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クロウ家の館。別名、音楽の館は華やかな空気に包まれていた。まぶしいほどに輝くシャンデリア。着飾った老若男女は浮かれたようにおしゃべりに花を咲かせる。
音楽の館はもとは十七世紀の終わり頃、クロウ家三代目の当主のアルブレヒトによって建てられたものだった。彼は音楽をこよなく愛し、その財をつぎこんで建築したという。以来毎年秋にはここで音楽祭が開かれるようになった。
広い敷地内に集まっているのは世界でも有数の音楽家たち。今夜はこれから数週間にわたって開催される音楽祭の前夜祭だった。
広間では館の年若い当主、ラヴラン・フォン・クロウが挨拶を述べている最中だった。
彼は今年で二十九歳になるヴァイオリニストで、幼い頃からその天才的な演奏で周囲を騒がせた。その彫りの深い顔立ち同様、非常に力強い印象を与えながらもどこか繊細さを秘めた演奏をする。二年前に妻を迎えてクロウ家を継いだという。
瑛美はその様子を何とはなしに眺めていた。
瑛美は14の歳から母方の遠い親戚であるソプラノ歌手の篠宮伸子に師事している。親元を離れ世界各国を飛び回る生活は大変だが、それ以上に歌と密に接することができるこの生活を気に入っていた。
ただ、こういった場はただでえさえ若く見られがちな日本人、しかも17歳の瑛美には気後れしてしまう集まりだった。後学のためにと篠宮に誘われなければまだまだ踏み入る事のできない世界。彼らの中に堂々と入れる日が来るのだろうか。
篠宮の側にいると、真っ黒なロングストレートの髪故か『日本人形のように美しいね!』と、挨拶に来る人々からしきりに言われるのでなんとなく居づらく感じていた。
なので瑛美は現在、篠宮から少し離れた場所にいた。
「どうされました?タカクラ」
瑛美は深いグリーンのドレスを揺らして振り返り、声の主を見上げてきれいに微笑んだ。
「夢のような世界ですね。初めてなので驚きました」
「そうですね。僕も最初は驚きましたよ」
そういって若きピアニスト、エドワードは笑顔を返した。
昨年、篠宮が一緒にコンサート開催した時に知り合った彼は、6歳年上で比較的瑛美と年齢が近いためか何かと気にかけてくれている。
ホワイトブロンドの髪を持つ彼は非常に人目を惹く容姿をしており、どこに居てもよく目立つ。顔も広く、先ほども瑛美と挨拶を交わしてすぐに女性の知人に声をかけられていた。
「あの方がクロウ家の御当主だったのですね」
瑛美はラヴランの方をみながらそう言った。
「ええ。さすが多くの優れた音楽家を生み出している一族です」
エドワードもラヴランをみやる。
「ヴァイオリンのヴェルナー、テノール歌手のハイヤー、ソプラノ歌手のエルスラー。作曲では……そうそうミシェルやワイルが有名ですね。二人とも十八世紀はじめの偉大な音楽家ですから」
音楽史にも残る二人の作曲家のことは瑛美も知っていた。
「ピアノではクラウスやエミリアが有名ですが」
「ええ、一度だけ聞いたことがあります。クラウス氏のピアノ。かなりのご高齢でしたのに……その迫力、壮大さにひどく感銘を受けましたの」
「まさに音楽一族ですね。うらやましいですよ」
その言葉にはどこか羨むような響きがあった。
「先月のロンドンでのリサイタル、大盛況だったそうですね。ご活躍はあちこちで耳にしておりますよ」
瑛美はつとめて明るくそう言った。
「ありがとうございます。ところで……今日はおひとりですか?」
「いいえ。篠宮先生ならあちらに」
篠宮は濃い紫色の上品なドレスを身にまとい、人垣の真ん中でゆったりと微笑していた。ふっくらとした体からは彼女特有の無邪気さが漂っており、とても50歳を越えた女性のようには見えない。
瑛美が彼女のもとへ向かおうとするとエドワードは慌ててそれを勢した。
「いえ、結構です。また後ほどご挨拶に伺います」
「先生はあなたに会えるのを楽しみにしていらっしゃいますの。昨年のコンサートの成功はあなたのおかげだといつもおっしゃってるわ」
「恐れ多いことを。世界でも一流のソプラノ歌手との共演なんてそうできるものではありませんから」
「まあ」
瑛美はフワリと笑う。
「ところでタカクラ」
「エイミとお呼びください。タカクラは呼びにくいでしょう」
エドワードの目元が緩んだ。
「それではエイミ、今回は何か出演されるのですか?」
「いいえ。私はまだ勉強中の身ですもの。ここに来ることができたのもすべて先生のおかげです。私などとても来られるようなところではありません」
「それは残念です。あなたの歌声をはやく舞台で聞きたいものです。きっと大勢の人々があなたの虜となるでしょうね」
瑛美はクスクスと笑った。
「ご冗談を。私はなんのキャリアもありませんもの。それに舞台にたてるのはほんのひとにぎりの選ばれた人たちだけです」
「エイミ……」
瑛美はにっこりと笑う。
「そういえばエドワード」
「はい?」
「なぜ髪を切られたのですか?とてもお似合いですけれど」
エドワードの淡く金色に輝く長髪は彼のトレードマークだった。なのにそれはすっかり短くなっている。
「特に理由はないのですが……」
「そうですの?」
「ええ。……少し気分転換をと思い切ってみたのですが」
「まあ」
瑛美は驚いたようにエドワードを見る。
「随分と美しい髪でしたのに。女性ファンが悲しまれたのではありません?」
茶化す瑛美をエドワードは軽く受け流した。
