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5章 王国に潜む悪意3 世界を呪う者
352 ※閑話 偽りの代償 (改)
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「そうだ……! リーチェが生きていたことにしよう……!」
きっかけは、とあるエルフのひと言だった。
しかしそのひと言から始まった狂気は、瞬く間にエルフ族全体に伝染していった。
「他の種族の代表が斃れた中、唯一生き残ったのがエルフ族であるという事実は、きっと未来永劫語り継がれるであろう……!」
ガルクーザと共に斃れた蒼穹の盟約の中で、エルフ族の代表である娘のリーチェだけが生き残った事にする。
そんな狂気の計画に反対する者は、疲弊しきった今のエルフ族には現れなかった。
アルフェッカの中心だった6人の英雄達が斃れ、各種族は混乱した。
ガルクーザという共通の脅威がいたからこそギリギリの均衡を保っていたアルフェッカは、ガルクーザの討伐と英雄たちの死によって完全に瓦解してしまったのだ。
この混乱を早い段階で予測し、この機に乗じてアルフェッカを乗っ取った人間族。
ガルクーザを排除できる保証も無かったというのに、ガルクーザに投入するはずだった戦力や資源を温存し、混乱するアルフェッカをその戦力と資源であっという間に制圧してしまったスペルディア一族……!
「こんな……、こんな余力を残しておきながら、どうしてガルクーザに投入しなかったんだ!? お前たちの協力があれば、犠牲者の数も抑えられていたかもしれないのにっ……!」
「……ふふ」
憤る夫に、人間族は静かに笑い、こう言った。
それはそれ、これはこれですよ、と……。
人類全体が滅亡の危機に瀕していたというのに、この人間族はその後を見据えて手を抜いていたのだ。
自分が助かる保証もなかったのに……!
「我々は賭けに勝った。ただそれだけのことですよ」
夫の憤りも犠牲者の嘆きも、目の前の相手には負け犬の遠吠えのようにしか認識されていないようだ。
私には目の前の人間族が、邪神ガルクーザよりもおぞましい存在に思えて仕方が無かった。
しかしその後、スペルディア家の人間も予想していなかったことが起きる。
アルフェッカで管理されていた王の証、レガリアと呼ばれる3種の神器が悉く消失してしまったのだ。
元々王位を簒奪したスペルディアの者たちに人望は無く、王権を証明できねば凋落も止むなしといった状況の中、それら全てを利用したのが我らエルフ族だった。
正に進退窮まったスペルディアの者たちに救いの手を差し伸べるかのように、偽りの英雄譚を囁いた。
「君達スペルディアは王威を、我らはエルフ族の優位性を証明できる。悪い話ではないだろう?」
「……本当にエルフ族は協力してくれるのでしょうね?」
「英雄を擁立できればエルフ族は満足だ。アルフェッカは君達に譲り、エルフ族は世界樹の下に去る事を約束する。誓ってもいい」
立場的に追い込まれていたスペルディア家、そして精神的に追い込まれていたエルフ族は共謀し、偽りの英雄リーチェ・トル・エルフェリアを生み出す事になった。
本当のあの子はガルクーザと共に斃れ、もうこの世を去ったというのに……。
リーチェ役に選ばれたのは、リーチェの妹にして私に残された最後の娘のリュートだった。
アルフェッカの蒼き秘宝とまで謳われたリーチェとは方向性は違うけれど、妹であるリュートもとても美しく育ち、何よりあの子はまだ年若く、世界樹の下で任された仕事がまだ無かったのも都合良かった。
……たった16年しか生きていない、まだ年若いあの子を1人で旅に出すのは流石に躊躇する。
けれどあの子はエルフ族の代表となり、人類を救った救世の英雄となるのだ。
英雄の母として、しっかりと送り出してあげなければ。
「リージュ様! エリュー様! どうかお考え直しをっ! 貴方達夫婦は、実の娘を2人とも殺してしまわれる気かっ!?」
英雄譚に最後まで反対したのが、若くして族長補佐まで上り詰めたライオネルだった。
どこまでも私達夫婦に食って掛かり、最後は投獄までされたというのに、それでも私達を諌めるのをやめようとはしなかった。
私はエルフ族の矜持を理解しない彼を疎ましく思い、そして蔑んだ。
それでも貴方はエルフなのか、と。
「私がエルフ失格なら、貴方達は親失格だろうっ……!」
エルフに相応しくないと言われても、ライオネルは動じなかった。
むしろそれまで以上の怒りを燃やし、私と夫を真っ向から否定してくる始末。
「リージュ様もエリュー様も必ず後悔される日が来るだろう。その時貴方達2人の愛する娘は、もうどこにもいないのだっ!!」
ライオネルがどれだけ吼えようとも、結局リーチェの英雄譚は紡がれることになった。
リーチェが英雄になる事が決まっても、ライオネルはその後も牢から出ようとはしなかった。
せめて1人くらいは偽りの責を負う者が必要だと言って。
そんなライオネルに賛同し、偽りの英雄譚への協力を渋るエルフも少なくなく、長とその側近であった私達夫婦の信用は失墜していった。
