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とある鬼人の戦記 17 王と宰相2
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午後になりツェンダフの軍は王都から見える位置に姿を現し、野営の準備を始めた。夜を挟むのは、暗闇による無言の揺さぶりをかけるためである。実際、日暮れ前に王都を出る貴族が居たから、ある程度は効果があった事になる。とはいえ、王都の混乱は最悪からは程遠い状況だった。それはとりもなおさず、政権がある程度機能している事を意味する。ツェンダフ側では、王都の統制が取れている以上、どうにか戦にはならずに済みそうだと予想し、胸をなでおろしていた。
そして実際に、翌朝の日の出と共に王城からの使者がツェンダフ軍の陣前に現れ、降伏の意思を伝えてきたのであった。
軍使の旗を掲げた騎士は、宰相・キーリング卿のサインのある書状を携えていた。書状には、近衛は王城を掌握しているが守護のためであり闘う意思は無いという事、宰相のキーリング卿が降伏に関する交渉に赴く事が記載されており、グリフはそれを承諾した。
軍使が戻って間もなく、王城から馬車が向かってきた。馬車に乗っていたのは、宰相のキーリング卿、その息子で秘書を務めるミーティス卿、書記や下級の文官が随行していた。護衛らしき騎士は一人もいない。
「人払いをお願いできますでしょうか」
「良かろう」
キーリング卿は一人進み出ると、グリフと単独での交渉を求めた。グリフは即座に要望を受け入れると、天幕の中で宰相と一対一で向かい合う。
キーリング卿は、余計な挨拶や儀礼は抜きに話を始めた。
「まずは、降伏を受諾いただきありがとうございます」
「むしろよく決意してくれたと言いたいくらいだ。これは王の考えなのか?」
「陛下は、もう戦い続ける気力を失っておいででした。陛下は王都の民に損害は出したくないと、近衛に戦いを禁じる命を出しております。その意を何卒お汲み取りいただきたく」
グリフは内心で安堵した。近衛との一戦となれば相当の被害を覚悟しなければならなかった。
「無論だ、王都に被害が出るのは私の本意ではない、麾下の兵には王都内での行動を慎むよう改めて厳命するし、万が一にでも狼藉に及ぶ者があれば、それが指揮官の騎士とて厳罰に処すであろう」
「ありがとうございます」
キーリング卿は蝋封がされた書状を取り出した。
「陛下は、殿下に王位をお譲りする事を文書に残しております。殿下は…ご自分の手で王位をもぎ取るおつもりかもしれませぬが、殿下が王位に就く正当性を多少なりとも担保できるかと存じます」
「ほう…?」
グリフは驚いた表情を隠すことなく、書面を受け取って改める。確かに言った通りの事が記載されていた。ここまでの成り行きはグリフもある程度予想していた通りであったが、禅譲を証する書面は予想外だった。ブレス王の性格を考えれば、既にこの世に居ない事も想定していたのだから。
「王は…兄は存命なのか?」
「はい、陛下は皇国へ向かわれます。既に皇国も承諾の上、公館に避難いただいております。殿下は麾下に獣人を従えておられるようですが、万が一にも暗殺などを考えぬよう、統制をお願いいたします」
「な…」
グリフは絶句した。これも予想外の事だ。予想外すぎたといえる。王の権威と威信を何より重視するブレス王が亡命を選択するとは思っていなかった。ましてや、ブレス王は皇国の不興を買っていたのだから。
「そんなことを私が許すと思うかっ!」
「思いませんが、曲げて容れていただきたくお願いいたします」
「できぬ。……何故だ?」
「理由は二つございます。一つは、ご兄弟の命を奪ったりなされば、殿下が多くの非難を受けると予想されるからでございます。陛下が支持を失った端緒は、第一には理由もあやふやなカンフレー家と殿下の武力討伐でした。次は自分が?と誰しもが思ってしまうのです。戦乱の世ならいざ知らず、今は200年続いた平和の世でございます。これ以上の命のやり取りは…ましてや王である兄君を弑するのは、民にも貴族にも忌避されましょう」
「その、理由なく臣下を滅ぼした王の責任を問おうというのだ。私は、王の命以外を求める気は無い」
「たった一つの例外ではなく、数限りない例外の二つ目と思われるでしょう」
「ぐ…」