「女性の方はもちろん、男性までもが悲しまれたようで」
「まあ!」
瑛美は楽しそうに声をあげて笑った。
音楽の館はもとは十七世紀の終わり頃、クロウ家三代目の当主のアルブレヒトによって建てられたものだった。彼は音楽をこよなく愛し、その財をつぎこんで建築したという。以来毎年秋にはここで音楽祭が開かれるようになった。
広い敷地内に集まっているのは世界でも有数の音楽家たち。今夜はこれから数週間にわたって開催される音楽祭の前夜祭だった。
広間では館の年若い当主、ラヴラン・フォン・クロウが挨拶を述べている最中だった。
彼は今年で二十九歳になるヴァイオリニストで、幼い頃からその天才的な演奏で周囲を騒がせた。その彫りの深い顔立ち同様、非常に力強い印象を与えながらもどこか繊細さを秘めた演奏をする。二年前に妻を迎えてクロウ家を継いだという。
瑛美はその様子を何とはなしに眺めていた。
瑛美は14の歳から母方の遠い親戚であるソプラノ歌手の篠宮伸子に師事している。親元を離れ世界各国を飛び回る生活は大変だが、それ以上に歌と密に接することができるこの生活を気に入っていた。
ただ、こういった場はただでえさえ若く見られがちな日本人、しかも17歳の瑛美には気後れしてしまう集まりだった。後学のためにと篠宮に誘われなければまだまだ踏み入る事のできない世界。彼らの中に堂々と入れる日が来るのだろうか。
篠宮の側にいると、真っ黒なロングストレートの髪故か『日本人形のように美しいね!』と、挨拶に来る人々からしきりに言われるのでなんとなく居づらく感じていた。
なので瑛美は現在、篠宮から少し離れた場所にいた。
「どうされました?タカクラ」
瑛美は深いグリーンのドレスを揺らして振り返り、声の主を見上げてきれいに微笑んだ。
「夢のような世界ですね。初めてなので驚きました」
「そうですね。僕も最初は驚きましたよ」
そういって若きピアニスト、エドワードは笑顔を返した。
昨年、篠宮が一緒にコンサート開催した時に知り合った彼は、6歳年上で比較的瑛美と年齢が近いためか何かと気にかけてくれている。
ホワイトブロンドの髪を持つ彼は非常に人目を惹く容姿をしており、どこに居てもよく目立つ。顔も広く、先ほども瑛美と挨拶を交わしてすぐに女性の知人に声をかけられていた。
「あの方がクロウ家の御当主だったのですね」
瑛美はラヴランの方をみながらそう言った。
「ええ。さすが多くの優れた音楽家を生み出している一族です」
エドワードもラヴランをみやる。
「ヴァイオリンのヴェルナー、テノール歌手のハイヤー、ソプラノ歌手のエルスラー。作曲では……そうそうミシェルやワイルが有名ですね。二人とも十八世紀はじめの偉大な音楽家ですから」
音楽史にも残る二人の作曲家のことは瑛美も知っていた。
「ピアノではクラウスやエミリアが有名ですが」
「ええ、一度だけ聞いたことがあります。クラウス氏のピアノ。かなりのご高齢でしたのに……その迫力、壮大さにひどく感銘を受けましたの」
「まさに音楽一族ですね。うらやましいですよ」
その言葉にはどこか羨むような響きがあった。
「先月のロンドンでのリサイタル、大盛況だったそうですね。ご活躍はあちこちで耳にしておりますよ」
瑛美はつとめて明るくそう言った。
「ありがとうございます。ところで……今日はおひとりですか?」
「いいえ。篠宮先生ならあちらに」
篠宮は濃い紫色の上品なドレスを身にまとい、人垣の真ん中でゆったりと微笑していた。ふっくらとした体からは彼女特有の無邪気さが漂っており、とても50歳を越えた女性のようには見えない。
瑛美が彼女のもとへ向かおうとするとエドワードは慌ててそれを勢した。
「いえ、結構です。また後ほどご挨拶に伺います」
「先生はあなたに会えるのを楽しみにしていらっしゃいますの。昨年のコンサートの成功はあなたのおかげだといつもおっしゃってるわ」
「恐れ多いことを。世界でも一流のソプラノ歌手との共演なんてそうできるものではありませんから」
「まあ」
瑛美はフワリと笑う。
「ところでタカクラ」
「エイミとお呼びください。タカクラは呼びにくいでしょう」
エドワードの目元が緩んだ。
「それではエイミ、今回は何か出演されるのですか?」
「いいえ。私はまだ勉強中の身ですもの。ここに来ることができたのもすべて先生のおかげです。私などとても来られるようなところではありません」
「それは残念です。あなたの歌声をはやく舞台で聞きたいものです。きっと大勢の人々があなたの虜となるでしょうね」
瑛美はクスクスと笑った。
「ご冗談を。私はなんのキャリアもありませんもの。それに舞台にたてるのはほんのひとにぎりの選ばれた人たちだけです」
「エイミ……」
瑛美はにっこりと笑う。
「そういえばエドワード」
「はい?」
「なぜ髪を切られたのですか?とてもお似合いですけれど」
エドワードの淡く金色に輝く長髪は彼のトレードマークだった。なのにそれはすっかり短くなっている。
「特に理由はないのですが……」
「そうですの?」
「ええ。……少し気分転換をと思い切ってみたのですが」
「まあ」
瑛美は驚いたようにエドワードを見る。
「随分と美しい髪でしたのに。女性ファンが悲しまれたのではありません?」
茶化す瑛美をエドワードは軽く受け流した。
「女性の方はもちろん、男性までもが悲しまれたようで」
「まあ!」
瑛美は楽しそうに声をあげて笑った。
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