表向きは纏まっていたエルフェリア。だけどその内情はバラバラだった。
母として、エルフ族を率いる者の1人として、独りで安住の地を旅立たなければならない娘に出来る限りの支援をした。
救世の英雄として恥ずかしくないようにと、古よりエルフ族に伝わる秘宝の数々も持たせてあげた。
「大丈夫。貴女は私の自慢の娘なんだから」
そうやって立派な英雄となったあの子がアルフェッカを去る前、最後に母として思い切り抱きしめた。
けれどその時のあの子の顔は、なぜかいつも思い出せなかった。
統治者であるスペルディア王家と、長命種であるエルフ族が協力した結果、想像していたよりもずっと簡単に歴史の改竄は成功し、救世の英雄リーチェ・トル・エルフェリアの名はこの世界に定着した。
当時を知る者が1人、また1人と減っていき、支配者が綴った歴史をエルフ族という生き証人が支え、リーチェ本人が存命であるという事実が、真実を歴史の闇に埋もれさせていったのだ。
リーチェと共に生き残った事になっている人間族の英雄も、100年も経てば別人である事を証明する手立ても無くなった。
ガルクーザを退けた英雄が生き続け、他種族との交流を避けて秘密主義を貫くエルフ族は、時間が経つほど他種族の者から神聖視されるようになっていく。
エルフ族は特別優れた種族であると、自他共に認められていくようだった。
…………しかし、エルフ族の受難は人知れず始まっていたのだ。
「大変です! 新しいエルフが……! エルフ族に子供が産まれておりませんっ!」
ある時、エルフ族の人口を調査していた者が血相を変えて報告してきた。
長い間、エルフ族に新たな子供が生まれていない事を。
「これは……。100年単位で新生児が生まれていない事になるのか……!?」
元々繁殖力の低い種族だった為にあまり気にされていなかったけど、記録を見ると明らかに異常が起きていた。
20~30年に50人前後のペースで生まれていた新生児が、アルフェッカ崩壊後から350年でたった3人しか生まれていない。
その3人もアルフェッカ崩壊後50年以内に生まれていて、エルフ族は実に300年を請える歳月、新たな命の芽生えが止まっていたのだ。
長命さゆえに事態の発覚が遅れに遅れてしまったのだ。
長命で閉鎖的なエルフ族は、互いに強い関心など持たないから。
「記録を見れば、子供が生まれなくなった原因は明らかだ……!」
後になって考えれば、きっと色々な原因が複合的に作用した結果だったのだと判断できたかもしれない。
けれど当時の記録を見たエルフ族の誰もが、偽りの英雄譚が少子化の原因であると結論付けた。
精神的に繊細すぎるエルフ族は、本来なら不利益を被ってでも自分を曲げないのが誇りの種族なのだ。
種族全体で偽りの歴史を共有したことが心に大きな影を落とし、男女から互いを求め合う欲求を奪い去ってしまったのかもしれない。
「あいつらが! あいつらがエルフ族を呪い、エルフ族から誇りと誠実さを失わせてしまったんだ! 殺せ! この事態を招いた元凶を生かしていてはならない!」
新しい命の誕生を何よりも尊ぶエルフたちの怒りは、本当に凄まじいものだった。
当時の長は問答無用でなぶり殺しにされ、英雄譚を主導した者たちは次々に捕らえられていった。
全員が当時の生き証人なのだ。
誤魔化しも弁明もする余地は無かった。
「英雄譚はエルフ族に必要なものだった! 当時は何も言わなかったくせに、今更何をっ……!」
私達も必死に抵抗し、やがて争いが起き、戦いが長生き……。
そして多くの命が失われた。
しかし私たちに賛同してくれる者は時と共に減っていき、敗北した私は投獄された。
「満足ですかエリュー様。これが貴女達が始めた嘘の結末ですよ」
「……久々に再開したと思えば、他に言うことは無いのですか貴方は」
私が入れられた牢には、なんとまだライオネルが投獄されていた。
350年を経てなお、彼はたった独りで偽りの責任を負い続けていたようだ。
「激しく抵抗したリージュ様はその場で殺され、宿り木の根に捨てられたそうです。あの人の魂が世界樹に宿ることはありません」
ライオネルから告げられる夫の死。
そして夫が宿り木の根に捨てられた事実に、私の心が引き裂かれる。
「そんな……。夫の魂は永遠に宿り木に弄ばれるということですか……!」
「リージュ様だけじゃありませんよ。直ぐに貴女も同じ結末を迎えることでしょう」
欠片も興味が無さそうに、私に死刑を宣告してくるライオネル。
世界樹を信仰するエルフ族にとって、死後魂が世界樹に還る事を阻害する『宿り木の刑』は何よりも重い処分だ。
長いエルフ族の歴史の中でも、実際に執行された記録が無いほどの……。
「なぜ……、なぜこんなことに……! 私達がいったいなにをしたって……」
「貴女達は実の娘を2人も殺し、その結果エルフ族を滅亡に追いやった張本人だ。子殺しの貴女達には永劫の苦しみがお似合いでしょう?」
私の言葉を遮って、ライオネルの冷たい言葉が私を貫く。
しかしその冷淡な声に、私の奥から怒りが湧き上がってくる。
「娘を殺したですって……!? 言わせておけば……!」
愛する娘を殺す親などどこにいるというのだっ!
