うわよ? 姉さん」


 呆れ顔で私の前に仁王立ちしているのは、クラートの奇跡と呼ばれるほどの美貌を誇る、3歳上の姉のハンナ・クラート姉様だった。


「ミミはもうお仕舞いよ。貴女の番はもう終わりですっ」

「あ~っ! 何なさるんですかハンナ姉様!」


 姉さんは私に引っ付いていたミミをぺいっと剥がして、開いたスペースにすかさず抱き付いてくる。


 3歳年上で今年18を迎えるハンナ姉さんは、世界の至宝と称されるほどの美貌の持ち主だ。

 ちんちくりんの私と違ってスラっとした細身の長身で、なのに出るところはしっかり出ていて、まるで神話に語られる女神様のようなプロポーションだ。


「ミミを離しても姉さんが抱き付いてきたら意味が無いじゃないの、まったく」

「だってぇ~。久しぶりのチロルちゃんなんだもの~。ミミばっかりに独り占めは許しませんっ」


 そんな人間離れした美貌を誇る我が自慢の姉が、にへら~っとした顔で自分に抱き付いてくるのはいささか思うところがあるわねぇ……。

 とても大切に想って下さっているのは嬉しいんだけど、愛情表現が過剰なのよね。


「姉さん。そろそろ離してくれる? ミミならまだしも、私より体の大きい姉さんを引き摺って居間までいくのは無理だからね」

「あはは~。そんなのお姉ちゃんにまっかせなさぁ~いっ」

「えっ、ちょっ、姉さんっ……!?」


 ニヤリと笑って見せた姉さんは、抱きついた状態そのままから私の体をひょいっと持ち上げ、ニコニコと私に頬ずりしながら歩き出す。

 た、確かに私は同年代と比べても体が小さくて軽いとは思うけど……。15歳の女をそんなに軽々しく持ち上げないでくれるかしら……。


「あーっ! ハンナお姉様ばかりズルいーっ!」

「ミミに好き勝手させていたら、チロルちゃんがいつまで経っても身動きできないでしょっ。お母様もお婆様もずっとお待ちになってるんですからねっ」

「……姉さん。それを言うなら早く移動してくれない? さっきから足が動いてないようだけど」

「ふふっ。ごめんなさいね。それじゃ移動しましょうか」


 姉さんに抱っこさせられ、空いた手はミミと繋がされ、自由を奪われた完全拘束状態で移動させられる私。


 なんで実家の中で連行されているのかなぁ。そして姉さんは、この細い体の何処にこんなパワーを秘めているんだか……。

 溺愛されるのはいつものことだけれど、屋敷を出てから一段と酷くなっちゃった感じはするわね。


 姉さんとミミによる完全拘束状態のまま、母さんとお婆ちゃんの待つ居間へと連行された。


「チーロール~~っ! ひっさしぶりーっ! 元気にしてたーっ!?」


 居間に到着した瞬間、砲弾のように突撃してくる成人女性。

 母さんったら、貴族みたいな暮らしをしているのに、いつまで経っても落ち着きが無いんだから。


「久しぶりって言うほど離れてないでしょ? 月に1度は帰ってるんだからさぁ」

「一日千秋って知ってる? 私にとって、チロルに会えない日々はそれくらいの重みを持ってるってことよっ!」

「母さんは言う事がいちいち大袈裟なのっ。そういう事は父さんに言ってあげなさいっ」


 ハンナ姉さんとミミによる拘束を振りほどいて、駆け寄ってきたフレア母さんとハグをする。

 全力で抱きしめてくる母さんのハグはちょっと息苦しいけれど、このいつもの感触は私をとっても安心させてくれるのだ。


 ぎゅーっと私を抱きしめて、いつまでも私を解放しない事に業を煮やしたのか、居間の奥に座っていたベロニカお婆ちゃんが溜め息交じりに声をかけてくる。


「……フレア。チロルさんに再会できた喜びは察するけど、そろそろ解放してあげなさい。そのままじゃ話も出来ないわ」

「むー……。話なんかどうでもいい、って言いたいところだけど、私もチロルの話が聞きたいわっ。だからここはお母様に譲ってあげちゃうっ」


 最後にもう1度私を力いっぱい抱き締めた母さんは、私をゆっくり解放して……今度は頭を撫で始めたわ?

 コレで母さんの気が済むなら、母さんの好きにさせておくしかないかぁ。


 そんな風に溜め息を吐く私に、お婆ちゃんが溜め息混じりに声をかけて……ってお婆ちゃん、この短時間で溜め息付きすぎだよ?