グリフは言葉に詰まる。そもそもが超法規的な行動の責任を問うために、超法規的に兵を上げたのだから。やられたからやり返す。これは物語的には面白くとも、実際は不安を増大させるのは当然だ。
「二つ目は皇国との関係です。現在殿下は皇国に借りがある状態ですが、清算に時間をかけると民の勝手な期待がどんどん膨らんで行き、後になればなるほど難しくなります。高額の利子に苦しまないよう、早めに片付けておく必要があるのです。この亡命は、自国貴族の血を引く陛下を保護したい皇国の意向でございます。皇国は陛下を亡命させるなら、それ以上を求めないと言ってきました。乗らない手はございません」
「それはブレス王の命でなければならないのか?」
「はい、国の利権を差し出す事は容認できません。一方で、陛下の命を欲するのは皇国と殿下のみです。これで折り合いが付くなら、王国としては安いものでございます」
「ブレス王によって害された者の敵を討つ。それが何も持たない私が、命を賭して仕えてくれた家臣と我が騎士に対してした唯一の誓いだ。我が半身への誓いを破れと言うのか」
「国家は殿下の残る半身となります、王位を求めるならそれをどうかお忘れなく」
王の命を債権扱いする宰相は、王自信にもそれを求めていた。王あっての国家でなく、国家あっての王だというのが、キーリング卿の揺ぎ無い信念なのである。
グリフは目を閉じ、拳を握りしめる。怒りをどうにか抑え込もうとするように。
至高の地位にある王の責任を問うために、自分が王の座に着こうとした。そしてまさに手が掛かったというのに、なぜ肝心の王の責を問う事が許されないのだ。
「王とは…かくも不自由なものなのか?」
「左様にございます。この国で最も人気を必要とし、最も多く忍耐しなければならないのが王です。ご婦人の機嫌を取るように、しかし媚びぬように、慎重に慎重を重ねて判断しなければなりません。確かに、自分の思うまま好きなように振る舞う王もおりますが、それは殿下の目指す王ではありますまい」
絞り出すような苦痛に満ちた声は、場違いともいえる下世話な比喩で返された。だが、今にも破裂しそうだったグリフから、ふっと力が抜けた。キーリング卿の言う事は全くの正論なのだ。理屈でそれを覆せない以上、グリフの負けだ。
だが、負けを認める事と納得する事はまた別な話だ。
「それに、今回の発端となりました事件については、手引きした貴族がおります。即位間もなかった陛下に全ての責を求めるのは酷と言うものでございましょう。代わりにその貴族の責を問えばよろしいかと」
キーリング卿は、まるでグリフの心を見透かしたように、王以外の首謀者を持ち出してきた。しかし、宰相はそんな都合のいい生贄でグリフが満足する訳が無いと知っているはずだ。
「アルデ卿の事か?マーキス卿から事の顛末は聞いている。『国益のため』にアルデ卿の罪は不問にされたと聞いたぞ」
「おっしゃる通りです。アルデ卿ではございません、それ以外に大物がおります」
「誰だ?」
「殿下の目の前におります」
一瞬、意味が理解できずにポカンとしたグリフは、「あっ」と気づいた。言葉も態度も全く乱れが無いから気付かなかった。今やマーキス卿の顔色は唇まで蒼白で、指先の震えも隠せなくなっている。
「馬鹿な……毒か?なんという事を……」
「もう…手遅れです…」
キーリング卿は、治療師を呼ぼうと立ち上がったグリフを止めた。
「即位間もない陛下を誑かし、何食わぬ顔で国政を牛耳っていた…奸物は、殿下に…その罪を暴かれた末に…、毒を仰いで自殺いたしました。…そういう事でございます……」
「あなたは…こうすれば私が亡命を受け入れざるを得ないと…」
「はい、殿下に頼み事をするには…先払いするのが一番に……ございましょう。謀殺と…疑われぬように証言するよう…、息子に言い含めております…。ご安心ください」
相変わらず淡々と話すキーリング卿だが、だんだんと息が乱れて来ていた。
「馬鹿な…なんという馬鹿な事を……あなたの才は余人に代えがたいというのに」
「息子にすべてを…引き継いでおります。罪人の…子では…すぐにという訳にも…行きますまいから、後任には…ジェーキース卿を推薦いたします」
「……わかった、あなたの命を無駄にはすまい」
