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カンフレーで待つもの
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西へ西へと馬車が走る街道は、やがて南北に連なる山地の手前で、南と北に分かれる。南の街道は、山地を迂回し港町ゾラへと繋がっている。カンフレーは、王国の北西にある。馬車は北への進路を取った。
それほど急峻な山ではない。少し上ると、高原と言っていいような傾斜の緩やかな山地が広がっている。斜面には、石や土手で区切られた畑が段々になって続いていた。かつては、このあたりまでカンフレー家の領地だった。長い間に王家に返上し、最後は国境沿いの山奥の僅かな領地しか残っていなかった。この地は今では代官が治めている。この地域の西の端は、芸術・工芸・学問の国として知られる隣国、クヴァルシル公国の南端に接している。
王国は北に行くほど山地が多い。カンフレーも白骨山脈から続く高地にあたる。その高地を山脈から流れ出る川がえぐり、河岸段丘を作り、連なる段丘上を川沿いに海まで下る街道が作られていた。
先王の即位後、周辺国を周る旅に出る予定だったグリフ一行は、この街道を国境に向かう途中で襲撃を受け、カンフレー領に逃げ込んだ。そしてカンフレー家の手勢が山道を利用して追っ手を食い止めている間に、間道を抜けクヴァルシルに逃れたのだ。
追っ手を振り切ったのもつかの間、グリフ一行はブレス王の圧力により、程なく出国を余儀なくされた。クヴァルシルは都市国家といっていい小国であり、治安維持以上の軍備は持っていない。クヴァルシルの公王は、余計な力を持たず、美と知を生み出す力を磨くことにより、自国の価値を高め独立を保っという政策を取っている。だが、国家の独立がそんなに甘い訳がない。実際は東隣の大国<皇国>から分離独立『させられた』国であり、事実上<皇国>の属国であるのは広く知られている。皇国貴族の血も引くブレス王は、<皇国>の属国にあからさまな圧力をかけた。それが<皇国>の気に障ったのだろうか?出国したグリフは<皇国>に入った。あっさり送還されると思い込んでいたブレス王は愕然とすることになった。<皇国>はブレス王の送還要請を拒否し、3年後には二人の立場が入れ替わることになる。
馬車はようようカンフレー領の入り口に達した。最後に残ったカンフレー領は、カンフレー家廃絶と共に直轄地となったが、代官などは置かれていないらしい。領の入り口はバリケードで封鎖されていた。ステレが様子見に蹴ると、朽ちかけた障壁はバリバリと音を立てて半壊してしまう。横木をどけ、杭を引き抜いて放り投げると、どうにか馬車一台が通れる道ができた。長らく使われていないせいで、雑草が生い茂っているようだが、既に枯れ果てているので、どうにか道を辿ることはできそうだ。
キシキシと、鋼の車輪が滑りながら山道を登っていく。馬車はしばらく山道を登ったところで止まった。ここまで来ると枯草に覆われたた街道には、僅かに轍の痕が残っていた。冬の日は傾きかけている。
「いかがですか?」
「日のあるうちに屋敷のあった場所に着くのは無理ね」
周りの景色を見渡し、かつての記憶を頼りにステレが言った。
「では野営の準備をさせますか。魔の森よりはマシですが、中々の山道ですな」
僅かな空き地を見つけて馬車を寄せると、ドルトンは馬の世話と食事の準備を命じる。
「確かその先に小川があったはずよ」
ステレが指さした方に、鍋を片手の店員が水を汲みに行った。
周りの林は広葉樹が落葉し、かなり見通しが良くなっているが、今まで人の姿は一人も見ていない。