私達は娘を愛しているからこそ英雄として名を残して、そしてその英雄としての人生を歩ませようと……!
しかしどれだけ必死に訴えようとも、ライオネルが私に言葉を返してくれることはもう無かった。
ライオネルの虚ろな瞳が、もう私への興味を一切失っていることを雄弁に語っていた。
「…………」
「…………」
ライオネルと2人きりの牢獄生活。
お互い無言のまま、同じ牢の中で数日を過ごした。
すると突然私達の牢が解放され、次のエルフ族の長をライオネルに託すという話が持ち込まれた。
「……ふざけるな。私にエルフ族の尻拭いをしろと言うのか? 私はここでリーチェ様とリュート様のために贖罪の日々を……」
「もう……お前しかいないんだよライオネル。同胞の血で汚れた俺達じゃ、エルフ族を率いるわけにはいかないのさ……」
エルフェリアを二分して行われた長い長い戦いの末、多くのエルフの命が失われた。
残ったエルフ族は1000人を下回り、その中の多くの者が戦いの間に同胞を手にかけてしまっていた。
「贖罪と言うなら引き受けてくれないか、ライオネル。幼き少女に全てを背負わせ、その報いの果てに滅びる、愚かなエルフ族の最期を……」
結局ライオネルの方が折れるしかなかった。
ライオネルにエルフ族の最期を託した彼らには、もう生きる気が無かったのだから……。
ライオネルが長を継いだ事を見届けると、生き残ったエルフの半数近くが自らの足で宿り木の根の奥に消え、そして誰1人戻ってこなかった。
長命なエルフ族は今すぐ寿命を迎えるような事は無いけれど……。
誰が見てもエルフ族は、自らの足で滅亡の道を辿っているようにしか見えなかった。
「……牢は開けておきます」
ライオネルはエルフ族を率いる為に牢を出て、そしてまだ私が投獄されているその牢の扉を閉じることは無かった。
好きにすればいい。どうせエルフ族の滅びは変わらないのだから、と。
「これが……。これが今のエルフェリア……」
牢から出て、すっかり人気の減ったエルフェリアを歩いて回る。
生き残ったエルフは無気力になるか、傲慢になり粗暴に振舞うかのどちらかだった。
多くエルフが滅び行くエルフェリアに留まることを嫌がり、スペルディアのマジックアイテム開発局を志願する者が殺到していた。
私の顔を見ても誰も反応を返さず、なんだか既にエルフ族は滅びてしまったように思えて怖くなった。
居ても立ってもいられなくなって、牢で疲弊した体に鞭打って駆け出した。
恐怖に駆られた私の足は、自然と自宅に向けられたようだった。
「良かった。残っていてくれたのね……」
懐かしの我が家に戻ってくることが出来た。
家族と暮らした家がそのまま残されているのを目にした時、自分でも驚くほど心が安らいだように思えた。
恐る恐る自宅に足を踏み入れたものの、争いの間は家に戻らなかったのが幸いしたのか、家の中が荒らされているようなことは無かった。
「リージュ……。もう貴方の魂が還ってくる事はないのね……」
夫婦の寝室に行き、そして夫のリージュの魂が永遠に囚われたことを思い出し、ベッドに顔を埋めて1人で泣いた。
暫く泣いて少し落ち着いた私は、寝室を出て家の中を歩いて回った。
夫と2人の娘と過ごしたあの幸福な日々は、今ではまるで夢のように感じられる。
「……リージュだけじゃなく、もう貴女も居ないのよね……」
リーチェの部屋を見る。
しかしそこはもぬけの殻で、寝具すら置いていなかった。
……そうだ。あの子に繋がる証拠を残しておくわけにはいかないと、あの子が旅立つ前に私の手で全て処分を……。
「……あれ? リーチェ? リュート? あ、あれ……!?」
リーチェのことを思い返して、自分の記憶に違和感を覚えた。
どれだけ記憶を掘り返しても、どうしてもリーチェの顔を思い出せないのだ……!