「ありがとう…ございます。最後に…老人から一つだけ……。陛下は…他者の心に鈍感過ぎました。…ために悪意にも好意にも…気付かぬままでした。殿下は…弱者の心情には敏感…でございますが、地位ある者の心…については…いかがでしょうか?。才を持ち…地位を占めて…いる者にも…注意を怠らぬよう…なさってください。さもないと、このように足許を……すくわれますぞ」
「……非才の私には、才ある者の心など判ろうはずも無い。だがそれは、我が妻がなんとかしてくれるだろう。そういうのが得意だからな。私は私一人で全てを背負う気は無い」
キーリング卿は少し意外そうな顔をした後、満足そうに頷いた。
「よう…ございま……」
最後まで言葉は続かなかった。
グリフは絶望的な表情で倒れたキーリング卿を見下ろす。最後の最後で宰相にしてやられ、完全な勝利が指の隙間から逃げてしまった気持ちだった。
キーリング卿の言う通り、ここまでされてブレス王の命を要求する事など、できるはずも無かった。そして実際、皇国と王国の関係を良好にするには、これが最良の選択なのだ。
だが……
グリフは地に拳を叩きつける。
「なんという事だ……ステレに何と言って詫びればよいのだ…」
最良ではあるが最悪の選択をしなければならない。グリフが血を吐くような叫びを上げている頃…
当のステレは、南門の上でうたた寝をしていた。
ステレは、夜通し一人で南門を守り続けた。先々の事を考えれば、商会の人間が関わっているのを知られない方が良いと考えたからだ。王都から見える位置のツェンダフの陣からは、軍勢を繰り出そうという動きが見えない。王城では王の旗本すら逃げ腰で、迎撃の準備は全くできていなかった。ステレを遠巻きにしていた兵も、一人減り二人減りしもう残っていない。戦いの気配が急速に遠のいているのが判る。それは、自分の役目がもう終わるという事だ。王国の憂いを…自分をこの国から消さなければならない。この先の身の振り方をどうにかしなければと思案しているうちに、ステレは胸壁に寄りかかって居眠りをしていた。
「ステレ、おい、起きろ」
「…ん?…おぅ、オーウェンか、遅かったな」
聞きなれた声で肩をゆすられ、ステレは目を覚ました。徹夜明けでも僅かでも害意があれば瞬時に目覚めたはずだ。オーウェンだからこそ肩に触れるまで近づいても起きなかったのだ。
「遅かったなじゃ無い。敵陣のど真ん中で居眠りとかどういうつもりだ」
「門が閉じられないように確保してたんだ、殺気が近づけば目が覚めるよ。それより、お前が生きているなら殿下はご無事だろうな。戦況はどうなった?」
「報告は行ってると思うが、ダハルマ卿を討ち取った。討伐軍はあの方が居なければ烏合の衆だ、簡単に降伏したよ。我らの損害は軽微だ」
「そうか…惜しい方だったな」
「あぁ」
ステレもダハルマ卿の堯名は知っていた。王国騎士の模範のような人物聞いている。一度会って話を聞いてみたいとも思っていた。もっとも、ガチガチの王国騎士なのだから、女が騎士の真似事をするのを良くは思わない可能性が高いだろうが。
「今は王城から降伏の使者が出て、殿下は受け入れを決めた。王は家族と共に城を出て、今は皇国の公館にいるらしい。我々は王城の掌握に派遣された、これから近衛と交渉に入る。戦いは終わりだ、殿下が次代の王となられるだろう」
「そうか……勝ったか。……なら、私の役目も終わりだな…」
「何を言う、これからも殿下のお側で支えて行けばいいではないか」
「戦争が無くなれば、鬼の居場所は無いよ」
ステレには、ゴージと勝負した後の嫌な気分がまだ残っている。闘争を求める心を制御できないようでは、戦争の無い世界で生きて行くことなどできようはずもない。それにもし、万が一、オーウェンと戦いたいという心に塗りつぶされてしまったら……。
人外は只人の前から消えなければならない。
「馬鹿を言うな、まだ王国が落ち着くまでいくつも山がある。…言いづらいのだが…おそらくはブレス王は…皇国に亡命だろうと。それも含めて後始末が山積みだ」
「私に内政の手伝いができる訳ないだろ。それに…王はいいんだ、もう…」
ステレの記憶が曖昧で、正直王への怒りの実感が無いのだ。それに…王は既に罰を受けている…そう思えた。ブレス王が見せた悲しみと後悔の表情で十分だった。
「オーウェンどこだ?手が足りん手伝え」
ステレを説得しようとしたオーウェンを呼ぶ声が聞こえた。下でメイガーが探しているらしい。
「城門の上だ、今行く。……ステレ、黙って居なくなったりするなよ」
あいまいな笑顔で答えるステレに後ろ髪を引かれつつも、オーウェンは王城に向かって行った。