「……おかえりチロルさん。貴女の到着をずっと待ってたのよ。今日は会えて嬉しいわ」

「ただいまお婆ちゃん。私も会えて嬉しいわ。けどやっぱり大袈裟じゃないかなー?」


 立ち上がったお婆ちゃんとも再会のハグをする。


 他のみんなはしないそうだけど、私が帰宅した時は家族全員とのハグが義務付けられているのだ。

 別にハグが嫌いなわけじゃないから構わないんだけど、父さんってちょくちょく変なルールを設けるのよねぇ。


 挨拶も終わったので、全員で着席して談笑が始まる。

 我が家は平民なので席順のようなものはなく、各々が座りたい場所に自由に座る形式だ。家長である父さんや年長者であるお婆ちゃんも席順は一切気にしない。


 だからと言って、母さんの膝の上に座らされて、両手を姉さんとミミにしっかり掴まれているのはどうかと思うの。

 これじゃ護送中の凶悪犯じゃない?


「は~……。この溺愛を受けると我が家に帰ってきたって実感するわぁ……。でも私ももう15を迎えたわけだし、ここまでベッタリされなくてもいいんだけど?」

「されなくてもいいって事はされてもいいってことよねっ! こんなに可愛いチロルを可愛がらないなんて、逆に無理に決まってるでしょーっ!」


 背中からぎゅーっと私を抱き締めつつ、頬ずり頬ずりしてくる母さん。

 でもね母さん。私の両隣にも貴方の娘はいるんですけどー?


「15歳になってもチロルちゃんの背は伸びなかったわねぇ。それがまた可愛いんだけどっ」

「うっさい姉さん。というか幼児でもこんな短期間に目に見えて身長が伸びたりしないから」

「ふふっ。ようやくチロルお姉様と同じくらいの目線になりましたっ。これでもっとお姉様と一緒に居られますねっ」

「いやその理屈はおかしいでしょミミ。それと、12歳の貴女と同じ身長だと告げられる私の身にもなってくれない?」


 姉さんとミミは勿論のこと、母さんもお婆ちゃんも目が眩むくらいの美貌の持ち主だ。

 勿論、我がイーグルハート商会のサービスがみんなの美貌を底上げしているんもあるんだけれど。


 この空間にちんちくりんの私が居るのは本当に場違い。まるでみんなに愛でられているぬいぐるみのような気分になるわね。

 なんて口に出そうものなら、みんな1週間は解放してくれなくなっちゃいそうだけど。


「許してねチロルさん。いつも言ってるけど、クラートの女が貴女を溺愛するのは仕方ないのよ。まぁ男性陣もメロメロなのには説明がつかないけど?」

「お婆ちゃん。フォローするなら最後まで頑張ってくれる?」

「チロルさんのその眼は強力すぎるから。それはもう邪視イービルアイなんてものじゃない。神霊眼エーテリックアイと呼ぶべき力だからねぇ……」


 真剣味の混じったお婆ちゃんの言葉に、私の背後から母さんが追従する。


「クラートの女は生まれつき魔性を備えているものよ。そしてその魔性ゆえに反発し、お互いを忌み嫌うの。チロルが生まれるまでは私とお母さんもそうだったし、私とハンナだってそうだったわ」

「私はチロルちゃんが生まれる前の事は覚えてないけどねーっ」


 私が生まれる前の話なんてどうでもいいと言わんばかりに、ハンナ姉さんが抱き付いてくる。

 なんだかんだ言って、ハンナ姉さんが1番母さんに雰囲気が似ている気がするなぁ。


「チロルさんが生まれた瞬間、クラートに生まれた全女性が思ったの。この娘こそが私達の上に立つべき存在なのだとね」

「そーそー。チロルをひと目見たら、私とかお母さんとかの魔性なんてどうでも良くなっちゃったのよねー。私たちはチロルの為に存在するんだなって本能的に思い知らされちゃったのーっ」

「クラートの女は悪意を宿し、クラートの男は善意を纏うもの。チロルさんのその眼と、そしてその身に宿した底知れぬ悪意。そんなものを見せ付けられてしまったら、娘と小競り合いをしているのが馬鹿馬鹿しくってねぇ」