「なっ、なんでっ……!?」
もぬけの殻の部屋を飛び出し、リュートの部屋だった場所に飛び込む。
けれどその部屋もやっぱりもぬけの殻で、そしてやっぱり私はあの子の顔を思い出すことが……。
「なんで!? なんで思い出せないのっ……!?」
リーチェの顔もリュートの顔も、どうしても思い出すことが出来ない。
あの子たちは私がお腹を痛めて産んだ娘よ!?
ずっとこの家で一緒に暮らしてきた、大事な大事な家族なのに……!
生まれたばかりのリーチェを胸に抱いて笑っている夫。
……だけど、抱かれている赤子の顔が思い出せない。
留守がちだった私達夫婦の代わりに、妹の面倒をよく見てくれた優しいお姉ちゃん。
……だけど、妹に向ける優しい姉の微笑みが思い出せない。
美しく育った姉と、その姉を慕い姉の後ろをいつも付いて回っていた可愛い妹。
……だけどっ! 仲良く笑い合っていた2人の顔が、どうしても思い出せない……!!
「なんでなんでなんで!? リーチェ……! リュート……! なんで、なんでよぉっ……!!」
気が狂いそうになりながらも、必死に記憶を掘り返して2人の顔を思い出そうとする。
家の中をひっくり返して、あの2人の物が何か残っていないかを探し回る。
だけどどれだけ家捜ししても、あの2人の物を全て処分したのは私達夫婦で……。
「…………あ」
そして記憶を掘り返していた私の頭は、娘とは関係のない記憶を思い出してしまった。
『貴女は、実の娘を2人とも殺してしまわれる気かっ!?』
『エリュー様も必ず後悔される日が来るだろう。その時貴女の愛する娘は、もうどこにもいないのだっ!!』
「あ、ああ、ああああ……! そ、そんな、そんなつもりは……!」
あの時は理解できなかったライオネルの言葉。
その意味が唐突に理解できてしまう。
「リーチェ……! リュート……! そん、な……、そんなつもりじゃ……!」
エルフ族を守ってガルクーザと相打ちになった誇り高きエルフの姉と、その姉を誰よりも慕い尊敬していた、産まれたばかりの年若い妹。
その誇り高き姉の名を偽りで汚し、本当のリーチェをこの世から消し去ってしまった……?
尊敬していた姉を騙り、姉を汚して生き続ける事を、よりにもよって誰よりもリーチェを慕っていたリュートに強いてしまった……。
リュート本人を、この世から消し去って、まで……?
「ああああああああああああああ!! 違うっ! こんなの違うっ……! リーチェ……! リュート……! どうして、どうして私はっ……、うわあああああああああっ!!」
なんてことを……、私はいったいなんて事をっ……!
あの2人を心から愛していた……。間違いなく愛していたはずなのに……!
私は母親でありながら、愛する娘たちにいったいなんということをしてしまったんだ……!
『満足ですかエリュー様。これが貴女達が始めた嘘の結末ですよ』
「違う違う違う!! こんなの望んでない! 望むはずないじゃないっ!!」
どうしてこんなことに!? どうして私は娘を……、娘達をこの世から消し去るような事をしてしまったの……!?
2人が生まれた時、私は2人の幸福を心から願って、2人の小さく細い腕に翠の腕輪を贈ったのに……!!
なのにその腕輪を贈った、産まれたばかりの2人の顔が思い出せないよぉぉぉっ……!!