だが…
「遠巻きに見られておりますな」
馬車から野営の荷を下ろしながら、ドルトンがさりげなく言った。
「元の領民ならいいんだけど……いえ、王家に攻められる口実をつくった上に、皆を見捨てて逃げた私には、合わせる顔が無いわね」
ドルトンにはかける言葉もない。たとえ、ステレが全て覚悟の上での帰郷だったとしてもだ。
馬車には、ステレとドルトン、男の商会員二人しか乗っていない。女二人は最寄りの集落で一旦下ろしてきた。彼女たちも自分の身を守るくらいの実力はあるが、まったく状況の判らない場所に連れて行きたくないとステレが主張した。自分はもうカンフレー家のお嬢様ではないし、カンフレー家滅亡の引き金を引き、半数の家臣を死に追いやった自分が拒絶される可能性もある。最悪、襲われることもあると考えていた。仮に襲撃されても領民に…家族に手を上げることなど出来る訳がない。もし襲われれば自分には逃げの一手しかない。オーウェンには申し訳ないが、それが故郷に行きたいと考えたステレの覚悟だ。
ステレは、できればドルトンと商会員全員にはここで待っていてもらい、一人で故郷に帰るつもりだでいた。もし襲われればドルトンはステレを守ろうとするだろう。彼らに住民を殺させる訳には行かない。だが、ドルトンがそんな要望を聞き入れる訳もなかった。襲われたらただ逃げることを約束してもらい、女性店員二人だけは待機してもらえるように説得するのが精いっぱいだった。残してきた二人の店員には、10日経っても誰も戻らなければ、一番近い街の商会支店に知らせるよう言い含めてある。
緊張に満ちたまま湯を沸かし、野営の準備をすすめるうち、伺うような視線は無くなっていた。
翌朝、日の出と共に起き出した。昨夜は凍死せぬよう、毛布でぐるぐる巻になったうえ、ドルトンと男の店員二人と皆体を寄せ合って休んだ。諸侯国はもっと厳しい寒さだろうに、どうしているのだろう?と、ステレは穏やかな風貌の異国の武人を思い出した。
朝食を済ませ、馬車はギシギシと山道を行く。ステレが周りを見渡すと、斜面にへばりつく段々畑には麦だろうか、背丈の低い青い葉が見える。かつての住民なのか、後から住み着いた誰かなのかは判らないが、今もこの地には人が住んでいることだけは確かだ。
ステレは周囲を探るために意識を集中する。人影は見えないが、僅かに気配を感じる。昨日、日が落ちると視線は感じなくなった。こちらに獣人が居るのに気づいて、夜の不利を悟って引き上げたのかもしれない。だとしたら、相当に警戒されているようだ。ステレは腰の剣に手を伸ばそうとして、寸前で丸腰であることを思い出して溜息をついた。そして、代わりに持ち出した魔法樫の棒を握り直す。この棒も強度は鋼鉄以上で、ステレの剛力で振り回せば、板金の甲冑で身を固め、防御強化の魔力を循環させた騎士であろうとも甲冑ごと潰せる。これで十分だろうと、代わりの剣も買わずにここまで来た。この棒は、見た目はただの樫の棒だ。緊張を和らげる効果があるだろか?それともハッタリが効くゴツい武器を入手して威圧した方が良かっただろうか?。もう、今からではどうよしようも無いことを考えて、棒を握り直す。組し易いと思われて襲われたなら、この棒で立木か岩を砕いて見せるしか無いかもしれない。ステレが最悪の事態を想定してあれこれと考えている間に、馬車は長い長い坂道を登ると、僅かに傾斜の緩やかな地に上がった。そこには石造りの廃墟が広がっていた。
「ここですか」
「…………えぇ」
ドルトンに問いかけられても、ただ黙って焼け落ちた屋敷の廃墟を見つめていたステレは、ややあってからようやく返事をした。
