しゃんけ荘の人々

乙原ゆう

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4 102号室 住人 光井慎

40.

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 送別会のあと、程なくして美沙恵さんはドイツへと旅だった。しかもきつきつの日程にもかかわらず、宣言通りに職場の同僚と共にウチの店に顔を出してくれた。
 ホールで声をかけられたので挨拶をしていたら、後から梅本さんに「おまえ、どんなとこに住んでんの?きれいどころばっかり集めやがって!お前なんかみっちゃんって呼んでやる」と責められた。自分が集めた訳ではないのに……理不尽なことを言う。そもそも奥さん一筋じゃなかったのか?

 ちなみにみっちゃん呼びは店内で笑いの嵐を起こした。爆笑した是川さんは

「笑える!笑える!笑えるけど……みっちゃんなんてこっちがこっぱずかしくて呼べないって!」と言い、従来通り「慎」で収まった。

 元々和気あいあいがモットのーの店だから、大抵皆が名前呼びだ。梅本さんは「ウメさん」だし是川さんのことを呼ぶときは「啓さん」だ。
 ノリのいいバイトくんやらバイトさんからは「みっちゃん」と呼ばれているが完全に面白がられている……まぁ、悪気がないので気にはならない。そのうち収まり……おそらくみっちゃんで固定するのだろう。気の毒そうに「慎さん」と呼ぶ真面目なバイトの治紀くんが思い詰めるほど、事は深刻ではない。

 美沙恵さんがいなくなったアパートは、普段と何も変わらなかった。普段からあまり顔を合わせることがなかったのだから当たり前なのだけれど。
 1週間後には件の従姉妹が引っ越ししてきたけれどやはり変わりはなかった。いや、一つだけ変わったことがある。

 彼女の入居日に引っ越し祝いのつもりで桜餡のシフォンケーキを焼いた。自分の休日ではなかったので、前日の仕事終わりに焼いた物なので時間と手間のかからない簡単な物だ。彼女は住人の大半とは面識もあるようだったか、不安もあるのではないかと思い、少しでも心が安らげればとの思いから作った淡い桜色のシフォンケーキ。決して餌付けをしようと思ったわけではない。

 後日、いつものようにメモを回収してそこに見つけた見覚えのある文字。伊織くんのメッセージと共に添えられた橘さんの言葉だ。

『桜のシフォンケーキ初めてでした。美味しくて大好きになりました 橘鈴音』

 橘さんは一人で食べたのだろうか?いや、ここの人は世話好きな人が多いからきっと誰かと一緒に食べたんだろうなと、思いを馳せながらメモを見た。

 菓子の差し入れ頻度が若干多くなったといつきさんに遠回しにいわれたことがあるが、決して餌付けをしようとしているわけではない、と思う。メモに書かれているメッセージが見たい為に増えたわけでもない、と思う。ただそう……早く彼女がここに馴染めればいいなと思っただけだ。

 今ここに居るのもたまたまだ。昨日たまたま美味しそうなイチゴを見つけたから買っただけだ。たまたま今日が休みだったからタルトを作ってみただけだ。決して深い意味はない。
 と、思いながら食堂の玄関をあける。スニーカーがあり先客が居るのだなと思ったがたいして気にもとめなかった。後から思えば、多分自分は少しだけ浮かれていたのだと思う。

 ドアを開けて足を踏み入れものの見事に自分は固まった。知らない女の子が床に座り込んでいたからだ。その前ではノラがあろう事か腹を向けて寝転がっている。え?と思った時には遅かった。がっちりとその子と視線がかみ合ってしまった。
 フワフワの肩までの髪を揺らしてこちらを見上げる女の子はおそらく橘さんなのだろう。目を大きく見開き、ノラを撫でている手が止まっていた。

「……」
「……」

 自分も驚きのあまり何の反応もできずにいるとノラがのそりと体を起こす。そのまま人がいるのにもかかわらず自分の足下にやってきて体をすりと擦りつけ、キャットタワーへと登って行った。

 女の子は驚愕の表情で自分を見る。ああ、マズいなぁ、不信者ではないのだけれど……。うん?彼女の視線が自分と手に持っているイチゴタルトをいったり来たりしている。

「え?みっちゃんさんですか?」

 みっちゃんさん???なんだその新しい呼び方は!

「……はい」

 自分、かなり間抜けかもしれない。厳つい顔の男が大事そうに抱えているのがファンシーなイチゴタルトなんて……。

「え?みっちゃんさん!?」

 何度確認されても自分がみっちゃんだ。本名は光井慎だ。

「え!?男の人なんですか!?」

(何故そんな言葉がでてくるんだ!?)

 なかなか衝撃的で思いもよらない言葉を返され、珍しく自分の頭はいっぱいいっぱいだ。いっぱいいっぱいだけど自分はれっきとした男である。なので肯定しとかなければならない……んだよな?あれ?何かがおかしいのか?よくわからなくなってきた……。

「……はい」

 一応、返事だけはかろうじて返しておいたが……。
 橘さんは目をまん丸くして、ただただぽかんとこちらを見ている。

 話を聞いてみると橘さんは、お菓子を差し入れてくれる「みっちゃん」を女性だと勘違いしていたらしい。よく顔を合わせて話をするのが伊織くんと礼子さんで、まさか彼らが大の大人の男を「みっちゃん」と呼んでいるとは思わなかったそうだ。まぁそうだろう、誰が考えてもちょっとおかしい。

 はっと我に返った橘さんは突如として泣きそうな顔をして謝り始めたので再度驚いた。何がどうなっているのかわからずもう大混乱だ。

「もうぅ本当にゴメンナサイ。いつも美味しいお菓子を作ってくれる人を……女の人と勘違いしていたなんて……」
「いや、本当に大丈夫ですから」

 女性に間違えられたことなんて生まれて初めての経験だ。どう反応するのが正しいのか全くわからない。しかも顔が怖くて泣かれるんじゃなくて、「みっちゃん」を女性だと勘違いしていたことに対する申し訳なさから泣きそうになるなんて……本当、お手上げだ。
 そもそも彼女は自分と会ったこともなく、他の人から話を聞いていただけだ。しかも勘違いしていたからといって、そのことを誰に吹聴されたわけでもなく、自分は何も害を被ったわけでもない。彼女は気にしすぎだと思う。そこまで深く考える案件ではないはずだ。どうみても「あ、そうだったんだ?」で済む話ではないのだろうか。

 どうしたものかとノラを見上げるもノラは「我関せず」と寝こけている。頼りがいのないネコだ。これがいつきさんだったらうまく宥めてくれるんだろうけど……。自分は口べただから気の利いた言葉なんてかけられない。自分ができることと言えば……

「今、時間大丈夫ですか?」

 彼女はまっすぐこちらの目を見つめてくる。その目にちょっとドキリとするが怯んでいる場合ではない。誰の助けもないのだから自分でどうにかするしかない。
声はワントーン高め、ゆっくり話しかける。

「これ、イチゴタルトなんですけど。一緒に食べません?」
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