「リーチェ……リュート……。うっ、うああああああああっ……!!」
そこからの記憶は曖昧だ。
娘2人を自らの手で殺してしまった後悔と、愛する娘の顔すら思い出せない恐怖で正気を失った私は、家の中を手当たり次第に荒らし回って声が枯れるほど泣き続けた。
……声も涙も枯れ果てた頃、いつか聞いたライオネルの言葉が頭をよぎる。
『子殺しの貴女達には永劫の苦しみがお似合いでしょう?』
「……ごめんなさい。ごめん、なさい……」
まるでその声に導かれるように立ち上がった私が、自らの足で宿り木の根に向かうのを止める者は……。
もう、誰も居なかった。
きっかけは、とあるエルフのひと言だった。
しかしそのひと言から始まった狂気は、瞬く間にエルフ族全体に伝染していった。
「他の種族の代表が斃れた中、唯一生き残ったのがエルフ族であるという事実は、きっと未来永劫語り継がれるであろう……!」
ガルクーザと共に斃れた蒼穹の盟約の中で、エルフ族の代表である娘のリーチェだけが生き残った事にする。
そんな狂気の計画に反対する者は、疲弊しきった今のエルフ族には現れなかった。
アルフェッカの中心だった6人の英雄達が斃れ、各種族は混乱した。
ガルクーザという共通の脅威がいたからこそギリギリの均衡を保っていたアルフェッカは、ガルクーザの討伐と英雄たちの死によって完全に瓦解してしまったのだ。
この混乱を早い段階で予測し、この機に乗じてアルフェッカを乗っ取った人間族。
ガルクーザを排除できる保証も無かったというのに、ガルクーザに投入するはずだった戦力や資源を温存し、混乱するアルフェッカをその戦力と資源であっという間に制圧してしまったスペルディア一族……!
「こんな……、こんな余力を残しておきながら、どうしてガルクーザに投入しなかったんだ!? お前たちの協力があれば、犠牲者の数も抑えられていたかもしれないのにっ……!」
「……ふふ」
憤る夫に、人間族は静かに笑い、こう言った。
それはそれ、これはこれですよ、と……。
人類全体が滅亡の危機に瀕していたというのに、この人間族はその後を見据えて手を抜いていたのだ。
自分が助かる保証もなかったのに……!
「我々は賭けに勝った。ただそれだけのことですよ」
夫の憤りも犠牲者の嘆きも、目の前の相手には負け犬の遠吠えのようにしか認識されていないようだ。
私には目の前の人間族が、邪神ガルクーザよりもおぞましい存在に思えて仕方が無かった。
しかしその後、スペルディア家の人間も予想していなかったことが起きる。
アルフェッカで管理されていた王の証、レガリアと呼ばれる3種の神器が悉く消失してしまったのだ。
元々王位を簒奪したスペルディアの者たちに人望は無く、王権を証明できねば凋落も止むなしといった状況の中、それら全てを利用したのが我らエルフ族だった。
正に進退窮まったスペルディアの者たちに救いの手を差し伸べるかのように、偽りの英雄譚を囁いた。
「君達スペルディアは王威を、我らはエルフ族の優位性を証明できる。悪い話ではないだろう?」
「……本当にエルフ族は協力してくれるのでしょうね?」
「英雄を擁立できればエルフ族は満足だ。アルフェッカは君達に譲り、エルフ族は世界樹の下に去る事を約束する。誓ってもいい」
立場的に追い込まれていたスペルディア家、そして精神的に追い込まれていたエルフ族は共謀し、偽りの英雄リーチェ・トル・エルフェリアを生み出す事になった。
本当のあの子はガルクーザと共に斃れ、もうこの世を去ったというのに……。
リーチェ役に選ばれたのは、リーチェの妹にして私に残された最後の娘のリュートだった。
アルフェッカの蒼き秘宝とまで謳われたリーチェとは方向性は違うけれど、妹であるリュートもとても美しく育ち、何よりあの子はまだ年若く、世界樹の下で任された仕事がまだ無かったのも都合良かった。
……たった16年しか生きていない、まだ年若いあの子を1人で旅に出すのは流石に躊躇する。
けれどあの子はエルフ族の代表となり、人類を救った救世の英雄となるのだ。
英雄の母として、しっかりと送り出してあげなければ。
「リージュ様! エリュー様! どうかお考え直しをっ! 貴方達夫婦は、実の娘を2人とも殺してしまわれる気かっ!?」
英雄譚に最後まで反対したのが、若くして族長補佐まで上り詰めたライオネルだった。
どこまでも私達夫婦に食って掛かり、最後は投獄までされたというのに、それでも私達を諌めるのをやめようとはしなかった。
私はエルフ族の矜持を理解しない彼を疎ましく思い、そして蔑んだ。
それでも貴方はエルフなのか、と。
「私がエルフ失格なら、貴方達は親失格だろうっ……!」
エルフに相応しくないと言われても、ライオネルは動じなかった。
むしろそれまで以上の怒りを燃やし、私と夫を真っ向から否定してくる始末。
「リージュ様もエリュー様も必ず後悔される日が来るだろう。その時貴方達2人の愛する娘は、もうどこにもいないのだっ!!」
ライオネルがどれだけ吼えようとも、結局リーチェの英雄譚は紡がれることになった。
リーチェが英雄になる事が決まっても、ライオネルはその後も牢から出ようとはしなかった。
せめて1人くらいは偽りの責を負う者が必要だと言って。