確かにそこは、記憶に残る屋敷だ。親子三人と、僅かの使用人と家臣で暮らし、隅々まで知っているはずの屋敷だ。だがそんな記憶と合致するのは、石の壁だけだった。木造の床や屋根は焼け落ち、石は焦げ、砕け、苔むし、調度や家具は一切残っていない。変わり果てた姿に、膝から崩れそうになる。
(しっかりしろ、ステレ。判ってここまで来たはずだ)
ステレは萎えそうになる足に力を込めて、歩き出す。主館の玄関には向かわず、屋敷横手にある小さな建物に向かった。こちらも屋根が焼け落ち、崩れかけた壁しか残っていない。ここは屋敷の礼拝堂だった。扉が無くなった正面入り口から入ると、中は意外にも綺麗に片付けがされていた。訝しみがなら奥に進む。奥がカンフレー家の墓所になっている。地下墳墓の入り口は、石で綺麗に塞がれていた。誰かが、墓が荒らされぬよう塞いだのかもしれない。地下に入るのは諦め、どこかに両親の墓石だけでも立てようか…そう思っていると、床石に刻まれた歴代カンフレー家の墓碑名の一番最後に、両親の名が刻まれていることに気づいた。
ステレは膝を付くと、その名を指でなぞった。気づいて脇に来たドルトンが、麓で手に入れた常緑の葉のリースを捧げると並んで跪いた。
「誰かが…いえ、元の家臣の生き残りか領民でしょうね。お墓を作ってくれたみたい」
刻まれた名を何度も指でなぞる。
相変わらず両親の死は朧気で、ただ歴史上の人物が死んだようにしか感じない。両親を残して逃げ、今の今まで故郷に帰ることもせず、思い出すら記憶の奥に押し込めていた自分が墓を作るより、両親を慕ってくれた誰かが作ってくれた方が、よほどふさわしい気がした。
それでも、手を組み両親のために祈る。隣のドルトンも、同じように祈ってくれた。
目を開けると、自嘲的気味に両親の名を指でなぞる。
「私は…やっぱり恨まれているみたいね……」
この墓碑には、ステレの名が無い。ステレが戦死したことは、広く知られているはずなのに。
ステレ様…と言いかけてドルトンは飲み込んだ。(いったい、なんと声をかければ良いのだ…)ドルトンが思案しようとした矢先に、外で警戒していた商会員がドルトンを呼ぶ声が聞こえた。
急ぎ礼拝の広間に出て、そのまま突っ切り正面口から外に飛び出すと、屋敷の跡地にぞろぞろと人が集まってきつつある。
人々は遠巻きに4人を見つめるだけで、いきなり襲い掛かってくるような気配は無い。
「あんたら何者だ?何しに来た?」
代表らしき人物が前に出ると、声をかけて来た。
「私は、獣人の遍歴商人ドルトンと申します。私共の護衛が、王都で男爵夫人にお世話になったことがあったとのことで、墓参に参りました。この地でどなたにも出会わなかったため、無断で礼拝堂に入らせていただきましたが、無礼の段は平にご容赦を」
予めて決めておいた設定でドルトンが説明する。もう今やステレはカンフレー家のお嬢様ではない。僅かの面影も残っていない。通りすがりに立ち寄った商人とその護衛で通そうと決めていた。
それでも…。
ステレは目深に被ったフードと濃い色の眼鏡の下で、表情が崩れぬよう必死に堪えていた。
ドルトンが商人と名乗ったことで、住民達は生活必需品が入手できないか交渉を始めていた。それを見越して、塩や石鹸、鎌や鍬の刃などを積み込んで来ていた。だが集落には手持ちの現金があまり無いらしい。代表の男は、どうにか良い条件を引き出そうと交渉しているようだった。
(ダナン…全然変わっていない……)
声をかけてきた代表の男だけではない。そこに居たのは、皆見知った顔だった。女性の顔も見える。男の子と一緒に暴れるステレを遠巻きに見ていた同年代の女の子、ケラケラ笑いながらおやつを食べさせてくれた、村のおばさん。
(ヘラ、ウースリ、シギンおばさん……)