 母さんとお婆ちゃんが意気投合している。

 クラートの女は悪意を宿し、クラートの男は善意を纏う。これは我が家に昔から伝わる迷信のようなものだ。ただし、迷信と言い切れない程度には色々な逸話があったりする。


 クラート家の興りはかなり特殊で、平民であることを義務付けられている一方で、この国を出ていくことは許されていない。

 勿論旅行に行ったり、商売の為に出国することまでは禁止されていないけれど、この国以外に定住するのは禁止されている。

 ま、罰則があるわけじゃないし、破ろうと思えば破ることは可能なんだけど。


 クラート家に生まれた女性は基本的に性悪で、外見的な美しさとは裏腹に腹の内にはどす黒い物を宿している。

 逆にクラート家に生まれた男子は人を疑うことを知らず、人の悪意など存在すら信じられないとでも言うような善人になる。

 そして腹黒の女性陣が結婚相手として望むのもまた、悪意の欠片も無いような男性の場合が多い。

 おかげで商売人のはずの父さんも、呆れるくらいにお人好しだ。


 男が周囲と誠実に向き合い、女が忍び寄る悪意に対処する。そうやってクラートの血は連綿と繋がれてきた。

 たまに父さんのように思い切り出世する者も出て、平民でありながらも貴族家と同じような扱いを受けてしまうこともある。


 お婆ちゃんの旦那さんは軍人で、父さんはイーグル商会の会長。兄さんたちは料理人だったり画家だったり、割と好き勝手生きている感じかな?

 フリック兄さんが自分の店を開いてからは、私が帰るたびにフリック兄さん監修で男性陣が料理を振舞ってくれるようになり、今日もその準備のせいで男性陣は不在なのだ。


「って言うかさぁ。孫娘に向かって底知れぬ悪意を宿してるー、とか普通言わないわよ?」

「あははっ。なに言ってるのチロル姉様っ。姉様の悪意には古の神様だって驚愕したのでしょう?」

「いやいやミミ。それは違うの。あれは私が凄かったんじゃなくて、周りの悪意がヘボだっただけなの」


 生まれた瞬間から商人の世界にどっぷりと浸かっていたのよ? あんな絞り粕みたいな悪意にどうこうされるほど繊細だったらやってられないわよ。

 まぁ……。この眼の力がまったく影響しなかったと言えば嘘になるのかもしれないけどさぁ


「チロルちゃんが怖いところはね。誰よりも強い悪意を秘めているのに、それを周囲に殆ど悟らせていないところなの。聖女とか女性の味方とか笑っちゃうわよねー? まぁ聖女っていうのも間違ってはいないんだけど」

「姉さんも、褒めてるんだが貶してるんだか分からないことを言わないでくれる? 確かに私の評判には失笑しちゃうけどさぁ」

「そんな眼を持っているのに普通に生活出来ているのがまず異常なんだよ? チロルちゃん以外の誰かがその眼を持って生まれていたら、きっと正気を保てていなかったでしょう」


 う~ん。そんな大層なものでもないと思うけどなぁ。

 確かに煩わしいと感じることはあるけれど、これはこれで便利なことも無くはないのよ? 特に商売ではかなーり役に立ってもらっちゃってるしっ。


「それほどその眼を使いこなしているのが異常なのよ? その上で世間には聖女扱いされてるわけでしょう? チロルさんは私たちとは役者が違いすぎるのよ」

「チロルは主人タリムを見て、タリムと同じように振舞えるのが凄いのよね。悪意の塊みたいな存在の癖に、聖人みたいに振舞えちゃうんだもの」

「お婆ちゃーん。母さーん。もう少し歯に衣着せることを覚えましょうねー? 私相手だったら何を言ってもいいと思ってないかしら~?」


 変に敬われたり恐れられたりするよりはずっとマシだけどね。

 私がどれ程の悪意を抱いていようと、特殊な瞳を持って生まれようと、みんなが私を大切に想ってくれていることに変わりはないのだ。


 みんなが私に愛情を注いでくれるなら、私だってみんなに愛情を返したい。ただそれだけのことよ。

 母さんたちはちょっと勘違いしてる。悪意と愛情はちゃーんと両立するんだからっ。


「チロルちゃんは悪意の矛先を完全にコントロールしているのが凄いわ。人の持つ悪意って、普通コントロールできないものじゃない?」

「そうでも無いわよ? 犯罪を犯す人、他者を貶めようとする人、人間誰しも悪意のぶつけどころを探しているもの。これって悪意をぶつける相手を選定してるってことでしょ?」

「理屈ではそうかもしれませんけどぉ……。自分の中の悪意をそんな他人事みたいに語れませんってばぁっ」


 姉さんもミミもなに甘いこと言ってるのっ。商売の世界では悪意のコントロールなんて基本技術に過ぎないのよっ。

 如何に自分の悪意を隠し、相手の隠した悪意を見抜くか。それが出来なきゃ食い物にされて終わりなんだからねっ!?