そんなライオネルに賛同し、偽りの英雄譚への協力を渋るエルフも少なくなく、長とその側近であった私達夫婦の信用は失墜していった。
表向きは纏まっていたエルフェリア。だけどその内情はバラバラだった。
母として、エルフ族を率いる者の1人として、独りで安住の地を旅立たなければならない娘に出来る限りの支援をした。
救世の英雄として恥ずかしくないようにと、古よりエルフ族に伝わる秘宝の数々も持たせてあげた。
「大丈夫。貴女は私の自慢の娘なんだから」
そうやって立派な英雄となったあの子がアルフェッカを去る前、最後に母として思い切り抱きしめた。
けれどその時のあの子の顔は、なぜかいつも思い出せなかった。
統治者であるスペルディア王家と、長命種であるエルフ族が協力した結果、想像していたよりもずっと簡単に歴史の改竄は成功し、救世の英雄リーチェ・トル・エルフェリアの名はこの世界に定着した。
当時を知る者が1人、また1人と減っていき、支配者が綴った歴史をエルフ族という生き証人が支え、リーチェ本人が存命であるという事実が、真実を歴史の闇に埋もれさせていったのだ。
リーチェと共に生き残った事になっている人間族の英雄も、100年も経てば別人である事を証明する手立ても無くなった。
ガルクーザを退けた英雄が生き続け、他種族との交流を避けて秘密主義を貫くエルフ族は、時間が経つほど他種族の者から神聖視されるようになっていく。
エルフ族は特別優れた種族であると、自他共に認められていくようだった。
…………しかし、エルフ族の受難は人知れず始まっていたのだ。
「大変です! 新しいエルフが……! エルフ族に子供が産まれておりませんっ!」
ある時、エルフ族の人口を調査していた者が血相を変えて報告してきた。
長い間、エルフ族に新たな子供が生まれていない事を。
「これは……。100年単位で新生児が生まれていない事になるのか……!?」
元々繁殖力の低い種族だった為にあまり気にされていなかったけど、記録を見ると明らかに異常が起きていた。
20~30年に50人前後のペースで生まれていた新生児が、アルフェッカ崩壊後から350年でたった3人しか生まれていない。
その3人もアルフェッカ崩壊後50年以内に生まれていて、エルフ族は実に300年を請える歳月、新たな命の芽生えが止まっていたのだ。
長命さゆえに事態の発覚が遅れに遅れてしまったのだ。
長命で閉鎖的なエルフ族は、互いに強い関心など持たないから。
「記録を見れば、子供が生まれなくなった原因は明らかだ……!」
後になって考えれば、きっと色々な原因が複合的に作用した結果だったのだと判断できたかもしれない。
けれど当時の記録を見たエルフ族の誰もが、偽りの英雄譚が少子化の原因であると結論付けた。
精神的に繊細すぎるエルフ族は、本来なら不利益を被ってでも自分を曲げないのが誇りの種族なのだ。
種族全体で偽りの歴史を共有したことが心に大きな影を落とし、男女から互いを求め合う欲求を奪い去ってしまったのかもしれない。
「あいつらが! あいつらがエルフ族を呪い、エルフ族から誇りと誠実さを失わせてしまったんだ! 殺せ! この事態を招いた元凶を生かしていてはならない!」
新しい命の誕生を何よりも尊ぶエルフたちの怒りは、本当に凄まじいものだった。
当時の長は問答無用でなぶり殺しにされ、英雄譚を主導した者たちは次々に捕らえられていった。
全員が当時の生き証人なのだ。
誤魔化しも弁明もする余地は無かった。
「英雄譚はエルフ族に必要なものだった! 当時は何も言わなかったくせに、今更何をっ……!」
私達も必死に抵抗し、やがて争いが起き、戦いが長生き……。
そして多くの命が失われた。
しかし私たちに賛同してくれる者は時と共に減っていき、敗北した私は投獄された。
「満足ですかエリュー様。これが貴女達が始めた嘘の結末ですよ」
「……久々に再開したと思えば、他に言うことは無いのですか貴方は」
私が入れられた牢には、なんとまだライオネルが投獄されていた。
350年を経てなお、彼はたった独りで偽りの責任を負い続けていたようだ。
「激しく抵抗したリージュ様はその場で殺され、宿り木の根に捨てられたそうです。あの人の魂が世界樹に宿ることはありません」
ライオネルから告げられる夫の死。
そして夫が宿り木の根に捨てられた事実に、私の心が引き裂かれる。
「そんな……。夫の魂は永遠に宿り木に弄ばれるということですか……!」
「リージュ様だけじゃありませんよ。直ぐに貴女も同じ結末を迎えることでしょう」
欠片も興味が無さそうに、私に死刑を宣告してくるライオネル。
世界樹を信仰するエルフ族にとって、死後魂が世界樹に還る事を阻害する『宿り木の刑』は何よりも重い処分だ。
長いエルフ族の歴史の中でも、実際に執行された記録が無いほどの……。
「なぜ……、なぜこんなことに……! 私達がいったいなにをしたって……」
「貴女達は実の娘を2人も殺し、その結果エルフ族を滅亡に追いやった張本人だ。子殺しの貴女達には永劫の苦しみがお似合いでしょう?」
私の言葉を遮って、ライオネルの冷たい言葉が私を貫く。
しかしその冷淡な声に、私の奥から怒りが湧き上がってくる。
「娘を殺したですって……!? 言わせておけば……!」
愛する娘を殺す親などどこにいるというのだっ!