突然、ステレの視界がぐにゃりと歪み、景色が回りそうになる。
ステレはこみ上げる吐き気を必死に抑え込もうとした。
揺れる身体に気づいた商会員が、さりげなく横に並んで促すのに合わせ、礼拝堂の台座に腰を下ろす。手持無沙汰で座り込んだように見えただろうか。
ステレの顔は真っ青だった。
思い出したのだ。
シギンの夫は屋敷の厩で働いていた。炎に包まれる屋敷から馬を逃がそうとして逃げ遅れ、王国兵の槍にかかって死んだ。ステレの目の前で。
ステレの手が震える。
こんなにも大切な事を忘れていた自分に気が付いたから。
震える手を抑える。大きく息を吸い、『ごめんなさい』立ち上がってそう叫ぼうとしたとき、ドルトンが肩を抑えた。馬車を見ると、店員がいくつかの荷を下ろしていた。不自然にならない程度に、商談をまとめたらしい。虚ろな目でドルトンを見ると、ドルトンはゆっくりと首を振る。
「また参りましょう。何度でも」
優しくそう言うドルトンに、ステレは真っ青な顔で、ようやく頷いた。
墓参りは済ませた。両親が未だに領民に慕われていることも判った。今はそれでいい。だが、ドルトンがステレを馬車に乗せようとしたときだった。
「お前ステレだろ?」
どこからともなく、突然声がかかる。
予想外の誰何に、ステレはギクリとして止まった。俯いたまま顔が上げられない。
「ステレって?お嬢様か?」
「まさか」
「どこに?」
「誰の声だ?」
住民たちの間に、困惑とざわめきが広がっていく。
ドルトンは声の主を探して人垣を見渡すが、集まった人々も困惑したように声の主を探している。
「御隠居」
「御隠居だ」
ざわめきの中にそう呼ぶ声が聞こえた。
人垣が左右に分かれ、一人の男が飄々と歩いて来る。
逞しい身体に、厳しいが美しいと言って良い顔立ち、見た目はとても「御隠居」と呼ばれる歳には見えなかった。
その男はステレに…、鬼人になったステレにとてもよく似ていた。
その男は…深紅の髪と、黄金の目を持ち、額には一対の角が生えていた。
それほど急峻な山ではない。少し上ると、高原と言っていいような傾斜の緩やかな山地が広がっている。斜面には、石や土手で区切られた畑が段々になって続いていた。かつては、このあたりまでカンフレー家の領地だった。長い間に王家に返上し、最後は国境沿いの山奥の僅かな領地しか残っていなかった。この地は今では代官が治めている。この地域の西の端は、芸術・工芸・学問の国として知られる隣国、クヴァルシル公国の南端に接している。
王国は北に行くほど山地が多い。カンフレーも白骨山脈から続く高地にあたる。その高地を山脈から流れ出る川がえぐり、河岸段丘を作り、連なる段丘上を川沿いに海まで下る街道が作られていた。
先王の即位後、周辺国を周る旅に出る予定だったグリフ一行は、この街道を国境に向かう途中で襲撃を受け、カンフレー領に逃げ込んだ。そしてカンフレー家の手勢が山道を利用して追っ手を食い止めている間に、間道を抜けクヴァルシルに逃れたのだ。
追っ手を振り切ったのもつかの間、グリフ一行はブレス王の圧力により、程なく出国を余儀なくされた。クヴァルシルは都市国家といっていい小国であり、治安維持以上の軍備は持っていない。クヴァルシルの公王は、余計な力を持たず、美と知を生み出す力を磨くことにより、自国の価値を高め独立を保っという政策を取っている。だが、国家の独立がそんなに甘い訳がない。実際は東隣の大国<皇国>から分離独立『させられた』国であり、事実上<皇国>の属国であるのは広く知られている。皇国貴族の血も引くブレス王は、<皇国>の属国にあからさまな圧力をかけた。それが<皇国>の気に障ったのだろうか?出国したグリフは<皇国>に入った。あっさり送還されると思い込んでいたブレス王は愕然とすることになった。<皇国>はブレス王の送還要請を拒否し、3年後には二人の立場が入れ替わることになる。
