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先ほどの少年が篠宮の事を知っているような口ぶりだったので話を聞きたいと思った瑛美は、篠宮に会うために滞在者用のレッスン室を訪れた。まもなく篠宮の割り当て時間だったからだ。
しかし篠宮はいなかった。サロンにも姿がない。あちらこちら探し歩いて篠宮の自室で彼女を見つけた。
篠宮は椅子に座ってボンヤリと窓の外を眺めていた。
瑛美はいつもと様子の異なる篠宮にそっと近寄り声をかける。
「先生、お加減が悪いのですか?」
しかし篠宮は何も答えない。ボンヤリと外を見ているだけだった。
瑛美はどうしていいかわからず、そのまま側で立ち尽くしていた。
「お医者様をお呼びしましょうか?」
しかし篠宮は何も答えない。代わりにポツリとかすれた声で口ずさむ。
「……ユメ、覚める……時まで」
それは今回篠宮が初めて披露するアリアの一節。
瑛美はこの曲がとても好きだった。泣きたくなるようなメロディーが篠宮の声によって歌い上げられる。同じ曲を歌っても篠宮のようには歌えない。
「何が違うんでしょうか?どうやったら先生のように歌えるのでしょうか?」
一度、篠宮に尋ねたことがある。技巧は真似できても何かが違う、何かがわからなくて。
「思い出、かしらね?」
篠宮がフフと幸せそうに笑うその笑顔がとても印象的だった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
この館を音楽の館とはよくいったものである。敷地内には立派な音楽ホールまでもがあった。何度か改装もされているが建物全体は色濃く中世の面影を残していた。
夜毎開かれる演奏会に街中の人々はいそいそと足を運ぶ。かつての音楽愛好家の道楽は今では立派な街をあげてのお祭りとなり、人々が何よりも楽しみにしている行事のひとつだった。
ホール内は既に多くの人で埋め尽くされていた。今日は当主のラヴランのヴァイオリンコンチェルトを聴くために一際多くの人が集まっている。
あの後、篠宮が今夜のコンサートには行かないと瑛美に告げ、結果、チケットはエドワードに渡った。結局森で出会った少年の事を篠宮に尋ねることもできなかった。
「それで?その後は?」
エドワードは瑛美の座席を指し示しそういった。
「ありがとうございます」
瑛美は座り隣の席に腰掛けたエドワードを見る。
「それで。それっきり」
「それっきり?」
「ええ。男の子はどこにもいないの。屋敷内でもみかけたことはないし……夢でも見ていたのかしら。でもほんとうに天使のよう子でしたの」
エドワードは何も答えなかった。そのかわりにエドワードの隣の人物が口を開いた。
「それはファントムですな」
「ファントム?」
二人は声の方を見る。声の主は六十代くらいの白髪の紳士だった。
「失礼。つい聞こえてしまったのでね」
そういって紳士は眼鏡を直して穏やかに笑う。
エドワードは戸惑いながらも彼に尋ねた。
「いえ。ファントムといいますと?」
「オペラ座の怪人はご存じですかな?」
「確かガストン・ルルーの小説ですね」
ファントム、それはパリのオペラ座の地下に住むゴースト。顔を仮面で隠しクリステイーヌを歌姫へと導くエンジェル・オブ・ミュージック。
「彼は才ある者を導く音楽の天使」
紳士はポツリと呟く。
「まさか。ここはパリでもオペラ座でもありませんよ」
エドワードは少し困ったように答える。
「ところがいるんですよ。あの小説が発表されるずっと以前から。彼に関しては様々な言い伝えがありましてね。『音楽の魔術師ーmusical conjureー』『気味の悪いカナリアーmacable canaryー』『音楽好きのカラスーmusical crowー』などと呼ばれていたのですが。オペラ座の怪人のイメージがあまりにも彼に当てはまったのでしょう。以来、彼はファントムと呼ばれるようになったそうです。彼に出会った人間は必ず将来が約束されると聞きます。めったなことでは出会えないようですがね」
紳士は瑛美に笑いかける。
「あなたは出会われた?」
「いえ。出会ったのは小さな男の子ですわ。10歳くらいの。とてもそんな人には見えませんでしたわ」
あり得ないと笑う瑛美に紳士は真顔で言葉を続ける。
「覚悟なさい」
「覚悟?ですか?」
「ええ。覚悟です。彼の手を取るか否か。……手に入れる覚悟と失う覚悟」
舞台に出演者が登場し、観客の拍手がわき起こる。
それを合図に紳士は舞台に視線を移す。