しかしステレは、城門の確保をツェンダフの兵に任せると、しばらくの間オーウェン達の前から姿を消してしまうことになる。
そして実際に、翌朝の日の出と共に王城からの使者がツェンダフ軍の陣前に現れ、降伏の意思を伝えてきたのであった。
軍使の旗を掲げた騎士は、宰相・キーリング卿のサインのある書状を携えていた。書状には、近衛は王城を掌握しているが守護のためであり闘う意思は無いという事、宰相のキーリング卿が降伏に関する交渉に赴く事が記載されており、グリフはそれを承諾した。
軍使が戻って間もなく、王城から馬車が向かってきた。馬車に乗っていたのは、宰相のキーリング卿、その息子で秘書を務めるミーティス卿、書記や下級の文官が随行していた。護衛らしき騎士は一人もいない。
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「良かろう」
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キーリング卿は、余計な挨拶や儀礼は抜きに話を始めた。
「まずは、降伏を受諾いただきありがとうございます」
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グリフは内心で安堵した。近衛との一戦となれば相当の被害を覚悟しなければならなかった。
「無論だ、王都に被害が出るのは私の本意ではない、麾下の兵には王都内での行動を慎むよう改めて厳命するし、万が一にでも狼藉に及ぶ者があれば、それが指揮官の騎士とて厳罰に処すであろう」
「ありがとうございます」
キーリング卿は蝋封がされた書状を取り出した。
「陛下は、殿下に王位をお譲りする事を文書に残しております。殿下は…ご自分の手で王位をもぎ取るおつもりかもしれませぬが、殿下が王位に就く正当性を多少なりとも担保できるかと存じます」
「ほう…?」
グリフは驚いた表情を隠すことなく、書面を受け取って改める。確かに言った通りの事が記載されていた。ここまでの成り行きはグリフもある程度予想していた通りであったが、禅譲を証する書面は予想外だった。ブレス王の性格を考えれば、既にこの世に居ない事も想定していたのだから。
「王は…兄は存命なのか?」
「はい、陛下は皇国へ向かわれます。既に皇国も承諾の上、公館に避難いただいております。殿下は麾下に獣人を従えておられるようですが、万が一にも暗殺などを考えぬよう、統制をお願いいたします」
「な…」
グリフは絶句した。これも予想外の事だ。予想外すぎたといえる。王の権威と威信を何より重視するブレス王が亡命を選択するとは思っていなかった。ましてや、ブレス王は皇国の不興を買っていたのだから。
「そんなことを私が許すと思うかっ!」
「思いませんが、曲げて容れていただきたくお願いいたします」
「できぬ。……何故だ?」
「理由は二つございます。一つは、ご兄弟の命を奪ったりなされば、殿下が多くの非難を受けると予想されるからでございます。陛下が支持を失った端緒は、第一には理由もあやふやなカンフレー家と殿下の武力討伐でした。次は自分が?と誰しもが思ってしまうのです。戦乱の世ならいざ知らず、今は200年続いた平和の世でございます。これ以上の命のやり取りは…ましてや王である兄君を弑するのは、民にも貴族にも忌避されましょう」
「その、理由なく臣下を滅ぼした王の責任を問おうというのだ。私は、王の命以外を求める気は無い」
「たった一つの例外ではなく、数限りない例外の二つ目と思われるでしょう」
「ぐ…」
グリフは言葉に詰まる。そもそもが超法規的な行動の責任を問うために、超法規的に兵を上げたのだから。やられたからやり返す。これは物語的には面白くとも、実際は不安を増大させるのは当然だ。
「二つ目は皇国との関係です。現在殿下は皇国に借りがある状態ですが、清算に時間をかけると民の勝手な期待がどんどん膨らんで行き、後になればなるほど難しくなります。高額の利子に苦しまないよう、早めに片付けておく必要があるのです。この亡命は、自国貴族の血を引く陛下を保護したい皇国の意向でございます。皇国は陛下を亡命させるなら、それ以上を求めないと言ってきました。乗らない手はございません」
「それはブレス王の命でなければならないのか?」