馬車はようようカンフレー領の入り口に達した。最後に残ったカンフレー領は、カンフレー家廃絶と共に直轄地となったが、代官などは置かれていないらしい。領の入り口はバリケードで封鎖されていた。ステレが様子見に蹴ると、朽ちかけた障壁はバリバリと音を立てて半壊してしまう。横木をどけ、杭を引き抜いて放り投げると、どうにか馬車一台が通れる道ができた。長らく使われていないせいで、雑草が生い茂っているようだが、既に枯れ果てているので、どうにか道を辿ることはできそうだ。
キシキシと、鋼の車輪が滑りながら山道を登っていく。馬車はしばらく山道を登ったところで止まった。ここまで来ると枯草に覆われたた街道には、僅かに轍の痕が残っていた。冬の日は傾きかけている。
「いかがですか?」
「日のあるうちに屋敷のあった場所に着くのは無理ね」
周りの景色を見渡し、かつての記憶を頼りにステレが言った。
「では野営の準備をさせますか。魔の森よりはマシですが、中々の山道ですな」
僅かな空き地を見つけて馬車を寄せると、ドルトンは馬の世話と食事の準備を命じる。
「確かその先に小川があったはずよ」
ステレが指さした方に、鍋を片手の店員が水を汲みに行った。
周りの林は広葉樹が落葉し、かなり見通しが良くなっているが、今まで人の姿は一人も見ていない。
だが…
「遠巻きに見られておりますな」
馬車から野営の荷を下ろしながら、ドルトンがさりげなく言った。
「元の領民ならいいんだけど……いえ、王家に攻められる口実をつくった上に、皆を見捨てて逃げた私には、合わせる顔が無いわね」
ドルトンにはかける言葉もない。たとえ、ステレが全て覚悟の上での帰郷だったとしてもだ。
馬車には、ステレとドルトン、男の商会員二人しか乗っていない。女二人は最寄りの集落で一旦下ろしてきた。彼女たちも自分の身を守るくらいの実力はあるが、まったく状況の判らない場所に連れて行きたくないとステレが主張した。自分はもうカンフレー家のお嬢様ではないし、カンフレー家滅亡の引き金を引き、半数の家臣を死に追いやった自分が拒絶される可能性もある。最悪、襲われることもあると考えていた。仮に襲撃されても領民に…家族に手を上げることなど出来る訳がない。もし襲われれば自分には逃げの一手しかない。オーウェンには申し訳ないが、それが故郷に行きたいと考えたステレの覚悟だ。
ステレは、できればドルトンと商会員全員にはここで待っていてもらい、一人で故郷に帰るつもりだでいた。もし襲われればドルトンはステレを守ろうとするだろう。彼らに住民を殺させる訳には行かない。だが、ドルトンがそんな要望を聞き入れる訳もなかった。襲われたらただ逃げることを約束してもらい、女性店員二人だけは待機してもらえるように説得するのが精いっぱいだった。残してきた二人の店員には、10日経っても誰も戻らなければ、一番近い街の商会支店に知らせるよう言い含めてある。
緊張に満ちたまま湯を沸かし、野営の準備をすすめるうち、伺うような視線は無くなっていた。
翌朝、日の出と共に起き出した。昨夜は凍死せぬよう、毛布でぐるぐる巻になったうえ、ドルトンと男の店員二人と皆体を寄せ合って休んだ。諸侯国はもっと厳しい寒さだろうに、どうしているのだろう?と、ステレは穏やかな風貌の異国の武人を思い出した。
朝食を済ませ、馬車はギシギシと山道を行く。ステレが周りを見渡すと、斜面にへばりつく段々畑には麦だろうか、背丈の低い青い葉が見える。かつての住民なのか、後から住み着いた誰かなのかは判らないが、今もこの地には人が住んでいることだけは確かだ。