私達は娘を愛しているからこそ英雄として名を残して、そしてその英雄としての人生を歩ませようと……!
しかしどれだけ必死に訴えようとも、ライオネルが私に言葉を返してくれることはもう無かった。
ライオネルの虚ろな瞳が、もう私への興味を一切失っていることを雄弁に語っていた。
「…………」
「…………」
ライオネルと2人きりの牢獄生活。
お互い無言のまま、同じ牢の中で数日を過ごした。
すると突然私達の牢が解放され、次のエルフ族の長をライオネルに託すという話が持ち込まれた。
「……ふざけるな。私にエルフ族の尻拭いをしろと言うのか? 私はここでリーチェ様とリュート様のために贖罪の日々を……」
「もう……お前しかいないんだよライオネル。同胞の血で汚れた俺達じゃ、エルフ族を率いるわけにはいかないのさ……」
エルフェリアを二分して行われた長い長い戦いの末、多くのエルフの命が失われた。
残ったエルフ族は1000人を下回り、その中の多くの者が戦いの間に同胞を手にかけてしまっていた。
「贖罪と言うなら引き受けてくれないか、ライオネル。幼き少女に全てを背負わせ、その報いの果てに滅びる、愚かなエルフ族の最期を……」
結局ライオネルの方が折れるしかなかった。
ライオネルにエルフ族の最期を託した彼らには、もう生きる気が無かったのだから……。
ライオネルが長を継いだ事を見届けると、生き残ったエルフの半数近くが自らの足で宿り木の根の奥に消え、そして誰1人戻ってこなかった。
長命なエルフ族は今すぐ寿命を迎えるような事は無いけれど……。
誰が見てもエルフ族は、自らの足で滅亡の道を辿っているようにしか見えなかった。
「……牢は開けておきます」
ライオネルはエルフ族を率いる為に牢を出て、そしてまだ私が投獄されているその牢の扉を閉じることは無かった。
好きにすればいい。どうせエルフ族の滅びは変わらないのだから、と。
「これが……。これが今のエルフェリア……」
牢から出て、すっかり人気の減ったエルフェリアを歩いて回る。
生き残ったエルフは無気力になるか、傲慢になり粗暴に振舞うかのどちらかだった。
多くエルフが滅び行くエルフェリアに留まることを嫌がり、スペルディアのマジックアイテム開発局を志願する者が殺到していた。
私の顔を見ても誰も反応を返さず、なんだか既にエルフ族は滅びてしまったように思えて怖くなった。
居ても立ってもいられなくなって、牢で疲弊した体に鞭打って駆け出した。
恐怖に駆られた私の足は、自然と自宅に向けられたようだった。
「良かった。残っていてくれたのね……」
懐かしの我が家に戻ってくることが出来た。
家族と暮らした家がそのまま残されているのを目にした時、自分でも驚くほど心が安らいだように思えた。
恐る恐る自宅に足を踏み入れたものの、争いの間は家に戻らなかったのが幸いしたのか、家の中が荒らされているようなことは無かった。
「リージュ……。もう貴方の魂が還ってくる事はないのね……」
夫婦の寝室に行き、そして夫のリージュの魂が永遠に囚われたことを思い出し、ベッドに顔を埋めて1人で泣いた。
暫く泣いて少し落ち着いた私は、寝室を出て家の中を歩いて回った。
夫と2人の娘と過ごしたあの幸福な日々は、今ではまるで夢のように感じられる。
「……リージュだけじゃなく、もう貴女も居ないのよね……」
リーチェの部屋を見る。
しかしそこはもぬけの殻で、寝具すら置いていなかった。
……そうだ。あの子に繋がる証拠を残しておくわけにはいかないと、あの子が旅立つ前に私の手で全て処分を……。
「……あれ? リーチェ? リュート? あ、あれ……!?」
リーチェのことを思い返して、自分の記憶に違和感を覚えた。
どれだけ記憶を掘り返しても、どうしてもリーチェの顔を思い出せないのだ……!