「はい、国の利権を差し出す事は容認できません。一方で、陛下の命を欲するのは皇国と殿下のみです。これで折り合いが付くなら、王国としては安いものでございます」
「ブレス王によって害された者の敵を討つ。それが何も持たない私が、命を賭して仕えてくれた家臣と我が騎士に対してした唯一の誓いだ。我が半身への誓いを破れと言うのか」
「国家は殿下の残る半身となります、王位を求めるならそれをどうかお忘れなく」
王の命を債権扱いする宰相は、王自信にもそれを求めていた。王あっての国家でなく、国家あっての王だというのが、キーリング卿の揺ぎ無い信念なのである。
グリフは目を閉じ、拳を握りしめる。怒りをどうにか抑え込もうとするように。
至高の地位にある王の責任を問うために、自分が王の座に着こうとした。そしてまさに手が掛かったというのに、なぜ肝心の王の責を問う事が許されないのだ。
「王とは…かくも不自由なものなのか?」
「左様にございます。この国で最も人気を必要とし、最も多く忍耐しなければならないのが王です。ご婦人の機嫌を取るように、しかし媚びぬように、慎重に慎重を重ねて判断しなければなりません。確かに、自分の思うまま好きなように振る舞う王もおりますが、それは殿下の目指す王ではありますまい」
絞り出すような苦痛に満ちた声は、場違いともいえる下世話な比喩で返された。だが、今にも破裂しそうだったグリフから、ふっと力が抜けた。キーリング卿の言う事は全くの正論なのだ。理屈でそれを覆せない以上、グリフの負けだ。
だが、負けを認める事と納得する事はまた別な話だ。
「それに、今回の発端となりました事件については、手引きした貴族がおります。即位間もなかった陛下に全ての責を求めるのは酷と言うものでございましょう。代わりにその貴族の責を問えばよろしいかと」
キーリング卿は、まるでグリフの心を見透かしたように、王以外の首謀者を持ち出してきた。しかし、宰相はそんな都合のいい生贄でグリフが満足する訳が無いと知っているはずだ。
「アルデ卿の事か?マーキス卿から事の顛末は聞いている。『国益のため』にアルデ卿の罪は不問にされたと聞いたぞ」
「おっしゃる通りです。アルデ卿ではございません、それ以外に大物がおります」
「誰だ?」
「殿下の目の前におります」
一瞬、意味が理解できずにポカンとしたグリフは、「あっ」と気づいた。言葉も態度も全く乱れが無いから気付かなかった。今やマーキス卿の顔色は唇まで蒼白で、指先の震えも隠せなくなっている。
「馬鹿な……毒か?なんという事を……」
「もう…手遅れです…」
キーリング卿は、治療師を呼ぼうと立ち上がったグリフを止めた。
「即位間もない陛下を誑かし、何食わぬ顔で国政を牛耳っていた…奸物は、殿下に…その罪を暴かれた末に…、毒を仰いで自殺いたしました。…そういう事でございます……」
「あなたは…こうすれば私が亡命を受け入れざるを得ないと…」
「はい、殿下に頼み事をするには…先払いするのが一番に……ございましょう。謀殺と…疑われぬように証言するよう…、息子に言い含めております…。ご安心ください」
相変わらず淡々と話すキーリング卿だが、だんだんと息が乱れて来ていた。
「馬鹿な…なんという馬鹿な事を……あなたの才は余人に代えがたいというのに」
「息子にすべてを…引き継いでおります。罪人の…子では…すぐにという訳にも…行きますまいから、後任には…ジェーキース卿を推薦いたします」
「……わかった、あなたの命を無駄にはすまい」
「ありがとう…ございます。最後に…老人から一つだけ……。陛下は…他者の心に鈍感過ぎました。…ために悪意にも好意にも…気付かぬままでした。殿下は…弱者の心情には敏感…でございますが、地位ある者の心…については…いかがでしょうか?。才を持ち…地位を占めて…いる者にも…注意を怠らぬよう…なさってください。さもないと、このように足許を……すくわれますぞ」
「……非才の私には、才ある者の心など判ろうはずも無い。だがそれは、我が妻がなんとかしてくれるだろう。そういうのが得意だからな。私は私一人で全てを背負う気は無い」
キーリング卿は少し意外そうな顔をした後、満足そうに頷いた。
「よう…ございま……」
最後まで言葉は続かなかった。
グリフは絶望的な表情で倒れたキーリング卿を見下ろす。最後の最後で宰相にしてやられ、完全な勝利が指の隙間から逃げてしまった気持ちだった。