ステレは周囲を探るために意識を集中する。人影は見えないが、僅かに気配を感じる。昨日、日が落ちると視線は感じなくなった。こちらに獣人が居るのに気づいて、夜の不利を悟って引き上げたのかもしれない。だとしたら、相当に警戒されているようだ。ステレは腰の剣に手を伸ばそうとして、寸前で丸腰であることを思い出して溜息をついた。そして、代わりに持ち出した魔法樫の棒を握り直す。この棒も強度は鋼鉄以上で、ステレの剛力で振り回せば、板金の甲冑で身を固め、防御強化の魔力を循環させた騎士であろうとも甲冑ごと潰せる。これで十分だろうと、代わりの剣も買わずにここまで来た。この棒は、見た目はただの樫の棒だ。緊張を和らげる効果があるだろか?それともハッタリが効くゴツい武器を入手して威圧した方が良かっただろうか?。もう、今からではどうよしようも無いことを考えて、棒を握り直す。組し易いと思われて襲われたなら、この棒で立木か岩を砕いて見せるしか無いかもしれない。ステレが最悪の事態を想定してあれこれと考えている間に、馬車は長い長い坂道を登ると、僅かに傾斜の緩やかな地に上がった。そこには石造りの廃墟が広がっていた。
「ここですか」
「…………えぇ」
ドルトンに問いかけられても、ただ黙って焼け落ちた屋敷の廃墟を見つめていたステレは、ややあってからようやく返事をした。
確かにそこは、記憶に残る屋敷だ。親子三人と、僅かの使用人と家臣で暮らし、隅々まで知っているはずの屋敷だ。だがそんな記憶と合致するのは、石の壁だけだった。木造の床や屋根は焼け落ち、石は焦げ、砕け、苔むし、調度や家具は一切残っていない。変わり果てた姿に、膝から崩れそうになる。
(しっかりしろ、ステレ。判ってここまで来たはずだ)
ステレは萎えそうになる足に力を込めて、歩き出す。主館の玄関には向かわず、屋敷横手にある小さな建物に向かった。こちらも屋根が焼け落ち、崩れかけた壁しか残っていない。ここは屋敷の礼拝堂だった。扉が無くなった正面入り口から入ると、中は意外にも綺麗に片付けがされていた。訝しみがなら奥に進む。奥がカンフレー家の墓所になっている。地下墳墓の入り口は、石で綺麗に塞がれていた。誰かが、墓が荒らされぬよう塞いだのかもしれない。地下に入るのは諦め、どこかに両親の墓石だけでも立てようか…そう思っていると、床石に刻まれた歴代カンフレー家の墓碑名の一番最後に、両親の名が刻まれていることに気づいた。
ステレは膝を付くと、その名を指でなぞった。気づいて脇に来たドルトンが、麓で手に入れた常緑の葉のリースを捧げると並んで跪いた。
「誰かが…いえ、元の家臣の生き残りか領民でしょうね。お墓を作ってくれたみたい」
刻まれた名を何度も指でなぞる。
相変わらず両親の死は朧気で、ただ歴史上の人物が死んだようにしか感じない。両親を残して逃げ、今の今まで故郷に帰ることもせず、思い出すら記憶の奥に押し込めていた自分が墓を作るより、両親を慕ってくれた誰かが作ってくれた方が、よほどふさわしい気がした。
それでも、手を組み両親のために祈る。隣のドルトンも、同じように祈ってくれた。
目を開けると、自嘲的気味に両親の名を指でなぞる。
「私は…やっぱり恨まれているみたいね……」
この墓碑には、ステレの名が無い。ステレが戦死したことは、広く知られているはずなのに。
ステレ様…と言いかけてドルトンは飲み込んだ。(いったい、なんと声をかければ良いのだ…)ドルトンが思案しようとした矢先に、外で警戒していた商会員がドルトンを呼ぶ声が聞こえた。