瑛美とエドワードは互いに顔を見合わせる。
二人にはまったく理解できない話であった。
しかし篠宮はいなかった。サロンにも姿がない。あちらこちら探し歩いて篠宮の自室で彼女を見つけた。
篠宮は椅子に座ってボンヤリと窓の外を眺めていた。
瑛美はいつもと様子の異なる篠宮にそっと近寄り声をかける。
「先生、お加減が悪いのですか?」
しかし篠宮は何も答えない。ボンヤリと外を見ているだけだった。
瑛美はどうしていいかわからず、そのまま側で立ち尽くしていた。
「お医者様をお呼びしましょうか?」
しかし篠宮は何も答えない。代わりにポツリとかすれた声で口ずさむ。
「……ユメ、覚める……時まで」
それは今回篠宮が初めて披露するアリアの一節。
瑛美はこの曲がとても好きだった。泣きたくなるようなメロディーが篠宮の声によって歌い上げられる。同じ曲を歌っても篠宮のようには歌えない。
「何が違うんでしょうか?どうやったら先生のように歌えるのでしょうか?」
一度、篠宮に尋ねたことがある。技巧は真似できても何かが違う、何かがわからなくて。
「思い出、かしらね?」
篠宮がフフと幸せそうに笑うその笑顔がとても印象的だった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
この館を音楽の館とはよくいったものである。敷地内には立派な音楽ホールまでもがあった。何度か改装もされているが建物全体は色濃く中世の面影を残していた。
夜毎開かれる演奏会に街中の人々はいそいそと足を運ぶ。かつての音楽愛好家の道楽は今では立派な街をあげてのお祭りとなり、人々が何よりも楽しみにしている行事のひとつだった。
ホール内は既に多くの人で埋め尽くされていた。今日は当主のラヴランのヴァイオリンコンチェルトを聴くために一際多くの人が集まっている。
あの後、篠宮が今夜のコンサートには行かないと瑛美に告げ、結果、チケットはエドワードに渡った。結局森で出会った少年の事を篠宮に尋ねることもできなかった。
「それで?その後は?」
エドワードは瑛美の座席を指し示しそういった。
「ありがとうございます」
瑛美は座り隣の席に腰掛けたエドワードを見る。
「それで。それっきり」
「それっきり?」
「ええ。男の子はどこにもいないの。屋敷内でもみかけたことはないし……夢でも見ていたのかしら。でもほんとうに天使のよう子でしたの」
エドワードは何も答えなかった。そのかわりにエドワードの隣の人物が口を開いた。
「それはファントムですな」
「ファントム?」
二人は声の方を見る。声の主は六十代くらいの白髪の紳士だった。
「失礼。つい聞こえてしまったのでね」
そういって紳士は眼鏡を直して穏やかに笑う。
エドワードは戸惑いながらも彼に尋ねた。
「いえ。ファントムといいますと?」
「オペラ座の怪人はご存じですかな?」
「確かガストン・ルルーの小説ですね」
ファントム、それはパリのオペラ座の地下に住むゴースト。顔を仮面で隠しクリステイーヌを歌姫へと導くエンジェル・オブ・ミュージック。
「彼は才ある者を導く音楽の天使」
紳士はポツリと呟く。
「まさか。ここはパリでもオペラ座でもありませんよ」
エドワードは少し困ったように答える。
「ところがいるんですよ。あの小説が発表されるずっと以前から。彼に関しては様々な言い伝えがありましてね。『音楽の魔術師ーmusical conjureー』『気味の悪いカナリアーmacable canaryー』『音楽好きのカラスーmusical crowー』などと呼ばれていたのですが。オペラ座の怪人のイメージがあまりにも彼に当てはまったのでしょう。以来、彼はファントムと呼ばれるようになったそうです。彼に出会った人間は必ず将来が約束されると聞きます。めったなことでは出会えないようですがね」
紳士は瑛美に笑いかける。
「あなたは出会われた?」
「いえ。出会ったのは小さな男の子ですわ。10歳くらいの。とてもそんな人には見えませんでしたわ」
あり得ないと笑う瑛美に紳士は真顔で言葉を続ける。
「覚悟なさい」
「覚悟?ですか?」
「ええ。覚悟です。彼の手を取るか否か。……手に入れる覚悟と失う覚悟」
舞台に出演者が登場し、観客の拍手がわき起こる。
それを合図に紳士は舞台に視線を移す。
瑛美とエドワードは互いに顔を見合わせる。
二人にはまったく理解できない話であった。
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