キーリング卿の言う通り、ここまでされてブレス王の命を要求する事など、できるはずも無かった。そして実際、皇国と王国の関係を良好にするには、これが最良の選択なのだ。
だが……
グリフは地に拳を叩きつける。
「なんという事だ……ステレに何と言って詫びればよいのだ…」
最良ではあるが最悪の選択をしなければならない。グリフが血を吐くような叫びを上げている頃…
当のステレは、南門の上でうたた寝をしていた。
ステレは、夜通し一人で南門を守り続けた。先々の事を考えれば、商会の人間が関わっているのを知られない方が良いと考えたからだ。王都から見える位置のツェンダフの陣からは、軍勢を繰り出そうという動きが見えない。王城では王の旗本すら逃げ腰で、迎撃の準備は全くできていなかった。ステレを遠巻きにしていた兵も、一人減り二人減りしもう残っていない。戦いの気配が急速に遠のいているのが判る。それは、自分の役目がもう終わるという事だ。王国の憂いを…自分をこの国から消さなければならない。この先の身の振り方をどうにかしなければと思案しているうちに、ステレは胸壁に寄りかかって居眠りをしていた。
「ステレ、おい、起きろ」
「…ん?…おぅ、オーウェンか、遅かったな」
聞きなれた声で肩をゆすられ、ステレは目を覚ました。徹夜明けでも僅かでも害意があれば瞬時に目覚めたはずだ。オーウェンだからこそ肩に触れるまで近づいても起きなかったのだ。
「遅かったなじゃ無い。敵陣のど真ん中で居眠りとかどういうつもりだ」
「門が閉じられないように確保してたんだ、殺気が近づけば目が覚めるよ。それより、お前が生きているなら殿下はご無事だろうな。戦況はどうなった?」
「報告は行ってると思うが、ダハルマ卿を討ち取った。討伐軍はあの方が居なければ烏合の衆だ、簡単に降伏したよ。我らの損害は軽微だ」
「そうか…惜しい方だったな」
「あぁ」
ステレもダハルマ卿の堯名は知っていた。王国騎士の模範のような人物聞いている。一度会って話を聞いてみたいとも思っていた。もっとも、ガチガチの王国騎士なのだから、女が騎士の真似事をするのを良くは思わない可能性が高いだろうが。
「今は王城から降伏の使者が出て、殿下は受け入れを決めた。王は家族と共に城を出て、今は皇国の公館にいるらしい。我々は王城の掌握に派遣された、これから近衛と交渉に入る。戦いは終わりだ、殿下が次代の王となられるだろう」
「そうか……勝ったか。……なら、私の役目も終わりだな…」
「何を言う、これからも殿下のお側で支えて行けばいいではないか」
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ステレには、ゴージと勝負した後の嫌な気分がまだ残っている。闘争を求める心を制御できないようでは、戦争の無い世界で生きて行くことなどできようはずもない。それにもし、万が一、オーウェンと戦いたいという心に塗りつぶされてしまったら……。
人外は只人の前から消えなければならない。
「馬鹿を言うな、まだ王国が落ち着くまでいくつも山がある。…言いづらいのだが…おそらくはブレス王は…皇国に亡命だろうと。それも含めて後始末が山積みだ」
「私に内政の手伝いができる訳ないだろ。それに…王はいいんだ、もう…」
ステレの記憶が曖昧で、正直王への怒りの実感が無いのだ。それに…王は既に罰を受けている…そう思えた。ブレス王が見せた悲しみと後悔の表情で十分だった。
「オーウェンどこだ?手が足りん手伝え」
ステレを説得しようとしたオーウェンを呼ぶ声が聞こえた。下でメイガーが探しているらしい。
「城門の上だ、今行く。……ステレ、黙って居なくなったりするなよ」
あいまいな笑顔で答えるステレに後ろ髪を引かれつつも、オーウェンは王城に向かって行った。
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侯爵家の末姫で、人付き合いが好きではないシェーラは、邸の敷地から出ることなく過ごしていた。
そのため、当然婚約者もいない。
なのにある日、何故かシェーラ宛に離縁状が届く。
差出人の名前に覚えのなかったシェーラは、間違いだろうとその離縁状を燃やしてしまう。
すると後日、見知らぬ男が怒りの形相で邸に押し掛けてきて──?
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