急ぎ礼拝の広間に出て、そのまま突っ切り正面口から外に飛び出すと、屋敷の跡地にぞろぞろと人が集まってきつつある。
人々は遠巻きに4人を見つめるだけで、いきなり襲い掛かってくるような気配は無い。
「あんたら何者だ?何しに来た?」
代表らしき人物が前に出ると、声をかけて来た。
「私は、獣人の遍歴商人ドルトンと申します。私共の護衛が、王都で男爵夫人にお世話になったことがあったとのことで、墓参に参りました。この地でどなたにも出会わなかったため、無断で礼拝堂に入らせていただきましたが、無礼の段は平にご容赦を」
予めて決めておいた設定でドルトンが説明する。もう今やステレはカンフレー家のお嬢様ではない。僅かの面影も残っていない。通りすがりに立ち寄った商人とその護衛で通そうと決めていた。
それでも…。
ステレは目深に被ったフードと濃い色の眼鏡の下で、表情が崩れぬよう必死に堪えていた。
ドルトンが商人と名乗ったことで、住民達は生活必需品が入手できないか交渉を始めていた。それを見越して、塩や石鹸、鎌や鍬の刃などを積み込んで来ていた。だが集落には手持ちの現金があまり無いらしい。代表の男は、どうにか良い条件を引き出そうと交渉しているようだった。
(ダナン…全然変わっていない……)
声をかけてきた代表の男だけではない。そこに居たのは、皆見知った顔だった。女性の顔も見える。男の子と一緒に暴れるステレを遠巻きに見ていた同年代の女の子、ケラケラ笑いながらおやつを食べさせてくれた、村のおばさん。
(ヘラ、ウースリ、シギンおばさん……)
突然、ステレの視界がぐにゃりと歪み、景色が回りそうになる。
ステレはこみ上げる吐き気を必死に抑え込もうとした。
揺れる身体に気づいた商会員が、さりげなく横に並んで促すのに合わせ、礼拝堂の台座に腰を下ろす。手持無沙汰で座り込んだように見えただろうか。
ステレの顔は真っ青だった。
思い出したのだ。
シギンの夫は屋敷の厩で働いていた。炎に包まれる屋敷から馬を逃がそうとして逃げ遅れ、王国兵の槍にかかって死んだ。ステレの目の前で。
ステレの手が震える。
こんなにも大切な事を忘れていた自分に気が付いたから。
震える手を抑える。大きく息を吸い、『ごめんなさい』立ち上がってそう叫ぼうとしたとき、ドルトンが肩を抑えた。馬車を見ると、店員がいくつかの荷を下ろしていた。不自然にならない程度に、商談をまとめたらしい。虚ろな目でドルトンを見ると、ドルトンはゆっくりと首を振る。
「また参りましょう。何度でも」
優しくそう言うドルトンに、ステレは真っ青な顔で、ようやく頷いた。
墓参りは済ませた。両親が未だに領民に慕われていることも判った。今はそれでいい。だが、ドルトンがステレを馬車に乗せようとしたときだった。
「お前ステレだろ?」
どこからともなく、突然声がかかる。
予想外の誰何に、ステレはギクリとして止まった。俯いたまま顔が上げられない。
「ステレって?お嬢様か?」
「まさか」
「どこに?」
「誰の声だ?」
住民たちの間に、困惑とざわめきが広がっていく。
ドルトンは声の主を探して人垣を見渡すが、集まった人々も困惑したように声の主を探している。
「御隠居」
「御隠居だ」
ざわめきの中にそう呼ぶ声が聞こえた。
人垣が左右に分かれ、一人の男が飄々と歩いて来る。
逞しい身体に、厳しいが美しいと言って良い顔立ち、見た目はとても「御隠居」と呼ばれる歳には見えなかった。
その男はステレに…、鬼人になったステレにとてもよく似ていた。
その男は…深紅の髪と、黄金の目を持ち、額には一対の角が生えていた。
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