 ……な~んて、商売の世界に踏み込んでいない2人に説明しても仕方ないわよね。

 姉さんには姉さんの生きる道が、ミミにはミミの選ぶ道があるんだから。


「ま、私が溺愛されるのはもう諦めたけどね? 生まれてからずっとこの調子なんだし。でもさぁ、他の子にまで同じように接するのはやめてくれない?」

「あっそうよ! 今日もチロルだけなのっ!? アンジェリカちゃんはっ!? クリアちゃんは!? エルダーちゃんはーーーっ!?」

「3人とも、以前ボロボロになるまで可愛がられちゃったからね。うちの敷居は跨ぎたくないんだって」

「ええええええっ!? そこはチロル、貴女が説得してよーっ! みんな可愛いんだから可愛がっちゃうのは仕方ないじゃないのーーーっ!」


 両頬に手を当てて、この世の終わりのような顔をしている母さん。


 でもごめんね母さん。流石にみんなをここに連れてくるのは申し訳無いんだ……。

 エルもクリアも揉みくちゃにされて、あのアンですら暫く立ち直れなかったんだもん。私にとっては普段の光景だったけど、常人に耐えられるものじゃないの、みんなの溺愛っぷりは。


「ていうか母さん。アンジェリカちゃんって呼ぶのはやめてくれない? 誰かに聞かれたら家族全員の首が飛んでもおかしくないわよ?」

「家の外では言いませんーっ! 私だってそのくらいの分別は持ち合わせてますよーだっ」


 イーッ! と食い縛った歯を私に見せつけてくる母さん。それってなんの意思表示なの?

 まぁ母さんのことは信用してるけどね。曲がりなりにもシルヴェスタ王国最大の商会である、クラート商会の会長夫人なんですもの。


「大体おかしいじゃない。私のことは眼とか悪意とかを理由に溺愛しておきながら、それとは一切の関係ないクーとかアンとかエルとかも溺愛するのはさぁ」

「なぁんにもおかしくないわっ。可愛いは正義! チロルさんの周りには可愛いものばかりが集まる! なら溺愛するのが道理というものよっ」

「まさかのお婆ちゃんが熱弁しないでくれるっ!? 愛でるのは良いけど限度があるって言ってるの! 加減しなさい加減をっ!」

「チロルーーーーっ!! 夕食の準備が整ったよーーーっ!!」


 ネジが外れ始めたお婆ちゃんを窘めようとした瞬間、父さんを先頭にクラート家の男性陣が雪崩れ込んできた。

 ああもうっ! 滅茶苦茶じゃないのっ! いつも通りのクラート家って感じなんだけどさーっ!


「ただいま父さんっ。ただいま兄さんっ」


 男性陣とも1人1人再会のハグをする。


 みんなに抱き締められると凄く安心する反面、同じくらい不安になる。

 みんなの中には悪意を感じない。ただただ善意と愛情だけを込めて私を力いっぱい抱きしめてくれるのだ。


 正直者が馬鹿を見る? そんなの私が許さない。

 人を疑うことも知らないようなこの愛する家族が馬鹿を見るなんて、私は絶対に許せない。


 だから人の足を引っ張ろうと蠢く悪意を、大好きな家族には近づけさせない。絶対に。


「あ、そうだ。私、新しく使用人を雇ったんだ。今度連れてくるね」

「お母さん! 使用人ですってよ!?」

「直ぐに調査チームを編成しなさい! チロルさんのお眼鏡に適ったのであれば、その使用人も必ず可愛いはず! 今すぐ調査チームを派遣しなさいっ」

「あ~……。調査するのは勝手だけど、2人に迷惑をかけるのはやめてね? あの娘たちはまだうちに来て日も……」

「2人! 2人同時加入ですかっ! それは楽しみですね! チロルちゃん、次は必ず連れてくるんですよ? 必ずですからねっ!?」

「あの娘たちってことは女性確定ですねっ! そもそもチロルお姉様のお屋敷は男子禁制ですものねっ」

「姉さんもミミもちょっと落ち着いて! あ~もう、なにが上に立つ者よ!? 貴女たち、私をオモチャにしてるだけじゃないのーっ!」


 いつも通り暴走する女性陣。それを見てお腹を抱えて笑っている父さんたち。


 うん。やっぱりここが私の家だ。

 ここにいる間だけ、私はただのチロルでいられるんだ。


 チロル・クラートであることが嫌なわけじゃないけれど、私にだってたまには生き抜きが必要なの。

 悪意に塗れた世界を生きるために、悪意をまったく感じない我が家で定期的にリフレッシュしなきゃねっ。


 あー……。悪意をほとんど感じない場所だからこそ、エルにとっては居心地が悪いのかなぁ?

 ……ううん。それは絶対関係ないわね。みんなに四六時中可愛がられたら、流石のエルでも辟易しちゃうわよねぇ。
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