「なっ、なんでっ……!?」
もぬけの殻の部屋を飛び出し、リュートの部屋だった場所に飛び込む。
けれどその部屋もやっぱりもぬけの殻で、そしてやっぱり私はあの子の顔を思い出すことが……。
「なんで!? なんで思い出せないのっ……!?」
リーチェの顔もリュートの顔も、どうしても思い出すことが出来ない。
あの子たちは私がお腹を痛めて産んだ娘よ!?
ずっとこの家で一緒に暮らしてきた、大事な大事な家族なのに……!
生まれたばかりのリーチェを胸に抱いて笑っている夫。
……だけど、抱かれている赤子の顔が思い出せない。
留守がちだった私達夫婦の代わりに、妹の面倒をよく見てくれた優しいお姉ちゃん。
……だけど、妹に向ける優しい姉の微笑みが思い出せない。
美しく育った姉と、その姉を慕い姉の後ろをいつも付いて回っていた可愛い妹。
……だけどっ! 仲良く笑い合っていた2人の顔が、どうしても思い出せない……!!
「なんでなんでなんで!? リーチェ……! リュート……! なんで、なんでよぉっ……!!」
気が狂いそうになりながらも、必死に記憶を掘り返して2人の顔を思い出そうとする。
家の中をひっくり返して、あの2人の物が何か残っていないかを探し回る。
だけどどれだけ家捜ししても、あの2人の物を全て処分したのは私達夫婦で……。
「…………あ」
そして記憶を掘り返していた私の頭は、娘とは関係のない記憶を思い出してしまった。
『貴女は、実の娘を2人とも殺してしまわれる気かっ!?』
『エリュー様も必ず後悔される日が来るだろう。その時貴女の愛する娘は、もうどこにもいないのだっ!!』
「あ、ああ、ああああ……! そ、そんな、そんなつもりは……!」
あの時は理解できなかったライオネルの言葉。
その意味が唐突に理解できてしまう。
「リーチェ……! リュート……! そん、な……、そんなつもりじゃ……!」
エルフ族を守ってガルクーザと相打ちになった誇り高きエルフの姉と、その姉を誰よりも慕い尊敬していた、産まれたばかりの年若い妹。
その誇り高き姉の名を偽りで汚し、本当のリーチェをこの世から消し去ってしまった……?
尊敬していた姉を騙り、姉を汚して生き続ける事を、よりにもよって誰よりもリーチェを慕っていたリュートに強いてしまった……。
リュート本人を、この世から消し去って、まで……?
「ああああああああああああああ!! 違うっ! こんなの違うっ……! リーチェ……! リュート……! どうして、どうして私はっ……、うわあああああああああっ!!」
なんてことを……、私はいったいなんて事をっ……!
あの2人を心から愛していた……。間違いなく愛していたはずなのに……!
私は母親でありながら、愛する娘たちにいったいなんということをしてしまったんだ……!
『満足ですかエリュー様。これが貴女達が始めた嘘の結末ですよ』
「違う違う違う!! こんなの望んでない! 望むはずないじゃないっ!!」
どうしてこんなことに!? どうして私は娘を……、娘達をこの世から消し去るような事をしてしまったの……!?
2人が生まれた時、私は2人の幸福を心から願って、2人の小さく細い腕に翠の腕輪を贈ったのに……!!
なのにその腕輪を贈った、産まれたばかりの2人の顔が思い出せないよぉぉぉっ……!!
「リーチェ……リュート……。うっ、うああああああああっ……!!」
そこからの記憶は曖昧だ。
娘2人を自らの手で殺してしまった後悔と、愛する娘の顔すら思い出せない恐怖で正気を失った私は、家の中を手当たり次第に荒らし回って声が枯れるほど泣き続けた。
……声も涙も枯れ果てた頃、いつか聞いたライオネルの言葉が頭をよぎる。
『子殺しの貴女達には永劫の苦しみがお似合いでしょう?』
「……ごめんなさい。ごめん、なさい……」
まるでその声に導かれるように立ち上がった私が、自らの足で宿り木の根に向かうのを止める者は……。
もう、誰も居なかった。
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